第四章【36】「盤外Ⅴ」
ハッピーエンド。
神守真白は――シロはわたしたちへ向けて、そう言葉にした。
突き付けられたユーマの過去や、立ち塞がる数々の問題や、想定されてしまう最悪の未来。それらによって追い詰められ、迫られる非情な選択と行動。
暗雲に覆われて、ただ苦しみもがいて足掻いて。それでなんとか一つだけを掴み取ることが出来るかもしれないって、コレと決めたモノだけしか、守ることは出来ないって。
そんな状況の中で。
けれどもそれには、納得が出来ない、と。
おかしくないだろうか、と。
シロは、そう声を発したのだった。
「思慮が足りていなかったら、ごめんなさい。真白、頭があまりよくないですし、聞き落としてることもあると思いますし、想像力がまるで足りていないのかもしれないんですけど」
そう、前置きをして。
シロはわたしたちへ――オトメへ、突き付ける。
「どうしてそんなにも、悲観的になり切れるんですか?」
「――――」
「暴走の話も、片桐先輩の話も、この街の現状や暗躍者の存在も。全部全部、前向きになれないものばっかり並んでます。勿論っ、それが揺るぎようのない現状なので、仕方がないとは思うんですけど」
それでも真白には、圧倒され過ぎているように聞こえてしまいます。
全てを諦めすぎているように、思えてしまいます。
「そうですね、なんと言うべきなのか。……えーっと、ですね。そもそもの話、真白は、片桐先輩がそんなに好きじゃないです」
不意に、そんなことを濁しながら。
シロは続ける。
「と、言いますのも、真白にとって片桐先輩はいわゆる、普通に仲のいい年上の先輩なので。ただの先輩後輩、お友達って距離感が一番近いんでしょうか?」
それ故に。
「真白はサリュちゃんみたいに先輩を想っていないですし、お姉ちゃんみたいに変わった執着もしてません。勿論、血の繋がった家族でもありませんし――方や七尾さん的な、一つの組織の上に立つ特級の大妖怪でも、当然ありませんっ」
だから、シロだけが唯一。
この場において距離を置き、第三者として聞いていられる。
極めて客観的に、事態を把握し呑み込むことが出来る。
「言い方が悪くなっちゃうけど、真白は楽観視が出来ちゃうっていうか、入り込み過ぎることがないっていうか?」
その上で、その離れた視点において。
シロは、疑問に思ったんだ。
「だからこそ、真白は思っちゃうんです。どうして皆さんは、そうまで――『最悪』に囚われてしまっているんですか?」
例えば、ユーマは。
鬼である部分と人間である部分が、最初こそ不安定であっても、今は上手く噛み合っているかもしれない。
そうして良好な状態であったなら、そこから鬼狩りなる組織と、手を結ぶことが出来ているかもしれない。完全な和解とはいかなくとも、組織で意見が割れたり、誰かしらは仲間に立ってくれているかもしれない。
「それに、ここ数日見かけない千雪ちゃんや、そのリリーシャ、さん? って人も、色々と動いているんですよね。千雪ちゃんが申し分ないのは勿論だし、その魔法使いの人だって、サリュちゃんと同じくらい強いって聞いてますっ」
その二人が既に動いているなら、尚更に、なにかが好転している可能性は、十分に有り得てもいい筈だ。どころか二人の尽力によって、事態が解決に向かっている可能性だって。
それこそわたしたちが、ほんの少し手を貸すだけで、なんとかなってしまうところまで……。
それに、
「それにここには、サリュちゃんが居て、七尾さんが居て、先輩のお姉さんが居て――ちょっと見劣りするかもですけど、真白も黒音お姉ちゃんも力を貸せます。ちょっと面倒ですけど、ここまで来て放っておいたら、ぐっすり眠れないもんっ」
それでも、足りていないのか。
この街に襲い来る危機の可能性も、暗躍する何者かに対処することも、全ての事柄が『最悪』に陥ってしまうのか。
――いいえ。
きっとそれこそ、有り得ない。
それに現状だって、完全な悪い状況に振り切っていなかったら?
ほんの少し分が悪い程度だったり、想定しているなにか一つでも、解決していたら?
わたしたちは、まだ。
諦めるんじゃなくて、後手に回るんじゃなくて。
本当は、全てを覆すことが出来るんじゃないの?
