第四章【100】「ねえ、貴方はこれからも」
私には力が足りなかった。
私には分不相応だった。
あの場所に立ち会えたのは、我儘を許して貰えて、みんなの助けがあったから。
ここまで来られたことも、ほとんど奇跡みたいなもの。
だから私はここまでだ。
「…………」
身体を起こして、ベッドに座ったまま、すぐ傍の窓から夜空を見上げる。
開けて吹き込む仄かな涼風が心地いい。見れば曇りなく、綺麗な満月が煌々と明るくて。ちょっと眩しいなって思ったけれど、なんだか真っ暗なのは寂しかったから。
それに、カーテンを捲って、窓を開けて、それだけで息が上がってしまった。たったそれだけが、そうまでしたから、せっかくなので楽しみたい。
ちょっと、浸りたい気分でもあったし。
「…………ふ、ぅ」
こぼす吐息が熱い。
気怠くて、寝間着が汗でぐっしょりになるくらいの発熱。人間でいうところの風邪みたいな状態は、私には初めての感覚だった。
秋でよかった。
夏だったら、雪女の私には、もう少し重症だったに違いない。
無理が祟った。
いつかの未来を先取りした、ズルのしっぺ返しだ。
この先に辿り着く、優秀と呼ばれる全盛期。
雪女として大成した涼山千雪を、リリーシャの手を借りて、強引に引き摺り込んだ。
正直なところ、壊れてしまいかねない無茶。生きているだけで幸運で、風邪程度の不調で済んでいるなんて信じられないくらい。
それくらいのことをしでかした。
命を懸けて、戦った。
当然、そんなのをもう一回なんて出来る筈もない。
じゃあ私は今までと同じくらいの出力で、また特級と一戦交えるなんて不可能で、どころか当分は安静が原則。無理は出来ない。
だから、私の戦いはここまで。
私は次には進めない。
でも、そうまでした甲斐あって。
私は、私たちは、――彼と一緒に帰って来られた。
と。
そんな風に考えていたら。
「……ん」
部屋のドアが二度、軽く小突かれ音を立てた。
今更に壁の時計を見れば、時刻は二十一時を回る際だ。
こんな遅くになんの用だろう? ……なんて、部屋の前まで来てる時点で、七尾さんか近しい誰かなんだろうけれど。
わざわざノックで確認ってことは、乙女さんかな?
それとも――。
「ゆー、くん?」
「おう。分かったか」
案の定。
考えた通りの声が応答した。
「……まあ、ね。すぐに入って来ないのは、なんか、そうかなって」
大丈夫だよと、そう言うと、おずおずと部屋に入って来る。
少し色落ちした、赤みの掛かった髪。なんでもないのに不機嫌そうな表情は、――だけど眉に皺がなくて。
険悪さも、必死さも、どこかへ潜めてしまえていて……。
見知ったものより、ずっと柔らかくなっている。
一目見て、違うんだって、……分かるくらいに。
「……………………」
思えば今更ながら、彼を部屋に通したのは、……どころか家に居れたのすら初めてだった。
なんだかんだ私も、向こうのマンションの前までは行ったことがあるけれど、部屋まで行ったことはなかったりするし。
物珍しいからかちょっとだけ、きょろきょろと部屋を見渡して。
それからすぐに、私へ向いて、――ゆーくんは、肩を下ろした。
元気そうではないけれど、死にそうって感じでもない。
本当によかった、って、そう言ってくれた。
「……ほんとにね」
「相当無茶したって聞いたぞ。それもあの鴉魎相手に、致命的な部分にまで切り込んだんだって」
「それ程のことは、あるかもね。――で、そんな私の家に訪れて、こんな遅くに部屋を訪問してノック鳴らすなんて、ちょっと意地悪じゃない?」
「意地悪って。……いや、まあ確かに、そのまま寝かしといてやれって話か」
「それか心配なら、静かに覗いて欲しいかも。勿論寝てるからって、お触りは厳禁だけど」
「触らねぇよ」
「言い切られるとそれはそれで残念なんだけど。……まあ、ゆーくんにはサリュちゃんが居るもんね。私よりずっと良い身体してるし、むしろ私なんかじゃ物足りないか」
「頷きも否定もしにくい自虐をするな。ったく」
ゆーくんは、大きく息を吐いて。
それからドアに背中を預けて、腕を組んで私に向き直った。
不意に、カタリ、と。
腰元に携えた黒鞘の先を、扉にぶつけながら。
「え? ゆーくん、私のこと――始末しに来たの?」
「なんでそうなる!?」
彼は声を上げた。
なんでって、…………うん。確かに、飛躍し過ぎたかもしれない。
「いや、なんか珍しく、刀なんて持ってるから」
「他の用事だよ! なんならそれプラス、万が一のお前の護衛だよ! 俺が殺しに来るわけねぇだろ!」
「いやー、うーん。私、今回色々と勝手しちゃったし、失敗もしちゃったから、処分されても仕方がないのかなーって考えたりしちゃって。ほら、疲れてると後ろ向きになっちゃうことってあるじゃん?」
「また俺には否定しにくいこと言いやがって。大丈夫だ大丈夫だ。そんな話は欠片も出てねぇし、むしろ丁重に扱われてるから、安心して休んでろ」
