第四章【76】「最期の語りを」
幼き日に、一度だけ。
裕馬がこの島を出たあの日より、三年程前の、十代にも満たない頃に。
「弟に会いに行きますか?」
同じく十代前後だった、鴉魎が。
私へと、そんな提案をした。
「……え?」
本当に不意打ちだった。
特に用もなく、ぶらぶらと森の中を歩いていただけで。向かいたい場所に向かえないから、どう進むことも出来ずにうろうろしてただけ。
両親を失って。その上、父の行動があった所為で、弟が囚われていた洞窟に近付くことも許されなくて。
そんな、ただ一人だった私へ、鴉魎が声をかけた。
――今日は自分が見張りだから、上手く目を盗めるんじゃないか、と。
「……なに、を」
「? 言葉通りですが?」
今よりずっと幼い少年は、可愛く首を傾げて。
黒の和装に鞘入りの刀を携え、けれども面を被ることなく、飄々と涼しげな表情をしていた。
なにも特別なことは言っていないと、そんな態度で。
「……そもそも鴉魎が、なんで」
「乙女ちゃん。一応俺の方が年上なのですから、それなりに敬ってほしいのですが」
「いいから答えてよ。准鬼将が、なんで見張りなんて」
当時すでに、その頭角を現して。
准鬼将として面付きを外れた彼は、弟の見張りから除外されていた筈だ。脱走や暴走に際しては呼ばれるも、見張り程度の些事に足を運ぶことはないと。
聞けば彼は、上のミスだと苦笑した。
「どうにも人員の調整に失敗したようで。休暇の見落としと病欠者が重なり、穴が出来たのです。それで修練以外になにもなかった俺に、穴埋めのお声がかかりました」
「……じゃあその上で、どうして私に声をかけるの」
しかも、会いに行くか、なんて。
そんなの、冗談じゃすまない。
けれども鴉魎は訂正しなかった。
言い間違えでもなければ、虚言でもなく、――彼は再度、私に提案した。
「なんとなくですよ。せっかくなので、弟に会いに行きませんか?」
「……貴方は」
「おっと、勘違いはしないで下さいよ。これは提案であって、肩入れではありません」
鴉魎は言った。
自分は見逃すだけだ。何事もなければ何事もなかったと、そう上に伝えるだけだ。片桐の鬼に問題がなければ、なにをするでもなく入口に立って役目を果たす。
しかし問題があれば、それへの対処は必然であり。
痕跡の類によって明らかになれば、例え庇ったとしても、厳罰を免れないのは私だ、と。
「これがバレても精々、俺は評価が下がるくらいでしょう。それなりのものは積んで来ましたし、実力的にも申し分なしです」
「……でも私は違う。最悪、いえ、普通に処罰で殺される可能性の方が、高い」
つまりこれは、ある種の甘言だ。
私は危ない橋を渡るよう、誘われている。
命を懸ければ或いは、……などと。
当時の私はまだ知らなかった。
後に調べることで発覚した故に、今更になってしまうが。
その甘言は、もしかすると。
彼から私への、せめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない。
◆ ◆ ◆
右拳が肉を穿ち、骨を貫く。
その感触は、驚く程に抵抗がなかった。簡単に沈んでしまい、骨だって脆くて、あまりにあっさりと。
もはや、真っ当なものなど残っておらず。
止められない崩壊を、追い付かない治癒で誤魔化して、――ただ、人の形が解けない様に、取り繕っていただけだ。
この男は、とっくの昔に壊されていた。
ああ。
だから、やはり。
「私たちの勝ちだ」
私だけでは勝てなかった。
私だけでは一度負けていた。
私では鬼狩り鴉魎に対し、決して勝つことは出来なかった。
勝てたのは、戦えたのは、鴉魎が鬼の側面でしかなかったからで。
鬼血の優劣において、私が優位に立てていたというだけで。
間違えない。
特級に匹敵するといわれる鬼将、鴉魎を打ち倒したのは、――千雪とヴァンだ。
彼女らが鬼将を追い詰め、私が鬼を終わらせた。
私たちはそれぞれ、別の脅威と戦った果てに。
この結末へと。
繋がれた先へと、辿り至ったんだ。
「――は、」
喉を晒し。鴉魎は呼吸と共に、ドロリと血をこぼす。
果たしてこれだけで終わらせることが出来るのか、俄かに残った不安は、けれども。
やがて、奔る紫電が緩やかに収まり。
その身体は傷を塞がずに、伝う血を拭い去ることもなく。
「……俺の負け、ですね」
彼は、そう呟き。
僅かな退きの後に、脱力して跪いた。
「…………」
私もまた後退し、彼の姿を見下ろすが、……この手が胸部に開いた穴は、塞がれることはない。致命傷は致命傷のままに残されて、その通りに彼を蝕んでいく。
避けられない終わりへと、誘っていく。
「……死は平等だな」
異形である私たちには、……殊更、不死に近しい生命力を持った鬼には、幾分か遠くに位置するものだが。
直面してしまえば、どうにもすることは出来ない。行き着いてしまえば、逃れる術はない。
鴉魎はそれを、血反吐と共に笑い捨てた。
「なにを、当たり前なことを。……だから、俺たちは、懸命に生きている、のでしょう?」
「そうだな。――そしてコレが、お前が懸命に生きた結末か?」
「……そう、なりますね」
「詳しく聞きたいところだが、もう長くは持たないか。だが無茶を通して話して貰う。構わないな?」
「……フ。詳細は、かの騎士や皇子様に、お尋ね下さい。大凡、全ての事情を伝えて、あります」
「ならそうしよう」
だとしても、静かに見送る訳にはいかない。
悪いが事情以外にも、聞きたいことはあるのだから。
「では鴉魎。お前について聞かせろ」
「……酷いですね、乙女ちゃん」
「なに、死出の道行きに、自身を振り返って貰うだけだ。走馬灯を聞かせろと、そういうことだよ」
「それこそ、触れないで貰いたい、ものだが」
「必要だ」
私はそう訴えた。
死に逝く彼に、交渉などなんの意味も成さない。彼の最後に私があげられるものなど、有りはしない。
だから必要だと、それだけを伝えた。
「頼む」
彼へと頼み、願った。
後に、なにが起こっているのかを知れるのならば。
どうして、起ったのかを。
「教えてくれ鴉魎。その懸命とやらの先に、――お前はどうして、ここに至った?」
私たちを襲い、裕馬を捕え、この島を戦場にして。
もはや明白に、異国の者とまで手を結ぶ程の規模にまで膨らませて。
そうまでして、なにを狙っていたのか。
どうしてこうまで、大事をしでかす必要があったのか。
「……まったく。こう見えて、俺は、頼み事には弱いのですよ」
「そうだったのか」
「ええ。……知って言ったのかと、ズルい子だと、思いましたが。思えばあの時、貴女にそんな余裕はなかったですね」
大きく肩を落として。
やがて俯いたままに、虚ろにどこか遠くを見下ろして。
バチリと、喉元に微かな紫電が明滅する。
大袈裟でない治癒は、ほんの僅かな時間を引き延ばすが限界だ。
そして、その僅かな時を。
「なんてことはありませんよ」
鴉魎は――。
「俺はただ、――正しく最高を使いたかった」
それだけです、と。
そう、言葉をこぼした。