第四章【62】「斬線の露見」
腕が震える。
吐息をこぼす唇さえも、微かな振動を残す。
けれども寒さは感じない。吐く息が白さを帯びることも、ない。
一帯を氷に覆われていながら、振り返れば巨大な氷樹がそびえていながら、それでも、この身は寒冷の影響下にはなかった。
僕がなにをした、という訳ではない。
ただ、彼女によって、対象から除外されているだけ、守られているだけだ。
そうでなければ、この身体はたちまちに凍え閉じられ、固められた後に砕かれてしまうだろう。
それを、僕の周囲だけを切り取って。
シュタイン皇子を、氷壁で分断し退けさせて。
涼山千雪は、この空間全てを手にかけ、支配しようとしている。
「――――」
鬼狩りたちの拠点、日本屋敷の広間。
明るい木色に包まれた宴会場の如きこの場所は、今尚、大きく変化を続けている。
魔女の支配下に置かれ、重々しい圧力に震わされた。
突如割り入った魔法使いらの登場によって、炎や破壊に包まれた。
そして、今、残された我々を含んだ広間は。
足下の木板や側面の障子らを、徐々に薄張りの氷に覆われている。
自らを氷の大樹へと縛り付け、幾重にも分かれた無数の枝や根を張り巡らせる。
涼山千雪はその侵食をヤツへと伸ばし、氷面を広げていた。
何度も身体にヒビを入れながら、人の形を欠けさせながら、――それでも、あの男へと追い縋ろうと。
「……これはこれは、ほとほと想定以上です」
向かい立つ、一刀を携えた鬼将――鴉魎。
魔法使いら二人が去り、ただ一人この場へ残り立ち塞がる、我々が討ち果たすべき相敵。
我々の世界の観点で測れば、特級に疑いなく。
僕の遥か高みに位置する、常人ではない本物の戦士。
大凡敵う筈もない、その相手を前に。
涼山千雪がなんらかの力を解放し、あまつさえ。
「やってくれます。さて、どう踏み入るやら」
そう、あの男にこぼさせた。
そうまでに、自身を引き上げさせた。
即ち今、彼女によってこの二対一の状況は、絶望的な対峙ではなく。
僅かながらも勝機が見出された、戦いの舞台であるということ。
そして、間もなく。
「対象の、減少。残る標的は、鬼将、ただ一人……ッ!」
涼山千雪のその呟きを、合図に。
彼女の背後より、空を切り、――幾つもの氷枝が一斉に振るわれた!
芯となる大針を先頭に、連なり手形のように広がる小枝の群。百数もの刺突は直撃すれば、もはや貫くに留まらず、全ての骨肉が削り千切られることとなるだろう。
たったの一刺でも十分に人体を貫通せしめ、例え多くを凌ごうとも、複数箇所へと傷を入り込ませる。深手を与えるは自明だ。
その無数の、強襲を。
「いいでしょう。――では、こちらも」
鴉魎は氷枝らが、身体へと降り注がれる、寸前。
またしても、視認の及ばぬ複数の斬撃を以て。
一歩たりとも後退なく、迫り来る全ての刺突を斬り弾き退けた。
甲高い炸裂音の後、バラバラと細かく散らされる氷塊がやがては塵と消え、それら欠片の一つすら、肌先に触れさせることもしない。
常識を逸脱した斬刃は、やはり理解が及ばず、――やはり、不可解。
果たしてそれは、本当に剣技によるモノであるのか?
刹那に十数の剣戟であるならば或いはだが、百数に至るは、なんの仕掛けもないのか?
しかし、熟考の隙はなく。
迎撃に終わらない。
鴉魎は小さく右足を踏み込み、僅かに半身を前のめりに、傾かせ。
その、瞬間を――。
「っ――させんッッツツツ!!!」
一瞬を、――上回る!
ただ一足で飛び出し距離を詰めた僕は、この大剣を振り上げ、構えた鴉魎へと真正面から叩き付けた。
当然に、肉を穿つことは敵わない。
鴉魎は難なく態勢を切り替え、黒色に染まった刀剣を以て、極太の剣打を受け止め鍔迫り合わせる。
火花を散らし、振り撒かれる衝撃と旋風。
この聖剣、黄金を纏わせた一撃を尚も、打ち勝てないとは。
それでも、鴉魎を止めた。
その場へと縫い付け、次の動きを制した。
「……黒い刀身、鬼の血による硬化か」
「如何にも、などとは今更でしょうが」
「確かに。――そしてその刃、スズヤマチユキに届かせはしない!」
氷樹に囚われた彼女は恐らく、動くことが困難。防衛の手段はあるだろうが、それでも後退すら叶わぬ状態は、攻め入られるに圧倒的不利。
ならばこの身が鴉魎の接近を阻み、攻撃へと注力させるが最善だ!
