第零章【07】「前日譚Ⅶ」
勝手極まる話だが。
正直のところ、俺はこの世界を半ば諦めていた。
幾つもの複雑な風習や、それらに抱えられた課題や問題。隣人でありながら公には手を取り合えないという、人間と妖怪という異なる種族たちが織り成す社会。どころか、人間側には妖怪を外敵として討伐する組織まで存在している。
島の外は、違うのかもしれない。閉鎖されたこことは違って、もっと自由気ままに広々とした世界が広がっているのかもしれない。
けれど、この場所が世界の一端であることは、揺るぎようのない事実だ。
加えて、たった今、年端もいかない少女が。
――自身の弟を殺してあげたいなんて、そんな願いを口にした。
ほんの一部に過ぎないとしても、そんな悲劇が、存在してしまっているんだ。
きっとこの世界は、なにかを掛け違えてしまっているんだろう。種族の違いが大きな溝となるなんて、少なくない話だ。残念ながら、上手くはいかなかったんだ。
そして悪いが俺は、それを直そうだなんて、解決に尽力してやろうだなんて、偉そうなことは思わない。そんな力は俺にはない。
なにより、世界は、あるがままに在るだけ。
良い悪いではなく、合わないのであれば、俺こそが速やかに立ち退くべきなんだ。
乙女や千雪、七尾さん。少ない時間ではあるが、関わってくれた人たちが居る。本当はもう少し、本国ってヤツも見て回りたかったが、断念しよう。事態も大変なことになっている真っ最中だが、生憎、俺に出来ることなどありもしない。
だから、心苦しさは残るだろうが。
隙を見て、速やかに転移しこの世界を去ろう。
そんな風に、感情を押し殺して、ただ冷静に状況を考えていた。
……なのに。
「――――」
不覚にも。
九里七尾の言葉が、胸を打ってしまった。
心を、揺さぶられてしまった。
「アンタの弟は、当たり前に生きようとしてる」
殺してあげたいと思うのは勝手だ。生きていることは不幸でしかないと、そう慮ってやるのは間違っていない。真に優しさなのかもしれない。
でも、他でもない鬼自身は――片桐乙女の弟は、生きたがっている。
だから叫ぶ。暴れて牙を剥く。
本人が生きたいと、そう言っているのに。
なにも聞いてやらずに、なにもしてやらないままに、ただこちらの判断で殺してやろうというのであれば――それは自分勝手なエゴだ。
「……あ」
その言葉は、その捉え方は。
幼い日に見送った、俺の母親の言葉に近しいモノだった。
本当に、馬鹿みたいだが。
そんな理由で、結局この世界に繋がれ、踏み止まってしまった。
燃え盛る炎に照らし出された、開かれた場所から一転。
俺は再び、森の中を駆けていた。
洞窟を離れ、次に目指すは――あの小屋へ。涼山千雪の所有地だという、あの場所へと戻っている。
先導するのは、その地主である千雪だ。
薄闇の中を懸命に、土草を蹴り上げ彼女の白着物の後を追う。
「もうっ! 本当に最悪っ!」
行く道を示す為、走る速度は緩めないままに。
千雪はちらとこちらを窺い、眉を寄せてそのまま続けた。
「ねえ! ユウマはなにも聞いてないよね!」
「は、は、ふ……はっ。……なに、が」
七尾さんに連れられ歩き回って、今度は急ぎの勇み足。重すぎる緊張やらプレッシャーも加わって、もうこの身体はヘロヘロだ。出来ることならば、走りながらの会話は遠慮したいところだが。
しかし千雪は、息も絶え絶えな俺に容赦はしてくれなかった。
「乙女お姉ちゃんの本当の狙いも、七尾さんたちの動きについても、なにも知らないんだよね? 知らなかったんだよね? 実は百鬼夜行と提携した異世界組織の一員だったり、鬼狩りの側に所属していたりもしないんだよね?」
「……全部、ノーだ」
なるほど、俺の状態に構わずではなく、構っている余裕がない訳か。
聞けば千雪は、この島へ送り込んだ等の七尾さんからも、なにも聞かされていなかったらしい。先程七尾さんに指摘された、島の調査と退路の確保。七尾さんらが到着した後になにが起こるのか、そもそもこの任務の果てになにが待ち受けているのか。
行く先の未来を描ける情報は、なに一つ与えられていなかった。
けれど、千雪は続けて言葉にした。
分かっている。自分の役割なんて、分かり切っている、と。
