第零章【08】「前日譚Ⅷ」
自分で言うのもなんだが。
俺の生まれは、まるで恵まれたものではなかった。
まずは、世界が終わっていた。
戦乱に包まれ、暴力が渦巻き、権利もなにもあったものではない。昨日まで当たり前のように顔を合わせていた相手と、なんの予兆もなく突然に別離したり、立っていただけで次の瞬間には倒れていたり。
食事や呼吸のような間隔で人が死んで、弔われることすらない。ただただ死体が転がされ、山が積み上げられる。
果たしてなんの為に戦っていたのか、俺には知る由もなかった。
そして母親は、いわゆる売婦だった。
毎晩違う男と身体を重ねて、日銭を稼いで、いつしか知らぬ間に俺を身籠った。だから父親は分からなかったし、そんな母や俺に寄り添ってくれる男も居てはくれなかった。
お金もなければ、住む場所も転々と移り変わって。なるほどもしかすると、俺以上に母親こそが恵まれていなかったのかもしれない。
なにしろ、そうして生まれ落ちた俺までもが――この顔を削がれていたのだから。
力尽くで皮膚を剥がされて、その上焼け焦がされたような、グチャグチャな暗色の顔で。……剥き出しにギロリと除く双眸すらも、この世の全てを憎むように濁ったモノで。
食うにも困り、生きることすら奇跡の積み重ね。そんな環境の中で、まともな身体すら貰えはしなかった。
そんな俺を生かすべきではないと、誰もが口を揃えたらしい。決して多くはない友人と呼べる人たち、全員が全員だ。
今の俺だってそう思う。殺してやれ、その赤ん坊には不幸しか待ち受けていない。生まれたことそのものが間違いだったんだ、って。
だけど、そんな俺に、母親は言ってくれた。
「――生きようと、しているから」
我がことながら、本当に馬鹿らしいが。
なにも知らない産まれたての俺は、必死に泣き叫んで、懸命に生を訴え、動いて藻掻いて大変だったらしい。
加えて、はっきりとした意識も持っていなかったくせに、――産まれて間もなく言ってくれたその言葉を、今も覚えている。
心底馬鹿な母親だ。なにも分からないガキの戯言を真に受けて、感情的に生かしてやろうとしやがって。どう考えたって生まれるべきではなかったし、本当に俺を思うなら、理性的に殺してやるべきだっただろうに。
なのに結局、俺は生を繋がれて、一人立ちが出来るまでに育てられて。
でもやっぱり、ここは過酷な世界だから。
気付けば幼くして、母親は死んでしまった。
その時居住していた廃屋が、突如として攻撃対象になって、爆破された。
当然一緒に居た俺も、爆発に巻き込まれて身体を焼かれて、崩れ落ちた建物に潰されて。きっと一緒に終わるんだろうって、遠くなっていく意識をそのまま、抵抗もなく手放すつもりだったのに。
だけど、またしても生かされてしまった。
助けられてしまった。導かれてしまった。
彼女に――。
「大丈夫? まだ生きてる? ……まだ、生きたい?」
「――――」
多分俺は、なにも言わなかったと思う。
けれど彼女も、呼吸を止めないこの身を生かした。ばかりか、母親以上に俺へと沢山のモノを与えてまでくれた。
彼女は俺を救ったばかりか、更に先の道を示してくれたのだ。
この世界には、先がない。
だから生きたいのであれば、ここではない、遠くへ離れるべきだろう、と。
その為の手段を与えてあげる、と。
そうして渡されたのが、異世界へと渡る力。
この身へ刻まれた、――『転移の魔法式』だった。
「ずっと遠くの世界になら、君が生きたいと思える場所があるんじゃないかな」
彼女は自分を、魔法使いと言っていた。
黒く長い髪で、黒衣を纏った大人びた女性。世界を渡る一人旅の道中、例によってこの世界にも立ち寄った。
結婚して一人娘が居て、今は夫が娘の面倒を見てくれている。夫は弱くはないけれど、自分が強過ぎるから家は任せたと、そんなことを話してくれたか。
「世界を渡って、世界を見て、出来ることなら人助けやらお手伝いやら。でもって、出来ないことは手を出さないし抱え込まない。運が良かったね、少年くん」
助けるとしても個人に留まり、世界や国を変えようとはしない。してはいけないし、出来る筈もない。あくまでも、行き掛けの駄賃程度。見過ごせない自分を満足させる為の、自己満足な人助け。
自分は大切な人が居るから、あくまでその人たちが一番。その人たちの為に、自分の命を蔑ろにはしない。
大切な人が居ないのなら、それはそれで自分を一番に。自分の為に生きて、自分自身の為に助けなさい。
そんな初心のようなものも、彼女から教わった。
助けて貰って、傷を癒して貰って。
かれこれ五日も一緒には居なかっただろう。彼女と接せられたのは、本当に短い時間でしかなくて。
それでも沢山の言葉と、沢山の知識を――力を与えて貰った。
もう一度、今度こそ前を向ける程に。
別れ際に、彼女は言っていた。
「いつかわたしの世界に行ったら、よく見てあげて」
面倒だけれど、悪い世界ではないから。
それにいつか、わたしと繋いだ縁が、君を絶対にその世界へと連れて行くだろうから。
気に入ってくれたら嬉しいな、と。
それから、
「旅の中で、アークスフィアって名前に付く子に出会ったら、良くしてあげてね」
思えば、この島へ――この世界へ訪れて。
海岸で出会った乙女の言葉を、理解することが出来たのは。
彼女が意識を失っていた俺に、既に触れていたからなのか?
