第三章【32】「エピローグⅠ」
今日より少し前。
多くの無関係な人たちを巻き込んだビルの爆破崩落事件。たった一日で、居合わせた数十人と育ての親の命が失われた。
その根幹にかかわり、主犯ともいえる存在。
私たち神守の姉妹を、片桐乙女は始末しなかった。
どころか、私たちの行いを一般にも、裏の世界ですら公にすることはなかった。
代わりに彼女が私たち姉妹に求めたのは、組織にではなく片桐乙女個人に従うということ。
そしてその上で、潜入スパイとして女郎蜘蛛の手足となることだった。
初対面は、既に彼女の巣の中だった。
「ふむ。お主が件の事件の姉の方、神守黒音、か」
喫茶店八ツ茶屋の奥のテーブル席で、東雲八代子と向き合わされる。
長い髪の、車椅子に座った幼い少女。だけどその外見に不釣り合いな眼力と、肌を叩く冷たい緊張感が隠れていない。
あの日、あの人と敵対した時のプレッシャーと同じだ。
私の義父――がしゃどくろと同じ、特級の大妖怪。
正直、その命令を与えられた時点で、ある程度の覚悟は決めていた。ここへ来る前に真白には「帰らなければ街を出ろ」と言い含めていたし、そんなもしもの時に、無抵抗で終わらない為の装備も隠し持っている。一つになってしまった神具も、私が身に着けていた。
私は出来得る覚悟や準備を全て整えて、その場に立ち会ったつもりだった。
そしてそんな、見るからに警戒態勢だったであろう私に。
「はぁ、まったく」
東雲八代子は大きく息を吐いて肩を落とした。
想定すらしていなかった、呆れて脱力した様子で。
「え?」
「え? じゃないわい。なんという鋭い目付きじゃ。お主のような札付きの者に仕事をくれてやるのじゃぞ? 感謝こそあれど恨まれるなど、筋違いも甚だしい」
「……それは、本気なの?」
「本気とは?」
「本気で、私の採用面接のつもり?」
確かに私は、そういう体でこの場へ訪れていた。
従業員募集に興味があるから話を聞かせて欲しい。関係者だから内情にも配慮出来る。是非ここで働かせて貰いたい、と。
それがとんとん拍子で店長が出て来ることになって、今から面接だと奥の席へ案内されて、――そのまま最悪の展開だって考えたのに。
それに最初の時点で、私の事件のことだって知っているのに。
だっていうのに、東雲八代子は変わらず答えた。
「本気も本気に決まっておる。入口の張り紙に急募と書いてあったであろう? 喉から手が出る程に渇望しておる求人が、しかも訳知りとはこれ以上にない僥倖よ。逆に、不採用はないと覚悟するべきであろうな」
「……そう」
「それに、上手くことが運べば姉共々、妹も手に入れられるかもしれぬ。二人も人員を確保出来る絶好の機会、逃す手はあるまいよ」
「…………」
押し黙る。
と、今度は小さく口元を緩めた。
「フフ、手のかかりそうな新人じゃ。――ま、お主の警戒も間違いではない。言わせて貰うが、お主、いわゆるスパイというヤツじゃろう」
「……なんのこと?」
「とぼけずともよい。件の事件後、どう考えても百鬼夜行に囚われたであろうお主が、妾の店で働きたいと言うのじゃ。目論見も明白、もはや暴かれるのも計算された策略であろう」
見ているぞ気を抜くなという主張か、大きく動きを制限する為か、はて別の目的か。
呟き、彼女は続ける。
「悪いが、人員難でなければ妾もどうしていたことか。一蹴し、お主の首を即座に刎ねたという可能性も有り得なくはない」
「っ」
「だがそんな『もしも』などなく、むしろ求めてやまない程。こうして膝を突き合わせ、真剣に採用を前向きに考えておるとは」
誠に分からぬものだと、東雲八代子は一層笑みを深めた。
「ま、だからなんじゃ。警戒も仕方なし、好きに構えるがよい。しかし採用面接故、真面目には答えるのじゃぞ? 九割方内定とはいえ、調子に乗って無様を晒してみよ。――不採用の烙印、お主の不安通りその身に刻まれることとなるぞ」
それは本気なのか、冗談なのか。
どちらにしろ、彼女がその気になったなら、私の命運は尽きる。その事実はなにも変わらないと、それだけのこと。
