第四章【65】「第一級騎士 ヴァン・レオンハート」
だが、――それが。
それが、どうしたというのか。
「……ッ」
衝撃に、痛みに、戦いの余波に晒され、朦朧と淀んでいた意識を引き戻す。
大きく息をこぼせば、戦況に被さる形で薄っすらと、視界に白い吐息の幕がかかった。合わせて今更に、取り除かれていた筈の寒さを覚え、なるほど気を強く持たねばと改め構える。
どうやら彼女には、こちらの温度を慮る猶予は失われたらしい。
やはり事態は刻一刻と、我々の優位を崩されている。
「……ふ――ッ」
両手で握り締め、切っ先を持ち上げた聖なる大剣。
未だ輝きを失わぬ両刃は、疲弊したこの身には重過ぎる。そうでなくとも、僕には到底余り過ぎる力だ。
とはいえ今この時も、これまでも。
手放してしまえる程に、持たずして強さを保てる程の自分も持ち得ず。
故にこの力を携え、纏わせたままに。
状況の、把握を。
「――――」
鬼将、鴉魎は周囲に血の刃を展開させる。
取り囲む氷像らをことごとく斬り伏せ、無力化せしめるに十分過ぎる力。首や胴を絶つ巨大な刃から、自傷に使われる小さな斬撃、目に見えない細やかな粒に至るまで、ヤツの血は自在に形を変化させて対象を斬り裂く。
恐らくは森での対峙の際、この身の鎧を瞬く間に砕いたのはその血だ。まさか聖剣の一撃を受け止められたのも、無関係ではないのかもしれない。今程も、硬化させた黒刀によって大剣に真正面から鍔迫り合わせた。
鬼血。
変容自在、頑丈にして鋭利。使い手の技量も含め、紛れもなく特級に相違ない、圧倒的な力を誇示する。
その中で、どうにも気付いたのは。
「……治癒が」
鴉魎は、傷口や自ら絶った手足の再生が、――遅い。
今もまた、氷に侵された左腕を肘下から切断し、すぐさま紫電が迸り治癒が施されているが。……ものの数秒、十秒とはかからないが、記憶にある片桐裕馬の再生よりも遅い。
だけでなく、先程打ち合っていた魁島鍛治にも劣るか。治癒速度が、彼らのものより遅く緩慢だ。
部位を失って尚、元通りとなるソレは、変わることのない脅威に違いないが。
ヤツの治癒力そのものは、他に比べて優れてはいない。
もっとも、なんの楽観にもならず。
未だ自傷を除き攻撃の通っていない相手へ、この先に有効打を届かせたところで、塞がれてしまうという事実はなにも変わらない。
対して、涼山千雪は。
未だ十数体の氷像を展開させ続け、氷塊や氷樹による猛撃を絶やさない。
繰り出される氷撃の威力は当然、砕かれた破片や空間そのものまでもが標的を凍えさせている。砕氷の欠片が頬や手足に触れるだけで、その部位はたちまち零度へ。鴉魎はそこに立つだけで、肌から氷の侵蝕に晒されている。
血の再生を以ってして自傷を続けていなければ、たちまち全身の活動を閉じられてお終いだ。すなわち現状、常に死と隣り合わせにあるのは、鴉魎であるとすらいえるだろう。
しかし、涼山千雪の力は有限だ。
遠目に捉える氷像らの表情は、キツく睨みを効かせて殺意を奔らせながら、……けれども、苦悶の色を滲ませる。想定の通り、いいや或いは、想定以上に厳しいか。
やがての自壊は遠くない、間もなく押し負ける。
「では、僕は」
傍観に徹するなど、愚策も愚策。
飛び入れ、斬り込め。例え何度挫かれようとも、五体を落とされようとも、命ある限り喰らい付き続けろ。刻一刻と遠ざかっていく勝機を、是が非でも逃すな。
それしかない。考えを切り替えろ。
立ち塞がり守る必要などなかった。壊されそれでも造られ立ち上がり続ける氷像たちを、庇う必要など有りはしないのだ。
共闘ではなく、共攻を仕掛けろ。
打ち合わせの猶予などない。互いが全力をぶつけ続け、その先になんとか、ヤツを上回る一手へと辿り着け。
それだけが、極小の勝機を掴み取る、たった一つの最善だ!