それとも、この世界へ訪れる以前に……?
「――――」
きっと、そういうことなんだろう。
俺は最初から、この世界との縁を持っていたんだ。
ああ、だとしたら。
彼女との縁が、遂にこの世界へと導いたなら。
それはつまり、『始まりの縁』を清算したってことなのかもしれないな。
「……ハッ」
なるほど、いよいよ終わりじみて来たって訳だ。
ボタリ、ボタリと。
ただの流血にしては、重たい音が耳を打つ。
開かれた左半身の空洞からは、止めどなく熱が零れだし、残った右の手のひらでは到底塞ぐことは出来ない。凍えていく身体は次第に小刻みな震えを発して、か細い呼吸も異物感でままならなくて、けれども幸か不幸か、痛みだけはまったく感じられなくて。
気付けば、左の視界もやけに暗い。鼻も詰まっているのか、臭いの類も分からなくなってしまったし……音も、遠くなっていく。
唯一、自分の内側で鳴り立てる心拍音だけが、なによりも煩い。
まだ終わるな、一分一秒でも、諦めるなって、往生際が悪い。
「……ッ、たく」
思わず口元が緩んだ。
生まれた時から変わらない。いつだってこの身体は、生きることに真っ直ぐで、貪欲で、俺のことなんてお構いなしだ。
馬鹿だよ、ほんとに。
どうせ死ぬんだから、楽に終わらせてくれればいいってのによ……。
「――ッツツ!!? ユウマさんッ!!!」
遅れて、声を上げた千雪が。
慌てて視界の端に飛び出して来るも、――大きな右腕に振り払われ、吹き飛ばされてしまった。
まるで纏わりついた羽虫を追い払うかのように、いとも簡単に。白色の着物は成す術もなく、木々の向こうへと追いやられてしまう。……千雪だって、なんらかの力や知識を持っていた筈なのに。
だからこそ、立ち塞がる大鬼は、その右手の甲を白い薄氷に包まれていた。
けれど、それだけだ。あっという間にパラパラと、何事もなかったかのように剥がれ落ちてしまう。
鬼は歯を剥き、笑った。
「ハハハッ! 余計な茶々入れるんじャネェよチビ雪ィ! テメェはオレの子を産んでくれるんだろうがァ、あァ!? 潰れねェように大人しくしてなァ!!!」
「……」
「つー訳で、安心しなァ。この場でオレが喰うのはテメェだけだ。生憎酷ェ空腹でなァ。暴れないように最低限の、なんつークソみてェな食事制限くらッててよォ」
「……っ、……ぐ」
「おォ、悪ィ悪ィ。生きてるだけで苦しいよなァ。すぐに終わらせてやるよ」
そう言って、鬼は更に一歩を踏み寄る。
残念ながら、俺には身じろぎ一つすら命懸けで、後退して逃げるなんて到底不可能。晒される牙を前に、それを受け入れることしか出来ない。
俺ではもう、この状況をどうにかすることなんて、出来なくて。
だから、僅かな時間であっても。
もう少しだけ生き永らえることが出来たのは、――『彼』のお陰だった。
唐突に、ガクリと。
鬼がその場に膝を付き、動きを止めた。
「――ア?」
驚いたのは、それがまさしく文字通りに――膝から下を失い、膝を大地へ下ろされたのだった。
重ねて、それだけに留まらない。
握り締められたヤツの両拳が、唐突に音もなく解け、輪切りに細かく斬り落とされていく。それはそのまま手首へと肘へと駆け上がり、肩口までに届き――鬼は両腕を共に、バラバラに刻まれた。
そして、直後。
俺と鬼とが真近に対面する、その合間に、小さな影が入り込み。
「――ゴ!!?」
鬼は、その胸部に大穴を開かれ。
正体不明の攻撃による衝撃で、大きく後方へと吹き飛ばされた。
「……あ」
闇より暗い赤黒い刃を、僅かに差し込む月の光へ晒し。ひるがえる黒衣は紛れもない、この島に所属する戦士を呈する。
けれども『彼』はあまりにも小さく、幼い子どもの様相だった。
「……ああ、なんという。時すでに遅し、ですか」
少年の握るその刃は、身の丈以上の長刀だった。
