第四章【41】「グラつく橋」
湿りを帯びた砂利を踏み締め、歩みを進める。
深い夜の刻。今しがた降り止んだ雨雲に月の光を遮られながら、けれども開かれたこの場所は、暖色の明かりに包まれていた。
薄らと目立つ白樺の際を抜けて、木造りの門を通った先。今一度、この島の中心部である日本家屋、その庭を横断する。戦いの前、一人で訪れたここへ、現在は多くの鬼狩りたちに囲まれながら。
けれども変わらず、先頭を行くあの男の後ろに、導かれながら。
「――――」
今一度、息を呑む。
震える指先を堪え握り拳を作り、重く緩慢な足取りを遅れまいと大きく踏み出す。傷付き疲弊した身体を休めることなど、到底叶いそうにない。セーラの力によって治療を施しているが、それだけだ。
この身に受けたダメージも、魁島との戦いで蓄積した毒も、折れ砕かれる寸前にまで摩耗した精神をも、なにもかもが満身創痍に等しい。
にも、関わらず。
目と鼻の先には、一息の間もなく僕の首を落とす剣士が立ち、その男によって敵の本拠地へ誘導され、――更には背後には、主君が控えている。
アヴァロン国、第一皇子。シュタイン・オヴェイロン。
我が友よりも更に位の高い皇子を、この状況下で、是が非でも護り抜かなければならないのだ。
「――――」
何故この場所へ現れたのか。どうしてこのタイミングで訪れたのか。……否、『転移封じの結界』とやらの発動よりも先に居たというなら、果たして、いつから居たのか。
一体、なにを考えて。なにを目的に。
厄介な思惑を、暗躍を詳らかにする。先程のその宣言通りなのか、それとも。
しかし問い詰めることも出来ないままに、間もなく庭を渡り切り、屋敷へと辿り着いた。
縁側と呼ばれる庭に面した板敷きへと、先導する鴉魎が足をかける。合わせて真向かいを閉じていた障子戸が左右へ開かれ、奥に通じる長い回廊が晒された。同じように板張りが敷かれ、幾つもの仕切り襖は既に解かれている。――ただ一つ、遠く最奥に見える重厚な色濃い深緑のモノを除いて。
「屋敷は土足で結構です。……それから、ここから先は准鬼将とお客人だけで。他の鬼狩りたちは、各々持ち場で待機していなさい。後の動きは状況に合わせ、命令の通りに」
男が静かにこぼし、すればすぐさまに、連れ添っていた鬼狩りたちが散り散りに場を離れた。見れば庭の隅に控えた者たちや、塀を越えて森へと消え入った者も少なくない。
状況に合わせ、待機。あくまで皇子の敷かれた休戦状態に乗っ取り、現状、事を起こすことはしないと。
そして残されたのは、我々四人。
鬼狩りを率いる鬼将と准鬼将――鴉魎と魁島が屋敷へ踏み入り。
第一皇子とその騎士――シュタイン様と僕が続く。
振り向く鴉魎は、柔和な笑みを浮かべたままに。一見友好的にしか思えない所作で、「足下にお気を付け下さい」とまで言いのけた。時折カチリと音を立てる携えた長刀は、一切の敵意と共に隙間なく鞘へと納められている。
対する魁島は、なにも言うことはなかった。先刻までとは打って変わって、驚く程に静寂を貫いている。……だが言葉はなくとも、滲みだす殺意は抜身のままだ。恐らく命令一つあれば、彼はすぐさま刀身を抜き放ち、僕らへ牙を剥くだろう。その時をただ、静かに待ち構えている。
「…………フ」
だから一瞬たりとも、気を緩めることはしない。強く息を吐き、緊張を継続させる。嘘偽りのない会合であっても、突如として反故にされ戦いが再開されても、全ての展開へ対して、決して遅れを取ることのないように。
もはやなにもかもが手遅れな、袋小路に追い込まれているのだとしても、最期まで抗い続けられるように。
そう気構え、鬼狩り二人へ続き、回廊を進みながら。
背後にも意識を配り、ふと様子を窺い視線を向ければ。
「安心しなさい。我が国の騎士、ヴァン・レオンハートよ」
不意に、口元を緩めて、――皇子は。
「我輩の目論見は、恐らく貴公に通じていよう」
シュタイン様は僕へと、そんなことを言った。
完全に思考の埒外から、予想にもしていなかった宣言を。
「――それ、は」
それは、どういう?
