第四章【98】「エピローグⅢ」
なんて、格好のいいように思ってみたものの。
それは恐らく傍目には、手を出したのではなく、手を出されたというのが正しく。食べたのではなく、食べられたと例えるのが合っている。
ご馳走様でしたではなく、お粗末様でしたで。昨夜はお楽しみでしたね、でもなく、昨夜は楽しんでいただきましたというヤツで。
……いや、本当に、生々しい話だが。
なんというか、コツを掴んだというか、慣れて来たって感じのサリュが、凄まじくて。
見事に、食われた。
もうヘロヘロになるまで、めちゃくちゃ頑張った。
「…………あー」
などと、被害者のようなことを思ってしまうが。
当然、そんなのは冗談というか、俯瞰して笑い話にしているだけで。
「……ヤバかった」
めちゃくちゃ頑張ったが、めちゃくちゃ良かった。
こんなに凄いモンなのかって、まんまと分からされてしまった。
「……はぁ」
大きく息を吐き、ベッドで横たわったままに、隣で眠るサリュを見る。
瞼を閉じて、深い呼吸を静かに繰り返して。よっぽど疲れたのか、加えて思う存分堪能して満足しきったからか、熟睡って感じだ。
……あんなに激しく乱れて、見たことのなかった表情ばかり浮かべていたのが噓みたいに。それこそ、いつもの明るく元気な様子からも離れて。
思わず右手を伸ばし、人差し指で軽く頬に触れる。サリュは微かに眉を上げたが、特になんの応答もないままに、ぐっすりと寝入ったままだ。
これは本格的に、変なちょっかいはかけずに休ませてやったままの方がいいだろう。……腕を持ち上げた際に掛け布団が捲れてはだけてしまったり、まあそれで見えてしまったりしたが、ここは我慢だ。
下手に起こして延長戦ってのも、流石にキツイし……。
などと。
そんな、いわゆる事後的なものを楽しんでいたら。
本当に、不意打ちに。
「童貞卒業おめでとう、愚弟」
そんな、死ぬほど聞きたくなかった賛辞が耳に届いた。
「はァ!?」
思わず飛び起き、サリュから視線を移せば、案の定。
トンと、いつの間にか部屋へ訪れ、どころかすぐ近くまで来ていた、――姉貴が。
そのまま、何故か当然のように、――俺たちが居るベッドの端へと、腰を下ろしたのだった。
「フフ、どうした? まさしく、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
なんて、軽口を叩きながら。
長い髪を優雅に掻き上げ下ろして、眼鏡を小さく持ち上げて。
いや、いやいや。
いやいやいやいやいや。
「鳩が、って……、……、……多分、それ以上の顔、してるんじゃねぇか?」
「違いない。そうだな、苦虫を嚙み潰したような、と例えた方がそれっぽい」
「……キツ過ぎる、だろ」
「だろうね」
言って、笑う。
いや、なに笑ってんだ。笑うなクソ姉。
「すまない。我ながら本当に悪趣味だとは思ったんだけどね。でも、こう、誰でも一度は思うだろう? ピロートーク的な雰囲気をぶち壊してやりたい、みたいな」
「悪意しかねぇ! しかも弟でそれをするんじゃねぇよ!」
「痛快極まるよ」
「……冗談じゃねぇよ」
だが生憎と、本当に冗談ではない。
現実に実の姉に、事後に割り込まれた。
サリュが眠っているのが、唯一の救いだが。
……コレ、割とマジで、最悪最低だ。
「……もう少し、浸らせてくれよ」
「こちらもそうしてやりたかった気持ちはあるんだがね。残念ながら、もうすぐ正午だ。裕馬はさておき、サリュには色々と手伝って貰う予定だったのでね」
「……マジかよ」
壁の時計を見れば、確かに、間もなく十二時を迎えるところだった。
地下だから時間の感覚が分かりにくかったというのもあるが、……そうか、そんなにも経っていたのか。
見れば姉貴も、キッチリとしたスーツ姿。
成程上の階では、とっくにみんなが働いてる訳だ。
「……あー、……ごめんなさい、ハイ」
「いいさ。まだ裕馬を動かすつもりはなかった。サリュについても、あれだけ頑張って貰ったんだ。このくらいは見逃して当然だとも。――ま、その分、後で色々と聞かせて貰うが」
「やめてやれよ」
「そんな訳で、大義名分込みで台無しにしてやった。むしろこちらとしては、真っ最中でなくてなによりだよ」
「逆に真っ最中なら入って来なかったんじゃねぇか」
いや、聞かれるのも嫌だけど。
察して立ち去られるのも、なかなかに来るものがあるけど。
「さてどうか。声が漏れているならそれはそれで、煩いぞと乱入して余計に台無しだったかもしれないな」
