第四章【10】「妖精 セーラ・ティータニム」
妖精。
人型で、背中に蝶の翼を広げた、小さな少女。
童話や伝説のような、物語上に存在する精霊の一種。例に違わず、火のない所に煙は立たない。異世界に実在する生物だった訳だが。
俺自身がこうして目にするのは、この時が初めてだった。
それもまさか、こんなタイミングになるなんて。
『じゃあ改めて、初めまして。ワタシの名前はセーラ。セーラ・ティータニム。よろしくね、カタギリユウマ』
心地の良い、歌っているような高い響きの声。
セーラと名乗った妖精の彼女はゆっくりと後退し、十字格子の隙間に腰を下ろした。それから変わらず光を纏いながら、足を組んで座り直す。
その輝きや堂々とした立ち振る舞い、滲み出す気品は他でもない。つい先程まで対面していた、かの騎士に似通っている。
なにより、いつか姉貴から聞いた話だが。
アヴァロン国の騎士たちは、その国の隣人である妖精の力を借りているって。
「……俺を知ってるのか」
『当然でしょう。ワタシはヴァンと共にある。だからアンタのことも知っているワ』
案の定、彼女はその名前を口にした。
やっぱりこの妖精は、ヴァンの。
『リリーシャ、と言ったかしら? あの魔女との戦いの際も、それから図書館で話していた時も、ワタシはアンタを見ていたワ。果敢で生意気で、年頃の男の子丸出しだーってね』
「……そう、か」
『そうか、ってなによ。反応薄いわね。騒ぐなとは言ったけれど、感情を押し殺す必要はないんじゃない?』
「いや、悪い。ちょっと、頭がついていかないんだよ」
ただでさえ事態を呑み込めていないのに、その上で更に妖精と初対面だ。正直、なにがなにやらで、どう対応すればいいのか分からない。
だから、最初に。
まずはこれを確認しておくべきなんだろう。
「あー、えっと。セーラ、だったよな」
『ええ』
「セーラはその、なんで俺の前に現れたんだ?」
『そんなの、決まっているでしょう』
彼女は迷わず、即答した。
『アンタをここから脱走させる。その為よ』
と。
「――脱走、って」
言葉通りなのか?
この牢屋の中からか?
聞けば、予想外にも。
『いいえ、それだけの訳がないでしょう』
セーラは続けた。
この洞窟牢から逃げ出したくらいじゃ、なに一つとして解決しない。囚われの身を脱するには、もっと先まで考え、戦わなければならない。
片桐裕馬は、それ程までに追い込まれているらしい。
『頭がついていかないって言ったワよね。それじゃあまずは理解を追い付かせる為に、手早く状況を話すワ。でないといざって時に選択を間違う。失敗しかねない』
その大前提として、
彼女は最初に、その『脱走』の目標を語った。
『ワタシたちがアンタを脱走させるのは、――この島から』
そしてこの島の名は、――鬼餓島。
『アンタは今この鬼餓島の組織、鬼狩りによって監禁され、最悪――討伐の執行を待たされている状態よ』
◆ ◆ ◆
一人、深い夜の中。
土草を踏み締め、歩みを進める。
この辺りに生い茂る木々は、洞窟間際の物に比べて白みが強い。夜闇の中でも目立つ程で、確か、白樺と呼ばれていたか。いつか別の場所で任務にあたった際、その土地の住人が教えてくれた。
この日本国は森林が多い。近代化が進んでも未だ、緑の自然と共に在る。妖怪などは尚の事、その入り組んだ森の奥に姿を潜める。
古きは置き去られ、敬遠され、排斥され。
だから同じく常識の外側である彼らが、人里離れたその場所を、拠り所として共存を営む。
なるほど日本国とは、よく出来ている。
恐らくこの場所もまた、それらに等しいのだろう。
同じ世界に在りながら、異なる軸へとズレてしまった。国の発展についていくことはおろか、共に隣立ち在ることすら認識されない場所。
世界内部の異空間――境界。
鬼餓島では、妖怪やその狩人の存在が公的なモノとされている。
それはまさしく、異なる規則によって運営された、極小の島国だった。
その島で、『僕』は、
「――随分な遠出でしたね」
木々を抜けた先。
歩き至った、大きな木造りの門を前に。
一人の男が、待ち受けていた。
「……すまない、待たせた」
「いえいえ。お仲間のご様子はいかがでしたか? ヴァン・レオンハート様」
その色は、黒。
僕らの白を基調とした礼服とは正反対の、色濃い黒の和装だ。
そして男は柔和な笑みを浮かべ、現れた来訪者を出迎える――その腰元に、背長い鞘入りの刀剣を携えながら。
僕もまた彼へと笑顔を返し、応えた。
「仲間、か。生憎、彼とは一度戦いを共にしたばかり。そう呼べる程の関心は持ち合わせていない」
「そうでしたか。しかし彼は、同盟国の手を結んだ組織に所属しています。志を同じくした異国の隣人という関係上、そう呼んでも差し支えはないのでは?」
「そう言われれば、確かに違いない。……では、そんな仲間の顔を見に行った僕は、君たちの討伐対象となるのか?」
聞けば、男はなにも言わない。
ただ、口元を緩めるばかり。
得体が知れず、加えて油断のならない、――脅威。
この男は初対面から、その強さと不気味さを発露させていた。
