第零章【05】「前日譚Ⅴ」
七尾さんに先導され、辿り着いた『目的地』とされる洞窟。
その入口にはどういう訳か、様相に似合わない話し方をする男の鬼狩りが、明らかに七尾さんへ既知の仲で接しており。
更にはその場へ、一人の少女が現れた。
額を見覚えのある、狐を模った白面で隠した、十代頃の幼い鬼狩りが。
しかも、
「洞窟になんの用事? それとも――私の弟に、用事があるの?」
片桐乙女はそう言って、右手に握った短刀を月明かりの下にかざした。
私の弟。
彼女の言葉が虚言の類でないならば、それはつまり。
――この洞窟の最奥に隠された、暴走事態の原因ってのは。
「どういうことサね、八代子」
乙女の登場に、七尾さんは。
大きく息を吐き、「八代子」と呼んで傍らの鬼狩りへ向いた。
「可愛らしいお嬢さんが、集会から抜け出してるじゃないか。それにご丁寧に狐の面って、なんの因果サね」
『……これは妾が悪いな。すまぬ、完全にはぐらかされた。集会に居る子どもの人影が、一つ別のモノへと成り代わられておる』
言って、男は肩を落とす。
ここに居ながら、ここではないどこかの情報を把握しながら。
『やられたな。まんまと欺かれた。妾としたことが、とんだ失態じゃ』
「変わり身の術って感じ? 迂闊じゃないサ」
『ぐうの音も出ぬ。子どもの一団と軽んじておった。……しかし妾も多忙な身じゃ。話を長引かせたり、強者どもに警戒と監視の目を緩めることなく、こうして糸まで使っておる。故に、尻拭いは任せたぞ』
「ちょっとちょっと、放り投げるんじゃないサね」
『そう言われてものう、この身体では対応が困難じゃ。流石にこちらに注力する訳にはいくまいよ? ――それに』
男は、重ねて。
眉を寄せ、七尾さんに言った。
『それにどうやら、変わり身の人形は――氷で作られた彫像のようじゃ。このような芸当が出来るのは、島に潜ませているお主の部下ではないか?』
「……あらあら、そいつは確かに十中八九、アタシのところの子サね」
なら、仕方ない。
そうこぼし、七尾さんもまた、肩を下ろして大きく息を吐く。
そして、そんな彼女らと相対する乙女は。
短刀を真っ直ぐ突き出したまま、視線だけをこちらへ、未だ木々の下に退く俺へと向けた。
「ユウマもここへ用事? 大人しくしておいた方がいいって言った筈だけど」
「……あー、いや」
「それとも最初から、ユウマもここが狙いだった? 話に聞いた異世界組織の任務とか、この妖怪たちの仲間だったとか?」
「疑われても仕方ないが、一応言わせてくれ。違うぞ」
なにを言っても言い訳にしか聞こえないだろうが。
そう思ったのだが、予想外にも。
「そうサね。この男は所謂、停戦協定を結んだ同行者ってところサ」
七尾さんが一歩を踏み出し、言った。
邪魔をされたり、他で面倒を起こされると困る。だから半ば監視の意味で同行させた、その場で出会った連れに過ぎない、と。
「それに別段、仲間だったとしたって、大した戦力にはならないサね。だから気にするだけ無駄サ。今は、アタシらに集中しな」
「……そうね」
素直に頷き、乙女は再び七尾さんへと向き直る。
まったくその通りだ。俺になんて、構っている余裕はない。乙女はその携えた刃も、視線も、集中も。持ち得る全てを彼女へ総動員しなければならない。それが例え、ただの言葉の応酬であったとしても。
もっとも当の乙女本人に、それだけで済ませる気はないようだが。
「それで、なんの用事? もう一人の妖怪は向こうでしっかり、集会に参加してくれてるみたいだけど」
「本体だけは、ね。用件についても、そっちで話している筈だけど。――別に話を聞いてなくたって、なんの用事かは分かってるんじゃないサね?」
だから立ち塞がった。
だから剣を手に取った。
だったら面倒で無粋な確認をするんじゃない、と。
