第四章【90】「事の終わりに」
ただ自由でいたかった。
生きていたかった。
閉じた洞窟の奥は暗くて、寂しくて、冷たくて。時折訪れる悪態付きの存在ですら、有難く思っていたくらいだった。
チビ雪の妄言も、馬鹿らしいながらも楽しかった。一方的に押し付けられる知識や礼節は困りものだったが、それでも知らなかったり触れたことのない物事は、とても新鮮だった。
最悪で、底辺で、だけど。
悪いことばかりを並び立てるのは、きっと高慢だ。
ただ誰かを守りたかった。
なにかの役に立ちたかった。
書き換えられた俺は、人間に等しく作り直されて。けれどもやっぱり化物だったから、人に仇名しこの手を血に汚した。取り繕った継ぎ接ぎでは、当たり前の輪には入られなかった。
今更に思えば、人間性だけを取り立てても少々問題が目立つ。虐めを見過ごせない正義感から相手に殴りかかるとは、直情的過ぎる。勿論鬼の血による興奮もあっただろうが、それを止められないどころか、きっかけは完全にユウマの部分で。
どうすればよかったんだろうって、後悔ばかりで。
でも、どうすることも出来なかったんだ。
そこが俺の居場所だった。
縋り付いたその僅かを、壊されたくなかった。
鬼にも人間にも成り切れない中途半端な俺には、図書館や隠れ家だけが、そこだけが俺を受け入れてくれる――物好きが多い場所。
ここにしか居られないから、ここに居たいから、だから自分に出来ることを。……なんて結局は、守りたい場所が、役に立ちたい相手が明確になっただけで。ユウマの意思で鬼の力で、それらを使っていただけだった。
でもそれは、まだ正しくはなかったかもしれないけど。
間違ってはいなかったって、そう思えてる。
それからは、……それから、は。
サリュに出会ってからは。
「ま、まずは、……お、お付き合いから、で」
「大丈夫よユーマ。今度はあなたの味方、助けに来たわ!」
「ええ、任せて。かっこいいところ、見せちゃうんだから!」
「――ええ、任せて。絶対に決めてやるんだから」
「ね、ユーマ。一緒に戦って。わたしと、一緒に」
「――わたしは、ここに居たい。わたしは、ユーマたちと一緒に居たいっ」
「あなたはわたしの運命の人よ。鬼じゃないわ」
「――あなたが好きなの、ユーマ」
◇ ◇ ◇
湿気の強い、ぬかるんだ森の中。
地面は削られ或いは隆起し、多くの木々が倒され、頭上を覆っていた枝葉も取り除かれている。見渡す限りに刻まれた跡は拭えず、平穏無事になどとは、決して言いようもない。
それでも、ひと時の静寂が訪れた。
色深く落ちていた夜も、気付けば仄かな明るさを帯び始めた。
事の終わりを、迎えている。
「……………………」
手も足も放り投げて、大の字に横たわり。
夜空を見上げて、ただ、深く息を吐き出す。
「……づ、てぇ」
胸の内が痛い。口内に鉄の味が広がる。バチバチと小さな明滅が、視界の隅で引き起こされる。
それで少し経てば、今度は咳き込み吐血して。
「ご、おァ……、あ」
さっきからその繰り返しだ。
息をしているだけで、生きているだけで身体が壊れる。
肺とか喉が裂けて血を吐き出して、なにもしていないのに手足の骨が折れて、身体のあちこちで血管が破裂している。治癒力全開って感じで、取り繕うのに大忙しだ。
それでもまあ、のた打ち回っていた時に比べれば、随分マシになったとは思う。……慣れてしまったと、鈍感になったと捉えることも出来そうだが、それはそれだ。
なんにしろ、まあ。
傷付きながらも、苦しみながらも。
一つの夜が、一つの戦いが、終わろうとしている。
「ユーマ、大丈夫?」
もう何度目になるか。
そう言って、サリュが俺の顔を覗き込んだ。
「顔色が悪いのは、仕方ないとして。ずっと寝たきりなのも、仕方なくて。えっと、えっと、――全然大丈夫じゃないに決まってるわ!」
「お、落ち着け」
眉を寄せて、目を白黒させて大慌て。
ようやく事態が終わったと思えば、慌ただしいというか、気の休まる間もないというか。……これはこれで割と嬉しかったりもするから、ありがたいといえばありがたいのだが。
まあ、とはいえサリュだって、休まず平気って状態でもないだろうし。
