第四章【75】「唯一の得手」
全ては仕方がなかったことだ。
それは、物心が付いてすぐの頃で。
思い出なんて呼べるほどに、明確な光景を覚えてはいないけれど。
私は、記憶していた。
今日まで忘れることはなかった。
「弟が出来るんだよ。つまり乙女は、お姉ちゃんになるってこと」
母は、そう言って笑っていた。
もう顔も朧気で、写真とかも全部残っていなかったから、どんな人だったか分からないけど。それでも、よく笑っていた温かな母親だったことは忘れない。
四人家族になるんだって。
きっと賑やかで楽しくなるんだって、笑ってた。
そう言っていた母が、一番最初に居なくなった。
弟を産んで、力尽きてしまった。
難産だったことに加えて、死に近付いた赤ん坊が、牙を剥いて。
内側から、酷い有様にされたって、そう聞かされている。
その後、すぐに。
なにも知らなかった私に、父が言った。
必死で口元を緩めながら、懸命に口角を吊り上げながら。
深く深く眉を寄せて、いっぱいいっぱいに抑えきれない涙を、ずっとずっと流して。
「乙女。元気に、な」
私をぎゅっと、痛いくらいに抱きしめながら。
震える声で、言い残した。
「もしも、父さんが、駄目だったら……」
その時は、乙女が。
その時は、お姉ちゃんであるお前が。
――あの子を、終わらせてやってくれ。
それで、父も居なくなった。
生まれる際に、生み親を殺める程の暴力性を宿した子を。そこまでの鬼の側面を宿した子を、自ら討伐しようとして。規律に反し、制止に耳を傾けることもなく、暴走状態に陥ってまで。
失敗作でありながら貴重なケースであると、有用であると。
そんな方針に反旗を翻して……。
当然に、組織によって処断された。誰もが想像に難くない、待ち受けたままの制裁を受けた。
殺されてしまった。
「――――」
そんな父を、馬鹿だと思ってしまうことはあるけれど。
生憎と、人でなしと思ったことはなかった。
当たり前だ。苦悩がなかった筈がない。
母が命を懸けて産み残した我が子を、殺してやるのが一番マシだなんて、簡単に呑み込める話じゃない。
それでも、一生囚われたままだというなら。
閉じ込められて利用されて、役割が終われば捨てられるだけの、そんな人生しか与えられないなら。
親として、終わらせてやるのが優しさだと。
そう思い至ることは悲しいけれど、きっと、十分に真っ当な範疇だと思う。
父は裕馬の為に戦って死んだ。
これはそういう話だ。
果たして、母が生きていたなら。
母ならば父の行動を止めていただろうか。そんな裕馬を、それでも生きていてほしいと庇っただろうか。いつかは解放されるかもしれないと、近しく家族になれるだろうと、希望を語って示してくれたのだろうか。
正直、うろ覚えの印象では、肯定も否定も出来ず。
それでも父と母の二人だったら、今とは、ずっと違った……。
「なん、て」
なんて、考えたところで変わらない。
なにも変わりはしない。
母は死んだ。父は殺された。
つくづく、最初から最後まで馬鹿げた話だ。
ただ母親が責務を全うして、ただ赤ん坊が生存の本能に従って。顔を泣き腫らした父親は、そんな我が子を殺めようとして組織に殺された。
冗談みたいな悲劇。片桐家というのは、どれ程の業を背負わされていたのか。
残念ながら調べた限りでは、祖父祖母やそれ以前の代には、なにも起ってはいない。凡作の半妖を産み続けた、長く面付きを余儀なくされてきた、少し普通を外れただけの鬼狩りの家系だ。
因果関係など有りはしない。
私たちはただ偶発的に、理不尽極まりない運命的に、――かの大妖怪の言葉を借りるのであれば、不幸にも。
私たち、今代の片桐は。
新たな男児の出生をきっかけに、なにもかもが壊れてしまった。
それが現実だ。
「――――は」
私も出来た人間じゃないから。
時折思い詰めてしまう時には、全て弟の所為だと、そう吐き捨ててしまうこともある。この愚弟さえ大人しくしていたなら、……生まれてこなかったら、と。
そんな自分を未熟だと思うし、姉としても最低だと思う。
けれども、そう憤ることも仕方がないと、諦めという形で肯定して慰めてやっていたりもする。
そんなところも、我ながら呆れるが。
でも、本当に仕方がなくて。
同じように、彼も。
――彼、だって。
当時若くして、目ぼしい実戦経験になると駆り出されてしまった。離反者を潰し力を示せと、ただ命令に従っただけで。
思えば被害者的な立ち位置でも考えられてしまう、幼き日の彼を――。
父を奪った、鴉魎を。
仕方がないと分かっていながら、それでも。
殺してやりたいと思うのも、また、仕方がないじゃないか。
◇ ◇ ◇
ああ、憎んでいるさ
「憎いに決まっているだろう」
殺してやりたいと。潰してやりたいと。
この手で父の仇を、私からあの人を奪った恨みを、清算させてやると。
この機会に立ち会えたことを、思わず感謝してしまう程に。
それだけの憎しみを抱いていたって、間違っていないだろう?
