第四章【08】「囚われの再起」
例えば、バミューダトライアングルと呼ばれる海域が存在している。通った船や飛行機がなんの痕跡も残さず消失してしまう、魔の三角地帯だ。
例えば、暗闇の洞窟が存在している。観光客が突如姿を消し、二度と見つかることはなかったという。
沈んだら決して出られ■い底なし沼や、帰って来られない心霊スポット。人や乗り物が原因不明に消えてしまう場所。オカルトや怪談の定番と言えるだろう。
それらの現象が発生するのは、その場所が異世界に繋がって■るからだ。
教えてくれたのは祖父だった。
「いいか裕馬。世界は無数に存在しているんだ。アメリカとか中国とかそういう世界じゃあない。こことはまったく違う別の、異世界ってのがあるんだ」
幼少期、何度も何度■聞かされた。
竜が火を噴き飛■回る世界。魔法使いが杖を振■不思議を巻き起こす世界。日本より遥かに優れ■科学力で、巨大ロボ■トを作り出■た世界。
当時は幼く、そん■摩訶不思議な話に心を躍らせ■いた。いつか自分もど■か遠くの世界に行って、まっ■■違う常識に出会■日が来ると信じ■いた。
けれど中学二年■頃に■、そん■話は作り物■って分かって■■。面■■□■い子□も騙■■と、――流■よ■■な■□い■。■■■■祖父とも距離■遠くな■て、見送った■■■年前。
「――――」
意識の深く奥。
仄暗い水底で、揺れ惑い、溺れていく。
その中で、振り返る過去が、――潰れている。
「――なに、が」
おかしい。
思い出が、ノイズで霞んで解けていく。
記憶という過去の情報が、正常に思い起こされない。古いビデオを再生したら、映像や音が飛び飛びで歪んでいるみたいな。
もしかして、俺は本当は機械かナニかだったのだろうか。記憶もメモリーやらなにやらに保存されていて、それが壊れてしまったのだろうか。
……ああ、だったらよかったのに。
それならなにも、おかしい話じゃないのに。
そうじゃないから、やっぱり異常だ。
「――なんで、だよ」
どれだけ頑張っても、思い出せない。
その祖父って奴の顔が、まるで浮かばない。
それだけじゃなくて、思えば、
「――俺は」
俺は、どんな人間だったっけ?
幼少期の俺って、どんな風だっけ?
好きな食べ物は? お気に入りの服は? 将来の夢は? 好きな人とか、仲のいい友達は? 幼稚園とか保育園とか、小学校はどこに通っていた? 得意な教科とか、出来る運動とか、先生の顔とか、当時の悩みや喜びや不安は?
俺に思い出せるのは、中学に入ってからだけ。
当然、中でも鮮明なのは、あの事件のことばかりだけれど。
それでも、毎日の授業風景とか、仲良くしていた奴らの顔とか、気になってた女の子とか、学校行事とか、幾つかは思い起こせるのに。
「――――」
それより以前に、なにもなかった。
――俺には、なかった。
だって、知らない。
子どもの低い視点で、木々が生い茂る森の中を走り回ったことなんてない。
既視感のある幼い女の子二人と、夜通し長く話をしたことなんてない。
薄暗い岩肌の空間で、鉄格子の中に閉じ込められていたことも、ない。
それに、
「――ユウマ、っ」
それは、俺の名前の筈なのに。
どうしてこんなにも、自然と、誰かを呼ぶようにこぼれてしまうんだ。
どれだけの間、そうして眠っていたんだろうか。
ようやく目を覚ました時、――そこは。
「……あ」
意識が戻り、まぶたを持ち上げる。
当たり前の動作が随分久し振りに感じられ、重く緩慢に開かれた視界。最初その光景は強くぼやけて、ただ深い紺色に塗り潰されてしまった。その薄暗さのお陰で、ゆっくりながらもスムーズに視力を取り戻していく。
同じくして、自分が置かれている状況を把握した。
頭の後ろや背中、後ろ手に回された腕に触れる、硬く凹凸の多い感触。膝を折って座らされた足元も、同様に硬い地面が敷かれている。
