第四章【96】「エピローグⅠ」
それを、最後まで見ていた。
俺には、見ていることしか出来なかった。
空で撃ち合う彼女らを、その苛烈な魔法戦を。
果てに、森へと落ちていった姿を。
それからその先で、もつれ合う二人を――。
遠目にも、どちらも限界なのは明らかだった。
魔法もなにもない、ただの力任せ。どころかその力すら本当に弱々しく、一方的な筈のリリーシャが、それでも右手を振るう度に追い詰められているようだった。
そうして殴り付けて、受け止めて、言い合って、傷付け合って。
積年の恨みとか、溜まっていた鬱憤とか、――あとは、不器用な親愛とかも。
そんな二人を止めようとは思えず、とても踏み込めるようでもなかった。俺も姉貴も神守たちも、誰も手出しはせず、声も出せない。
下手なことをすればそれこそ、サリュからも恨まれることになると、分かってしまっていたから。
ようやく納得出来た。
これが、必要なことだっていう、その意味が。
彼女らは、たった二人きり。
自分を含めた互いの為に、思いの丈をぶつけ合っているんだ。
そして決着は、サリュが選んだ。
もう殴られない。殴らせない。
終わりにする。
旅立つと言ったリリーシャの背中を、躊躇いながらも押すように。
留まる最後の執着を、引き剥がし、断ち切った。
その後どうなったのかは、知らない。
なにしろどれだけ思い出そうにも、記憶に残っているのは、そこまでで。
情けないが。
俺もとっくに、身体も緊張も、限界なんて越えていて。
後は視界が真っ暗になって、ぐらりと身体が傾き。
そのままに、意識を失ってしまった。
◇ ◇ ◇
すれば、深い眠りに落ちた中。
当然俺は、黒い泥に沈んでいく。
「……………………」
いつもの暗闇が、意識を包み込む。手足の指先から髪先に至るまで、全身くまなく染め上げられ、黒そのものに陥る錯覚。
夢だの深層意識だの、どう例えるべきなのかは未だに定かではないが。
なんにしろコレは、内側の話だ。
俺自身の事象だ。
ただ、どういう訳か。
「……………………」
不思議と、落ち着いていた。
不安や恐怖に取り付かれることも、嫌な情景が思い起こされることもない。ただ暗闇の中を、静かな波に揺蕩っているだけ。
あれ程に急き立てていた焦燥感も。
あれ程に追い詰められていた絶望感も。
あれ程に盲目になっていた喪失感も。
全部がただ、波を立てるばかりだ。
「…………ああ」
落ち着いている。それだけだ。
全てが取り除かれることなんて有り得ない。
自分は変わらず鬼のままに、手にかけ散らした命は戻らず、刻まれた罪が消えることもない。過去も今も、未来も、見通しのきかない暗雲に包まれている。
結局、楽にはなれなかった。だからコレはこの先ずっと、終わらない限りずっと、付き纏って引き剥がせないのだろう。
むしろ、これまで以上に。
なにしろ胸の鼓動が、より強く、確かな高鳴りを刻んでいる。
――残された、鬼の因子は……。
「…………ああ」
それでも落ち着いている。
懸命に楽観さを装うこともない。過剰な奮励に迫られることもない。
だって、疲れたんだ。
身体も心も限界だったんだ。
街が突然の襲撃にあって、そこから逃げて。
図書館へ辿り着いたら、酷い有様で。
鴉魎に襲われて、斬り刻まれて、連れ去られて。
目を覚ましたら暗い洞窟の中。
魁島鍛治に詰め寄られ、かと思えばヴァンとその妖精が力を貸してくれた。
洞窟から逃げれば鬼狩りたちに追われて、そしたら千雪が助けてくれて、――悪戦苦闘の先にはリリーシャや、第一皇子なんてとんでもないヤツまで出て来た。
その後も、散々に。
自分の過去と向き合わされて、魁島にズタズタに、なにもかもを暴かれて。
それでもなんとか、神守たちの協力もあって、決着をつけて――。
――それから、サリュと。
サリュに――――――――…………。
「…………そう、か」
