第四章【74】「冷たい鬼」
阻んでいた妨害の障壁は突破された。
手遅れになる前に、今この最後の時に立ち会わせている。
状況は海の向こう側。下手に持ち場を離れることも許されず、ただ遠くから全てを命運に委ねることしか出来ない。
などと、ここに来て、そんな無責任な賭け事は許されなくなった。
私もまた、この分岐点に。
私の選択が、行いが、戦いが、先の結末を大きく別つ。
舞台は整えられた。
私の望まぬ方向へと、望む形で積み上げられた。
逃げるな。目を背けるな。正しくあの日をやり直せ。
失敗を想定に含めて、物分かりのいい自分を用意するな。
絶対に成功させる。
今度こそあの子を、――裕馬を。
「…………」
日本屋敷の大広間。
木壁や天井が開かれ、氷壁が築かれ、足元すらをも氷面が覆う。砕かれ、荒らされ、残された血濡れの傷跡らは、先刻までの戦いの苛烈さを示している。
手を膝を着き、項垂れ、立ち上がることも出来ない千雪や。
右腕を失い、崩れ落ちたヴァンの姿を見るにも、明らかに。
なによりも、氷獄に覆い閉ざされた。
半身を欠けさせた彼の、――鴉魎の消耗を見れば。
彼女らがどれ程の困難に立ち向かい、その先へと至ったのか。それがなんて、荒唐無稽な無理難題を、無茶で通したのか。
想像に難くない。
「……ありがとう」
本当に、それ以上の言葉がない。
思うところもあっただろう。個々に別の狙いも、含んでいて当然だろう。
彼女らは彼女らの意図や意志を貫くために戦ったんだ。それは、分かっている。
それでも、ありがとう、だ。
「最後の一押し、受け持った」
美味しいとこ取り、とは言われまい。
遅ればせながら、これ程の好条件を渡されたとて、無傷で終われる相手ではないのだから。
「――ッツ!!!」
そして、私は一足に。
氷面を踏み締め、満身創痍の鬼狩りへと飛び出した!
真っ向勝負。
半身を失い血肉を散らせて、頭部までも欠かれた状態から、それでも治癒され身体を取り戻した鴉魎。ギョロリと見開かれた右の白眼と、未だ紫電を残す赤黒い左眼が私を射抜く。
見る限りに、五体満足。
これが万全であるならば、変わりなく、鴉魎は絶対的な障害となり、私は難なく打ちのめされて終わりを迎えるだろう。図書館の時と同じように、下手な抵抗も届かぬままに、斬り伏せられるが必然だ。
だが、彼には未だ、額から頬を伝う血の筋が。
足元にこぼれる大粒の雫も、止めどなく流れ続けている。
「……ふ、む」
か細い吐息。
カチリと音を立てる白刃の刀剣は、けれども握り携えた右腕の震えで宙を定まらない。一方の左腕も動くことなく、繋がり重く下げられたままに。
明滅を続ける紫電は、尚も懸命に、しかし幾らか緩慢な治癒を示している。
万全には遠く。
更には振り払いながらも、細部や足元を氷に囚われて。縫い付けられた状態では、後退することもままならない。
勝機は明らかに、こちらに傾いている!
「――ッ!!!」
鬼血による外皮の硬化を。
既に昂っていた血を活性化させ、鼓動を加速し、情動をも苛烈に熱する。内より出でる純然たる暴力性を、躊躇うことなく解き放つ。
バキリと、割れるような頭痛に並行して、額に表れる異物感。二角の現出は、鬼の領域への深みに他ならない。
それでいい。
今はただこの男を、この外敵を殺し尽くすことだけで――ッツツ!!!
だが生憎と。
万全でなくとも、易々と死んでくれる相手ではない。
「――お、オオ、■■オオ■■オオ■オ」
低く唸り、それに呼応されて。
鴉魎は背後より、腹部より、鮮血を飛び散らせ――。
外皮を自ら喰い破り、奥より。
複数の触手じみた口部を、踊り出でさせた。
「……我ながら、悍まシい化物の、様ですガ」
「違いない。我々鬼とは、化物だよ――ッ!」
臆することはしない。
私は前のめりのままに、剥き出しの牙らへと踏み入り、この手を振るった。
「――――!!!」
開かれた口部へと拳を叩き付け、側面より管を引き千切り、左右へ身躱し後より切断する。回避が出来ても無事には逃さず、喰らいつき牙を突き立てたモノも全て、ことごとくを潰し壊す。
縦横無尽に駆け巡るソレは、鴉魎によって作られた不定形の触手だ。見逃せば突如として変容される恐れは、決して看過することが出来ない。
加えて後方にはヴァンや、もはや死に体となった鬼狩りたちが転がっている。
それらを捕食されることもまた、避けるべき事柄だ。
対応すれば当然に、彼に回復させる時間を与えてしまうが。
深手を負わされればご破算になり、捕食をされても治癒の短縮に繋がる。まったくよく出来たことに、コレは対応しなければいけない攻撃だ。
だがそれ故に、有利もまた確定的なものになる。
鴉魎は今、大きく疲弊している。
「お、オ――あアアッツツ!!!」
肉を、血流を散々に巻き捨て、踏ん張りを利かせ前進を続ける。