それから彼女は店の奥から給仕服の従業員を呼び、複数枚の用紙を受け取った。
「改めて目を通すが、若輩者ながら経歴・思考共にとんでもないのう」
言って、ぱらぱらと捲られるそれは、恐らく職務経歴書や履歴書の類ではないだろう。果たして誰が調べ上げたのか、簡易な書類よりもっと深く、私の本質へと踏み込んだ情報だ。
改めてとの言葉通り、上から下までざっくりと視線を泳がせて。
「ふむ。人や街に傷痕を刻み、ひと時も忘れられぬ危機感を覚えさせる。力と恐怖による、生命危機への意識向上を図ったテロ行為。誠に捻じ曲がっておる、が」
その一連の情報に、東雲八代子は、
「よく出来ておるではないか」
そう、称賛をこぼしたのだった。
「こういう人間を守るなどといった話になると、妾ら裏の者たちはどうしても、守ってやらねばならぬと言いがちじゃ。人間の世話になっておきながら、その実で人間を自らより下等と見下す。腕力や能力などといった表面的な力の有無で、上下関係を定めておるのじゃ」
「……は、あ」
「じゃがお主のは違う。あくまできっかけを与え、人間たちを自ら成長させようと試みておる。手段こそ極端で、その実人間とはそこまで優秀でもないわけじゃが、まあそこは若さ故に見えなかったのであろう」
それは、私にはよく分からない観点と価値観だった。
けれど、それでも、東雲八代子は私を称賛してくれた。
よく出来たモノだと、そう言ってくれた。
「まだまだ未熟じゃが、今後に期待じゃな」
私自身気付かされた過ちを、誰しもが間違いだったと断じた私を。
東雲八代子は、そんな風に言ってくれたのだった。
「しかし、こうも見え透いた釘を刺しに来るとは。一体全体どういう了見――いや、どういう状況じゃ? 百鬼夜行の者共め、なにを見越しておる?」
結局、あっという間に私の話は終わってしまった。だからきっと私への評価だって、深い意味もない感想程度のものだったに違いない。
「まあよいか。今回のことを貸しに、いざという時は向こうの喫茶店や図書館を使わせて貰うとしよう。まさか先に贈り物を受け入れてやった妾を、邪険に拒むようなこともあるまい」
だけど、私は、
調子がいいのは分かってる。油断してはいけない相手だっていうのも、分かっている。
それでもその言葉は、私の胸に熱く響いて。
なんて、――ああ、どうして。
「……………………」
今更になって、どうしてそんなことを思い出しているんだろう。
それどころじゃないってのに。――でも、
今のわたしには、こんな想起くらいしか許されていなくて。
「……ぐ、……が」
頬に張り付く、真っ平らなタイルの冷温。
横たわる身体は硬い床板へと縫い付けられて、放り出された手足はどれだけ懸命に力を込めても、小刻みに震えてまともに動いてくれない。右手は指の腹で冷たい感触を確かめるばかりで、左手は仰向けに空を握り締めるだけだ。
立ち上がることなんて出来る筈もなく、寝返りを打つことすら出来ないままにうつ伏せで。
重いまぶたをなんとか開けても、視界は黒ずみノイズだらけ。どの道まともに見えていたところで、今の私には低過ぎる景色しか映せない。
それでもなんとか、なにか、――って、なにもある筈がないのに。
「……ご、……づ、ぁ」
分かっているけれど、痛みも熱も失われていく身体をもがき震わせる。
そんな私を嘲笑う――誰か。
『ハハ――やめと■■めとけ! もう神■の神具■壊■た。便利な服■隠し■■武器も残っ■ない■ろ? 時期■死■■だ、大人■く■■てろ』
「……」
なにを言われているのか。もはやそれすらも、しっかりと聞き取ることが出来なかった。
だけど、成す術もない私を馬鹿にしているに決まっている。そういう気に入らない手合いに良い様にされたのが、余計に腹立たしい。
神守の神具も破壊された。携えていた火器や刃物も、全部出し切った。それらを失って尚、この身一つで立ち向かって、――それすらも無様に砕かれた。
文字通り、成す術もなく。敵うべくもなく。
「……あ、あ」
どうしてこうなった?