「……気を付けますので、どうかお許しください」
「そうだな、是非気を付けてくれ。今はまだ修繕や用意で本格稼働していないが、図書館が元の運営を始める頃には、館内でのお遊びは厳禁だ」
「ウス」
それはまったくその通りなので、素直に頷いた。
気を付けるし、気を付けるように言い聞かせておかないと。
なんて、不本意で最低な忠告を受け。
割と忘れられそうにない、なかなかの恥辱に頭を抱えていたら――。
不意に、姉貴が、――俺をじっと見ていた。
真っ直ぐに、目と目を合わせて。
身体を起こし、座り直した俺のことを、見つめていた。
「……………………」
「……姉貴?」
最初は、またなにかの冗談を言われるのかと思った。
なにしろ今更だが、サリュと同じで俺も裸だ。掛け布団で隠れてはいるものの、上半身は完全に素肌を晒している。
肉付きが良いだとか、或いは悪いだとか。そんなことを言われるのだろうと、眉を寄せて。
でも、違った。
「……………………」
その目を、表情を、なんて言えばいいだろうか。
僅かに眉を寄せて、冷たく、険しいようで。
けれども怒気や憐憫のようなものは感じず、にこやかではなくとも柔らかさのようなものがあって。
物憂げながらも、果たして、――余裕、だろうか。
それとも垢抜けた、と、そんな風にいうのかもしれない。
なにかずっと、囚われていたものから解放されたみたいに。
安堵に似たものが、こぼれて見えた。
それで、姉貴は――。
「すまなかった、裕馬」
姉貴は、そうこぼした。
本当にすまなかったと、謝った。
変わらないままに。
けれども微かに、両手を握り締めて。
謝罪は明らかに、今回についてだ。
鬼狩りを含む、俺の事象。こうなることが全部、分かっていなかったなんて、そんな筈はないのだから。
全てが全て、でなくとも。
きっと、色々なものが見えていた筈で……。
姉貴は、続けて。
「――私は、お前を死なせてもいいと思っていた」
それを、打ち明けた。
「――――――――」
それは。
それは、なんていう、――――。
――――――――なんて、いう…………?
「――――――――え?」
それは。
それ、は――――――――……………………。
「…………マジで?」
それは、予想外だった。
考えもしていなかった。
「え? ……もしかして俺、今回の、死ぬ予定だった、とか?」
「そこまでは言っていない」
「え、じゃあどういう、……え?」
「……とぼけているのか? それとも早速の意趣返しか? こちらとしては、出来れば真面目に進めたかったが」
「いや、悪い。そんな感じだってのは分かってるんだけど、冗談抜きで、本気で驚いてるんだよ」
だって、――死なせてもいいって。
嘘だろ?
「本当だ。なにしろ、お前は鬼で、此度の相手は鬼狩りだった。専門家である彼らの判断を、私はやむなしだと覚悟して――」
「いや、いやいやいや。だったら――」
だったら、なんで。
なんだって、姉貴は。
「じゃあ、千雪やヴァンは? リリーシャは、なんだったんだよ?」
姉貴が送ってくれたんじゃないのか?
姉貴が、俺を助けようとしてくれたんじゃねぇのか?
「なあ、姉貴」
「……それは勿論、私だ。私が備えた、私が配置した」
でも。
でも、それだけだ、と。
「それだけでは、恐らく足りないと、分かっていながら。だが、私は、それだけの用意しか出来なかった」
「足りないって……」
足りない。
――でも、じゃあ。
「じゃあ、――だから、だろ?」
「…………」
「だからサリュや、神守姉妹や、――姉貴が、助けに来てくれたんだろ?」
だから俺は、今、ここに居るんだ。
それだって、紛れもない本当だ。
「分かったよ。めちゃくちゃ驚いてるけど、死んでもいいと思ってたって下りは、納得する。……出来ねぇけど、呑み込む」
でも、だからって。
それだけじゃ、ないだろ。
それだけ言うのは、嘘だろ。
……ズルい、だろ。
「助けてくれたじゃねぇか」
じゃなきゃ、なにも起こらなかった。
なにもないままに、俺は、一人で終わっていた。
足りなくても、千雪やヴァンやリリーシャが手を貸してくれた。
そこに皇子も加わって、幾つもの状況が変わって、――俺は、戦えた。
最後まで繋いで、生き残ることが出来た。
それを、「最初からサリュが居なきゃ意味がないだろ」とか、「手遅れになってたらどうするんだよ」とか、そんなこと。
そんなこと、言う訳がねぇだろ。
「俺はみんなに、――姉貴に、助けて貰ったんだよ」