考えてみれば、当たり前か。
あんなにも言葉をくれた。
あんなにも引き留めてくれた。
あんなにも縋ってくれた。
あんなにも求めてくれた。
絶対に逃がさない、って。
好きだ、って。
「…………単純が過ぎる」
我ながら、呆れてしまう程だが。
けれど、嬉しくない筈がない。
支えにならない筈が、なかった。
今だって、近くに居てくれているみたいに――。
――ああ、それなら、尚更に。
こんなところに沈んでいるのは、勿体ないな、なんて。
ゆっくりと、こんなにも、簡単に。
深くから、上がっていくことが出来た。
◇ ◇ ◇
そうして、目を覚ます。
もう見慣れた、薄汚れた白い天井は、ここ最近通い詰めていた部屋で。仄かに香った柔らかな匂いは、とても身に覚えのある洗剤やシャンプーの香りだった。
図書館の地下室。
姉貴に宛てられた私室で、――サリュの部屋だ。
「……帰って、来た」
呟き、身体を起こせば、かけられていた薄手の毛布が下り、微かにベッドが軋みを鳴らす。
途端。
頭痛に額を抑え、眉を寄せて歯噛みした。
「……っ、……づ」
痛い。
鼓動に合わせてズキズキと、頭の奥から響かされて――が、……頭が割れるようだとか、酷く病的な感じではないか。極々当たり前の、風邪引きや寝不足の時みたいな、そんな感じの頭痛だった。
恐らくは、諸々無茶をした、そのしっぺ返しの残りだ。
額を抑える右手も、そのまま持ち上げているのが気怠く重たい。全身もなんだか熱っぽく浮遊感があったり、完全に不調だ。
ただ、それだけに収まってはいる。
「…………」
手を下ろせば、右手のひらは見慣れた肌色だ。当たり前の人間の手で、傷一つ見当たらない。頭痛以外の痛みを覚えることもなく、ただただ疲労に脱力するばかり。
触れていた額も、改めて頬や頭を確かめても、取り立てることのない感触があるだけで、異物感もなにもない。
「……ふぅ」
思わず、息を吐く。
あんなに暴れて、あんなに千切られて、追い詰められて。
それでも戻って来られたことに、安堵してしまった。
ふと、安堵もだが、未だに自分が落ち着いていることを不思議に思って。
――すぐに、その理由が分かった。
安心しているんだ。
「――――――――」
その理由も、多分、――匂いだ。
思えば俺は、サリュの表情や仕草や、それから触れ合うことで緊張したり、思うところがあったが……。
この部屋に来たり、一緒に居たり。ただ当たり前に傍に居られる時は、居心地の良さのようなものを感じていた。
当然だ。
だって衣類の洗剤とか、そういう身の回り品は、俺や姉貴が用意しているものだから。
彼女の愛用しているそれらは、俺たちと同じで……。
だから、今も。
気が抜ける。気を抜いてもいいと、思えてしまう。
「なる、ほど」
道理で抱き止められた時も、あんなにもすんなりと。
「…………」
……いや、異性に抱き締められたり、布団に寝かされて落ち着くってのも、それはそれでちょっとアレな気がしなくもないが。
「……それくらい」
それくらい、近くて、許していて。
合わせて、思い起こされる。
夢の中でも浮かんでいた、サリュの言葉を。
一緒に居たい。逃がさない。
――好きだ、って。
そう、言われたことを。
「……っ、づ、づ」
途端に恥ずかしくなり、ベッドを抜けて端へと腰掛ける。素足を床のカーペットに下ろして、肩を落として大きく息を吐く。
去来するのは、サリュの泣き顔と、それから笑顔。
懸命に伝えてくれた言葉の数々や、思わせぶりな態度。
安心感や優しさや、鮮明ではないものの覚えてしまっている、諸々トラブルの衝撃的な光景や感触。
それらを思い返して、その上、サリュからの言葉が上乗せされて。
有り体に言えば、ドキドキしている。
めちゃくちゃ意識させられている。
「……駄目、だろ」
サリュの部屋で、今は居ないけど、きっと戻って来る筈で。
