第四章【38】「疑わしき戦力」
深い眠りから起こされる。
まぶたを開けばそこには、見覚えのない天井があった。
古びた木造で、染みやらカビの跡が残ってしまっている。鼻を突く湿った臭いも、ここがそれほど管理の行き届いた場所ではないことを教えた。
だけど、すぐに気付く。
ああ、なるほど。……俺に覚えはなかったが。
記憶がある。
ここは、涼山の土地の古家だ。
身体を起こして見渡すことで、それを確信した。
天井から下がる剥き出しの電球も、景色の揺らぐ古びた窓ガラスも、手を下ろし触れた板張りの床も。少し離れたところにある目立った囲炉裏や、かと思えば雰囲気をぶち壊す冷蔵庫にエアコンまで。
初めて見た筈なのに、記憶の情景と重なる。知らない筈なのに、ここが何処なのかを理解出来てしまう。
眠りの中で垣間見た、アイツの知識だ。
コレは俺の内側にある、ユウマの要素だ。
「……ッ、ぐ」
思わず歯噛みし、両手の拳を握り締める。
思い出した。――いや、思い起こされた。
あの日の夜の出来事を、ユウマという男のことを、……自分自身という、鬼のことを。
そうだったんだ。
俺は鴉魎や魁島の言っていた通り、正真正銘の、鬼で――。
「俺は――ッ!?」
と、思い詰め。
下ろした手の爪先を、床板へと突き刺した――寸でのところで。
「ちょっとちょっと。起きた傍から暴れるのとか、そういう面倒なのはやめてよねー」
響く、聞き覚えのある声。
振り向けばすぐ後ろには、壁にもたれ座り込んだ、一人の少女が。
――彼女が。
「せっかく休戦に持ち込んだんだから、余計な力は使わせないでよ」
黒く、短く切り揃えられた髪を、残された右手でかき上げて。頭をすっぽりと覆う程のフードは後ろに、眉を寄せた不機嫌そうな表情を晒す。
見慣れた黒衣に、左半身を覆うマント。薄暗闇の部屋の中で、より色深い黒で全身を着飾る、そんな彼女は――。
「……リ、リーシャ」
リリーシャ・ユークリニド。
サリュと同じヴァルハラ国から日本国へ訪れた、強大な力を有した魔法使い。かつては藤ヶ丘の街を壊滅させ、敵対し、当の俺たちも力の限りで殺し合った。一歩間違えば俺がリリーシャを殺すか、リリーシャが俺を殺すかまでのところまでいって。
なのに、戦いの中で彼女は宣言した。
俺を助けに来た、と。
「…………」
「そんな目で睨まないでよ。……まあでも逆の立場だったら、あたしもそうなるかな。面倒だけど、仕方がないのかなぁ」
まったくその通り、警戒して当然だ。
アレだけのことをしておきながら、突然の手のひら返し。そんなのは有り得ないし、認められない。
なにより、ここに居ること自体がおかしい。確かあの夜以来、意識不明で病院に居た筈だ。それも厳重な監視下に置かれ、もはや幽閉されていたと言っても間違いない。
この場に居るということは、それを突破したということに他ならない。……もしくは誰かが、彼女を解き放ったのか。
「……まあ」
恐らくは、後者なんだろうが。
強引に突破したというなら、ここへ来る筈もない。恐らくは誰かの、なんらかの手引きがあって、その延長線上でここにまで至っている。
そしてこのタイミング、この島へ訪れるように仕向けたのは、十中八九……。
だとしても、だ。
助けに来たという言葉を、手放しに受け入れることは出来ない。
「……なにを、企んでやがる」
聞けば、リリーシャは。
大きく肩を落とし、頬を吊り上げて笑った。
「そんなの決まってるじゃん。なにかを企んでるんだよ」
でなければ、こんなところへ来る筈がない。
でなければ、味方などする訳がない。
でなければ、命を賭けることなど、有り得はしない。
リリーシャは包み隠すことなく、そう言い切った。当然、その含む企みを詳らかにすることはしなかったが。
彼女は続けた。