七尾さんは、更に一歩を彼女へ踏み寄る。
「そんな回りくどい話はいいからサ、見せておくれよ、教えて頂戴よ。この洞窟にはなにが在るのか。――アンタの弟ってのは、なんなのか」
「だったらそっちもコソコソと回りくどいことしないで、召集に応じなよ」
「生憎、アタシはこの目で見たモノしか信じない性質サね。おまけに口先だけの説明や、用意されたご丁寧な案内も御免サ。アタシはアタシの勝手で暴き立てて、アタシの判断を下す」
「じゃあ駄目ね。好き勝手に踏み荒らすお客様は、歓迎出来ない」
「ハッ。だからサ、回りくどい話はいいって言ってるサね」
そのまま、歩みを止めることなく。
七尾さんは、乙女へ言った。
「なにはともあれ、――アンタはここに居るアタシを、許しちゃあ置けないんでしょ?」
空間が、凍り付く。
変わらず薄めた気配の中、一切の存在感を滲ませることなく――けれども纏わせる空気を、冷たく鋭いモノへと変貌させた。
それは矛盾した、凍える炎のような闘気だ。
「……っ」
はっきりと知覚する。コレは到底、俺が敵う相手ではない。この足の爪先を、踏み入ることさえ許されない領域だ。
まさしく、世界が違うレベルの。
当然、それは乙女にとっても同じ筈で。
「来なよ。その方がお互い、手っ取り早いサね。相手を叩き伏せて従わせる。上手くいかない交渉を運ばせる、最善手サ」
「――――」
それでもあの子は、その表情を狐面で隠したまま。
音もなく、くるりと、右手の短刀を逆手に持ち替え。
――瞬間。
少女の身体が深く沈み込み、それを最後に、その場から姿が消失した。
「ッ!?」
巻き起こるつむじ風に、思わず両手で顔を覆う。
俺は完全に、彼女を見失ってしまった。
恐らくは、四つん這いの状態から即座に走り出したのだろう。遅れて耳へ届いた草木の騒めきから、木々の中へと飛び入ったのは察せられるが。
だがその葉音も、四方八方から絶え間なく響き渡る。気付けば背後の土が踏まれ葉が擦れ合わされるが、振り向いてもそこには誰の影も残らない。続けて右へ左へ、上空へ、鳴らされ続ける音を頼っても、追い縋ることは出来なかった。
「……これ程、に」
子どもでありながら、卓越した身体能力。視認は出来ず、音すら欺き、気配の類は俺には察知出来ようもない。
これが鬼狩りの力だというのであれば、俺という個人は、彼女らに手も足も出ないが。
しかし、俺が完敗であったとしても。
彼女らでは、大妖怪と称される領域へは、踏み入ることは出来ないだろう。
間もなくして、なんの予兆も見せないままに。
鳴り立てる雑音たちの中を、無音で奔り抜けて。
突如、七尾さんの背後に現れた少女は、逆手の刃を上空より振り下ろした。
脳天へと突き立てられる刃は、容赦のない致命の急所を狙い打つ。
けれど、それを。
「――悪いサね」
七尾さんは、くるりと静かに振り向き。
下ろされた刺突へと――あろうことか、右手の甲を差し出したのだった。
神速の動きも、強大な力を発することもなく。ただ当たり前のように、降り注ぐ日差しを遮るかのような挙動で、その手の甲を刃に合わせる。
勿論、柔らかに見える彼女の小さな手は、まんまと貫かれ鮮やかな血を散らした。
が、それまでだ。
「避ける必要もないサ」
今度こそ。
彼女は、目にも止まらぬ速さで左手を振り抜いた。
刃を止められ、宙に制止した少女への返し。
細腕から放たれた単純な張り手は、小さな身体を勢いのままに吹き飛ばしたのだ。
風を切り、一直線に、立ちはだかる大木の幹へと。
「――が、ァ!?」
叩き付けられた衝撃に、少女は背を逸らし唸りを上げる。その威力に仮面は砕け散らされ、遠目ながら、攻撃を受けた身体の右側面は――大きく拉げて潰れていた。
特に、咄嗟に防御へ回したであろう右腕は、あらぬ方向へ捻じ曲げられていて。