「セーラ。もしも、……、……」
『えっ』
僕は最後に、傍らの彼女へソレを耳打ちした。
考え得る限りの、僕が持つ最大の策を。
そして、いざ再び。
「――聖剣よ、輝きを示せ!」
号令に応じ煌々と、より強く眩しさを増した聖なる大剣。
その切っ先をヤツへと向けて、――僕は、叫ぶ!
「放たれよ極光! キャリバァァァアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
空間を抉り、冷気を貫き、滞留する血の粒らをも諸共に。
一閃。
束ねた輝きの極光が、真っ直ぐ全てを塗り潰す!!!
側面よりの強襲は、その大刃を四つ回り程に膨れ上がらせて余りある。
旋風を巻き起こし直進する光の奔流は、しかして、大広間の壁を押し潰し貫通せしめた。
だが、予想の通りに標的への直撃はない。
鴉魎は直前で後退し、彼を取り囲んでいた氷像らも身を引き回避した。幾体かはヤツをその場に縫い留めようと覆い被さったが、それらは無為に散らされ、光の中に呑まれて消えた。
生憎と、不意を突けるような大人しさはない。
それ故に、無視出来ぬ破壊を以って、拮抗を解き状況を大きく乱させた。
暫し、互いに距離を開かれた鴉魎と氷像ら。
その僅かな戦いの合間へと、――踏み出し、跳躍を。
一足で、再び戦況へと。
ヤツの目前へと、刃を振るいて躍り入る!
「あア――ッツ!!!」
距離を詰め、輝きを灯した大刃を下ろす。
対象の左肩から右の脇腹へと、斜めに叩き付ける渾身の斬線。通常の人体であれば致命傷は確実に、鬼の血を持つ身であったとしても、深みへ届かせれば易々とは立ち直れない筈だ。
しかし、斬り入れられない。
鴉魎は僅かに上体を引き、右手の刃をだらりと下げたままに、我が斬撃を弾き退けた。
残響する金属音や伝わる重い感触は、またしても、刀を振るわずとも鬼の血によって防がれた。睨む先には解かれ散らされた血の雫らと、向こう側、――僅かに口角を上げた、冷たい面貌がある。
再度、下ろした両刃を振り上げ強襲するも、またもや硬い手応えに阻まれ。
どころか鴉魎は、直後、背面へと振り返り、不意打ちに迫った三つの氷像や十数の氷塊らを、その右手の刀剣を振るい斬り伏せた。
「――――」
ああ。
それは、なんという――。
なんという、好都合か!
「セーラァアア!」
命ずる。
より強力な輝きを聖剣へと纏わせ、続く斬撃に更なる力を。高慢にも見せつけられた背面へと、容赦なく斬りかかる!
しかしそれもまた、右方からの血の強襲によって弾かれる。
十弱、振るわれた鬼血の打撃が、この身を叩き追撃を中断させた。腕を、脚を、胴体を打ち貫く衝撃が、内側にも容易に届かされ、血反吐を散らして転がされる。
「ガ、……――ヅツ!」
一転、二転。
四つ這いの無様を晒しながらも、すぐさま立ち上がり再度飛び入ろうとして、――だが右足を膝立てた途端、頭部を打突が襲った。脳を震わされ視界が明滅し、それでも顎を引き視線を戻せば、――続けざまに無数の赤い針が、全身へと伸び突き立てられた。
「ゴ――」
喉元や心臓や、急所を避けて。
ただ痛めつけ動きを阻害する為だけに振るわれた、一ミリにも満たない穴を穿つ針たち。何十、それとも何百だったのか。もはや視認が及ばず、全身隈なく痛みと熱に襲われては、感覚によっての判別も出来ない。
霞む視界で、やはり鴉魎はこちらに目もくれず、氷像らを打ち砕く。その刀剣を、滞留させた血の流体を振るい、何事もなかったかのように雪女への対応に注力する。
だから、まだだ。
僕は即座に立ち上がり、――刹那、向かい来る三つの赤い流撃を、大刃を振るい弾き退けた。続く無数の赤棘や斬撃の礫らも全て、斬り伏せ、或いは受け切り、血を吐き捨てて前進する。
そうして再び距離を詰め、ヤツへと刃を届かせ振り下ろす。
さなか、聖剣を握り締めた手の甲に、自身の腕に、――少なくはない氷の侵蝕を捉えながら。
「ッ、――ハアアアアッ!!!」
ああ、それでいい涼山千雪。
それでこそだと、未だ崩れず攻撃を続けるッ!!!
