第四章【30】「退路のない停止線」
「では、アリョウと言ったか。我輩をこの島の主の屋敷へ案内せよ。夜遅くではあるが、まさかこれだけの事態に就寝という訳ではあるまい。他の鬼狩りたちも、続くがよい」
皇子の言葉に、鴉魎が頭を垂れる。他の鬼狩りの連中たちも、倣い小さく礼をする。
魁島も、再び治療された両腕を振るうことはない。眉間の深い皺や強く歯噛みする表情から、未だに感情を処理し切れているようには見えないが、それでも逆らうことは控えていた。
それから彼らの様子に、ようやく千雪が氷を解く。ゆっくりと剥がれ落ち溶けていった氷塊を見送り、今一度、鬼狩りたちは動きを許された。
解放され、けれども、誰一人として刃を持ち上げる者は居ない。全員が皇子と、彼の意に沿う鴉魎に従い、抜身の刀を鞘へと納める。
俺たちもまた、構えることもしなかった。警戒を解くことは出来ないが、迎え撃つ用意はなく。ただ皇子らのなすがままに、状況へ身を委ねた。
やがて、鴉魎が先導し、再び燃え盛る木々の向こうへと歩みを始める。
「では、こちらへ。――他の者たちも、屋敷への道を速やかに作れ」
号令に、面付きらは即座に火の海へと飛び込んだ。
そして残された、魁島だけが、その場でこちらへ振り返り。
「――――」
言葉はなく。
ただギリと、歯を剥き俺たちを睨み付けた。
「では諸君らとも、また後程に。くれぐれも余計なことはしないでくれよ」
皇子もまた、そう言い残し。
「……百鬼夜行側の代表としては、僕が立ち会うが――もしもの際の備えはしておいてくれ」
最後に、無言であったヴァンがそう言って、彼らの後に続いた。
そうしてこの場所に、俺たち三人だけが居残る。
「ふ、ぅ」
深く呼吸を、大きく肩を持ち上げ下ろす。未だ心音は強く脈打ち、この身は赤黒い血泥に包まれたままだが、それでも戦いは過ぎ去ったのだと、そう思った。
奇しくも、あの夜の様に。
炎に焼かれ、開かれた森の跡地へ立ち尽くしながら。
――まだ、なにも終わってはいないが。
この夜の戦いは、幕を閉じたのだ。
「じゃあまぁ、停戦ってことらしいし」
不意に、リリーシャが大きく息を吐き、肩をすくめてそうこぼす。
戦いは終わった。ならば速やかに休息を取りたい、と。
「怠いし眠いし、横になれる場所とかない? 一応魔法でなんとか出来なくもないけど、休めるならそうしたいわ」
「拠点、ってことか。洞窟に戻るのはゴメンだな。……あー、チビ雪。確かお前の家の敷地がどこかになかったか?」
「そうなの?」
リリーシャへ頷く。
記憶に違いがなければ、涼山の家はこの島と同盟関係にある家系だ。混血同士、情報の共有などで盛んに交流していた。その証として、客人として招かれる際の土地が与えられていると、そんな話があった筈だが。
言えば、千雪は。
「……ゆー、くん」
「あ? なんだ?」
「……ううん、なんでも」
首を振るう。
なんでもない――筈がないのだが。
だけど彼女が呑み込むのであれば、それを聞こうとは思わなかった。
「うん。ゆーくんの言った通り、あるよ。少し歩いたところに、大きくない古家ではあるけど」
「古家って、ボロじゃないよね。床が抜けたり雨漏りが酷かったり、蜘蛛の巣とか野生動物とか、そういうのは嫌」
「失礼な人。古いだけだよ。一応、さっきまで私が居たから大丈夫。掃除もしたし、設備も問題なく動いたし……この炎で燃えてなければ、だけど」
「少し歩くならきっと無事。この辺りの森を攻撃しただけで、近くの村とかは無傷の筈よ。――正直面倒だからまとめて更地にしたかったけど、やめろーってきつく言われてるし」
容赦なく大打撃を与え、けれども必要のない殺戮を禁じる。思えば千雪の元へ氷塊を落としサポートしていたり、無差別に見えて調整していた訳か。