私だけでなく、――真白も、――東雲八代子も、――ここに居た、他の人たちも。
みんな、全部、一つ残らず。
「……どう、し、……て」
嘲笑う声は、言った。
『――だから忠告しただろ? 今すぐ逃げろ、関わろうとすんな、って』
「――――――――」
『人間は黙って逃げるか、大人しく無関係を貫くなら見逃してやる。なにもせず、ただ起こることに目を背け、耳を塞ぎ、口を閉じてるなら、なんの手出しもしねぇ。――優しいオレ様が、わざわざそう言ってやったのによぉ』
「――――だ」
最悪にも、こんな身動き一つ取れない程に、追い詰められて尚、
馬鹿な私は、その言葉だけは聞き逃せなかった。
「――黙、れ」
『おう、悪かったな。もう聞かせねぇよ』
そして、私は音を失って。
最期に、顔の側面から内側に入って来る、細くて冷たい異物を受け入れた。
思えば、どうしてそんなにも必死だったんだろう。
大本が両親の死であることは確かで、けれど、
それが大きく燃え上がったのは、……そうだ。
彼を見たからだ。
片桐裕馬の抗う姿に、立ち会ってしまったからだ。
言葉だけでは、心だけでは、なにも変えられない。
あの日、あの学校で、彼の暴力によって気付かされたからだ。
そんなものに影響されてしまったから、私はこうして、こんなところに辿り着いてしまった。だっていうのに、先日行き着いた場所で、彼本人が立ち塞がって戦う羽目になって。
なんて、迷惑な。
なんて、ままならない。
せめて、無責任でも、お前の所為だって言ってやればよかった。
言ってやれる機会、あったのに、なぁ。
本当に、なに一つ、――ままならないなぁ。
◆ ◆ ◆
真っ暗な地下道を駆ける。
八ツ茶屋に隠されていた地下道は、丸く開かれ深い闇を伸ばしていた。
欠片の光もない洞窟のような道筋は、通信機器の明かりを頼りにしても足りない。視力を強化してようやく、突き出した手のひらが薄らと消え入る程に開かれた。
そんな暗闇の中を、恐ろしくも早足で駆けていく。
「……大丈夫だ」
随分進んだ。これまで壁のような遮蔽物にはぶつかっていない。時折緩くカーブを描く道があるから、それさえ気を付ければ真っ直ぐ進むだけだ。
だからもっと急げ、走れと、足を速めていく。
断続的に揺れる振動や、遠く爆音の残響に後ろ髪を引かれながら、それでも決して振り向かずに進んでいく。
俺の役割は、この道の先に向かうことだ。
先導しているであろう東雲八代子を追って、図書館に辿り着く。あの人の企みを暴き、もしもの時の戦力として控える為に。
これは間違いなく、必要な行動だ。俺に出来る最善の、最大の戦いだ。
そう、分かっているのに、
「――サリュ」
未だに、引き返したい衝動が収まらない。何故かサリュから離れることに寒さを覚え、どころか、それが時間と共に増していく。
これは、予感だ。
俺はあの場所に居た方がいいと、居なければならないと、そんな予感が胸中で暴れている。
今からでも遅くない、引き返せと、他でもない自分自身が訴えてくる。
「……違うだろ」
その予感を、全て呑み込んで抑えつけた。
足を止めることなく、図書館を目指して前進を続けた。
サリュなら大丈夫だ、俺の力なんて必要ない。あの数を相手にしたって、引けを取ることはない。絶対に、なんとかしてくれる。
そう、自分へ言い聞かせて。
それから、やがて。
「――あ」
道先に、光が見えた。
この地下道の向こう側から差し込んでくる、淡い黄土色の明かりが。
到着だ。
「……そうだ」
拳を握り締め、覚悟を改める。
ここまでの道中、見落としている可能性はあるが、特筆すべき物は見つからなかった。未だに東雲八代子の目的は、はっきりとしていない。
なんの為にこの場所へ逃げ込んだのか。そうした必要は、意図はなんなのか。場合によっては、その先の衝突によって戦闘に入ることだってあるだろう。
或いは既に、敵対している可能性も。
「姉貴、俺だ。間もなく到着する」
通信機器へ言葉を掛ける。が、返答はない。
電波の影響か、地下に入ってからは音沙汰もなし。
考えたくはない。が、……最悪は十分に有り得る。
なにしろ東雲八代子は、特級の位を与えられた妖怪なのだから。
「……頼むぜ、手遅れってのだけは勘弁してくれよ」
呟き、地下道の果て、最後の光道を突き進む。
この身はようやく、図書館へと到着して。
――けれど、俺は大きく勘違いをしていた。
やはり俺は、サリュの傍を離れるべきではなかった。あの場所に残り、遅くとも戻る選択を取るべきだったんだ。
だって、サリュは大丈夫でも、
サリュには、俺の力が必要なかったとしても、
――俺には、彼女の力が必要だったんだ。