第零章【10】「前日譚Ⅹ ~エピローグ~」
私がその場へ辿り着いた時、森は、静寂に満ちてしまっていて。
全ては、取り返しのつかない形で、終わってしまっていた。
狂乱した大鬼が暴れ回った、荒れ果てた空間。
そこにただ一人立つのは、私たち鬼狩りの将である鴉魎。その傍には、仰向けに倒れた幼い子どもが――私の弟が、胸を大きく上下させて呼吸を繰り返して。
それから、彼が。
身体を削られ左腕の欠けた彼が、血まみれで、膝を付きピクリとも動かない状態で。
「あ……」
鬼将が立ち残り、けれども横たわる鬼が生きている。そんなのは有り得ない。それは鬼を狩るべくして放たれた鴉魎に、矛盾してしまう。鴉魎は弟を狩り取る為に、鞘入りの刃を携えていた筈だ。
じゃあ、この結末はどういう?
そんなの、決まっている。
彼が、――ユウマが。
「――遅かったサね」
そう、呟いて。
九尾の狐、九里七尾も今更に、木々の奥からこの場所へと姿を現した。
別れた時のままに右腕を失って、もう片方の左手には、目を閉じてぐったりとした千雪を抱きかかえている。意識はないようだけれど、見た限りでは命に別状はなくて。
それからあの人は、もう一人、後ろに同行者を連れていた。
黒い和服に着飾った、髪の長い幼い少女を。
「フム。どうやら事態は、一旦落ち着いたようじゃな」
彼女は、立ち呆ける私や九里七尾に構わず、言葉をこぼしながら歩みを進める。
進行方向は真っ直ぐに、倒れた弟だ。
「方々で暴れておった未熟な鬼狩りたちも、意識を落として鎮静化されておるようじゃ。一件落着、といきたいところじゃが」
その歩みを、カチリ、と。
鴉魎が静かに鞘を鳴らし、微笑みを浮かべ牽制する。
けれども少女は足を止めることなく、更に一歩を、二歩を踏み入った。
やめておけ――と、そう言って。
「残念じゃが、お主では妾は止められぬ。妾一人であるならばいざ知らず、女狐めをも敵には回せぬじゃろう? 妾の見立てじゃが、今のお主では身を捨てようとも、女狐を殺すには至れぬ」
「忠告、感謝致します。では――今より先に至れば、届く道理では?」
「……馬鹿げたことを言うでない。それに妾は別段、危害を加えるつもりなどない」
「では穏便に」
鴉魎は、静かに刀から手を離す。
すればすぐさまに、少女はゆっくりと、右手を弟へとかざした。
そしてそれぞれの指先から、細い糸をゆらりと放つ。
言葉の通り、危害を加えることもなく。それらの糸はただ弟の身体へ触れ、彼女らを繋ぐばかりだった。
私にはそれがなんなのか、まるで分かりはしなかったけれど。
やがて少女は、なるほどと、そうこぼした。
「暴走は完全に収まっておるな。どうやら自発的なモノではないようじゃが」
「でしょうね。止めたのは、彼だ」
「うむ。……しかしコレは、止めたというよりは、結果的に止まった形じゃのう」
「と、言いますと?」
尋ねる鴉魎へ、少女は答える。
コレの本質は――作り替えだ。
この鬼は、精神性を別のモノへと変容させられている。
「なんとも珍妙、そして強引な術じゃ。こやつの内側に、別の要素が上書きされておる。それも元あったモノを消去する訳でもない、重ね合わせのグチャグチャじゃ」
見るに堪えない下手くそ。百点満点で採点すれば、精々十点前後。赤点も赤点、酷過ぎる有様だと、そうまで言った。
それはまるで、質の悪い悪霊にでも取り憑かれ、精神を乱されているような。特定の声を延々と囁かれ続け、思考を侵される様な。
「その癖、相当根深いところまで侵食しておる。術の力に反して効力が半端というか、……いや、そもそもコレは、他人をどうこうする用途では使われていなかったか」
「――それで、結局のところ、どうなっているサね」
ようやく言葉をこぼした九里七尾は、千雪を抱えたまま少女へと踏み出し。