「お門違いだなどとは、言わないだろう――ッツ!!!」
「ええ、最もですよ――ヅヅヅ!!!」
血反吐を散らし、骨を軋ませ、激痛を噛み締め。
接敵へ、最終局面へと鍔迫り合う。
零距離間近。
懐へと踏み入る私へ、鴉魎は。
「鬼血ヅ!!!」
左右背後より。
作られた血の刃を、この身へと振りかざした。
だけではない。
刹那。
視界の端で翻った長刀が、音も斬線をも置き去りに、前のめりになったこの首へと振り抜かれた。
総数五斬が、重なる。
刀剣の横薙ぎを一番に、傾き首元へ迫る血の二刀。残りは直下に、肩口へ目掛け落とされる。
恐らくは、硬化を突破するに余りある斬撃。受ければ頭部や両腕を初め、幾分にも別たれることに。致命傷は終わりでなくとも、攻め手を大きく削がれ、勝機を逸らされる。
「――――ッ!」
だが、ここで引く手はない。
及び腰に退くことなど、ありはしない。
それに、その斬撃の群を。
まともに受けてやるつもりも、毛頭ないのだからッ!
「――鬼血、ッ」
私もまた、自身の血へと囁き命ずる。
否、正確には。
潜ませ用意させていた、ソレを。
詰めの一手に、炸裂させる――ッ!!!
瞬間、バツン、と。
迫り来る目前の血の刃らが、破音と共に飛沫へ解かれた。
加えて、立ち塞がる鴉魎そのものも、同様に。
「ご、――ヅ!!?」
目を剥き、歯噛みし口元を縛るも。
胸部や腹部、肩口が小さく弾け、なによりも、――刀剣を携えた右腕が、多くの血を散らして力を奪われた。
鈍い、金属音と共に。
握り振るっていた、今一度赤黒く変色した刃を、取りこぼしてしまう程に。
「コレ、は――ヅ」
「まぁ、――お互い様だよ」
遅れて、私自身も。
全身細かく外皮が弾け、幾つもの鮮血を散らさせた。
まるで流水の通った管が、破裂し穴を開かれたように。――いいや、例えでなくそのように。内側より外界への入り口を、力尽くに開かれて。
血管や筋肉を、極細の針によって撃ち抜かれ。
私の作り出した、私の血による攻撃によって、互いに身体が炸裂したのだ。
「ご、ぁ……」
寸前にして。
相敵の刃を止めるも、この足すら倒れないようにと、強く踏み止まってしまった。
なるほど、血の操作とは難しい。
結局塩梅が分からないと、必要にだけは足りるようにと、過剰な程に炸裂させてしまった。
何処にあるのかも、誰に影響するのかも、不明瞭なままに。
だから自分も諸共に、私の血は、必要十分に暴れ破壊を発現させた。
私の血とはすなわち、微量でありながらも、触手や血棘を通して喰らった鴉魎へも。
動かす為にと血を巡らせた右腕や、生存を繋ぐべくして流送された急所の臓器などは、殊更明確に。
私の鬼血は、その牙を剥き。
尖針によって、ズタズタにしてやった。
「――ハッ」
そして、互いに傷付いたならば。
双方が攻撃を収める程に、大きく削がれた状況へ陥ったならば。
血に宿る、治癒力の差を以ってして。
私は、鴉魎を上回ることが出来る!
「ッ、ヅヅ!!!」
目を見開く。
互いの血の雫と、迸り明滅する紫電に纏われた、この近接した空間の中。
次手を先んじるのは、紛れもなく。
その次手への抵抗すらも、消耗を見れば、……もう。
肩を落とし、両腕をだらりと下げた鬼将は。
足元へと転がった白刃に視線を俯かせ、……それからゆっくりと、顔を起こして。
再び、向かい合い。
「…………ああ」
と。
先刻から、図書館から、それより前の頃からも。
見慣れていた、柔和を取り繕った笑みを浮かべて――。
だけど、いつもより、何処か。
安堵を含んだ緩みを帯びていたのは、きっと、勘違いじゃない。
「鴉魎」
彼へと踏み入る。
手を伸ばせば簡単に触れられる、この距離で。
態勢を低く構える。
手のひらを、その五本の指を閉じて、力強く握り締め、――赤黒く覆い硬化させた、右拳を。
「私たちの、勝ちだ」
私は、無防備となった彼へと。
最後の一撃を、突き出し叩き込んだ。