「まーそんな感じだから、仲良しこよしは気持ち悪いけど、精々敵の敵は味方だーくらいには思って貰って。んで、頑張って助けられて頂戴よ」
「……意味分かんねぇよ。俺を助けるって、……なんでだよ」
「それは言わないけど。――でも別に、あたしがあなたを助けに来ることって、実はおかしい話じゃないのよ? ……おかしい話ではあるか」
「おかしい話過ぎるだろ」
「んー。じゃあ、不思議な話ではない。道理に反した話ではないって感じで。そりゃあ、出来ることなら願い下げだけどさあ」
「おかしいし不思議だし道理に反した話だろ」
しかし言ってから、遅れて気が付く。
――いや、待て。
その認識は違うかもしれない、と。
思えばコイツは、どうして俺たちと敵対していたのか。どういう理由で、日本国を攻撃していたのか。
そうして少し考えてみれば、自ずと答えはすぐに思い当たる。
違う。リリーシャは、俺たちを目の敵にしている訳じゃなかった。
コイツの狙いは、ただ一つ。
サリュだ。
「……お前」
「察してくれた? そーいうこと」
笑顔のままに、続ける。
「ま、あなたはサリーユの大事な人って話だから、あーんまり良くしたくはないんだけど。どころかあの夜言ってたみたいに、首を手土産にしてやりたいくらいなんだけど。――生憎そういう気分になり切れないんだよね」
真っ向からぶつかり合って、負けてしまったから。
だから尚更に、そんな八つ当たりのような搦め手で泥をかけてやろうという気分には、到底なれそうにない。
リリーシャは、そう言い捨てた。
「ったく、面倒極まりないよね。恋人殺してザマーミロって勝ち逃げしてやれたら、どれだけ愉快で楽出来るかって話なのにさぁ。そんなだから結局、こんなクソみたいな島でコキ使われてるって訳」
「……そうかよ」
当然、納得出来る理由ではないが、それでも言い分は分かった。どうやらコイツにはコイツでルールというか、譲れない流儀ってヤツがあるらしい。
その所為で、ここへ介入した。願い下げながらも、俺の味方という立ち位置に放り投げられてしまった、と。
にわかには信じ難いが、そういうことらしい。
「…………」
全てが虚構の可能性は捨てきれない。
気を抜いたその瞬間に、笑顔で俺の頭を吹き飛ばすかもしれない。こうして話している間にも、裏で本当に協力関係にあった鬼狩りたちが、この建物を包囲しているかもしれない。或いは重要な盤面に置いて、魔法を使って逃げ去るかもしれない。
完全に信じ切ることは不可能であり、そもそも味方として数えられるかどうかも、言い分からして怪しいだろう。俺は今もこの先も、コイツのことを警戒し続けるべきだ。
だが、さっきの魔法戦は間違いなく、この島への敵対行動に他ならない。
少なくとも向こう側ではなく、俺に有利な立ち位置の戦力であることは、認めてもいいだろう。
だから、――俺も大きく息を吐き、肩を下ろした。
「……そう、だな」
「やっと緊張が薄れた感じ? まー安心しなさいよ。あなたが余計なことをしたり、あたしに牙を剥かない限り、あたしからあなたを攻撃することはないわ」
なんなら誓ってあげる、とまで。
あくまで口約束ではあるが、彼女はそこまで言ってのけた。
「あなたが言った通りよ。あたしにも企みがある。その為にこの島へ来て、あなたを助けてみせる。だからそうね、信じろとまでは言わないけど、――あなたの側へ着くという企みを、邪魔しないでほしいわ」
「そう言ってもらえると、頷く以外にねェな」
変わらず、まったくもって納得は出来ないが。
少なくとも現時点では、あの夜の様に殺し合うことはなさそうだ。
そう、呑み込むことにした。
ただ……、
「ただ一つだけ言わせて貰うぞ、リリーシャ」
「なに?」
「お前はあの夜、多くの人を傷付けて、何人もの人を死に追いやった。それは絶対に許せねェからな」