けれどそれをも、彼女は静かに空いた左手を上げて制する。これは自分の専門分野だ、立ち入りは不要だと。
その上で、少女は九里七尾へも答えた。
「有り体に言えば、現状この鬼は、この男の精神に侵されておる」
と。
「精神、に。……どういうことサ」
「一種の洗脳と思えばよい。あらゆる物事へ対して、どのように考え、どのように感じ、どのように思うのか。そういった思考の方向性を誘導されておるのじゃ」
更に、その植え付けられた方向性は、鬼とはまるで相反するものばかり。
自分は人間である。
人を喰らってはならない。
命を粗末にしてはならない。
狂乱に陥ってはならない。
他者を、繋がりを大切にし、生き続けろ。
「高慢にも、真っ当な人間にでもするつもりだったのか。……死の間際にわざわざ力の限りを尽くして、さぞかし大層身勝手な正義感や、使命感に急かされていたのだろうな」
もっとも、それで満足して逝ったのであれば、なにも言うことはないが。
言って、少女は続ける。
「じゃが死に際であった故か、慣れていなかったからか。結果、術は大きく失敗し、この子鬼めはどうしようもない矛盾を背負わされてしまった」
人の肉に飢えながら、人の肉を拒絶させられ。
命を欲し牙を剥きながら、けれども奪うことを嫌悪させられる。
揺るぎようなく残虐な妖怪でありながら、心優しい人間として生きることを強要される。
こんなモノ、噛み合う筈がない。
恐らくは、まともな理性を持ったまま生きることは不可能だろう。苦悩し続け、いつか全てが瓦解し、暴れ狂う鬼へと回帰するだろう。
当然、そんな不安定な存在を解き放つことなんて、出来る筈もない。
鬼は本来味わうことのなかった、ありとあらゆる悲愴に晒されながら、それでも暴走していないからと、長く生きることだけを許されるのだろう。
「……あ」
私は、それが嫌だったから。
そこから解放してあげたかったから、事を起こしたのに。
ユウマは、それを――。
「しかしまあ、それはあくまで」
あくまで、今のままなら、だが。
遅れて、少女はそう付け加えた。
方法がない訳ではない。
――妾であれば、手段がある、と。
「妾であれば、この鬼子を救えよう。死に逝ったこの男にも、手向けを送れよう」
少女はニヤリと、口元を緩め。
鴉魎や九里七尾や、私を見渡して、言った。
「今のままではチグハグじゃ。しかし妾がそれを整えれば、いい塩梅にすることが出来る。――どころか、人間性を強めることも出来るであろう」
植え付けられた人としての精神性を、上手く貼り合わせ、馴染ませることが出来る。不完全で不出来なモノを、完成へと導くことが出来る。
他でもない、大妖怪、女郎蜘蛛の自身であれば。
また、逆も然り。
貼り付けられた人間性を引き剥がし、純粋な鬼へと戻すことさえも。
「もっとも妾に手を出せるのは、精神性のみ。人間としての内側を確立させたところで、正体そのものはなにも変わらぬ。半妖でありながら、鬼の血を持ち過ぎる失敗作、であったか? 結局はその通りじゃ」
この夜のように、なにかの弾みで暴走する危険性は変わらず付き纏う。そういった「もしも」を考えるのであれば、余計な手を下す必要なんてない。
たった今、ここで殺しておくのが一番。
「どの道、妾が手を尽くしたところで、人間らしい飾り付け。感情を弄り過去を作り替え、あたかも人間らしさの強い精神に模るだけ。なにも変えられはしないのじゃ」
けれど、もし。
長きに渡り、ソレを保ち続けることが出来たなら。やがて真にソレを受け入れることが出来、或いは学ぶことが出来たなら。
生き行く中で変化し、定着することが叶ったなら、その時は……。
「故に、問おう鬼将よ」
少女は、鴉魎へ。
私たち鬼狩りの頂点に立つ、その剣士へと問い質す。
「果たしてこの鬼、お主はどう扱うべきと考える?」
成れの果ての後に、成り損ないとなり倒れた、この小さな子どもを。
