第四章【63】「鬼の血/氷獄」
血流に打たれ、大きく吹き飛ばされる。
またしても叩き付けられた打撃は、淡く纏わせた輝きの鎧を物ともしない。直撃を防いで尚、衝撃だけで退かされる。
決して行かせまいと立ち塞がりながら、渾身を以て阻みながら、……もはや手にした刀を振るわれることすらなく、いとも簡単に振り払われてしまった。
まんまと、先刻の宣言通りにもならず。
未だ手足を残した、五体満足の状態で。
「ご、――がッ!?」
踏ん張り切れずに宙へ浮かされ、左方へ飛ばされて、けれどもすぐに着地し踏み止まった。
衝撃の緩和を待たずした強引な制止だ。減衰のない反動に再度、口の端から赤い筋をこぼす。身体中の骨肉が悲鳴を軋ませ、立ち直すが懸命。
今一度すぐさま攻勢に移ることは、不可能だった。
だから鴉魎は今度こそ、邪魔が入ることなく、踏み出した右足で床板を鳴らし。
氷域へと押し入り、刹那。氷樹に囚われた雪女へと、距離を詰めて――。
肉薄の後、瞬く間に。
少女の――涼山千雪の首を、斬り断つ。
「――フ」
左から右へ、奔り抜ける一閃。
振り切られた右手の黒刃は寸分違わず、確かに、喉元を大きく削り取る。
血が噴き出さないのは、彼女の変容が故か。悲鳴すら零れなかったのは、発声をも諸共に断ち斬り伏せたからか。
文字通りに、手も足も出ないままに、彼女は斬撃を受け入れてしまっていた。
加えて、虚空より。
十数の赤黒い刀身が、四方八方より降り注ぎ突き立てられる。致命傷を与えても飽き足らず、幾つもの斬刃が穿たれる。
腕を、足を、腹部を、胸部を、頭部を。樹に縛られた彼女を、重ねて磔にするかの如く、過剰な程に痛めつける。
遠目にも、完全な死が。
彼女の終わりは、明白だった。
もっとも、それは。
あの身体に死という結末があったなら、の話だ。
「……ここまでとは」
振り終えた刃を下ろし、鴉魎がこぼす。
遅れてすぐに、納得した。
ヤツがあれ程までに刃を突き立てたのは、過剰でもなければ、嗜虐性じみたものからくる死を貶める行為でもなく。
必要不可欠だったからであり、――それでも、足りていなかった。
続け様。
パキリと乾いた響きに合わせ、少女へ突き立てられていた黒刃らが、一斉に薄氷に包まれ閉ざされた。
それに留まらず、氷域を侵した代償は、足元を埋め尽くした氷面からも手が伸ばされる。
まさしく掴みかかり、決して逃がすまいとその場へ縫い付けるように、剣士は足先を氷に覆われた。
凍結し、機能を閉じ込められた。
それを、鴉魎は。
「――ス」
躊躇いなく、斬り捨てる。
氷の浸食を受けた足首より下部を、自らの刀剣によって斬り離した。
どころか、その全身から血を噴き散らせる。
黒衣をも幾重に斬り裂きながら、刀を握る手の甲や指先を開きながら、頬や首元に僅かにチラついた、半透明な氷の付着を削ぎ落しながら。
鴉魎は自らの身体を、自らの血を以ってして傷付けた。
そして、その散らされた――鬼血が。
ヤツの背後で集合し、変容し、二本の腕へと形を成す。
長細く、三つ四つの関節をゴギリと音鳴らし。
赤黒い腕らは鴉魎の肩口へと繋がり、その先端の手のひらを氷面へ突き立てた。それらは足を断たれた身体を持ち上げ支え、僅かに鴉魎を後退させ距離を開かせる。
しかしその黒腕すらも、すぐさまに氷に侵された。
後退は阻まれ、薄氷の影響からは逃れられない。指先を手首を関節を、徐々に覆われ、ガクリと落ち込み機能を閉じられていく。
が、それよりも早く。
彼の足は紫電を迸らせ、足首より先を元通りへと再生させる。他の自傷部位も同じように、開かれた痕が塞がれていく。
「フ、――ッ!」
その、自己状態を保ち氷から逃れる、最中にも。
攻撃の手は緩むことなく、涼山千雪は虚空からの血刃を穿たれ続けた。
頭部を何度も貫かれ、胸部らもまた、二十を上回る刃を突き立てられる。深くまで入り込まれ大きく亀裂を走らせ、その度氷の破片を散らして、欠け続けている。
それでもそれら血の刃が、氷に覆われ閉ざされるのは。
鴉魎への浸食が止むことなく、未だ雪女の支配域が牙を剥くこの状況は。
涼山千雪の力に衰えがないことを意味する。
未だ彼女の意志が絶えていないことを、表している。
直後、肩より伸びていた腕を切り離し、再びその足で着地した鴉魎の周囲より。
氷面から、三つの影が立ち昇った。
「なるほ、――ど」
呟く鴉魎は、即座に刀剣を振り抜く。
囲み出でた影ことごとくの胴体を両断し、加えて正面、涼山千雪への攻撃同様に、宙より血の刃を降らせ突き刺す。
全身を穿たれた影は、その形をなんらかへと安定させることも出来ないままに、無力化されて、――だが、斬り刺され落ちた氷塊らは、手や指や、頭の形の似通った部位が混ざり……。
