第三章【33】「エピローグⅡ/プロローグⅠ」
地下道を抜けて、図書館の敷地へ踏み入る。
明かりの下、開かれた小さな一室は、一度も来たことのない部屋だった。けれどそのまま突っ切り向かいの扉を引けば、覚えのある壁や天井をしている。
地下三階。サリュが初めてこの世界に来た時、人目をはばかる為に降りて来た階層だ。まさかこんな地下道に続く部屋があったとは。
驚き、――けれど、それ以上に。
「……なんだ?」
違和感があった。
俺は姉貴の指示を受けて、ここまでやって来た。だっていうのに、未だに連絡もなければ出迎えの姿もない。迎えだなんてそんな大層なものは無かったとしても、襲撃を受け戦火に包まれている東地区と繋がった通路、見張りが居て然るべきだろう。
誰も居ない、なにもないってのは、流石におかしいだろ。
「……おい」
嫌な汗が吹き出し、背筋に寒気を覚える。
足早に、廊下を階段の方へと進み出した。
「嘘だ、……嘘だろ」
消え入る筈の独白は、けれども廊下の奥まで轟き反響する。足音までもが、まるで自分以外にもう一人ついて来ているみたいに、遅れて大きく鳴らされる。
それを邪魔する雑音が、一切混じらない。
あまりに、静か過ぎる。
おかしい。もし問題が起こっているなら、幾らか騒がしくてもいい筈だ。通常運転にしても、異常事態にしても、この静けさは異質だ。
それとも、まさか、
「――もう全部終わった後って訳じゃ、ねぇだろうな」
気付けば走り出していた。
廊下を抜け、幾つかの角を曲がって階段へ。上階へと連なる色濃い段差を、二つ飛び四つ飛びで駆け上がっていく。
もっと速く、もっと急げ、間に合ってくれと、息を切らしながら。
けれど、
「――――あ」
その道中、地下一階の、踊り場で。
一瞬、足が止まり。
「――ッ!」
すぐに、前のめりに再び駆け出す。
「――! ――ッ、あ、ァ!」
いつしか、全身に纏わり付く多量の汗が、咳き込む程の喉の渇きが、この身を蝕み始める。僅かな運動にも関わらず、足も重くなり、一歩が深く踏み込まれる。それでも急ぎ大きく振り上げた右足が、先の段差へ下ろされ強く踏み鳴らした。
それらは疲労からでも、焦燥感からの無茶やそのしっぺ返しでは、ない。
この崩れは、もっと単純に、
――待ち受ける絶望を自覚し、追い詰められているからだ。
今にでも膝を折り、倒れそうな程に。
地下一階から、地上階へ。
こんなの嘘だと、認められないと叫びながら、倒れ伏せた人たちの身体を、大きく跨いで乗り越えて。
上へ、上へ。
赤い液体で滑りそうになる足を、しっかりと踏み締めて。転がる腕や足や頭に、躓きそうになりながらも、上へ。
真っ赤に汚された壁に、天井に囲まれながら。
無造作に転がされた視線たちから、必死で目を背けながら。
素通りして、どころかどうしようもなく、幾つかは踏み潰して。
それでも、行く先へ。
「――――ッ、が!」
階段を抜け、続く一階の大広間へと転がり出る。
奇しくも最後で支えを失い、――あの日爆風に煽られた時と同じように、膝を着き両手のひらで床板を叩く。
ぐしゃり、と。
湿った肉塊に、この手を下ろす。
ああ、だけど。
それどころじゃ、ない。
「――――――――」
――――――――――――――――。
「――――――――――――――――あ」
――――大広間には、他にも。
「――――――――ア」
沢山の人たちが、四肢をもがれたり頭を潰されたり、
どうにもしようのない状態で、転がされていた。
この空間の真ん中だけを、ぽっかりと開けるように、綺麗に壁際の隅へ寄せられている。
何人も何人も密集して折り重なって、ちぐはぐに絡まり合って繋がってみんなで円を作って囲んでいるみたいに。真っ赤なだけじゃなくて緑も青も、人でない身体たちも、全部が全部ごちゃごちゃに混ざり合って、滅茶苦茶だ。
跪いたまま見上げれば、吹き抜け上階の手摺りにもおびただしい数の手足や胴体がぶら下がっていて、煌びやかなシャンデリアもルビー色に鮮やかに彩られて、静寂の中にパラパラと零れる水音ばかりが、途切れることなく耳を打つ。
そして、
「――――――――」
今更に、見つける。
この大広間の中央に、ただ一人、だけ。
ソイツだけ、なに一つ欠けることのない、五体満足で立っている。
「――――――――お前、は」
オマエハ、ダレダ?