それと、どうやら両手は後ろで手首を縛られているようだ。少し力を入れて動かしてみても、まるでビクともしない。チクチクと肌を刺す藁のような材質だが、なんらかの補強がされているだろう。
「……っ」
そして戻った視界が、辺りの情報を収集する。
ぐるりと見渡せば、そこは、色濃い岩肌に包まれた密室空間だった。左右と恐らく後ろが完全に覆われて、唯一向こうに開かれているのは、前方だけ。
けれどその前方も、二三歩程進めば、十字の鉄格子によって阻まれてしまう。
それはまさしく、意識が沈んだ中で見た光景と同じだ。
「……んだよ、ここは」
洞窟かなにかの最奥だろうか。
薄暗いこの場所に、唯一の光源は少し離れた松明だけだ。前時代的な木造りの灯火が、パチパチと音を立てて揺れている。
行く手を阻む鉄格子と、たった一つの松明。
ここにはそれしか見当たらない。
「……どうなってんだ」
呟き、肩を落とす。
それから深く息を吸って、遅れて気が付いた。少し呼吸がしにくい。いわゆる空気が薄い、というヤツだろうか。一応格子の向こうから風音が聞こえてくるから、酸欠の類の心配はないと思いたいが。
だけどそれ程に、外から離れた場所に居るってことになるか。
「……幽閉状態、ってか」
近い状態には違いないだろう。
畜生、なんだってこんな。
「俺がなにをしたって――」
と。
そこまで呟いて、ようやく。
「――――」
思い出した。
なにがあったのか。
意識が落ちる寸前に、なにが起こって、
――なにを、目にしたのか。
「ッツツ!!?」
斬られた。
謎の男の長刀で、両腕を、頭を、いとも簡単に。
だけどそれよりも、街が、図書館が。燃やされて、千切られて、血塗れで、誰一人として生きて会うことが出来なかった。
なにもかもを滅茶苦茶にされた。
俺たちの居場所が、あんなにも惨たらしく!
「なんで、なんでだ! なにがあった!」
思わず声を上げた。
叫びは空間に響き、遠く道の先へもこだまする。
ただ反響して終わるのか、それとも誰かの耳にまで届くのか。誰かが居るってんなら、答えてくれ! 教えてくれ!
一体、なにがあったんだよ!
「ここは何処だ! 今いつなんだ! なあ、どうなったんだよ!」
なんで、なにがどうなって。
身体を前のめりに傾け、立ち上がる。そして後ろ手を縛られたままに、再度鉄格子の先へと叫んだ。
「教えてくれよ! なあ、――教えろよ!」
こんな場所で、こんな状態で、
なにも、分からないんだよ。
「…………っ」
応える声はない。
ただ俺の声だけが、遠く向こうへ消えていく。
だけど、ふと。
小さな音が、残響に混ざった。
「…………」
それは足音だ。
カツカツと、断続的に地面を叩き響かせる。そしてそれが、少しずつ大きく、近付いているように聞こえ、
そこに、声が重なった。
「――ハッ! ようやく目を覚ましやがったかよ!」
低い、男の声。
男は笑いをこぼし、尚も距離を詰めて来る。
「元気一杯に大声上げやがって、長いこと眠ってたからか? あんだけズタズタにされながら、よくもまぁ平然と戻りやがる!」
やがて灯火が届く、明かりに開かれた距離へ。
そこに男が踏み入った。
そいつは――、
「……おいおいマジかよ。ほんとに五体満足で、健康そのものじゃねェか」
「――お前」
そいつには、見覚えがあった。
俺は知らない。会ったことは当然、見たことすらない。話に聞いたこともない。
だけど、覚えている。
黒の色濃い和装は、図書館で対面したあの男と同様。高い下駄を鳴らしながら、尚も近付いて来る。腰に携えた武装もまた、同じく背長い鞘入りの日本刀だ。
短く切り揃えられた髪が逆立ち、薄明りの中で鋭く尖る眼光。離れていても目立つ大きな傷跡が、右目と口元に刻まれている。
見下すように軽く上げられた顎も、頬を吊り上げ歯を見せた笑みも、
知らない――筈、なのに。
「魁、島」
「……ア?」
「――魁島、鍛治」
カイジマタンジ。
その名前が、こぼれ出した。