「まあ、そうだよね。もしもそうだったら、ゆーくんもサリュちゃんも、むしろ私を助けてくれるだろうし。ごめんごめん」
「まったくだ。……俺はお前には、刀も爪も向けられねぇよ」
言って、バツが悪そうに視線を逸らして。
けれどもすぐに私へ戻して、ゆーくんは続けた。
感謝してる。
今も、ずっと前も――。
「ありがとな、チビ雪」
チビ雪って。
そう、呼んでくれながら。
「――――――――」
「結局あの時は、バタバタしてて話せなかったから。思い出したってことだけで、こういうのは、伝えてなかった」
危うく、それが最期になったかもしれないってのに、なにも言ってなかった。
お互い無事で、伝えられてよかった。
「今更、だけどさ。あの頃も、くだらねぇとか馬鹿にしたこと言ってたけど、楽しかった。なにもない洞窟の奥で、会いに来てくれて、色々話してくれて、嬉しかった。……ありが、とう」
「……ゆー、くん」
それは、なんていうか。
本当に、今更だけど。
――――私には……。
「…………なんか、恥ずかしいね」
「……茶化すなよ。らしくねぇのは分かってる」
今だけだ。
こんなのは、こんな機会は、もう金輪際ない。
きっとないって、そう思いたいから。
「いつもフォローして貰ったり、サリュとのこととかも、手助けしてもらって。そういう諸々も全部含めて、改めて、な」
「あはっ。それなら、いつもみたいに奢りでよかったのに」
「いやいや、流石に命まで懸けて貰って奢りは軽過ぎるだろ」
「いえいえ、それくらいでいいんだよ。それくらいがいいんだよ」
なにより、そんなこと言いだしたら。
それじゃあ命を懸けた借りを返してなんて、それこそ、変じゃない。
指摘したら、それもそうかって笑う。
私もおかしくなって、ほんとだよって、笑い返す。
うん、そう。
やっぱりそれくらいが、一番で。
こういう時間が、私には、なによりも……。
「……それで? もう大丈夫なの?」
「あー。どうだろうな」
「なにそれ。島でリリーシャにも言われてたでしょ。そういう時、言い切らなきゃダメだよ。自己暗示自己暗示」
「じゃあ大丈夫だ」
「ええ? ほんとに大丈夫なの?」
「どっち道じゃねぇか」
「そうそう。……どっち道なんだよ、色々とさ」
だから、言ったもん勝ちなんだよ。
失敗したって成功したって、否定されたって肯定されたって。
どっち道、なんだから……。
なら、同じように。
どっち道なんだから、言わなくたって、いいって話なんだけどさ。
「……なんて、ね」
「ん?」
「別にー。ほんと、大丈夫じゃないとダメなんだよって話。見ての通り、当分は寝たきりみたいな感じだろうから。ご飯とか着替えとかトイレとか戦いとか、ゆーくんに頑張って貰わないといけないんだからね」
「いや、身の回りの世話は俺じゃねぇだろ」
「実際は家事くらい出来てるから、誰も必要ないんだけどね」
「そりゃよかったよ」
「でも戦いは当然、隠れ家にも出ちゃダメだからね。ゆーくんにも頑張って貰うのは、ほんとの話だよ」
私が進めない次がある。私が居なくたって、それは待ってくれない。
ゆーくんたちは、ここでは止まらない。
きっとその刀も、その為のものだ。
「せっかく帰って来たんだから、死んじゃダメだからね」
「分かってるよ」
頷いた、ゆーくんの瞳は、真っ直ぐで。
私の見知った彼よりも、ずっと強くて、熱が感じられて。
ああ、私たちは本当に。
彼を助けることが出来たんだって、そう確信した。
涼しい夜風が頬を撫でて、火照りと気怠さを拭い流す。
彼は「少し寒くないか」と声を掛けてくれたけれど、丁度いいくらいだって断った。
それもそうかって、歯を見せて。
そうだよって、私も頬を緩めて。
後は、なんか適当に。
あの洞窟で私が見せた映画の話とか、久々に会った時に私が思ったこととか、逆に記憶を失ったゆーくんから見た私の印象とか。それから、やっぱり初めて二人で遊びに行った時の、あのチョイスはないよって笑い話とか。
そんな、取り留めのない話を。
幾つか抜けていたピースを当てはめるみたいに、埋めていって。
「…………うん」
ああ。
ここまで来られて、本当に……。
…………だけど。
だけど、…………私では。
私たちでは、…………こうまでは……。
「チビ雪?」
「……………………うん。…………なあに?」
私には力が足りなかった。
私には分不相応だった。
やっぱりそれが、ちょっぴりだけ、悔しくて。
「…………うん。…………ごめん、……ね」
頬を一筋、熱が伝う。
許してほしい。
だってどうにも、溢れてしまう程に、熱くて仕方がなかったから。
なにも言わないから。
なにも言わないって、決めてるから。
これまでも、これからも。
「…………ゆー、くん」
私は、滲む視界で、待ってくれている彼へ――。
「お帰りなさい」
そう、笑いかけた。
そう、迎えてあげられた。
本当に、本当に。
――ねえ、ありがとう。
次話は来週土曜日に投稿予定です。
よろしくお願いします。