しかも色々とごたごたがあって、片付いたとはいえこの状況下で、不謹慎極まる。
でも、どうにも。
あんなに求められて、必要とされて、想いを打ち明けられて。
嬉しく感情が昂るのだって、仕方がないだろ……。
なんて、場違いにも一人で勝手に浮かれていたら。
不意に――。
ガチャリと、向かいの扉が開いて――。
「――あっ! ユーマ、起きたのね!」
俺に気付いて、元気よく声を上げて、入ってきたのは――。
真っ白な、ドレスみたいな衣装に身を包んだ。
「――――――――――――――――」
見惚れてしまう程に可愛らしい装いをしている、サリュだった。
肩口や腰元にフリルをあしらった、ふわりとスカートの広がる白のワンピース。ぱっと見は煌びやかで豪勢に思えたが、改めて窺えば、薄くて柔らかく、とても軽そうだ。
いわゆるパジャマというか、寝間着の類なの、か? 小さく愛らしい見た目に相応の、むしろ幼さを感じるくらいの装いだ。
だが、逆もまた然り。
なにより驚いたのは、その衣服から覗く素肌の部位が――。
「…………………………………………」
幼い装いからの、――今にも零れそうに開かれた胸元が。
晒され覗く肩や、――短いスカート丈から伸びて、いつもより見えてしまう素足が。
風呂に入っていたのか、魔法を使ったのか、――水気の残った長い髪が。
なにより、意識してしまった手前。
安堵と一緒にぱっと開かれた、はにかむような笑顔が――。
「…………っ」
思わず、目を逸らしてしまった。
コレはちょっとマズイやつだと、逃げてしまった。
しかしお構いなく、果たして気付きもせず。
いやまあ当然に、扉を閉めてこちらへと歩み寄って来る。
「よかった、ユーマ! 身体も無事そうだし、もう寝てなくても大丈夫なのね?」
「…………あー、えっと、……お、おう」
「あら? どうしたの? 目を逸らすのは、えっと、……もしかして、どこか悪くて起きたとか、そういう?」
「……あー、いや、そういう訳では、ない……んだ」
「ならよかったわ。――そう、今丁度ナナオが、チユも無事落ち着いたって伝えに来てくれてたの。それで、ちょっと離れちゃってて」
「っ、そうか。あいつも無事か」
思わず食い付き声を上げ、サリュに向き直る。
サリュもまた目尻を下げて、ほっとしたように肩を下ろした。
が、遅れてすぐに気付く。
無事落ち着いたことを、あの七尾さんが、わざわざ伝えに来る程の……。
そうだ。
千雪とは、別々に動くことになって。
千雪やリリーシャは、鴉魎の相手をすることになっていて――。
「……無事、なんだ、よな」
「ええ。一か月くらいは引きずるかもって言ってたけど、特に後遺症とかはないって。遅れた夏季休暇をあげるんだーって、ナナオも」
「……そう、か」
「だからね、わたしチユの為に言ったの。療養期間だけじゃなくて、その後にもお休みをあげてって。元気になって遊ばなきゃ、可哀想だわ」
「……それは、……はは、そうだな」
反応を見るに、嘘や隠し事をしているようではない。そのやり取りが本当なら、まさか七尾さんも、妙な冗談を言って誤魔化すこともしないだろう。……むしろあの人なら、考えられる最悪は、そのまま口にする筈だ。気を遣うにしたって後日に逸らすくらいで、その場限りのようなことは言わない。
それにあの時、島には姉貴も居た。
俺のところに神守姉妹やサリュが来てくれた間、姉貴も別の場所で戦っていて。それが千雪のところだったなら、大事にならずに済んだのも納得だ。
もっとも、一か月。
どれくらいを無事と言っているのかは、会ってみないとって感じだが。
「いや、後遺症もないって話なら、一先ずは安心していいって、話か?」
「ええ。わたしもいい感じに処置出来てたと思うし、きっと大丈夫」
「処置って、――え? そういう?」
サリュが千雪のことにも噛んでるってこと?