「……だが、お前を最優先にするのであれば、最初からサリュを送るべきだったと、その事実が変わりはしない」
「……あー、よく分かんねぇけどさ、他にも事情があったんだろ? サリュを頼れなかったり、姉貴が手をこまねいたり」
なんなら、千雪やヴァンにも他の立ち回りがあったのかもしれない。俺なんかよりもずっと重要な盤面に、彼女らの力が必要になることもあった筈だ。
それを、命懸けになるような場所へ、なんて。
つくづく、承諾したアイツらもアイツらだけど。
鬼餓島との戦いが、一大戦力を賭ける程に必要不可欠だったとは、思えない。
だから、ここまでしてもらって。
文句なんて、ある訳ねぇよ。
「姉貴は出来る限りの全力で、俺を助けてくれた。それだって本当だ」
「……そう、か?」
ならば、と。
姉貴は改めて、俺へ向いて行った。
「正しく、言おう」
「……おう」
「私はお前に注力出来なかった。お前を助けたかったが、他を捨て置くことが出来なかった」
「…………」
「そして、私は、――お前が死んだ方が、お前の為になるんじゃないかって、……そんな風にも、企んでいた」
「――――――――」
――それは。
…………それ、は。
「我ながら、ぐちゃぐちゃだろう? 助けたいと、助けるべきだと、殺してやりたいと、殺してやるべきだと。加えて対外的にも、鬼餓島と異国の共謀は明らかに、無干渉を貫くことも出来ない。だが、とはいえ確証もなければ、多くの戦力を割くことも得策ではない」
助ける言い分も、助けない言い分も。
どちらも相応に、どちらの判断も、ある種の結果次第ではあり。
立場も感情も、全てにおいて。
どっちつかずだったから、どちらか片方を選ぶことが出来なかった。
だから、浅ましくも中途半端に、二兎を追って。
危うくは、全てを失ってしまいそうになった。
「敵対とはいえ、鬼狩りという組織の崩壊。千雪やヴァンや神守黒音に与えた、戦線復帰が困難な程の大きな消耗。こちらの街でも、幾つかの大き過ぎる失態がある」
どちらかを取っていれば、恐らくは今よりも、ずっと。
だけどそうしていれば、どちらかは……。
「私は参謀としても、お前の姉としても、――最低だよ」
「……そうでもねぇだろ」
戦いで得たものもある筈だ。
少なくとも敵の正体や、サリュやリリーシャの確執を取り払うことも。
俺だって、助けて貰って。
……なにより、哀しいかな、そもそも。
「姉貴は、よく分かってくれてるよ」
だって俺は、姉貴の考えていた通りに。
あの場所で終わることを、望んで――。
「悪い。俺はまだ、諸々理解出来てねぇし、状況もはっきり分かってない。だから、なにをどうこう言えねぇけど」
でも、繰り返すけど、これだけは言える。
これだけは、俺だけが言える。
「助かったよ。ありがとう、姉貴」
みんなのお陰は、姉貴のお陰でもある。
姉貴が居てくれて、姉貴が姉貴で、よかった。
「助けてくれてありがとう。――殺そうとしてくれて、ありがとう」
世間的にとか、普通とか、そういう尺度はどうでもいい。
サリュの受け売りだが、知らないヤツのことなんて、知らない。
「俺には、最高の姉貴だよ」
本当に、これだけで。
でも、それ以上は、ないと思った。
「……そう、か。……それでも、言わせておくれよ」
だけどやっぱり、姉貴としては、譲れないらしく。
姉貴の思う姉ってのは、俺が考えてるよりずっと、凄いモンらしく。
「すまなかった、裕馬」
それから。
それから――。
「私たちを想ってくれて、――帰って来てくれて、ありがとう」
姉貴は、そう言って。
頬を緩めて、歯を見せて、笑った。
◇ ◇ ◇
と、不意に。
「……う。お腹、空いた」
そんな、当たり前の呟きが、この場に居るもう一人から発せられて。
深く眠っていたサリュが、ゆっくりとまぶたを開いた。
「……ご、飯」
本当に、在り来たりな。
……やっぱり、適わないな。
「ははっ。どうやら義妹様は、遅めの朝食をご所望らしい」
「義妹って、……それはまだやめてくれ」
「――あれ? オトメ? ユーマも、先に起きてたのね。それより、わたし、凄くお腹が――――…………アレ?」
「あー、サリュ。その、だな」
「……………………アレ?」
それから当然、大騒ぎなひと悶着が巻き起こされる訳だが。
まあ、いつも通りってやつで。
まだなにも終わっていない。
むしろこれから本番で、待ち受ける戦いは、避けようもなくて。
それでも俺たちは今この時を、思いっ切り笑って、怒ったり呆れたりして。
心から楽しんで、満喫していた。