「――――――――お前、ガ」
佇む影は、黒の多い和装で着飾る男で――、
「久し振りですね、片桐裕馬」
そう、俺を呼んで、柔和な笑みを浮かべるのだった。
その装束をより深い黒に滲ませながら、頬や首元をおびただしい程に重ね染めながら、同様に赤色を滴らせる右手の指先を、ゆっくりとこちらへかざして広げながら。
尚も平静に、笑うのだった。
やっと見つけた、と。
「言っても、君には覚えがありませんか。なにしろずっと幼い頃です。そもそも俺が一方的に見知っているだけで、君が俺を見知っていたとは限らない。はじめまして、の方がよかったかもしれませんね」
……幼い、頃に?
「それにしても、現れるとは思っていましたがこうも遅いとは。待ちくたびれて、想定以上の人員を摘むことになってしまいました。……一緒に連れて来た鍛治が煽った所為もあるのでしょうが、だからといって手荒くされれば、俺も相応の手段を以って切り返すしかありませんので」
摘む?
相応の、手段?
「さて、派手に散らかしましたが、始末した蜘蛛はどこでしょう? 肝心の胴体も両断した手足も、どこに投げたのやら」
「――――……蜘、蛛」
「完全に仕留めたつもりですが、なにしろ長寿の大妖怪、如何な手段で生存していても不思議ではありません。あの個体だけは、ここで絶っておく必要がある」
コイツは、なに、を?
「もっとも、東地区に続き、この図書館の惨状。流石に隠し切ることは出来ないでしょう。いいや、まだこの建物を丸ごと吹き飛ばして、有耶無耶に隠滅する手段もありますが――それ以上は考えないで置きましょう。こうして目的は達成された訳です。後にどうなるかは流れに任せ、思い通りに進まなければその時に動くとしましょう」
ナニ、を。
「それにしても今更ですが、想定していた彼女らには鉢合わせませんでしたね。九尾の狐やがしゃどくろ。彼女らも同時に立ち塞がったなら、こう簡単でもなかったでしょうが。誘導は上手くいったようです」
ナニヲ。
「女郎蜘蛛の討伐も完了し、乙女ちゃんの顔も見られました。他と違わず激しい拒絶を喰らいましたが、――まあ、ギリギリ死なない程度には加減出来たでしょう」
「――オ前」
オマエハ、サッキカラ、ベラベラト、
ナニヲ、言ッテヤガル?
「せっかくの本土なのに欠片の余暇もありませんでしたが、では、帰りましょうか」
男は、そう言って、
この期に及んで、まだ、
「ねえ、片桐裕馬」
にこりと、口元を緩めやがった。
それで、限界だった。
「笑ウナヨ」
バツンと、頭の中でナニかが弾けた。
それは錯覚か、それとも本当にか。どちらか分からずどうでもいい程に、血流が勢いを増して全身を駆け巡った。
秒間数十の躍動、加速度的に高まる鼓動。その上昇に追い縋る為に、指先髪先から内部の血管に至るまで、全てを強化し頑丈に造り替える。
充血し開かれる瞳は、より詳細な情報を求め。
膨らみ隆起する筋肉は、より凄惨な破壊を起こし。
この身を塗り潰す赤黒い鎧は、額から突き出す鋭利な二角は、それに相応しいおぞましさの発露だ。
全ては、ただ一つの目的の為に。
この男を、殺す。
――殺ス!!!
「■■□■■■□□■――!!!」
唸りは絶叫であり、嗚咽だ。
轟く咆哮は怒り以上に、自暴自棄による叫喚だった。
きっと全ては手遅れで、もう、どうにもしようがない。
感情のままに掲げたこの目的に、意味などありはしない。
けれど、それでも、だから。
敵討ちだとか役割だとか使命だとか、そんな小綺麗な理由もなく、
ただ、コイツを殺してやりたかった。
コイツが笑い在り続けることが、ただ耐え難く我慢がならなかった。
だから、殺スンダヨ!!!
「■■■、■■□■ッ! ■■□■□――!!!」
叫び、地面を蹴り付け飛び出す。
走る必要も無い。
一足きりで男へと肉薄し、両腕を振り上げる。
それでも、男は尚も飄々と、
「そうです。それでこそ、です」
いつの間にか、その右手に背長い刃を携えて。
「それでこそ、――あるべき鬼の姿だ」
直後、叩き付けた両腕は、空を切り――いや、そうではなく。
「――――あァ?」
振り下ろした腕からは、ただ真っ赤な流体が辺りに散らされたばかりで。
そもそも男を叩き潰す筈の拳が、肘関節から上の部位が、
――綺麗に斬り飛ばされて、失われてしまっていた。
「いつまでも下手な猿真似はやめなさい」
気付けば、額に突き付けられた長刀。
その赤黒く染められた刃の向こうで、男は。
「君は正真正銘、――鬼という妖怪なのですから」
そう、宣告した。