第零章【06】「前日譚Ⅵ」
現れたソレは、化物と、そう呼ぶに相応しい存在だった。
俺たち一人程度なら、軽々と覆い被される程の大きな体躯。筋骨隆々に膨れ上がった手足は、見るに明らかな暴力性として表れている。
禍々しく赤黒い皮膚や、頭部より天を突く二角。ギロリと開かれた、光のない濁り切った眼光。その全てが、大凡人間のものではなかった。
それから剥き出しの大牙には、奪い喰らった細腕が齧られ、たった今噛み切られた。
化物――いや。
この世界では、コイツのような妖怪を鬼というのだ。
「■■■■■■□■□■■■■――!!!!!」
喉を晒し、再び雄叫びを轟かせる。空気の振動はもはや衝撃波に等しく、大地を震わせ木々を激しく騒めかせた。
洞窟の最奥より現れた、コイツが、七尾さんたちの目的。
そして、片桐乙女の――。
「……ッ」
息を呑み、強張り圧倒される自身を落ち着かせる。怒涛に押し寄せる障害たちを前に、理性の手綱を強く握り締める。なにも分からず、なんの対策も用意できない。だからこそ動かず、けれども動ける身体であれと、冷静さを保ち続けろと命じる。
でなければ、手も足も出ないままに。
気付けばその時には、命を落として終わっている。
しかし、そんな状況の中であっても、彼女は。
「ッ、――ハ! コイツは驚いた! 正真正銘、活きのいい鬼サね!」
その鬼の正面に立ち、右腕を、まさしく食い千切られた七尾さんは。
けれども声を高らかに上げて、血を散らしながらもその場を退くことはなかった。むしろその登場を歓迎するかのように、残った左手を横へ広げる。
背面に位置する俺からは、彼女の表情は見て取れないが。
恐らくは声色の通り、楽しげに笑みを浮かべているだろう。
「まったく、のっけから派手にやってくれちゃってサぁ。目にも止まらぬというか、一直線というか。……もう少し遅かったら、このアタシが手遅れになるくらいに持っていかれてたかもねぇ」
楽しげに、飄々と言ってのける。
だが、当然。
「がっついちゃって、ほんとにほんとに、……ほんとにサ」
七尾さんは。
それ程の暴虐を、許容することもしなかった。
「――若造が。だぁれに喧嘩売ったか、分かってる?」
宣言し、直後。
彼女のその身が、突如として、オレンジ色の炎に包まれた。
重ねて呼応するように、彼女の背面から、複数本の大きな尾までもが展開される。
その尾らの総数は、七。
知識に在る九尾には届かない、彼女の名に従ったモノであり。
だけど、ヴェールを剥がされた彼女は、まさしく大妖怪に相違ない。
たった今まで抑えつけられていた、その存在感が、振り撒かれることとなった。
「――――」
それは、言葉を失う、どころじゃない。
思わず、呼吸を忘れさせられた。視界がぐらりと傾き、平衡感覚を喪失して、平伏させられそうにすら感じられた。
立ち塞がるあの大鬼の禍々しい圧力を物ともせず、むしろ、逆に呑み込み押し潰す程。炎に包まれた七尾さんは、ただそこに立っているだけで、居合わせた全員を威圧していた。
「■、■■□■――」
先手を打った筈の、狂乱し叫んでいた鬼でさえもが、大きくたじろぐ。
腕の一本を喰らった程度、なんの優位にも成り得はしないと。
「容赦しないサね、弟くんとやら」
そして七尾さんは、燃え盛るままにその左手を突き出し。
直後。
七尾さんが、なにかを講じるよりも早く。
「■■■■□■!!!」
鬼は雄叫びを上げ、両腕を振り下ろしたのだった。
対面する七尾さんへ――ではなく、足元の地面へと。
それは攻撃の為ではなく、逃亡の為の一撃だった。
理性を持たないように見えて……いや、持たなかったからこそ、なのか。鬼は思考のためらいに囚われることなく、すぐさまに逃亡を図ったのだ。
重い爆音が轟き、叩き割られた大地から土草が巻き上がる。大鬼の姿を覆う程に広がった土煙は、そのまま周囲の全てを塗り潰し夜空の月を遮る。