どうするべきであると、判断を下すのか。
「――そう、ですね」
鴉魎は静かに俯いて、右手を口元へと寄せ。
いつものように、ニコリと、気味の悪い屈託のない笑顔を浮かべた。
そうして返したのは――どうにもしません、という。
なに一つとして取り合わない、全てを放り投げた回答だった。
「手出しをしません。考えることもしません。お手上げです」
鴉魎が命令されたのは、暴走した鬼の処分。鎮静化された鬼をどう扱うかなどは、一切の指示を受けてはいない。到底迂闊に、自身で判断を下せる領域の問題でもない。
「そういったグレーゾーンに手を出して、後から色々と押し付けられるのも御免です。ですので、口添えはお断りさせていただきます」
「なんと、責任感のないヤツめ」
「滅相もない。その責任を背負わないようにしているのです」
「では意気地なし、とでも言うべきかのう」
「なんとでも。俺はあくまで末端の兵隊、標的を狩る刃に過ぎません。……なにより、こんな幼気な俺に、この子や島の命運を背負わせるような、そんな大問題を預けないで下さい」
「ハッ、ぬけぬけと言いおる。しかしまあ、もっともでもあるか」
「それに、ですね」
重ねて、それから鴉魎は。
静かに視線を、膝を付き朽ちた彼へと向けて。
「――お願いを、されましたので」
そんなことを言うのだった。
「立場上、任務や命令を与えられることは――行動を強要されることは当然ですが」
頼むと、お願いだと、そんな風に縋られたのは初めてのことだった。
鴉魎は言って、優しく口元を緩める。
果たして、それがどういうものだったのか。
私たちにはもう、知りようのないことだけれど。
この場で鬼将が鬼の首を絶つことは、大凡有り得ないと宣言された。
「ふむ。では、次じゃな」
続けざまに、女郎蜘蛛と正体を明かした少女は、同じく大妖怪の九尾の狐へ向く。
お主はどうする、どう考える、と。
「言っておくが女狐よ。先程ヤツめに偉そうな口を叩いたが、妾は此度の責任を、一切背負う気がない。妾はあくまで方法があることを提示し、それが妾には出来ると言ったまでじゃ」
「……言ってくれるサ」
九里七尾は息を吐き、肩を落とす。
それからもう一度、しっかりと少女へ向き直り、言葉を返した。
「いいサね。――片桐の弟を生かせと、状態を安定させろと、このアタシが命令する。合わせてその鬼の所属を百鬼夜行とし、アタシの下で預かることも約束するサ」
結局この後、どう転ぶかは分からない。島との協議の結果、最後には始末することになるかもしれない。そうでなくとも、再度何処かへ幽閉されることになるかもしれない。上手く行ったところで、果たしてどれだけの条件を背負わされるか。
それでも、九里七尾は宣言した。
「二言はないサね。アタシは生きようとするこの子の味方をすると言った。この先それを後悔しようとも、心変わりし殺す側に回ることがあっても――この島で、この条件下で、アタシはあの子を見捨てることはしないサね」
「当然、妾への貸しにもなるが?」
「上等サね。所属は違えど、同じ街を根倉にする日陰者同士。世話にもなれば、逆に世話を焼いてやるサ。なんでも言いな。――だから!」
だから中途半端は許さない。
誠心誠意を以って、最大値の成果を叩き付けて、貸しを取り立てに来い。
「それでこそ、アンタにも最高の有益になるサね」
「はっ、誠に道理じゃな。妾とて気ごころを許せる相手ではないが、それ故に信用を失墜されては面倒極まる。――よかろう。妾が自ら提案した故、鬼子には最大値の成果を約束し、責任を負わせてもらおう」
九里七尾が頷き、少女もまた承諾する。
この瞬間に、あの子の不安定な状態は、恐らく取り除かれるであろうことが約束された。それは恐らく彼女の言葉通り、最大の成果へと辿り着くだろう。
その上責任の所在や、新たに生きる道が開かれたなら、所属し預かる組織までもが。私には及びようのない話が、着々と積み立てられていく。