「……大丈夫に、なってきてる。だからサリュも落ち着いて、少しは休めって」
「でも、でもっ」
「安心しろ。多分死なねぇし、……死のうとも思ってねぇよ」
少なくとも、今この時は。
彼女に根負けして早々に、もう一度終わるつもりはなかった。
なんて、負け惜しみのように引き摺ってみせても。
多分落ちたら落ちたで、また引き上げられるんだろうなって、もう諦めてるんだが。
「大丈夫だよ」
「……う、ん。……ごめんなさい。わたしの治癒では及ばないみたいで。今も色々と考えてるんだけど、難しそう」
「まあ、単純な傷って話じゃねぇんだろう。でも、さっきの強化のお陰で、ほんと随分マシになった」
治したところから壊れていくから、壊れないように強度を上げる。サリュの思い付きだったが、お陰様で倒れてはいられる。
後はこの身体が順当に戻っていけば、立ち上がれるようになるだろう。
「でも悪い、まだ、立ち上がるのは無理そうだ」
「無理しないで。手を貸せるし、なんだったら浮かせて連れて帰るから」
「その時は、お手柔らかに頼む」
そうやって、軽口で返すと。
不意に。
「無事生き残ったようだね、愚弟」
と。
聞き覚えのある声が、届いた。
サリュと交代して、視界にもばっと、長い髪が垂れてきて。
眼鏡越しに、これまたいつもの、脱力した瞳と向き合った。
「……姉、貴」
「酷い顔だ。――が、悪くはない。角が取れたというか、目付きも少し緩くなったか?」
「力が入らねぇ、だけだと思うんだが……」
「にしても、だ。憑き物が落ちたとでも言おうか」
「……そうかよ」
「ふっ、そう露骨に不満そうにするな。……事情は分かっている。今更の登場だが、それでも私も、随分前にはこの島に居たんだから」
戦ったんだろう。苦しんだんだろう。
その上で、清も濁も飲み干して、ここまで来れたんだろう、と。
「勿論私も戦っていた訳だ。愛する弟の為に、ね」
「言って、くれるぜ」
「しかしその甲斐もあって、どうやら鬼の血も完全にモノにしたようだな」
「……血を?」
「でなければ、ゆっくり横たわっていることなど出来まい。私もようやく落ち着いてきたくらいだ。なかなかに、暴れている」
「…………」
言われてみれば、確かに。
治癒の為とはいえ、鼓動が早く高過ぎる気もする。血を巡らせるにしても、過剰に、懸命にというか。
でも、これといって、気が立つようなことはない。
鬼血が表層に現れないのは、完全に消耗しているからにしても……。
「鬼狩りは滅びた」
姉貴は続けた。
「鬼将はこちらで、准鬼将はお前たちの手で、他の鬼狩りたちも多くが絶えた。完全に私たち二人だけとは言い難いが、それでも鬼の血族は、絶滅の一歩手前と表しても過言ではないだろう」
その状況下で、追い込まれた中で、種の窮地において活性化する血を身に流しながら。
それでも感情が揺らぐことがないなら、暴力的な衝動に侵されることがないなら。
「落ち着いていられるということは、鬼を完全にモノにしたってことだよ」
「……そう、か」
「不服だが、鴉魎の差し金だろうね」
「アイツの?」
「断言は出来ないが、恐らくは」
鬼をモノにするとは、個々によってやり方が異なる。
抑制することで従える方法もあれば、同調することで暴力性を受け入れる方法もある。別人格として扱う方法も主流であり、そもそも鬼との相性が良いというパターンだってある。
姉貴はその相性が良いパターンであり、冷酷な本能との折り合いを付けているのだとか。
そして考えるに、今の俺は――。
「――……俺は、なんだ?」
「……さて、ね。どうだか」
「オイ」
「まだ詳しくはなんとも言えない。だが、推測なら。この状況が作用したというなら、可能性は幾つかに絞られる」
その一つを、姉貴は提示した。
――鬼に認めさせたんだろう、と。
「認めさせる?」
「そうとも。この身には人間ありき。理性や思考を伴う必要が、調和しどちらも身に宿す必要が、あるのだとね」
「……もう少し分かりやすく」
「鬼の側面が、人間の側面を必要とした」
そうしなければ、ここには至れていなかった。それ程の状況下に追い詰められていた。必要に迫られていた。