なにしろ異世界転移を用いて現れた僕を、即座に補足し、数分と経たずに出迎えてみせたのだ。ただ森の中を探索していただけで、気配の類に関しても、隠蔽していた筈なのに。
男はまんまと目の前に現れ、言ったのだ。
「お待ちしておりました」
と。
抜身の白刃を、月の光に晒しながら。
それから間もなくして、正門が音を立てて開かれる。
門の向こう側には、広々とした砂利道と、奥に巨大な建物が構えていた。広大な屋根の瓦や木色の深い外観は、この国で言うところの前時代的な、いわゆる日本家屋と呼ばれる建造物だろう。
男はそこへと右手をかざし、行く先を促すのだった。
「どうぞ。庭を抜けた先の家屋にて、我々の主がお待ちです」
「君たちの主、というと」
「鬼狩りを取り纏める、実質この島の最高権力者です。齢八十八の老体でありますが、意思の疎通に問題はなく。むしろ、未だ切れるお方かと」
「違いない」
直前に一言断りを入れただけの、実質有無を言わせない唐突な押し入り。この日まで長く見逃して来た訪問を、今夜決行させろという勝手な強行突破。
そんな僕を迎え撃つでなく、こうして話し合いの場へと誘った。寛大な譲歩を見せる形で、こちらの勝手な動きを制限した訳だ。
なにしろ受け入れられてしまえば、歩み寄られてしまえば、無下に出来る筈もない。如何せん拒み続けた非が向こうにあるとは言っても、このタイミングで勝手を言い出したのはこちらなのだから。
遂に痺れを切らしての強硬手段。今許されるのは、そこまでだ。この上に横暴を重ねれば、立場を崩される。
そんな思案を、知ってか知らずか、
「いっそ敵対関係に陥った方が、幾らか動きやすかったでしょうか?」
男は笑顔のままに、そんなことを言ってのけた。
「……なんのことだか」
冗談じゃない。
たとえそんな思惑があったとしても、それは決して、口に出すようなことではないというのに。
挑発は果たして、その老人による指示か。それともこの男の独断によるモノか。
「…………」
「どうかされましたか?」
「……いや」
恐らく、後者に違いない。
よもやこうして対話を発案し推し進めたのも、島の主などではなく……。
重ねて、不意に。
「そういえば、お連れの方はどうされたのですか?」
そんなことまでも、僕へ尋ねてきた。
「……連れ、とは」
「失礼ながら、貴方に同行していた生命の反応が、今は感じられないので」
なるほど。
彼女もまた、普段は気配を殺していた筈なのだが。
「ああ。セーラの、妖精のことか。いやなに彼女は連れというか、対等なパートナーというやつでね。行動を共にし協力し合ってはいるが、別段、同行を義務付けられた関係ではないのさ」
「そうですか。では、何処に行かれたのかも」
「残念ながら、伝えられてはいないな。この島の作りを随分気にしていたようだから、散歩にでも行っているのかな。興味が尽きないようで、困ったものだよ」
「それは、本当に困りましたね」
見れば男は、顔色を少しも変えることなく。
大した問題でもないかのように。
「島の住人が、お客様と知らずに手荒なマネをしなければよいのですが」
そう、言った。
「なにしろこの島は、孤立化した閉鎖的な場所です。外部からの刺激には不慣れなもので、それが妖精ともなると、過剰に反応してしまう可能性も否めないでしょう」
「……ほう」
「すぐに主へ相談し、通達して探させましょうか?」
「……いや、その必要はない。彼女もそれなりの力を持っている。なにより、そのような事態に陥るヘマはしないだろうさ」
「そうですか、ではそのように」
――しかし、
「貴方はよろしいので?」
重ねて、尋ねられる。
「僕?」
「ええ。パートナーの居ない状態というのは、よろしくないのでは?」
変わらず、冷たい笑顔のままで。
「貴方一人で、もしもの時は対応できますか?」
「――――――――」
けれど、その質問には、
「――はは」
僕も笑顔で返した。
「何一つ問題はない」
「へぇ」
「話し合いの会合に、僕以外の同行なんて必要ないだろう?」
なにしろ我々は、敵対している訳ではないのだから。
君たちこそが、僕をこの場所へ迎え入れてくれたのだから。
そう言うと、不意に。
「――それは少し、楽観が過ぎるかと」
男の笑みが、消えた。
より冷たい、なにも感じさせない無表情に。
「俺たち鬼狩りという存在は、人間の側に立ち、常識外を討つ者。妖怪を滅し、そして異世界からの来訪者も、長く敵対存在として狩ってきた」
つまるところ鬼狩りとは、裏でありながら表と手を結び、公なる規律や平和を順守してきた組織であり。
その立ち位置は完全に、僕らとは真逆の。
「俺たちにとって貴方がたの言う同盟は、討滅の対象同士が手を組んでいる――目の上のタンコブというヤツなんですよ」
「……だから?」
「油断や慢心はオススメしません。と、忠告させていただきましょうか」
そう、彼は言った。
そして、直後。
そんな彼の発言を、裏付けるかのように。
突如、響き渡る轟音と、足下を揺らすその振動。
ここではない、決して遠くない場所で、巨大な爆発が巻き起こされた。