終わることなく、更に氷面から立ち昇る。
続く総数は七体。今度は先刻より僅かに距離を開いて、刃の届かぬ地点で速やかに、形を成すのは――。
半透明に、淡い蒼色を宿した氷像。
着物を纏った長髪の少女を、涼山千雪を模った、氷の人形たちだ。
同一の彼女ら七対が、一斉に、その背後へ十数の氷柱を展開させる。四方八方、取り囲む凍えた礫に、初手に続き氷樹が尖れた枝をも被さり伸ばす。
致命の棘に、物量も十分過ぎる。雪崩の如き刺突の群は、常人を上回る我らであっても、堪え難く退きは困難を極める。
ああ、だが。
それ程であっても、特級には、この鬼将には届きはしない。
「申し訳ありませんが、もはや客人への礼節などとは言っていられません。生憎対妖怪の組織としても、無視出来ない対象だ」
故に。目をキツく尖らせ、ゆらりと切っ先を持ち上げ、腰を低く構えを落とす。
凍えるような殺意でもない、むしろ、この氷域の中で熱を滾らせる。純然たる闘気を纏わせた剣気に、思わず息を呑まされ――。
「よもやの誤算。よくも俺を、――本気にさせてくれるッツツツ!!!」
間もなく。
巻き起こされた戦いの余波に、この身は強く震わされた。
更に三体、五体、無尽蔵に出現する氷像と、降り注がれる氷枝や氷柱。
それらを物ともせずに振り払い、決して自身へ触れさせることをしない、止めどない斬撃の嵐。
緩むことない攻撃は互いに、紛れもなく死へと繋がる必殺ばかり。侵食する氷も断ち斬る剣戟も、どちらも相手を屠るに十分過ぎる。
それでも、未だ二者は生存を続ける。身を削られながら、自ら削る行いさえ含めながら、尚も攻撃の手を緩めることはしない。
砕け散らされる、氷の欠片。胸を開かれ、首を落とされる人型たち。
振り撒かれソレさえ武器と扱われる、鬼の因子を宿した血。無数の標的へと無数の斬撃を合わせ乱れさせる、ただ一人の剣士。
戦い以上。
苛烈にして壮絶な、命の奪い合いだ。
その光景に、僕は。
僕は――。
「――天秤を」
天秤を傾かせろ、と。
呟き、気を引き締めさせる。
恐らくは、持ち得る全力に近い剣戟を放つ鴉魎と、なんらかの手法によって自らを押し上げている涼山千雪では、行き着く先が違う。
全力全開と全力以上。この展開以前の状態や雄叫びから、涼山千雪が尋常ではない無茶をしているのは明白だ。力の代償は、間違いなく待ち受けている。
これ程までに拮抗出来たことが、既に奇跡に等しい。
それでも、拮抗を抜け出すことは敵わない。その先に勝ち切ることは出来ず、今尚撃ち合いは続けられているが、いわゆる千日手に見えてしまう。
もっとも、永遠などは有り得ない。
先に折れるは、果たしてどちらになるか。
そうなれば、恐らくは涼山千雪が……。
その天秤を、傾かせろ。
恐らくその鍵を握っているのは、――僕だ。
「――――」
大きく深呼吸を。
唇が震える。肩が腕が全身が、必要以上に強張っていたことを自覚し、なんとか脱力させて緊張から解かせる。
震えは寒さによるものではない。緊張もまた、恐怖や不安感からのものではない。それらは全て、不利的状況下によってこぼされたものでは、ない。
それらは既に、先程森で鴉魎と立ち会った際に呑み込んだ。どうしようもないという絶望や驚愕は、全部、消化しきれないままに抱えると覚悟した。それでも戦ってみせると、無様を晒してでも立ち続けてやると、いっそのこと殺されてやろうと、そうまで振り切った。
だから、大丈夫ではないが大丈夫だ。
それでも震えが止まらないのは。
今一度、今まで以上に緊張に襲われるのは。
今この瞬間の、この状況がまるで違う。
僕と彼との実力差は変わらず明白でありながら、――だけどこの場の、自身を含めたこの大広間における戦力差は、確実に。
他ならぬ、涼山千雪の尽力によって。
或いは僕が、この刃を、あの男へと――。
だから、高揚感が。
不謹慎だと分かっているが、浅ましさすら覚えるが。
それでも、と……。
『ヴァン』
耳元で、小さな隣人が囁く。
長く僕の傍で、この輝きの力を灯してくれた、相棒が。
僕の思考に、氷域以下に冷たい水を浴びせた。
『勘違いしちゃだめだワ。アナタは生きて皇子を護るのが指名なんだから』
そう、忠告を口にした。
僕へと警告を、確かに聞かせた。
「……はは」
言ってくれる。まったく、耳が痛い。
どうにもこうにも、こうまで来ても、やりたい放題とはいかない。
こんなに手足が震えているのに。
高鳴る鼓動をまるで抑えられないのに。
緊張が、高揚が、まったくもって落ち着かないというのに。
「騎士とは、不自由極まるな」
ああ。
だからこそ、誇らしく、眩しく。
僕は騎士でありたいのだ。