「ッハ、なーんだ。そんなこと」
リリーシャは、ニヤリと。
叱責へ、むしろ愉しげに歯を見せて。
「あなただって、人殺しの人喰いの癖に」
と、重ねて。
「それに人殺しの数って話なら、サリーユこそ断トツ首位じゃないの」
そんなことを、言い返して来やがった。
◇ ◇ ◇
疑念が払拭されることはなかったが。
しかしその後も俺たちは二人、この部屋に居残り、自然と話を続けた。……お互い眉を寄せて半ば睨み合う形という、おかしな状態ではあったが。
それもほとんどの話を、リリーシャが率先したのだから驚きだ。
別段静寂を嫌っている訳でも、気遣いからの話題提供でもない。ごく当たり前のように、彼女が話の方向性を舵取る。
「それで、簡単な状況確認だけど、あなたが倒れてから一時間もたってないんだよね」
「……そうか」
つまり時刻は深夜も深夜。部屋の中も外も、未だ暗闇に覆われている。日が昇るにも、まだ遠くかかるだろう。
気付けば耳を叩いていた微かな騒めきは、雨音か。そういえばリリーシャが火消しに雨を降らせるとか、そんなことを言っていたな。
「たったの一時間、か」
それにしては、随分深く落ちていたものだ。余程に消耗していたのか。……おまけに濃密な悪夢まがいのモノまで見せられたから、尚更に時間が経過しているように思えてしまう。
リリーシャが言うには、今のところ状況に変化はないらしい。
少し前から千雪が軽い見回りに出たそうだが、そちらについても音沙汰なし。不穏な気配等も感じられない為、恐らく何事も起こることなく、じきに戻ってくるだろうとのこと。
宣言の通り、正真正銘の休戦なのだろう。
そこに偽りがないから、俺たちはこうして腰を下ろして息を吐ける訳だ。
「結界式の強引な突破と、広域への攻撃魔法。まあ後者はあくまで牽制だったからそれ程でもないけど、あたしもかなーり消耗させられたからね。こうして座って自然回復は、本当にありがたい話」
「……魔法ってのは、じっと座ってると回復するもんなのか?」
「魔法方面の回復に関しては、軽い仕込みはしてるかな。体力や気力はゆっくりしてれば元気になるけど、魔力の回復って結構遅いから」
それこそ、一晩眠れば全力全快――とは、いかないらしい。
よく休み、よく食べ、よく生活し。それなりに時間と質をかけた休息によって、魔力はその身に蓄えられていくのだという。
「だから今は、『魔力の自然回復を補助する』魔法を使用中。この島ってなんの面白味もないけど、土地の生命力みたいなのは凄いからさ。そこから吸い取ってる感じ」
「魔法を使って魔力を回復って、それでいいのかよ」
「魔力の二を使って五を回復出来たら、プラス三になるでしょ。そんな要領で地道に回復中。お陰様でさっきよりも、そこそこやれるようになってきたかな」
「ハッ」
そこそこ、ね。
さっきのアレがその『そこそこ』にも満たないなんて、冗談キツ過ぎるだろ。
「それで? そっちの調子はどうなの?」
変わって、リリーシャが俺に問うた。
しかも、
「見たところ身体は万全そうだけど、……それとも万全以上過ぎる? それから精神面の方は、上手く混ざり合って落ち着いたワケ?」
「――――」
そんな、俺自身にもなかなか難しいところまで、容赦なく聞いてきやがって。
……コイツは。
「……知ってるのか」
「なにを? 色々と聞かされてはいるけど、どれのこと?」
聞かされている。
誰にだと、そんなことは尋ねるまでもない。
ともすればやはり、彼女がここに居ることは。
千雪やヴァンのことも含めて、恐らくは全てが……。
「それでー? どうなの?」
「……そう、だな。比較的落ち着いてるつもりだが、まだ不安定だとは、思う。こうして話してる感じは、大丈夫そうなんだが。精神的にも、身体的にも――」