子どもの身長を遥かに上回り、腕を下ろせば地面へ弾かれるだろう。それ故に彼は右手を横へと上げたままに、長刀を持ち上げ構え続けている。
驚くは、それ程の刀を持たされていることも、軽々と右腕一本で携えられていることも。
だが、それ以上に。
彼ならば、その刀剣であっても軽々と使いこなせるであろうと、そう確信してしまう程に。
彼が、強さを纏っていたことだ。
「……っ」
感覚が馬鹿になったこの死に体でも、はっきりと理解出来る。まともな状態で対面していたなら、どれだけの重圧に潰されていただろうか。
この子は間違いなく――七尾さんに匹敵する類の、ヤバい存在だ。
「見覚えのないお顔の方だ。正規に訪れたお客様という訳でもないのでしょう。……ですが」
少年は前に立ち、ちらりとこちらへ振り返って。
――キツく眉をひそめたままに、「ごめんなさい」と、そう謝ってくれた。
せめてもの手向けに、仇の鬼を葬りましょう、と。
「…………か、」
仇の、鬼。
俺を死に至らしめる、鬼。
俺の人生に、幕を下ろす相手。
「……待、っ」
それは、違う。
確かにそうには違いないが。
仇だの、手向けだの、そんなモノは求めていない。
「■■■ガガガ■□■■!!! 畜ッ生!!! 畜生ッッツツ■ツ!!!」
ヤツが飛ばされた、遠くない木々の向こうから。
絶叫がこだまする。バチバチと放電する音と、紫電の光が発せられている。恐らくアレだけの攻撃を受けながら、未だに生存して治癒が行われている。
それでも彼ならば、あの鬼を殺し得るだろう。例えこの後ヤツが襲い掛かって来ようとも、すぐさまに逃げ出そうとも、必ず命脈を絶ってみせるだろう。
片桐乙女の――あの鬼の姉の、望み通りに。
あの叫びの一切を、押し潰しながら。
「クソ!!! クソクソク■クソッツ■■ツ!!! そもそもなんだッてオレは、こんなにもグズグズとッツツ!!? もッと暴れろ!!! でないと、でないとこんなところでッヅヅヅ!!!」
生きようとしている、アイツを。
俺は――。
「……待づ、で、――ぐれ」
待ってくれと。
擦り切れるような声で、少年へと縋る。
「……頼、む。……お願い、だ」
一音一音で命を削りながら、自ら終わりへと歩み寄りながら。
それでも彼へと、願った。
「……殺ざ、ないで……ぐれ」
「――――」
果たして、彼はなにも言うことはなく。
ただこちらへ視線を向けて、けれどもそのままに、動かないで居てくれた。俺の言葉へ頷くことも、断ることもせずに、ただ立ち続けて庇ってくれていた。
それが、彼の言う手向けだったのかもしれない。
仇ではなくヤツの生存を望むというのなら、せめてこの場は、俺が事切れるその時までは、手を出さずにいてやろうと。
或いは本当に、見逃してくれるつもりだったのか。なにか思うところでもあって、俺の言葉で踏み止まってくれたのか。
その真意は分からない、けれど。
「……ッご」
死の間際。
暴れ出す心情や、諦めに至る本能を抑えつけて。全てを手放そうとする思考を、なんとか繋ぎ止め続けて。
その上で、残るモノを搔き集めて。
考える。
この状況を、この終わりゆく世界を。
彼に与えられたこの最期に、一体、なにが出来るのかと。
「……フっ……フ、ッ、……ッ」
他でもない、自分自身の為に。
この身の終わりに、自分を納得させる為に。
望まぬとも生かしてくれた、母親に報いられるように。
きっかけをくれたあの人の世界に、せめてもの恩が返せるように。
どこかで戦う乙女や七尾さんに、後で知られて誇れるような。
倒れる千雪や立ち会う少年たちに、なにか力添えが出来るなら。
この身が生きてこられたことに、意味が与えられるように……ッ!
それで、ギリギリに。
「……は……っ」
手遅れながら、見つけられた。
手遅れだから、気付けられた。
その異変が、俺によって引き起こされたモノだって。