思わず言い淀めば、先に、前を行く鴉魎が口を挟んだ。
「機密性の高いお話でしょうか? でしたら聞き耳を立てぬよう、准鬼将共々、耳を切り落としますが」
なんとも恐ろしい物言いだが。
皇子は首を横に振るった。
「必要ない。そして鴉魎、だったか。過剰な忠誠は行き過ぎた世辞に聞こえる故、度を弁えよ。猟奇的な提案も、気分を害する。なにより我輩も能無しではない故、聞かれて困ることは大声では言わぬ」
「……それはそれは、失礼致しました」
言って、大人しく鴉魎は押し黙る。
詳細はぼかし、その上で今必要な意思疎通を。それにより不要な懸案事項を取り払い、これからの本題へ注力せよ。
そう改めて、皇子は僕へ続けた。
「ヴァン。ここ近日の貴公の『多数の転移』や『単独行動』、記録を残し制度にも違反していないが、些か悪目立ちが過ぎている。それも目的も、調査任務の為などと詳細の伏せられた短文では、如何にもだ」
「……ご存知でありましたか」
「色々と怪しい時世故、少しばかり目を配っていた。今この時この境界への転移も例外なく、――更に今回は同じくして、貴公が取り立てて親交を深めている、第三皇子アレックスが転移を行っているようだ」
「――――」
思わず、息を呑み。
けれども僕は、足を止めることはなかった。僅かな歩調も乱れることなく、回廊を歩み進めてしまった。
だから、見抜かれた。
「その沈黙は驚きか、それとも、そうなると予想していたか?」
「……失礼ながら、皇子はどうお考えで?」
「そうだな、少なくとも貴公とアレックスは、――結託してはいないと考えている」
クツクツと、暗い笑みを浮かべて。
くたびれ項垂れたままに、シュタイン様は続ける。
「この緊張高まる中で重なる転移など、二人の仲を疑ってくれと言っているようなもの。……おっと、当然仲といっても、色恋の沙汰ではないぞ。そういった噂も少なくないようだが、今はそのような浮ついた些事にかまけてなど居られぬ」
「……それはそれとして、この場で弁明し、撤回させていただきたくはありますが」
「さておき、我輩は此度の同時転移を貴公ら二人ではなく、それぞれの独立した動きと考えであると推測している。転移記録から察するに、先に動いた貴公を知ったアレックスが、続け様に行動を起こしたのであろう」
「……申し訳ございませんが、アレックス様の御心は」
「分からぬであろうな。対するアレックスもまた、貴公の狙いを知らぬであろう。だが互いに察しは付いている。どころか、――それ故に、今別々で動いているのではないか?」
「……さて、どうなのでしょうか」
まったく、この方は。
果たしてなにを知り、なにが見えている?
「ではシュタイン様は、何故、この島に? その事態に対応するのであれば、どうしてアレックス様ではなく、僕の方へと転移なさったのでしょうか?」
「全て言った通りよ。この戦いは仕組まれており、裏で何者かが動いている。それを明らかにし、あわよくば挫くべく現地へ参じた。どうにも情報だけでは埒が明かぬ故、な」
「では、あくまでこの島の問題が主であると」
「否。当然、それだけである筈もない。貴公に通じる目論見があると、そうも言ったであろう? だから貴公を選んだのだ」
ギロリと、その陰りの深い瞳を突き付け。
重く、低く、皇子はそう打ち明けた。
この島への介入は、世界を取り巻く事態の解決へと最も近く。
同時に自身の思惑においても、恐らく同じ方向へ進む僕が居ることは、最適であると。
そういう、ことか。
なるほど、確かに。
僕と同じものが見えているなら、ここでアレックス様の方へは、行かない。
「……そう、ですか」
筋は通ってしまっている。
なにより、ここまで話させておきながら、その手を振り払うことなど出来ようもない。
「この身に余る光栄であります。僭越ながら近しい道を、共に歩ませていただきます」
「……それも言ったであろう、ヴァンよ。過剰な忠誠は行き過ぎた世辞に聞こえる、と。味方は味方で使い勝手が悪いクソ皇子と、それくらいは言ってみせたらどうだ?」
「お戯れを」
「当然だとも。もしも口にしてみろ、積み上げて来たもの全てが瓦解し砕け散ると思え。たとえ扱い辛くとも、心底気に入らなくとも、我輩は貴公の上官にして、王族である」
努々それを忘れるなと、警告される。
ああ、まったくこのお方は。扱い辛い、気に入らないなどと、滅相もない。そんなことを思ったことは、誓って一度たりともない。
ただ、心底歯車の噛み合わない方だと、それだけだ。
いや、大変失礼な見解だが。
この方と上手く噛み合う者など、相当居ないだろう。
騎士団をまとめる立場故に、様々な情報が入って来ている。何人もの護衛を首にし、降格させ、時には除名すらさせてきた。
今この時だって、その一端だ。皇子でありながら単独でこの島へ訪れて、果たして護衛を言い含めたのか、或いは掻い潜ってしまったのか。どちらにしろ、護衛を担当した者の責任問題は免れないだろう。
……近日は特級を皇子たちの護衛に付ける計らいになっていた筈だ。まさかヒカリなどの近しい知人が選ばれていなければいいが。
僕個人も、直接的な関わり合いこそ多くはなかったが、そういった現場を幾度も目撃しており。
――その危うい橋を、今は僕が渡らされている訳だ。
「励んでくれたまえ、ヴァン・レオンハート。アレックスのお気に入りということで特別関係を持つことはなかったが、こうなれば存分に使わせて貰うぞ」
それに、と。
皇子は声色を一層低く抑え、冷たささえをも纏わせて。
「それに、――これよりは世界の命運を大きく左右しかねない。変わらず行動、発言共に、十分に注意せよ」
そう、僕へと言い付けた。
◇ ◇ ◇
そして、歩みを進めた先、辿り到る。
誰かが触れた訳でもなく、先導する鴉魎らが手をかけることもなく。
自ずと左右へと開け放たれた、重厚な襖の、その奥へ。
そこに、待ち受けていたのは――。
「――ようこそいらっしゃいましたぁ! 遠い異国の皇子様ぁ、その騎士様ぁ!」
響き渡るは、あまりにこの場にそぐわない、明かるげな声。
それを発する彼女もまた、この目を疑う程に、朗らかな笑みを満面に浮かべて。
見覚えはない。
けれど、その様相は、察するに難しくない。
なにしろ、彼女は、
「どうもはじめましてぇ! ネネ・クラーナと申しますぅ! 以後、お見知りおきを~♪」
ひらひらと黒衣を纏わせ、その頭には知人に近しい――黒色のとんがり帽子を被っていたのだから。