崩れ落ち、力なく座り込む乙女の姿は。
殺したのかと、そう思わせる程の惨状だった。
にも、関わらず。
七尾さんはただ静かに、突き刺された短刀の残った右手を眺めていた。
「なるほど、流石は対妖怪組織。子どもながらに、いい武器を持たされてるサね」
と。
飄々とした表情で、そんなことをこぼしながら。
「な――ッ!」
思わず喉を晒し、踏み出した俺は。
けれどもすぐさまに、彼女に一瞥され足を止めた。止めざるを得なかった。……まだ動くなと、視線だけでそう制されたからだ。
決して、動くことは許されない、と。
『まだ出て来るではない。あの小娘は死んではおらぬし、……なにも終わっておらぬ』
代わりに控えていた男が、俺へ言った。
未だ彼女らは、交渉のさなかに置かれているらしい。
『じゃが女狐よ。手を差し出す必要はあったかのう?』
「んー。結構素早い動きだったから、止めたかったのサ。変に動かれて狙いを外したら、それこそ殺して話を聞けずに大惨事サね」
『それもそうじゃな。小娘の言葉を信じるのであるなら、例の元凶の身内。ここで摘み取るはあまりに惜しい情報源じゃ。が――』
言いながら、男は口元を緩め。
『しかしどうやら、加減が過ぎたようじゃぞ』
その言葉に、はっと乙女を向けば。
「――え?」
どういう訳か、半身を潰され血濡れになった少女は。
その身体に紫電を迸らせながら、再びゆっくりと、二本の足で立ち上がっていた。
どころか。
「……ふ――ぅ」
大きく息を吐き、ギロリと彼女らを睨めば――間もなくして、ゴキゴキと音を立てて、折れ曲げられていた筈の腕までもが、元の形へと戻っていった。
全身から滴る血の雫すらも、塵に解けて、消え去ってしまう。
まるで、何事も起こらなかったかのように。
その惨状の前へと、戻されるかのように。
七尾さんは空いた左手で、前髪をくしゃりと握った。そして男もまた、右手を口元へ寄せ、思い耽るように呟く。
これは予想以上だ、と。
「加減も加減、舐め切ってたサね。こりゃあ八代子を責めらんないサ」
『互いに認識を改める必要があるのう。幼子と侮っては、存外、妾たちの知る情報以上じゃぞ』
「頑丈さも中々な上に、治癒力も想定を遥かに上回ってる。流石は拠点ってことで力が増大しているか、元凶の血筋故の突出した基礎値か、洞窟の真ん前だからか。……あるいは全部、なのかもしれないサね」
言って七尾さんは、ようやく左手で右の手の甲の短刀を引き抜き、辺りへ投げ捨てる。
なにも終わっていない。
男の言葉通り、今のは単なる初撃。先端に過ぎない。恐らくは互いに、対する相手の実力を測り知っただけだ。
ならば、尚のこと。
片桐乙女には勝ち目がないと、そう考えずにはいられない衝突だったが。
「――――」
変わらず乙女は、相対する大妖怪を睨み続ける。
既に完全な治癒を終えているとはいえ、致命傷に等しいダメージを与えられ、その上、携えていた短刀をも失いながら。
そうなって尚も、立ち向かうのは、なんらかの勝算が見えているからなのか。更なる別の策が用意されているからなのか。
否。
そうでは、なかった。
遅れて、俺たちは知らされることになる。
この状況が既に、片桐乙女の『勝利条件』だったのだと。
直後。
鳴り響いた怒号こそが、その勝利だった。
「■■■■■■■■■■■■□■■■■□■□■■■■■■!!!!!」
轟きは、洞窟から。
開かれた深闇の、その最奥から。
「……ッ……さ、か」
驚き目を見開く俺の前、全ての音を呑み込み潰す中で、七尾さんがなにかを呟いたのだけが見え。
彼女が洞窟へと振り向いた、その刹那。
訪れた瞬きの間の後、再び開かれた視界には――。
右腕を肩口から失った、七尾さんと。
彼女の正面には大きな体躯の――化物が立っていた。