え、じゃあ俺のところに来る前に、千雪のところで戦って来たってことなのか?
「……マジかよ」
思えばリリーシャとも、あの最後が島での初対面って感じじゃなかった。
ということは俺と合流したのは、千雪とリリーシャが向かった本拠地の方で、ひと仕事終えた後ってことになる、のか。
それで、俺の我儘にも付き合ってくれて。
リリーシャとの戦いにも、真っ直ぐ立ち合って。
「……つくづく」
つくづく、とんでもない。
そりゃあ俺もリリーシャも、鬼狩りも、勝てないって話だ。
まあ、とんでもないのは今に始まった話じゃなく。
きっとこれからも、――現在進行形でも、物凄くとんでもないのだが。
「それで、ユーマはほんとに大丈夫なの? チユやみんなもだけど、わたしは今目の前に居るユーマのことも、凄く心配なんだけど?」
などと言いながら、詰め寄って来て。
サリュはそのままにベッドへと、俺の左隣へと、腰掛けた。
肩や太腿が丸出しで、胸だってめちゃくちゃ開いた、その可愛らしいパジャマのままで。どう考えたってヤバ過ぎる、その恰好で。
ヤバ過ぎる距離と状況に、突入してしまった。
「……い、づ」
「あっ、また目を逸らした。やっぱりなにか隠してるんでしょ」
「……いや、体調は大丈夫、だ。その、軽く頭が痛かったり、結構疲れてたりはするんだけど、それ以外は特に問題ない」
「軽く痛いだけ? 疲れは、酷いの?」
「酷くは、ない。普通になんつーか、……まあ、疲れてるって感じだ」
事実、そう表現するのが一番近い気がする。
色々あって、色々と酷使して、普通や常識と呼ばれる範疇を遥かに越えて。だけど普通じゃなかったものは、同じく普通でないものによって取り除かれた。
だから残ったのは、ただただ当たり前な、色々あって疲れたってだけなんだ。
「こっちもそんなに心配しなくて大丈夫だ。なんなら今から飯でも行くかって、そんなくらいだし」
「ご飯はダメね。もう閉まっちゃったもの。ユーマ、丸一日寝てたのよ」
「なる、ほど」
ちらと壁掛けの時計を窺えば、時刻は一時を回ったところだった。サリュの恰好や、その姿で出歩いていたことからも、とっくに図書館も閉まった深夜ってことで間違いなさそうだ。
まあ、起きたら二週間も経ち閉じ込められていたことに比べれば、どうにも大したことがないように思えてしまう。
「お腹空いてるの?」
「いや、そういう訳でもない。むしろ食欲はあんまない感じっていうか。まー、まだ色々と処理出来てないからさ」
「……そっか。気分は、大丈夫?」
「そっちもお陰様で、……まあ、落ち着いてるよ。落ち込み過ぎてもないし、変な気を起こそうとか、そんな感じもないし」
実際はめっちゃドギマギして、別の意味で変な気を起こしかねないとはなってるけど。サリュの心配するような方向性では、取り立てて問題はないと言えるだろう。
だから「大丈夫だ」と、そう答えて。
「……ほんとに、サリュのお陰で、……帰って、来れて」
少々気恥ずかしいが、サリュの方へと視線を戻す。
とても大事なことで、言わなければいけないことだから。情けないかな目を逸らしたままなんて、そんな状態で言うことではないから。
だから、隣に腰掛けるサリュへ、向き直って。
――視線を、合わせると。
「――そっか。じゃあ、…………いい、よね」
不意に。
本当に、不意打ちに。
「――――――――――――――――え?」
俺は、サリュに抱き締められていた。
頭と背中に手を回されて、ゆっくりと引き寄せられて。
ずっと見まいとしようと目を奪われていた胸元に、吸い込まれるように、して。
ぎゅっと、優しく、柔らかに、――けれども強く。
離れていかないようにと、抱き締められていた。