森の中と同様の薄闇に落ち、視認を阻害された俺たちは、すぐさまその場を飛び去ったヤツを追うことが出来ず。
七尾さんすらも、ヤツを逃してしまった。
いいや、違う。
「――え?」
鬼がこの場を去って、ようやく。
視界の悪い中、七尾さんが大きく動きを見せた。
手遅れにも――違う、そうじゃないんだ。
七尾さんは、ヤツを逃がした訳でも、追わなかった訳でもなく。
土煙の中、一目散に。
立ち尽くす乙女へと飛び寄り距離を詰め、その首元へ掴みかかったのだった。
煌々と炎を纏った、その左手で。
「――か、ハ!?」
「追うと思ったかい? 別にアレは後でいいサね。あんなのどこに居たって目立つ。なにより痛めつけるだけなら、アタシじゃなくても島が動く」
「……ッ、ぐ」
「そんなことよりもね、アタシはアンタを逃がさない」
やがて、ゆっくりと煙が晴れていく中。
七尾さんは乙女の喉を焦がしながら、彼女へ問うた。
「――アンタ、なにを企んでた?」
「っ」
首を絞められ、ゆっくりと足すらもを浮かされて。
宣言の通り、決して逃がすことはしない。
「アンタの狙いは、なんだ」
「……なに、って」
「とぼけるんじゃないよ。アタシを前に逃げなかったのは、勝ち目があるからじゃないサね。命を賭して弟を守ろうとしたって、そんな綺麗事でも、ない」
「……は、はは」
「アンタ――アタシとの闘いを餌に、弟を釣ったね」
その指摘に、乙女は。
眉を寄せながらも、ニヤリと、口元を緩めた。
「……鬼は、生命の危機に瀕すると、血が活性化する」
「らしいサね」
「……だから、近くで生命危機に及ぶ程の、戦いが起こったら。……あの子が自身の死を認識してしまう程の、大きな脅威が、暴れていたら」
すなわち。
九尾の狐という、桁外れの大妖怪がその力を発揮したなら。例えそれが全力ではないモノであったとしても、誰かを傷付け破壊する程に大きな動きを見せたなら。
自ずと鬼は、自身が危機に晒されていると感知するに違いない。
それに、鬼の血は共鳴反応を起こしやすい。
乙女はそう続けた。
「共鳴反応、ね」
「そう。……それが、そっちで問題になってるん、でしょ」
「よく分かってるじゃないサ」
個人個体の状態が、同じ血を持つ他の複数人へと影響を与える。
つまり、この場であるならば。
「なるほどね。アンタが対面した生命の危機が、その血の昂りが、あの鬼子に共鳴して影響を与えたって訳サね」
「……そう、なれば。あの子の血を、活性化させることさえ、出来れば。……こんな洞窟の牢屋なんて、鉄屑に、等しいわ」
「姉弟揃って、やってくれるじゃないサ。こいつはキツイお仕置きを、って言いたいところだけど」
言いながら、七尾さんは視線を逸らし洞窟の方へ向く。あの鬼の出て来た暗穴には、外見だけなら破壊の後は見られない。
しかし、その傍らには、座り込み動かなくなった鬼狩りの姿があった。男はまるで、糸の切れた操り人形の様に、重力に引かれ脱力し切っている。
「ったく、向こうも大慌てってことサね。まーそれならそれで、こっちでやるしかないんだけど」
合わせて、遠くより響き渡る爆音。先程同様に大地を震わせ、その衝撃に木々が大きく揺れ動く。この場は手を引き走り去ったが、それで終わるような相手ではない。その力は絶えることなく、この島へと振るわれている。
だけど驚いたのは、続け様に。
一ヶ所だけでなく、複数の方向から爆音が轟いた。
「な……」
それを、七尾さんがすぐさまに断じる。
これこそが、共鳴反応による最悪の事態だと。
「冗談じゃないサ。あの暴れ出した鬼子に、この島の鬼狩りたちが共鳴し始めた。こいつぁ大惨事、右腕が高くつくかもしれないサね」
「共鳴って、つまり」
暴走だ。