何度転がり這いばいになろうとも、脚を挫かれ膝を付こうとも、腕や胸部を打ち付けられようとも、肩口を脇腹を深く斬り入れられようとも、血を撒き呼吸を阻害され意識を飛ばされそうになっても。
それでも立ち上がる。この剣を振り続ける。阻まれる血の障壁へと、幾度となく叩き込み続ける。喰らい付き続ける。
いつかこの剣が届く、その瞬間へ辿り着く為に。
僕でなくとも彼女が、その瞬間へと至る為に。
殺さないというなら、いいだろう。
存分にこの命、使い尽くして追い縋ってやる!!!
「――よくやるものです」
それでようやく、鴉魎は。
未だ背を向けたままに、それでも僅かにこちらを窺い、言葉をこぼした。
「貴方では俺には及ばない。しかし諦めないのは、――騎士の忠義というモノでしょうか?」
「ああ、そうとも」
即答し、今一度防がれるも、刃を振るう。
忠義だけではない。
だが、使命感や責任感、誇り。それらが欠けていたなら、僕は挫けてしまっていただろう。こんなにも懸命に、浅ましくも足掻き続けはしなかっただろう。ここに至るまでもなく、既にどこかで折れてしまっていたに違いない。
だが、騎士であったが故に。
虚飾によって作られた地盤が、僕を未だに踏み止まらせるのだ。
折れてなるモノかと。
身の丈に合わない虚勢を、通し続けられるのだ。
「まったく、恵まれているッ!!!」
上には上があり、下には下がある。
能力、環境、貧富。そんなものの格差など、優劣など、語り出せばキリがない。
それは、どう足掻こうとも存在し、如何にしても引き剥がすことの出来ないモノ――即ち、自分自身を構成するに切り離せない要素。
どれだけ忌まわしくとも共生を余儀なくされる、心臓や脳に等しい、致命的な因子。
残念ながら、第一級の騎士へ至った僕は。
第二級以下の戦士たちを遥かに上回るモノを与えられ、……特級程に優れたモノを与えられなかったのだ。
それが事実であり、それが揺るぎようのない僕だ。
才能だけでも届かず、名家に生まれても足りず、幼き日より多くの時間を費やしても、最高の妖精に巡り合えて尚も、手の届かない高みがある。
僕にはそれがあまりにも悔しくて、理不尽に思えて仕方がない。
ああ、けれど。
僕は自分を恵まれているとも思っている。僕はとても幸運で、神に愛されていると。なるほど他者より多くのものを与えられ、裕福に育てられ、選ばれし高みへと辿り着いた、と。
妬み嫉みは当然だ。汗にまみれた努力も、血を流すような修練も、羨ましく思われて然るべきだ。
なにしろそれらの困難さえも、彼らには欲して止まないものであろうから。誰だって血を吐いた先に頂があるなら、それだけの才が目に見えて自身に宿っているなら、喜んで身を削りたい筈なのだから。
だから僕は、十分に恵まれている。
誰もが羨む才能と環境を与えられ、持たざる者が夢見る程の、困難と成長を乗り越えて来た。
にも関わらず、この劣等感と焦燥感は、……まったく。
我ながら、本当に馬鹿らしく不幸な話だが――。
この劣等感や焦燥感を抱くような、愚かしさの極まる『精神性』こそが。
自らの恵まれたという幸福感を狭めてしまっている、最も致命的な自分なのだろう。
けれどきっと、その精神性も持ち合わせていなければ、ここまで来られることもなかった
そう思うと本当に、運命とはままならないものだ。
ああ、そうだとも。
運命とは、ままならないんだ。