「……わたし、たち、なら」
「そうだよっ!」
シロが、声を上げて。
オトメではなく――最後はわたしへと、言った。
「力を貸すって、先輩を助けるって、そう答えればいいだけだよっ!」
「……シロ」
「全部が上手くは行かないかもしれないけど、でもきっと、全部が悪くも行かないよっ!」
「――――」
――ああ、だったら。
だったら、尚更に。
「――私も」
重ねて、クロも。
頭を左右へ振るって――なにかを振り払うように、黒い髪を広げて、乱して。それからその黒く澄んだ瞳で、わたしと、その後ろのオトメを射抜いて。
「私も、片桐裕馬を選ぶべきだと思う」
そう、断言する。
良くも悪くも、あらゆる可能性が想定される状況ならば。
尚更に、がむしゃらに自分を貫くしかないと。
「きっとサリュさんも、私たちも、なにを選んでも後悔する」
決して全ては上手く行かないし、同時に、必ず失うものがある。そうして取りこぼしてしまったモノへの後悔も避けられず、きっと一生付き纏われることになる。
それでも、それが。
強い想いで、揺るぐことのない意志で選んだ道であるならば。
「仕方がなかったって、そう思えるから」
後悔は避けられない。
でも、だからって――後に悔いることに囚われて、今を決めるなんて有り得ない。
「それに、私だって納得できない」
今一度、声を荒げて。
シロと同じように、クロもまた、オトメへ叩き付ける。
「ねえ、片桐乙女。私や真白を東雲八代子のところへ送ったのは、何故? そもそも私たち姉妹を自分の手駒に置いたのも、なんの為?」
百鬼夜行の為か、それとも自分の利益の為か。恐らく理由は一つではなく、複数を鑑みていた筈だ。
だから、その中の要因には絶対に。
「そこには、片桐裕馬の為にって部分が、含まれているでしょう?」
いざという時の戦力の為に。
東雲八代子の下へ送ったのは、恐らく情報網を増やす為に。同時に南地区だけでなく、東地区へも自身の目を伸ばせるように。
街の出来事や、異世界からの攻撃への備えの一つであり――鬼狩りらの襲撃から、ユーマを守る為の一手でもあった。
あらゆる状況と対策を考えていたのであれば、絶対に。
ユーマのこの事態を想定していないことなど、有り得はしないのだから。
「今千雪やリリーシャって子が動いてるのだって、準備があってのことでしょう? 貴女はこれまで片桐裕馬の為に、色んなことを積み重ねて来たんでしょう?」
守りたいと思いながら、それでも、死んだ方がいいと考えながら。
だけど多くの人を使って、クロやシロをも使ってきた。
だったら引けない、引かせない。
それがクロの意志だった。
「勝手に使ったんだから、最後まで使いなさいよ。片桐裕馬を生かす為の駒として、使い切りなさいよ」
それとも、違うというのなら。
全ての段取りに、別の意味があったというなら。
「これまでの全てが、片桐裕馬を守る為じゃなくて――片桐裕馬を鬼狩りの手で殺させる為の用意だったって訳じゃないでしょう!」
だとしたらそんなのは、とんだワガママだ。
勝手に死なれるのは御免だが、納得出来る理由なら死んでも構わないって、そんな道理の通らない話はない。
「そうだとしても、そんな理屈は通させない! そんなモノの為に利用されていたなんて、絶対に認められない!」
だったら塗り替えてみせる。
無事助け出して、片桐裕馬を助ける為に利用されていたって、そうしてやる。
だからクロも、もう一度、わたしへ言った。
「選んで! 片桐裕馬を助けるって、そう決心して!」
「――――」
そうだ、二人の言う通りだ。
ユーマのことを、迷う必要なんてなかった。
全てが上手く行かなくたって、後悔を抱えることになったって、それでも、わたしは――。
そして、残されたもう一つの問題すらも。
わたしの背中を押してくれる声が、呼応するように発せられた。
「――ハハッ。こりゃあ見事なまでに、完敗サね」
ずっと黙り続けていた、ナナオが。
振り向き視線を合わせれば、笑顔のままに続けた。
「乙女。今度こそ、正真正銘に諦めるサ」
この件ももう、オトメの負けだ、と。
そう、審判を下した。
「アンタの用意した終わりの道筋は、もう絶たれてるサね。サリュはこの数週の孤独でも諦めることはなく、リリーシャを使った誤認の誘導にも乗らなかったサ。その子はまんまと、アンタの企みや矛盾を暴き、アンタに全てを話させた」
その上で、より重く辛い事実を叩き付けられて尚。
逃げ出すことをしなかった。諦める道を選ばなかった。妥協という未来へ踏み出すことを、決して良しとはしなかった。心を折ることが、出来なかったんだ。
だからこれは、わたしの勝ちで、オトメの負け。
「おまけに、おバカな妹に思考の狭まりを指摘されて、一度は負かした姉にも叱責されて。百鬼夜行の参謀として、立つ瀬がないサね」
生憎これ以上の狼藉は、上に立つ者として見過ごせない。
無用な無様を晒すことも、許しはしない。
「またしてもアンタは、諦めることを、諦めるサね」
