第四章【87】「片桐裕馬」
思えば、こうして会ったのはいつ振りだったか。
東地区から空を見上げて、遠目に、戦っている姿を見た。話したのはその前夜に隠れ家で、特級会議に呼ばれたって七尾さんが言う前に、話していた。
確か、その時に俺は、デートに誘おうとか。自分の想いがどうだって、そんな浮ついた、身の程知らずなことを考えていた。
この夜に目を覚ました俺には、本当に、あっという間って感じで。
だけど、どうしようもないくらいに、変わり過ぎてしまって。
もう、ずっと、会ってなかったみたいだ。
「ユーマ?」
拳を収めた、その向こう側。
驚いたように目を開けて、首を傾げる。
煽られていた長い髪が、ゆっくりと下ろされて。はためいていた黒衣や帽子も、静かに落ち着いていく。
頬や手足には少なくない傷があった。僅かにだけれど分かる程に、肩を上下させて呼吸を繰り返し、……改めて窺えば、彼女の力も大幅に消耗しているか。
満身創痍でなくとも、疲労困憊が目に見えて。
だけど、――その瞳は。
「……あ、……あ」
変わらない、真っ直ぐな赤い瞳。
けれども明らかに涙を溜めて、感情を潤ませた、サリュが。
「久し振り。なによりも、――無事で、よかったわ」
今の俺へと、そんな風に言った。
ああ。
たった、それだけの言葉で。
「――――――――」
揺らいでいた感情が、震えを止めた。
カチリと音を立てたように、収まるべき場所へと引き戻された。
そんなの有り得ない。
おかしい、って。
ドクリと、心音を高鳴らせる。
目を剥き視界を、赤く充血させる。
「――無事、で?」
無事、なんて。
なんでそんなことが言えるんだ?
「……無事に、見えるか?」
一体サリュには、俺がどう見えてるんだ。
今の俺は、どうなってるんだ。
あの泥に映された、化物そのものの様相で。
この両腕だって、真っ黒で膨れ上がって。頭部にだって、異物の感触があって。姿形も、感情も、外も内も全部真っ黒で、散々で。
そんな俺が、無事だって?
「なに、を……ヅ」
「ユー、マ?」
「なにを、ヅ! 言ってやがるッツツ!!!」
叫んだ。
喉が痛い。胸の内側もガリガリと削られて、鉄の苦味が滲んで酷い。煩く躍動する心音に合わせて、頭蓋が軋まされる。視界が傾いて、立っていることもギリギリで。……生きていることすらも、命を削っている。
だから倒れなければ、それだけでいい。
倒れてしまったら、もうここには至れない。
吼えろ、牙を剥け、否定を揺るがせるな。
ふざけた物言いを、噛み千切ってやれ!
「久し振り、だァ!? 無事だァ!? ふざけんな! コレのどこが無事に見える! なにもかもが、もう手遅れだろうがァアアア!!!」
それを今更っ!
今更過ぎるんだよ!!!
「見れば分かるだろ! この肌の色も、角も、正真正銘の鬼だ! 化物だ! 半妖なんて範疇は、とっくの昔に超えてんだよ! ずっと前から、化物だったんだよ!!!」
「…………ユーマ」
「前にも見たことあるってか!? 違う! 違う違う違う! あの時とは全然違うんだよ! あの時よりも、もっと、ずっと、化物で――っ!」
いや、あの時だって、既に。
知らなかっただけで、分かってなかっただけで、俺は。
「俺はとっくに、人殺しの化物なんだよ!!!」
叫ぶ。
叩き付ける。
「この島で、今晩だけで何人もの鬼狩りを殺した! だけじゃない! お前に会った時には既に、人の命を奪ってたんだよ! 他人を傷付けたなんて半端な落ち込みじゃない、本当はもう、ずっと前から、どうしようもないくらいに踏み外してたんだ!」
この手は既に汚れていた。
それが更に血塗れになって、酷い有様で。
「どうしたいのとか、どうありたいのとか、そういう話じゃねぇんだよ! どうしようもねぇんだよ! 俺がどうありたくたって、お前がどうあってほしくたって、俺は、鬼なんだよ! 人殺しの、最低最悪の、害敵なんだよ!」
鬼狩りに殺されるのも納得だ。あいつらは間違ってなかった。
だけどサリュたちの、みんなのことを傷付けるから、殺すしかなかったってだけだ。
ああ、そうだ。
だったら、そもそも。
「助けになんて来なくてよかった!!!」
そうじゃねぇか。
それなら、よかったんだ。
「放っておいてくれればよかった! そうすれば、それで終わってた! 連中の狙いは俺で、その俺が殺されて、それで終わりだった!」
図書館が襲われて、絶対に赦せないことだけど。
それでも、それ以上はなかった。