「私の役割は、こういう時の為の人員! 雑用係! 尻拭い!」
すなわち、七尾さんが先んじて千雪をこの島へ送り込んだのは。
後の盤面において、指示を出すことの出来る手足となるからだ。
「私がこの島に土地を与えられた涼山家の妖怪だからって、上手く利用されただけだーっ!」
「……そ、そうか」
頭をぐしゃりと掻き毟り、声を上げる。大人しそうな子だと思っていたんだが、随分荒れてるな。
……まあ、それはそうだ。状況からするに、彼女は七尾さんにも乙女にも上手いこと使われてしまい、その上、本質的なモノには関わらせて貰えていないのだから。
今この瞬間も、こうして、千雪は俺を安全な場所へと匿う為に案内をさせられている。まったくもって裏方。最前線に立って身体を張るわけではないのだから、決して損な役回りではないだろうが。
彼女ら二人は、その渦中へ飛び込んでいったのだ。気が気でないのも分かる。
俺だって似たようなものだ。本質には関われず、戦力としても役立たずの通告。もっとも偶然居合わせた異邦人の俺には、とても相応しい待遇だと思うが。
完全に話が付いた……という訳ではなかったが。
あの後、洞窟前のいさかいは一旦決着がついた。
片桐乙女は弟を思う故に殺めようと画策したが、七尾さんはそれを容認しない。否定こそしなかったが、自分は弟を生かす側に着くと、そう宣言したのだ。
九尾の狐は、あの子に肩入れする、と。
「……ッ」
吊り上げていた乙女を下ろし手放すと、彼女はすぐさまに距離を取り、七尾さんを睨み付ける。その視線には色濃い敵意が渦巻き、低く構えたままに戦闘の態勢を解くこともない。果たして敵うかはさておき、武具を失い丸腰であろうとも、十二分に抗うことは出来るだろう。
けれども、前のめりに傾く少女の身体が、再び飛び掛かることはなかった。……その胸中は、俺には計り知れない。
対して、七尾さんは構うことなく、俺へと向く。
「とりあえずまあ、ユウマは事が終わるまで隠れてるってことでサ」
散々振り回しておいてなんだが、ここから先はお役御免だと、そう言った。
「島の外へ連れていく約束もあるし、色々と聞きたいこともあるサね。特に、この島の件をどう考えてるのか、他の世界と比べてどうなのか、とかね。戦いが終わった後に、その知識を存分に貸して欲しいサね」
なんて、やんわりと手を貸すことも拒まれてしまった。
もっとも求められたところで、それはそれでどうしようもないので。
「……ああ、分かった」
悔しいが、とても妥当な判断だった。
「ユウマさん!」
「――っ、お」
呼ばれ、はっとなる。
気付けば少し開けて先を行っていた千雪が、速度を落とし目前にまで来てくれていた。こちらへ振り返り、様子を窺い眉を寄せている。
「体力不足? 無理なら少し休むけど」
「……いや、頑張るよ」
足を止めていられる余裕はない筈だ。
疲労で速度は落ちているし、これ以上は難しいが、今は出来得る限り前に進んだ方がいい。少しでも早く、目的の場所へ。……多少休んで回復したところで、鉢合わせたらその時点でお終いなのだから。
そう彼女の気遣いを断り、走ることを続ける。
まったく情けないが、俺には戦える力なんてない。
あの強大な鬼にはかすり傷一つ付けられないだろうし、他の暴走の影響を受けた鬼狩りたちも同様だ。生憎他者へと力を貸したりすることも出来ないし、知識もないから助言も無意味。ごねて同行したところで、完全にお荷物だ。
必然に、こうして尻尾を巻いて一目散に安全圏を目指している。
涼山の土地は禁則地故に、許可なく立ち入りは許されていない。それ故に現時点では、近くで暴走した鬼狩りは比較的少ないだろう。下手に森をウロウロしたり、民村の傍に行くよりは、幾分もマシだろう。
接敵を回避して、戦いをせずに、ただ逃げ切る。
それが、それだけが、今の俺に出来る一番の……。
だから――。
「――――あ」
それだけしか出来ない、俺が。
ソレに気付くことが出来たのは、本当に偶然でしかなくて。
危機の察知をした訳でもなく、気配の類を感じ取るなんて芸当も不可能で。
ただ、ふと、その場で足を止めて――結果。
動き続けていた千雪ではなく、立ち止まった俺という愚かな馬鹿者を。