ああ、本当に。
私には、なに一つとして辿り着けなかった、選ぶことすら出来なかった事柄たちが。
「……私、は」
私では、あの子を殺してあげることすら。
いいえ、それすらも、達成することは出来なくて。
けれどそんな私にも、少女は問うた。
最後は私だと、この身を視線で射抜いた。
「無力を恥じるか? 無能を嘆くか?」
「っ……」
「まあそれは真っ当に、至極当然であるが。……それらに囚われるは愚鈍が過ぎる。これ以上の無様を晒したくなければ、状況へ追い縋れ」
少女は並べる。
無力であっても立ち止まるな。
得難い希望が提示されたなら、どれだけ険しくとも、どれだけ倒れようとも、決死で這ってでも進め。
無能であっても考えをやめるな。
望まぬとも配られた手札を、予想の埒外で展開されていく状況を、常に思考し最善を選び続けろ。
既に過去となった『諦め』に、囚われるな。
『諦め』に冷え閉ざした魂に、再び炎を灯せ。
「問おう。――お主は鬼子の為に、妾たちと手を取るか、否か?」
提示された、その道行に。
「――――――――」
私は。
私は――――。
そうして過去の私は、九里七尾と東雲八代子の手を取って。
今一度、弟の命運を分かつこの瞬間に、立ち会わされることになった。
一人、光の落ちた隠れ家で呟く。
「……裕馬」
あの日、弟を助けてくれた彼から取った。
漢字は当て字だが、確か東雲八代子が付けたのだったか。
裕福な馬で、裕馬。
望まぬともあらゆる人たちの手を借りて生き、同じようにこれからも育てられていく。ある種の皮肉を込めながら、けれども決して後ろ暗さの暗示ではない、強い名前。
「……どうするべきなんだろうね」
或いは、どうするべきだったのか。
今この時になって、戦う覚悟と同時に、あの時の『冷たい諦め』すら湧き出でてしまう。今度こそ清算するべきではないのか、終わらせてあげるべきではないのか、……なんて。
結局、そんな迷いがあるから付け入られた。対策しているつもりで、あんなにも堂々と真正面から全てをご破算にされた。図書館を散々にされて、成す術もなく裕馬を奪われて、まんまと私は生き延びて。
「まったく」
どう動けばいい?
今、私に提示されているものはなんだろう?
なにを考えればいい?
今、この手にある手札と状況はどうなっている?
この後、手筈通りに進んだなら。
私はサリュと対面して、裕馬の全てを話すことになる。
「……サリュ」
森の裏手の墓にいるらしく、七尾さんがそれを呼びに行ってくれた。間もなく私も神守黒音へ連絡し、例の件についても伝えるつもりだ。そうなれば十中八九、サリュは隠れ家へと来てくれるだろう。
それで、全てを話したなら。
サリュは私に、裕馬に力を貸してくれるだろうか?
そうなったなら、サリュの力が得られたなら。
私はどうすれば、裕馬を助けてあげることが出来るだろうか?
それとも、やっぱり私は、裕馬を。
「……諦める、べき、なのか」
裕馬個人の問題。
鬼餓島との対立や、立ち塞がる鬼狩り組織。
だけでなく、あの日街を襲った連中の、更に後ろに隠れた正体不明の敵。
この状況下で私は、なにを選ぶべきなんだろうか。
「――――いや」
その選択は、最後でいいのかもしれない。
今は状況を把握して、考えて、事態に当たる。それでいいのかもしれない。
少なくとも、サリュと話してみないことには――私の道は開かれず、自ら閉ざすことも出来ないのだから。
読了ありがとうございました!
これにて第零章は終了となります!
次話より舞台は現在へ戻り、第四章後編を開始します!
休戦の後、果たして裕馬たちを待ち受けるモノはなんなのか。
そして過去を知ったサリュたちは、これからどう道を選ぶのか。
いよいよ本編も、佳境の章へと入ります!
どうぞお楽しみ下さい!