「千雪が来なければ、ヴァンが来なければ! リリーシャも、神守たちも、姉貴も、サリュも! 誰も来なければ、それ以上はなかったんだよ!!!」
だったら、俺は。
俺が――。
「俺が戦う必要なんて、それ以上に苦しむ必要なんて、なかったのに!!!」
なにも知らないままで。或いは、知らされたってほんの少しの間だけで。
こんなに手を汚すことも、鬼に成り果てることもないままに、ただ理不尽を喚いていただけで終われたのに。
無知なままに、在りもしない希望に届かないって縋って、後悔しながら死ねたのに。
なんでこうなったんだ。
どうしてこうなるまで、来てしまったんだ。
「もうなにも要らないんだよ!!!」
続く先になにもないなら。
ただ仮初の幸せ遊戯で、誤魔化すことしか出来ないなら。
こんな辛いことばかりで。
そうでなくとも、怖がってばかりで。
「……ユーマ、落ち着いて。もう大丈夫だから、だからっ」
「違う違う違う違う違う!!! そうじゃねぇんだよ!!!」
ああ、分かってる。
お前にとってはなんの脈絡もないのかもしれない。ただただあの夜のように、血に溺れて呑み込まれて、暴走しているように見えるかもしれない。暴力に侵されて、それでようやく相敵を打倒したんだって、そう捉えたって仕方がない。
だけど違うんだよ。
違うんだよ、サリュ。
「分かんねぇかもしれねぇけどさァ! これは鬼じゃねぇんだよ! ユウマでもねぇんだ! この感情は、この願いは、全部俺のモンなんだよ! 本当の俺の意思なんだよ!」
「鬼じゃ、なくて。……ユウマ、って、ユーマじゃない。あなたの中に、作ったっていう」
「ハハッ、姉貴から聞いたかよ! だったら分かるよなァ! 分かってくれるよなァ! これは俺なんだよ、これが俺なんだよ、サリュ!!!」
「……分から、ないよ。どういうこと、なの?」
「ッ、ハハハ!」
分からない、分からねぇか。
だったら仕方ねぇよなぁ。
分からせるしか、ないよなァ!
「オ、■■■■■■オ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!」
再び右腕を振り上げ、鬼血を凝縮させ、より膨張させる。
今度こそ、防がなければただでは済まないと、反撃しなければならないと、脅威としての力を振るってやる。
それで、お前が殺してくれればいい。
なにも難しくない、それだけの話なんだよ!
「オオオ■■■■オ■■■■■オオ■■■■■■■オ■■■■■■■■!!!」
「……っ!」
今度こそ、サリュは右手を俺へとかざした。
そしてそれを合図に、見覚えのない大きな本が、宙に現れページを捲られ。
直後。
振り上げた右腕を、どころか、左腕までもが。
無数の火矢に撃ち抜かれ、骨も肉もまとめて焼き穿たれていた。
「ッ、ヅヅヅヅヅ!!?」
正確無比に関節を壊され、更には必要以上に筋肉をも焼き切る。鬼血の硬化も膨張もお構いなしに、おまけにこうまでズタズタにされては、強引に繋ぎ合わせて動かすだけというのも許されない。
だらりと垂れ下がる両腕は、一瞬にして、完全に無力化された。
「ヅ、……が」
なんだ、コレは。今まで見てきたサリュの魔法とは、なにかが違っている。
なんの用意も見られず、魔法陣の展開もなく、瞬きの間もなく無数の矢を撃ち込まれた。
あの本だ。手を離れて宙に浮かされ、今も次々とページを捲られている、あの分厚い本が要因だ。
アレによって、サリュの力がなんらかの強化を帯びている。速度や数が、或いは他の全ても、今まで以上のモノに上昇している可能性がある。
だが、それでも。
それなら、尚更に、っ。
「まだ――ッヅ!!!」
熱さも痛みも、振り切る。
右足を踏み出し、距離を詰めにかかって、――それから図書館での鴉魎との戦いや、先刻の魁島の変容さながらに、肩口からボコリと両腕を隆起させた。
今ある腕を使い物にならなくされたなら、使える腕を作り出せば、それで。距離も遠くない、これが続くのであれば、確実な脅威として――。
でも、そんな直情的な攻撃では。
届く筈が――。
「っ、――ガ」
いや、それ以前に。
「ガ、ア■……ァ!!?」
嘔吐する。
競り上がってくる熱い濁流を、溺れないように吐き捨てる。
ベチャリと塊みたいな大粒で足元を汚して、解放された喉で酸素を貪って、……ああ畜生、我慢してれば窒息出来たのにって、後悔した。
そのまま視界も傾いて、平衡感覚を保つことも出来ない。
ふわりと浮遊感に脱力し、慌てて踏み止まろうにも、左の膝がガクリと地に落ちる。
「ぜ、ッ、……ぜ、ァ」