――ヤツは、獲物として選んだ。
遅れて、寒気を覚え、その接近を自覚した頃にはどうしようもなく。
「――が、ァ」
突如として、目の前に現れたその大きな影は。
既にその大きな牙で、俺の左腕を喰らい、千切り、剥がしていた。
パァンと響き渡る、ヤツが地面を踏み締め飛び出した音も、バキベキと耳に残る生々しい削音も――なにもかもが、今更だ。
まるでつい先刻の、七尾さんの右腕のように……いいや、それ以上か。まんまと腕だけでなく、肩口も、胸部にまで深く齧り抜かれてしまっている。心臓が無傷で残ったのが奇跡的に思えるくらい、ギリギリまで喰い千切られている。
なんて、どこか他人行儀な現状確認はさておいて。
「――ヅ」
死。
心臓が残ったから、なんだってんだよ。こんなに持っていかれて、血管を力尽くで切断されて、零れだしていく熱流を閉じられる蓋なんてなくて。
こんなの、どうしようも。
どう足掻いたって、避けようのない。
「ア、ガ……」
そして襲い来るのは、想像を絶する程の痛みを、上書きして。
とてつもない虚脱感と、喪失感が。止めどなく噴き出し散らされていく鮮血が。この身を生き永らえるに必要不可欠な、温かな熱量が。
失われていく。喪われてしまう。奪われてしまって、残った身体は抜け殻に、冷たく硬直してピクリとも動かせなくなって、それよりも先に意識が脳が死滅して、全てが零れ落ちて空っぽになって。
なにもかもが終わって、幕を閉じて、俺が、俺が俺が、俺が俺が俺が……。
「ガ、ァ――ッ!」
なんて、分かりやすく乱れる思考を、擦れていく意識を、なにもかもを放り出して、ただただ死にゆく自分自身を。
――速やかに、落ち着かせる。
「ヅッッ!」
懸命に手繰り寄せ、繋ぎ止める。自身へ冷静になれと、パニック状態を鎮めてみせる。
全てを投げ出すな、滅茶苦茶に暴れて終わるな、まだ足掻き続けろ、と。
そう、思うことさえ出来たなら、後は自分自身の問題だ。
――この身は命じれば、その通りになる。
「――――」
そうして、すぐさまに思考を取り戻せば。
けれど、分かってしまうのは、変わらず、もうどうにもしようがない――最期だ。
「……ッ、が」
深く息を吸う。たったそれだけなのに、許容出来ないと、喉の奥から真っ赤な吐瀉物が散らされた。だから細く絶え絶えに呼吸を行えば、ドロリと纏わりつく反吐が邪魔をして、上手く空気を吸い込めなくなる。
おまけに腹にも喉にも、絶え間なく一杯一杯に溜まっていくから、定期的に吐き出さないと、中身が詰まって破裂してしまう。……なんて、きっとその前に嘔吐してしまうし、なにより破裂するまでもなく、この身体はお終いだ。
「……ば」
前後左右、それから上下。平衡感覚はなんとかって感じだが、残念ながら歩くことは無理そうだ。よたよたフラフラと摺り足が限界で、倒れないので精一杯。
いやもういっそ、ここまで来たら倒れた方が幾分かマシなんだろうけど、……倒れてしまったら、開かれた穴から全部が零れてしまいそうで、怖い。
喪われてしまった左の半身は、右手でどれだけペタペタ触っても、なにもない。とても手のひら一つでは覆い切れず、止めどなく熱が逃げていく。
死ぬ。
絶対に、生き残ることは出来ない。
我ながら、驚く程に冷静な思考で、その事実を呑み込んだ。
そう出来るように、命じ続けた。
そんな、一心不乱な俺へ。
どういう訳か。
「……■■、は、ハハ。オイオイ、テメェ」
――立ち塞がる鬼が、その口を開いた。
予想外にも、更に俺を喰らう為にではなく、言葉を発する為に。
それも、よりにもよって――。
「なんだテメェ。気持ちの悪ィ野郎だなァ、あァ?」
そんなことを、言う為に。
「やべぇモン喰っちまったかァ? ――お前の『その顔』、呪いや病気の類じゃあねェよなァ?」
「――――」
――は。
冗談じゃない。
これから最期を迎えよう、ってのに。
最期の最期まで、逃がして貰えないってのかよ。
「それとも『そういう顔』の生まれなのか? だとしたら、悪ィこと言ったな」
「――今、更」
謝るくらい、なら。
口にしないで、そのまま終わらせてほしかった。
この皮膚を剥がれた、暗色の顔のことなんて……。