直後、図った通りに。
涼山千雪は僕の背後より、再度、氷枝を展開して鴉魎へと突き下ろした。
鍔迫り合いは未だに解かれず、押し合う刃は拮抗し、互いに通すことを許しはしない。腕を、脚部を強化し、渾身の力で踏み止まり抑え込む。
刀を押し留められれば、氷撃を斬り伏せることは不可能。なればこの場での制止は、今度こそ直撃を避けることが出来ない。
後方へ飛び下がる以外に残されていないが、それでは涼山千雪との距離が開かれる。更に僕が追い縋れば、こちらが一方的に攻め入る展開に持ち込める筈だ。
立ち止まらせるも、退かせるも、どちらも優位に事を運ばせる。
攻勢の先に、僕の刃が彼を斬り伏せる、勝利の結末を。
そう、微かに夢想して。
だが、すぐさまに。
「――行きますよ」
男は、その甘い希望と諸共に。
周囲より迫り来る氷枝らを、またしても、――ことごとく斬り付け、バラバラに弾き飛ばして霧散させた。
完全に、無為へと斬り落とした。
「な――」
状況を攻略された。
一歩の後退すらなく、そのままの状態で対応された。
否、それ以上に。
この男は、今、確かに。
刀を振るっては、いなかった。
「――な、ぜ」
今尚、鍔迫り合わさる黒刃は、聖剣を受け止め続けている。
間違いない。
鴉魎は、刀を振るわずにして、斬撃を――。
「ヴァンさん! 気を付けて!」
その声に、微かに視線を後ろへ散らせば。
涼山千雪は口元や頬に、亀裂を走らせながら、喉元を大きく割られ欠けさせながら、それでも声を上げて僕へと訴えた。
その斬撃の、正体を。
「彼の周囲には、血が滞留してる! 出血させた自分の血を宙で自在に、斬撃として放ってる!!!」
「ッツ」
冷気を操る故に異物を見抜いたのか。空間に支配を広げる過程で、侵し得ぬ領域を察知し突き止めることが出来たのか。
なんにしろ彼女の言葉が、暴いてみせたソレが事実であるなら。
「鬼の血、が」
「――ええ。その通りですよ」
呟き、口元を緩める鴉魎は、――続け様に。
その正体を僕らへと開示し、視界へと晒した。
「――――――――」
目を見張る。
鴉魎の周囲から、前後左右から、手の届かないような後方や、僕の身体の側面からさえも。
なにもない宙から、鍔迫り合う二者を取り囲んで。
一瞬にして、――幾刀もの赤黒い刃が、現出した。
じわりと、霧のような小粒の赤が集まり形を成す。
刃渡り二十から三十程。決して短くない、刀剣に等しい刃らが、数十抜身に宙を漂う。
視線の僅か先に、首元に、肩口や胸部、腕や剣を握る手の際、踏み締める脚部の各部位や爪先寸前にまで。鋭利な血の刃が、肌を撫でる程に迫っている。
一歩も動けぬ、とはまさしく。
逃れようのない致命傷を、ちらつかされている。
「ッ、セーラァアア!!!」
妖精へ、叫び命ずる。
それに応じて全身を、淡い輝きが包み込み――。
その光を纏わせた、急造の鎧へと。
瞬く間に、数十の打撃が叩き込まれた。
「ゴ――ッヅ!?」
手足胴体を同時打つ強烈な連撃。合わせていた刃が解かれ、身体が後退を余儀なくされた。衝撃に肉が沈み骨が軋み、口内に鉄の味が広がる。
ブレる視界で確かに捉えたのは、この身へ注がれる攻撃らの変容。細く磨かれた血の刃は衝突の寸前に、その先端を円形の面へと変えられていた。
斬り貫く刃物や鋭針ではない、叩き打つ円柱となっていたのだ。
「な――」
何故だ。
またしても疑念が過ぎり、……だが此度の思惑は、容易に見抜くことが出来た。
それは、変幻自在の証明。暴かれた斬撃のカラクリを、更に公開してみせた。斬り裂くに留まらないと、見せつけてみせた。
重ねて、斬るのではなく打ち叩いたのは、間違いなく。
手加減されている。
血をこぼさせる打撃でありながらも明らかに、死なないようにと、手心を加えられた。
そしてそれを、ヤツ自ら公言する。
「未だ客人故、なにより宣戦布告の聞き届け人として。貴方には皇子様と共に無事、生きて帰っていただきますよ」
それは、死刑宣告を遥かに上回る屈辱であり。
同時に、絶対的な敗北だ。
殺す必要すらないのだと。
この期に及んで障害にすら成り得ないのだと、断言されたのだ。
「どうぞ最後まで苦心し、後にこの島での出来事を流布して下さい。これより起こる魔女らの悪逆、その始まりを伝えて下さい」
「……ぐ、づ」
「ああ、ですが。考えてみれば貴方は、皇子の騎士という立場。――腕の一本くらいはついていない方が、刺激的な絵面になるでしょうか?」
「きさ、まッ!」
この男は、ここまでも。
こうまでも貶めながら、飽き足らず。
「ええ、そうでしょう。その方が貴方にも、――箔が付くというものです」
「ほざけぇぇぇええええええええ!!!」
声を上げ、僕は。
今再び、氷に覆われた足場を踏み締め、飛び出し、――振り上げたこの大剣を、より過剰に輝きを纏わせた、この聖剣を。
ヤツの脳天へと、力尽くに叩き下ろし――ッ!
「まことに残念ですが、そう熱くなっては」
しかし、今度こそ。
僕の刃は、彼の携えた刀によって防がれることもなく。
鴉魎は右手の黒刃を、だらりと力なく下げたままに、……けれどもガキリと、頭上へ開かれた、交差する赤黒い二線によって。
いとも簡単に、脱力したままに、受け止められてしまった。
刃を通らせることも敵わず。
輝きを、遮られてしまった。
「――それに、そう震えた腕では、立ち向かうこともままならないでしょうに」
襲い来る焦燥や無力感は、更に追い打たれたその言葉によって。
遅れ、その隙を突いた側面からの血柱の強襲によって。
この身は再び幾度となく殴り付けられ、吹き飛ばされることとなった。