気付けば着古し緩んだスーツは、惜しむ間もなく裂かれ散らされた。シャツもズタズタに、しかし肌やらの露出を覆う程に、真っ赤な色が付着し染み込む。
嫌悪以上に、比例する痛みが、視界がブレる程の衝撃が襲い来る。
それでも転がることはなく、二度、三度と。
幾度でも鴉魎へと飛び出し、距離を詰めていく。
今しかないのだと。
この側面の鴉魎でなければ、私には勝てないのだと。
「鴉魎の鬼よ!!!」
攻撃のさなか。
私は声を上げ、彼へと突き付ける。
「お前は、――優れた鬼ではない!!!」
それは最早、疑念ですらなかった。
答え合わせであり、ある種、図星を叩き動揺を誘う攻撃。
私は明白となったその事実を、彼へと叫んだ。
「確かに最強の鬼狩りに違いない。鬼将の名に恥じず、歴代最高とまで言われるお前は、まさしく特級と呼ばれる位に相応しき戦士だろう」
「――――」
「だが、お前という個人の内側において、――お前の鬼の血は、間違いなく弱い部類だ!」
これまでも、その推測がなかった訳ではない。
幼い頃よりずっと、冷静沈着に落ち着いた佇まい。尖れた殺意にも、一切の荒さは含まれない。
先刻の対峙や、今この時でさえも、押し潰すような暴力性が薄過ぎる。
生命の危機に瀕し、こうして捕食を剥き出しに変容して、尚も。
人間としての理性的な面が、あまりに保たれ過ぎている。
「私もまた落ち着いた部類だが、それはあくまで、感情を殺意へ誘導しているに過ぎない。お前を殺すに熱さは邪魔だと、怒りは潜めねば殺せないと、そう納得させているだけだ」
多くの鬼狩りがそのように、自身の鬼を抑制する。暴力的な加虐性を呑み込む。
だから鴉魎も例に漏れることなく、そうした制御の上に成り立っているのだと、そう考えていた。
でも違う。
これは、そうじゃない。
「鴉魎、お前は――」
この男は、流れる鬼の血が弱いんだ。
だから治癒が遅く。
だから大きな欠損に対して、他者の血肉を必要とした。
もう少し早く間に合っていれば、或いは、そのまま力尽きていた可能性すらも。
いや、今からでも、十分に――。
「――殺せる」
間もなく、手の届く範囲へと。
そうだ。
鬼としての力比べであれば、私の方が得手に立つ。
「ッ、がァ!」
苛烈さを増す牙の応酬が、肩を腹部を喰らい穿つ。この全身を阻み、痛みを以って押し戻さんとする。
しかし深く骨ごと喰い千切るその口部を、すかさず爪で切り落とす。管を断ち切り、奪われた血肉を一滴たりとも、ヤツに届かせはしない。
気付けば私も含め、一帯は紫電が埋め尽くし。
死を拒絶する悍ましき怪異が、加えて標的の生命に手をかける。
血は生存を、意志は願いを渇望して。
この牙を爪を突き立て、――殺し合う。
「あ、アア、がアアアヅツツ!」
殺す。
奪う。
壊す。
死ね。
死ね死ね死ね。
死ね死ね死ね死ね死ね、死ね死ネ死ね死ネ■ネ■ネ■□■■■■■。
だ■■、こ■。
――だから、こそ。
「ヅ、ヅヅヅヅヅ!!!」
その為に、冷たく研ぎ澄ませ!
思考の先に勝ちを掴み取れ!!!
直後、感覚が警鐘を鳴らす。
反転して振り返れば、後方より間一髪に。
「――ッヅ!!?」
頬を裂く、一矢。
続け様に止めどなく、真っ赤な血の矢が貫き注がれる。
潰し散らせていた触手の再利用か。
霧散された小粒も束ねれば、返す刃には十分過ぎると。
「アッヅヅ!!!」
鬼血による硬化を最大に。筋力や動力に回された血の全てを、突き出し交差した両腕と、前面胸部や腹部への防御に。
乱れ撃つ刺突へと、なんとか踏み止まり受け切る。
だが外皮を削り、やがては貫通する礫を止められない。
重ねてこの身を突破するは即ち、そのまま勢いを殺すことなく、削り奪った血肉ごと鴉魎の身体へと到達することに――。
「小癪、な――ッ!」
ならば、受け切るなどとは考えるな。
再度振り向き転換し、ヤツへと爪先を切り返す。
すればそのタイミングで、バギリ、と。
視界に捉えた、鴉魎の姿が傾いた。
氷を砕き解放された右足を、大きく踏み出していた。
更には彼の背後左右へと、密集し形作られる血の刃が現れ――。
早くも攻勢に移れる程に、――いいや、違う。
無理やり攻めへと転じている。間に合わないならと、殊更治癒を停滞させるも構わず、血を攻撃へ回している。
無茶に次ぐ無茶は、相応の障害と成り得るが。
渾身のそれを突破すれば、全てを終わらせられるということだ!
「鴉、――魎ッッッツツツ!!!」
そして、――接敵の際に。
「――俺が憎いですか、片桐乙女」
鴉魎はそう、私へと囁いた。
「――――――――」
憎いか、か。
ああ、そんなの。
「決まっている」
散々言い捨てた私への、彼なりの意趣返しか。
そんなの、聞くまでもない癖に。
「憎いに決まっているだろう」
私たちの父を殺した、お前を。
欠片も憎まずにいられる筈が、ないだろう。