否、それだけでなく。
今度こそ――。
「今度こそ、正真正銘、あの島からゆー坊を救ってやれ。らしくなくとも一縷の望みに縋って、足掻いてみせな」
それに、と。
ナナオもまた、その心根を語った。
「アタシとゆー坊との仲はもう、短くないサね。情もある、忖度もしてやりたい。なによりオトメや千雪、大きく世話になった二人の大切な人サ。出来る限りのことはしてやるサね」
だから――ユーマを助けに行くことを、許可する。
それがナナオに出来る、最大限の助力であり。
わたしたちが欲していた、最後の条件だった。
「この街は、アタシが責任を持って守ってやるサね。百鬼夜行、厳戒態勢ってね」
「ッッッ! ナナオっ!」
「ほんとは助けに行ってやりたい心地なんだけどねぇ。そこはほら、アタシにも百鬼夜行の長としての立場があるサね。個人よりは、組織や街を優先しなきゃならない」
「……ええ、それは」
「それにね、取り決めもあるのサ。例の過去のゆー坊の件で、アタシはあの島に出禁でね。蜘蛛女と共々、事態を収束させた功労者として鬼の身柄を譲るが、勝手に動き回って掻き回すヤツらを、二度と迎え入れるのはご免だーってサ」
職務怠慢や悠々自適は糾弾こそされても、罰せられることはない。しかし契約や取り決めというものには、慎重にならざるを得ない。それは時に、組織だけでなく、世界をも大きく変えることに成り兼ねない故に。
それらの要素も含め、ナナオはこれ以上、事態に関わることは出来ない。
だから、その手に及ぶ範囲、全ての事柄を任される。
後顧の憂いのことごとくを引き受け、取り払うことを約束する。
加えて、ナナオは続けた。
「……あー、後ね。悪いんだけどアタシは、完全にあの子の側に回ることも出来ないサね。立場だけでなく、心情的にも。乙女の考えや鬼狩りの判断も、なくはないと思っているサ」
「ユーマを助けない、殺すってことが?」
「そそ。――鬼狩り、鬼の専門家たち。それが殺すべきと判断を下すのだから、そうする必要があるってことサ。なにより向こうも、存続を危ぶまれる立場の小さな組織。説得出来る理由もなしに、こちらに所属の妖怪を殺しはしないサね」
もっとも気に掛かるのは、何故かその理由が未だに提示されていないことだけれど。
少なくとも、大義名分がある筈だ。
「これはね、鬼狩りにとっても重要な分岐点。それで殺すと決めたのなら、それは避けられなかったこと。アタシはそれ程の判断を一方的に否定は出来ないし、立場上先陣切って妨害することも難しいサね」
だからユーマのことは、傍観だけに務める。代わってこの街に降りかかるであろう火の粉を、振り払ってみせる。
恐らくはそれが自身の最善だと、ナナオは言った。
「ま、安心しなさい。百鬼夜行には優秀な人材が多いサね。どーせアタシの出番もないサ。……それでも後衛には、この九尾の狐が控えている。これじゃあ不足かい?」
そう、右の手のひらを、わたしたちへかざす。
一筋の光明を、最後の手を差し伸べてくれる。
「――――」
それなら、もう。
あとはオトメと――わたしだ。
「ん」
思い出す。
荒れ狂ったユーマの姿。わたしの前でその力を振るった、あの夜の暴走。
頭を吹き飛ばされなのに立ち上がって、身体を大きく膨れ上がらせて、リリへと殴りかかり、一時は圧倒さえしていた。
黒い肌、赤い眼光、天を衝く二本の角。
それは恐ろしく、おぞましく――でも。
そうなる前に、彼はわたしへ言ってくれた。
そうなった後に、わたしは彼へ言った。
――どうしたいのか、どう在りたいのか。
「そうよ」
ユーマがどう在るか。それも大事だけれど、それよりもっと大切なのは。
ユーマは、どうなりたいのか。それも、想像や推測じゃない。
今のユーマの言葉で、聞かなきゃいけないんだ。確かめなきゃ、いけないんだ。
だから。
「――オトメ」
わたしはようやく、もう一度。
変わらぬ薄暗闇の中で、真っ直ぐ正面から、オトメへと向き直る。
顎を引いて俯きがちに、それでも鋭く冷たい視線を――色濃く濁りながら、僅かな光彩をこぼす瞳を、逃がすことなく見つめて。
わたしは、宣言する。
「オトメ。わたしは、ユーマを助けるわ」
「……そうか」
「捕まってるなら、鬼狩りの人たちに囚われているなら、わたしは戦う。――もしも間に合わなかったなら、腹いせに滅茶苦茶にしてから、すぐに街に戻ってくる」
「……ハッ。なるほどそれは、妙案だな」
「だから――」
だから、オトメ。
これは、あなたが提示して、けれども。
――わたしが、決めたことだから。
「だからオトメ、わたしに力を貸して」
ユーマを助けたくて、だけどユーマを終わらせてあげたくて――未だにその迷いを捨てられないなら。
ユーマをなんとかしたくて、だけど街のことが不安で――未だにその最悪に苛まれているなら。
シロの言ったハッピーエンドが見えないなら。
クロの言った後悔が怖いなら。
ナナオの力が、それでも足りないというなら。
「――わたしに、賭けなさい!」