襲い掛かるつもりが、片膝を着かされた。
咄嗟の腕も、失敗に霧散した。
手も足も出ないとは、そのままだ。
こうなっちまったらもう、生かすも殺すも、俺の意思では……。
だったらせめて、このまま無茶をし続けて。
自滅を……。
「ユーマ、っ!?」
「来るな!!!」
「っ」
踏み出した彼女を制する。
その歩み寄りを、拒絶する。
「来るなって言ってるだろうが! なにもするなって、放っておけって、そう言ってんだろうが!!!」
「……でも、それじゃあ」
「それでいいんだよ! そのままでいいんだよ! このまま無茶をするから、それで、時期に限界が来て、終われるから!」
立ち上がろうとする。それだけでブチブチと肉が千切れて、目を焼く程の紫電が散らされる。倒れないようにしているだけで絶えず口元からは鮮血がこぼれて、もう拭うのも馬鹿らしい。
飛びそうな意識も、絶対に手放してやらない。楽になる事は、絶対に許さない。それは本当に終わって、全てから解放された時でいい。
手遅れになる為に。
ここだけは、苦しみ続けろ。
「そうだ、来るんじゃねぇ。……ああ、そうだ。お前が、来なければっ」
その場に立ち尽くし、変わらず本を浮遊させて。
拒絶された右手のひらを、行き場もなく、俺へと伸ばし続けて。
そんな彼女へ、俺は言った。
「そうだ、お前が来なければ! 出会わなければよかったんだ!」
彼女へと、叩き付けた。
「お前が来なければ、なにも始まらなかった! 余計な希望を見せられることも、そもそもが、鬼の血をここまで活性化させることも、なかった筈だ!」
嘘だ。その時は、絶対に来た。
だけどそれはきっと、今よりずっと、遅かった筈で。
少なくとも、こんなタイミングでは、なかった筈で。
「なにが運命の人だ! なにが、だから鬼じゃないだ! 勝手に言ってくれやがって、納得させられた俺も馬鹿だった! ――俺は、鬼なんだよ!!!」
どうしてここまで来たんだ。
こんなところにまで、俺なんかが。
「どう足掻いたって駄目なんだよ! たとえここで許されたって、どうせ潰されるんだよ! 今よりもっと取り返しのつかないことになって、今よりずっと苦しんで、後悔して、最悪な終わりになるんだよ!」
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
「終わらせてくれよ!!!」
もう、嫌なんだ。
「戦っても、苦しんでも、辛くて歯を食い縛っても、また戦って苦しまなきゃいけない! 終わりなんてない! 次に、また次にって、いつまで経っても終わらない! いつまでも戦いばかりで、苦しくて怖くて、辛いことばっかりだ!!!」
それを乗り越えた先に、ナニカがあるってんなら。
傷付かなければなにも得られないっていうなら。
俺はもう、なにも要らない。
「なにも要らない! なにも求めない! だから、全部終わらせてくれよ!!!」
望みはそれだけだ。
頼むよ、なぁ。
「俺を殺してくれ、サリュ!!!」
「――――――――」
目を見開く、サリュに。
今更、気付いた。
なんてこった。
俺は喚き立てるばかりで、ソレを、伝えてなかった。
伝わらないのは当然だ。
言わなきゃいけないのは、ソレだったんだ。
「俺は死にたいんだ!!! 殺して、終わりにしてくれよ……ッ!!!」
血反吐をこぼしながら、懇願する。
きっとなによりも簡単で、一番冴えた選択。
後に待つ尻拭いの必要もなくなれば、暴走という不安もなくなる。面倒なことはなにも残らない、誰もが納得出来る、切実で誠実な道先が開かれる。
この島のこととまとめて、俺のことも摘み取ればいい。
鬼に関する全てを、なにもかも綺麗さっぱり畳んで、後腐れなく次に進んでくれ。
「もう嫌だ。だから、……サリュ」
頼む。
「助けに来てくれたってんなら、もう一つ、――頼むよ」
どうか、俺の為に。
「俺を助けてくれ。殺してくれ」
跪き、俯いて。
彼女に縋る。幕引きを嘆願する。
もうなにも苦しみたくないから、苦しまなくていいように。
――死を。
「――――――――――――――――」
息を呑むのが、聞こえる。
それくらいに、静まり返って、誰も動けない中で。
「――――――――っ」
……それでも、やっぱり。
彼女は、――サリュは、一歩を小さく鳴らして。
「ごめんなさい」
ごめんなさい、ユーマ、――と。
「わたしは絶対に、あなたをここで終わらせないわ」
そう、断言した。
続く一歩が、更に。
俺へと、近付いて、来る。