この島の鬼狩りたちが、住人たちが、先程遠目で確認した、召集された複数人が。それもかなりの人数が影響を受けているだろうと、七尾さんはそう言った。
「見な、ユウマ」
言って、七尾さんは左手を掲げる。乙女の首を掴んだままに、更に頭上へと。
そうすることで晒され、この目に見えた彼女は――彼女の首元は。
激しく紫電を散らしながら、まるで無傷の状態を保っていた。
燃え盛る手のひらで抑えられ、身体が持ち上がる程に強い力で絞められ、けれども火傷の痕すら残されない。綺麗なままに繋がれて、乙女は苦しげに、か細い呼吸を繰り返す。
変わらず、鋭く尖れた視線を下ろしながら。
「痛みは、あるサね。力を強めれば眉を寄せるし、呻きも漏らす。超速の治癒と、そういったところか。損傷した傍から、ほぼ同時並行的に再生が行われている」
「……っ、が」
「コレも共鳴サね。元々治癒力は高い筈だが、ここまでではなかった。あの鬼子に触発されて、いわゆる血の活性ってヤツが加速してるんだろうサ」
だから、同じように。
鬼狩りたちは暴走するだけでなく、その血の力をもより強く解放している。簡単には倒れない並外れた治癒力と、爆音轟かせる暴力性を兼ね備えている。
「もはや穏便には済まない事態。……面倒ながら、最後の引き金を弾いたのもアタシ。さっさと連中に手を貸してやらなきゃいけないんだけど、サ」
まだ、動き出す前に。
行動を起こす前に、聞いておかなければならないことが残っている。
七尾さんは、再度乙女へと視線を戻す。
と、その時だった。
「ちょっと乙女お姉ちゃん! どうなってるの!?」
響き渡る声は、またしても聞き覚えのあるもので。
木々を抜け、この場所へと現れた白い着物姿の少女は――涼山千雪だった。
「話が違うし、おかしな状況になってるんだけど! ――って、七尾さんまで!?」
声を荒げ、ズカズカと現れたが、一転。状況を把握するや、千雪は目を見開き固まってしまった。不味いことになっている、嫌な現場にまんまと鉢合わせてしまった、という風に。
丁度、後ろ側へ現れた彼女へ、七尾さんは振り向き眉を寄せる。……つい先程の話を聞く限りでは、千雪は七尾さんと旧知であり、どころか同じ組織に所属しているようで。
にも関わらず、行動と口振り共に、どうやら乙女に加担しているようだ。
「千雪ぃ! なぁに絆されてるサね! アンタに与えた任務は島の調査と、もしもの退路の確保! 悪巧みするお友達を作れなんて、言ってないサ!」
「……うぐっ。い、いやでも七尾さん。その子、例の原因と血の繋がりがあったり、色々教えてくれたりするので、かなり有益な協力者かと」
「ソイツに牙を剥かれちゃあ全部ご破算サね! しっかり懐柔しな!」
「え、えっと、私たちは対等な関係を築いていたので……」
「だからそれを友達作りだって言ってるサね! ったく、アンタの家系と将来性に感謝しな! でなけりゃ酷いお仕置きだったサ!」
七尾さんは言い付け、加えて千雪へ命じる。ここからは自分の指示を遵守しろ。でなければ事態は、更に最悪な方向へと転がり落ちてしまう。間違えれば、千雪自身の命にもかかわるだろう。
それから、話を続けなさい、と。
「この子に文句があるサね。話が違う、おかしな状況になっている。千雪アンタ、この子になんて言われてたサ」
「……心配だから、会合を抜け出して弟の様子を見に行く。協力して欲しい。なにかあっても、平和的に解決する」
「ところが、アタシは対面した途端に斬りかかられた。そもそも事を起こすことが目的で、平和的な手段なんて取るつもりはなかった。……アタシが言えた義理じゃないけど、まんまとこの子に乗せられたサね」
言って、乙女へと向き直る。
七尾さんも、千雪も、全てはあの鬼を洞窟から解放する為に使われていた。囚われの状態から逃がす為に、仕組まれていた。そして狙いの通りに、鬼は今、この島の中を暴れ回り……。