だからもう、深く悩むのはやめた。
自分を変えなければならない、などと、そんな風に思っていたこともあったが――それもいつしかやめてしまっていた。
だって、意味がない。
だって僕は、どう足掻いたって恵まれた第一級の騎士様ってヤツで。
どれだけ宥めてやっても、特級に至れない自分ってヤツに、我慢がならないのだから。
「……折れないぞ、鴉魎」
僕では敵わない? ――だからどうしたんだ。
僕では至れない? ――でも諦めなんてしない。
忠告ご苦労。
だが納得はしないし、この身を引くことも絶対に有り得ない。
「関係ないんだよ」
上下だの、格差だの、持つ者持たざる者だの。
強さと弱さだの、相性だの、敵う敵わないだの。
そんなどうしようもない話は、全部分かった上で。
それでも僕には、関係ないんだよ――!!!
「僕はお前に挑み続ける!」
否――言ってやろう。
「――僕はここで、お前を殺す!!!」
劣っていることは百も承知。
天と地に等しい力量の差も、全て熟知した上で、それでも!
「僕はお前を、上回ることなく、それでも勝つ!!!」
そうだ、そうだとも!
今この状況は、それが出来るのだから!
「僕だけでは不可能であっても、勝つんだ!!!」
そして僕は、この大剣をヤツへと突き出し、――左肩を血の閃で撃ち抜かれるも、握り締めていたその手のひらを解かれようとも、残る右腕だけで支え続け、鴉魎へと切っ先を伸ばし……。
この輝きを、この力を、僕の剣を、ヤツの額へと届かせ――。
「――では、その献身をここで絶ちましょう」
寸前、刹那に。
鴉魎の身体が、反転し。
遅れて、周囲へ迫っていた氷像や氷塊が全て砕き割られ、この時、数秒にも満たない猶予が、作り出され……。
それで十分。
突き出した聖剣を握り締める、残された、この右手を――その根本を絶つには、あまりにも十分過ぎる間だった。
「――――か、」
この目に映り視認出来たのは、振り向いた後。
既に事を終えた刃が、ゆらりと下ろされて……。
僕のこの、振るった腕にも。
握り閉じた先に感じていた筈の、余りある重みが、すっと、奪われてしまって。
聖剣がこぼれ、落とされる。
「――――――――」
解かれていく五本の指は、もう閉じられない。神経も肉も骨も繋がらないソレは、もう僕の一部ではない。
欠け落ちたその光景に、僕は。
この絶ち切られた未来を、僕は――。
「――――――――ッツツ」
勝機に変える。
否。
これこそが、――勝機だ!
「セーラ」
先んじて耳打ちしていた、通りに。
図っていた策の通りに、力を――ッツツツ!!!
「輝きを、灯せぇえええ!!!」
僕は刃を取りこぼした、その腕へと。
手首より先を絶たれた右腕へと、輝きを纏わせる!!!
「――は、っ」
ようやく、男の双眸が開かれる。
それは驚愕だったのか、それとも……。
ただ、後退はなかった。
霞んで黒ずむ視界には、前方左右より数えるのも億劫な程の、鬼血の刃が迫り。
だが、一手。
既に懐へと入り、輝きを突き出している僕の方が早い!
「おおおおおおおおおおおあああああああアアアアアアアアアア!!!」
剣を握れず、もはや使い物にならぬというなら。
最後に、――騎士の矜持を輝き知らしめろ!!!
「キャリ、バアアアアアアアアアアアアアアアア――――!!!!!」
そして、僕は。
この身でこの右腕で、極光を撃ち放った。