言いながら、自分の腕を見下ろせば。
両腕は、赤黒い泥に覆われて、鋭く尖った凹凸が幾つも突き出して。爪先は、刃のように研ぎ澄まされた凶器そのもので。
まじまじと眺めてから、その右手を額へと上げれば、……案の定、前頭に突き出す大きな二角に触れることも出来てしまった。
……なるほど。
「――大丈夫ではなさそうだが。まだいける、筈だ」
「他人事みたいね」
「ハッ、まったくその通り。自分じゃねェみたいだ」
俺の知る俺は、こんな風ではなかった。
加えて俺が知らないことまでも、これでもかってくらい詰め込まれてるんだ。そのことを、思い起こされたんだ。
本当に、他人事だったらどれだけいいか。
「これからまだまだ戦う展開が有り得るっていうのに、相手を倒せば倒す程に暴走ってのが増すんでしょ? 鬼の血の特性がどうとかって話。しかも暴れ狂うだけじゃなくて能力値まで跳ね上がるとか、ほんと面倒なんだけど」
潰せば潰す程に敵は力を増し、より苛烈に暴力的になり……こちらも俺が力を増すが、同様に我を失い、暴れるだけの化物へ落ちていく。
引くも追い詰められ、進むも瓦解していく。
心底どうしようもない、どうするにも負に陥らされる。
「どうにか出来ないの?」
「……どうなんだろうな」
「まあ暴走とか狂乱って、いかにも制御出来ないって感じだし。こればっかりは起こることとして呑み込むしかないのかなあ」
「……そう、なるのか?」
「いやいや、首を傾げられても困るんだけど。曖昧過ぎ。はっきり言いなさいよ」
「俺にも分からねぇことだらけなんだよ。実際どうなってて、どうすればいいのか」
「それでもとりあえず、はっきり口にしなさい」
どう思っているか、どういう状況かではなく。
曖昧な現状を、それでも一つの形にしなさい。
リリーシャはそう言った。
「これは先生の、――あたしたちの師匠の受け売りだけどさ」
先生、師匠。
つまりは同時に、サリュの師匠でもある魔法使い。
「自己暗示。自分自身を『こうである』と自身で定義することは、とても重要である。特に魔法使いはイメージを具現化する為、必要不可欠となる」
「自己、暗示」
「そ。とりあえず一つの強い方向性を鵜呑みにして、間違ってたら修正する。そうじゃなきゃいつまでも悩んで、同じところでグルグル回ってるだけでしょー」
それでは時間の無駄。重ねて踏み出す足取りも覚束なければ、なんの意味もない。
だから一つの形を、強く持つこと。
そうして初めて魔法は――物事は強く成果を示し、正解も失敗も浮き彫りになるのだ、と。
「まーだからとりあえず、あたしはあなたが暴走する不安定な存在だって前提で考えてるから。あなたもそういう方向性でいけば?」
「……ああ」
確かに、それくらいがいいのだろう。
とても手放しに大丈夫だとは思えない。だから今は安定しているが、この先もう一度戦いになれば暴走する。それが現状だ。
その不安定さを、拳を握り締め、呑み込んだ。
そうしなければ、踏み出さなければ、蹲ったままではこの島を脱せられない。加えてその先も、この島の先にも進むことが出来ない。
自己暗示にしては随分後ろ向きだが、今は、そういう風にしか思えないから。それを前向きに変換させている余裕なんて、現状にはないのだから。
そう、思い込めば。
リリーシャが。
「それでさ、もう一つ気になってるんだけど」
「おう」
「いや、この状況で話すことでもないと思うんだけど、――まあ軽い雑談というか、これから死地に向かうってなったら、是非聞いておきたいことなんだけど」
前置きをして。
リリーシャはニヤリと、あまりいい予感のしない笑みを浮かべて。
「実際、サリーユとはどれくらい進んだワケ?」
案の定。
そんなことを聞いて来やがった。
……死地に向かう前に、それでいいのか。