恐らく、そうではない。
それが目的ではない。これまでの全ては、手段に過ぎないのだろう。
「丁度いいサね。千雪も聞いてな、動くのはそれからサ」
この子がなにを考えているのか。
この子が未だに、なにを狙っているのか。
七尾さんは――。
「ねぇ、アンタ――弟を殺す気サね?」
乙女へと、その問いを叩き付けた。
「……………………」
沈黙が、落ちる。
突き付けた七尾さんは、酷く冷たい視線で少女を睨み。
それらに晒された少女は、小さく口を開き、目を見開いて固まっている。
その光景に、その言葉に。
「――――」
けれども俺は、驚くことはなかった。
「答えな。……いや、答えるまでもなく、明らかサね」
なにも言わない少女へと、七尾さんは続ける。
決して目を逸らしてはやらないと、掲げたままに離すことなく、刺し貫く。
「弟を牢から逃がして、どうするつもりだった? 一緒に逃げるつもりだった? あんな暴走させておいて、そんなのは無理サ。騒ぎになるどころか、話を付けることさえ出来ない。逃げるなんて絶対に出来ないサね」
「…………」
「じゃあ鬼狩りを、この島を滅ぼすつもりだったか? それなら確かに、弟は助かるサね。立ち塞がる障害の全てを潰したなら、逃げるもなにも後からゆっくりでいい」
だけど、それは出来ない。
それ程までには、彼は強くない。隙を突いて腕を奪う程度では、あの状況でこの身を殺せないのであれば、既に底は知れてしまっている。
「あの鬼は、どうあっても逃げられない」
七尾さんは、尚も重ねる。
「どういう方法を選んでも、自由に生きさせることは出来ない。この島に囚われている時点で詰んでいる。牢屋から出す意味がないサね」
「……そう、ね」
「どころか今、あの鬼の共鳴が要因で事件が起きている現状。ただでさえ立場の悪い状況で、当の本人が暴走して脱走、更には島の内部でも大惨事となっちゃあ、いよいよ終わりサね。最悪なんて話でなく、当然の必然に、あの鬼は死を与えられる」
「……ええ」
乙女は、否定をしない。一連の話へ、首を横に振るわない。
なら、決まりだ。
「アンタの狙いは、最初からソレだ」
洞窟の牢に囚われた鬼を、暴走させ解き放ち。
その命を、鬼狩りたちの手によって絶たせる。
片桐乙女の狙いは――弟の死だ。
「……あの子は、ずっと、生まれてからずっと、……牢の中、だった」
ぽつり、ぽつりと。
乙女はゆっくりと、言葉をこぼした。
「囚われているだけでも、可哀想なのに。……生かされているのは、稀少価値や利用性なんて、汚い理由ばかりで」
そんなのは生きているとは言わない。
――弟は、飼われている。
乙女はそう言った。
「だから、もし、チャンスがあったなら、……殺してやりたかった」
「そうかい。まー間違っちゃあいないね。弟思いの優しい姉サね」
皮肉る様子もなく、七尾さんはそう返し。
けれども、
「けれどね、アンタの気遣いは関係なく、あの子は生きようと――自由を得ようと暴れ回っているんだよ」
それが決して、手に入らないモノであっても。
そう自覚していても、どの道、自覚していなくたって、変わらない。
「アンタの弟は、当たり前に生きようとしてる」
だから。
やがて、七尾さんは、その表情を緩めて。
「そうサね。――だったらアタシは、あの子の側についてやろうサね」
そんなことを、言ってのけた。
「……え?」
乙女は思わず口を開け、俺たちすらも、唖然と立ち呆ける。
それでも、七尾さんは構わない。
自由気ままに、囚われることなく。
「腕を奪われたが、ありゃあ本能みたいなモノ。どちらかといえば、アレを解き放ったアンタの責任サね。だから流してやるし、なんならアンタの責任にしてやるサ」
七尾さんは――。
妖怪組織の頭領として、宣言した。
「大妖怪、九尾の狐は今より、あの鬼子を味方するサ」