相変わらず魔法使いってヤツは、どこまでも手が届く。大雑把にもピンポイントにも、自由自在で高性能で。
敵に回せば、まったくどうしようもない程に恐ろしいが。
「……いや、味方でも恐ろしいが」
心強いには違いない、か。
などと、考え、な――がら。
「あの人たち、結局火の処理はしていかないのね。まー倒れてる人たちも多いし、ついでに火葬ってつもりなのかな? あたしが言うのもアレだけど、酷い考え方」
「じゃあこのままにして、行く?」
「ん、それでいいでしょ。まー少ししたら軽い天候操作で雨を降らせるわ。再三聞くけど、雨漏りとか大丈夫よね」
「だから大丈夫だって、――ゆーくん?」
そんな、リリーシャと千雪の話を横耳に。
俺は今更、その場で膝を折り。
「――あ」
不意に、視界が暗転した。
遅れて、腕が肩からこぼれ落ちるような、張り詰めていた糸が切れるような脱力感が襲い来る。情けないことにまるで力が入らず、数秒たりとも抗うことが出来なかった。成す術もなく座り込み、続け様に前方へ倒れ込む。
勢いのままに胸打ちし、こめかみで地面を叩き付け、でももう痛みなんて感じる猶予もなかった。
なにも見えず、鈍痛や土草の感触すらなく。
「ゆーくんッ!」
「ちょっとちょっと、ここまで来て死なないわよねぇ!」
二人の声と、駆け寄る足音。それらすらも、遠ざかっていき。
ドクンと響く、大きすぎる心音を最後に。
残る意識を、手放してしまった。
そうして、手放してしまったから。
この身体は深い闇の中へ沈みゆき、どれだけ手を伸ばそうとも、なにを掴むことも出来ない。ここよりも遥かな底へ、色濃く塗り潰された暗闇へと落とされていく。
もう、二度と。
もうこの泥の中から、泳ぎ出ることは叶わないのではないかと、そんな恐怖が過ぎる。
いつまでもどこまでも、この漆黒の中を揺蕩い続けるのではないか、と。
けれどそれは勘違いだ。
目を覚ませばそれだけで、俺は外へと戻っている。なにをせずとも、当たり前に意識を取り戻して、光の下へとこの身を投げ出している。
今は感じられない手足の感覚も、まるで自分のモノではないような――人間の範疇を越えて躍動している心臓も、全部確かな俺の身体として、待ってくれている。
呑まれるなんて勘違いだ。喪失なんて筋違いだ。
だけど、この闇に落ちていることだけは、間違いではなくて。
きっと水面に飛び出せば、この身体は黒い泥に塗れて、片桐裕馬の姿は判別が難しい程に、黒く塗り潰されていて。
「――――」
だからやっぱり、ここに沈んでいてはいけない。
そうは思っても、沈みゆくこの身体を、止める術はない。
もう、手遅れだ。
「――ああ」
今日よりずっと前から、この身体は血に汚れていた。
この夜またしても、俺は幾つもの命に手をかけた。
『それでも』と叫んだから。
『それでも』と抗ったから。
その時点で後戻りは出来ず、踏み止まることすら出来なくなった。この前進は、この足掻きは、全てこの身へ跳ね返ってくる。重ねた罪は、決して許されることもない。
今度こそ俺は、裁かれることにより無に帰すだろう。そうすることでしか終われないと、自分自身で選択してしまったのだから。
それが嫌だと、跳ね返りすらも拒みたいというのなら。
また『それでも』と、なにかを捨てることになる。
より深みへと、陥ることとなる。
きっとこれは、果てのない堂々巡りだ。
そんな、諦めを自覚しながら、暗色に染色されていくことを受け入れ。
不意に思い起こされたのは、忘れていた訳でも、勘違いしていた訳でもない。
真に、俺のモノではない記憶。
この身体が受け取った、俺を形作った『彼の記憶』が。
失われた意識の中で、ゆっくりと紐解かれるのだった。