だから、認めざるを得なかった。
その上で勝ち得たというなら、それはもう、確証だ。
血の本能は、理性的な思考を否定出来なくなった。
鬼の血は、人間を認めたんだ。
「…………」
「考えるだけでは駄目だった。暴れ回るだけでも殺されていた。どちらも必要で、だからどちらも結ばれた」
その脅威を用意されたことは、或いは、誰かの策略であったかもしれないが。
それでも、ここに至った今、答えはたった一つでいい。
「――裕馬。お前の身体は真に、どちらの要素も受け入れた、鬼と人間の半妖になった。……ってね」
「…………なるほど、な」
思い当たる節が、ないわけでもない。
いや、それしかない、か。
暴れるな、従えって押さえつけて。
更には黙れって、半ば拒絶までしてやって。
確かに、一方的に振り回される関係ではなくなったか。
……後半はどうにも、俺が勝手過ぎる気がしないでもないが。
「ま、その辺りの詳細は落ち着いてからでいい。心配せずとも、念入りに調べてやる」
「……解剖とかそういうのは勘弁してくれ」
「さて、どうだか。なにせ多少開いても元通りになる身体だ。多少の無遠慮は致し方がないと思うが?」
「いや、マジで。……マジで大丈夫だよな?」
「愚弟の出方次第、と濁しておこうか」
なんて、意地悪に歯を見せやがって。
……戦っていたって、言葉通りに。
姉貴も相当消耗しているみたいだが、まあ、これなら大丈夫そうか。
「――――」
改めて、小さく息を吐く。
サリュや姉貴や神守たちが来てくれて。それより前にも、千雪やヴァンや、リリーシャやどこぞの皇子様まで来て。
みんなどこかで戦って、みんなどこかで傷付いて。
ああ、本当に。
みんなのお陰で、…………――――俺の、所為で。
「全てを背負い込む必要はない」
顔に出てしまっていたのか。
押し黙る俺に、姉貴が言った。
「お前も鬼狩りも、私たちさえもなにかの手の内だった。そういう話は聞いてないか?」
「……サリュやリリーシャの、先生がどうとかって」
「そういうことだ。図書館への襲撃も、どころか同時刻の東地区への強襲さえ、何者かに手引きされた攻撃だった。お前や鬼狩りは、その為に利用され、戦わされたんだ」
だから、発端や要因が、自身に起因する事柄だったとしても。抱えたままに他所へ除けて、目を背けていたモノであったとしても。この騒動の中で、望まない被害や惨劇を、引き起こしていても。
少なくとも、その引き金を弾いたのは、自分たちではない。
「勿論、だからといって許される訳でも、投げ出していい訳でもない。だが、全てが全てを背負うな。必要以上に追い詰めるな、深みに落ちるな。――これから先の為にも、決してな」
「……先」
「ああ、そうとも」
戦いの決着は、けれども全ての終わりじゃない。
鬼狩りとの不和や、個人的には、俺にまつわることが大凡片付いた。それだけだ。
組織と島が終わりを迎えて、多くの命が奪われて。俺たちだって、沢山傷付けられて、辛さや苦しさを突き付けられて。
なのに、ほんの一端。
誰かが暗躍して手引きした、そのたった一つが片付いただけで。
まだ終わってない。
でも、それを言うなら。
「…………終わり、なんて」
この戦いの先にも、きっと次の戦いの先にさえも。
ずっとずっと、終わりはない。
だって、それを選んでしまったから。
永遠に続く道に、また踏み出してしまったから。
それでも戦うと、それでも幸せになりたいと。
そんな彼女に、絆されてしまったから。
「……つくづく、終わった方が楽だって、思うんだけどなぁ」
まあとはいえ、ひと息つく程度なら、許してくれる筈だ。
次へと進む、その合間。一時の休息くらいは、与えられている。そのくらいは、勝ち取れたって、そう思いたい。
みんなと一緒に、街に帰って。
みんなと一緒に、少しくらいは、また楽しい日々を……。
――だけど、その前に。
ここには、もう一つだけ。
まだ、残されていた問題があった。
先延ばしの許されない、なんらかの答えを出さなければならない。
一つの、対峙が。
「有言実行、事態解決。――やるじゃん、ユウマ」
その声に、彼女の、登場に。
空気が、変容した。




