第三章【29】「最後の障害」
歯を見せ、ありがとうと口にする。
その微かな笑顔には一切の疑念も、疑心も感じられない。
サリーユはそれ以上なにも言わずに、再び周囲へ襲い来る連中へと焔を振るった。未だに眉を寄せて曇りを帯びた表情ではあるが、先程のような動揺やためらいは見えない。渦を巻く高熱の奔流からも、彼女が落ちる姿はもう視えない。
「――――」
だからボクも、自身へ迫るヤツらへと刃を突き立てた。
振り下ろされる土色の剛腕を断ち切り、遠方より放たれた閃光を退け、道先を阻む異形の身体を斬り伏せる。先刻のように四肢を全て離す必要もなく、邪魔なモノを取り払ったら、胸の核を穿って終わりだ。
そうやって連中の数を減らしながら、ボクは今一度、彼女の元へと宙を蹴り向かう。
彼女はなにも尋ねはしない。
けれどボクは、彼女に尋ねたい。
「……馬鹿らしい」
一人、呟く。
こうして行動を始めた時点で、ボクにはその先の結末が視えている。彼女の傍らへ辿り着いた先、尋ねた質問の答えが判っている。口の動きが、表情の変化が、それらからサリーユがなんと言葉を発したのか、その全てが鮮明に描き出されてしまっている。
その上で、それでも。
ボクはそれを音として、言葉として聞き届けたかった。
彼女がそう口にした未来を、残る事実として確定させたかった。
これは自論だけれど、信頼という感情は、あまりに難しいモノだ。
ボクはソレを預けるのは勿論、預けられるのだってご免だ。信頼も、責任も、そんな重い物は背負いたくない。頼った相手の失敗も、頼られた自分の失敗も、どちらも嫌だ。
それが殊更、命に関わる事象だったら、言わずもがなだろう。
そんな確定の無い他者を要因とした感情に、全てを預けることなんて出来る筈もない。
かつて誰も、ボクの目を信じようとはしなかったように。
全幅の信頼なんて、頭がおめでたい危機感の薄い奴か、自暴自棄で全てを投げ出している奴の戯言だ。そんな風にさえ思っている。
けれどもう一つ、もっと違った思考回路で。
絶対的な状況下であっても、他者に信頼を預けられる人たちがいる。
それは――強い人たちだ。
「……サリーユ・アークスフィア」
ボクが未来を視えていなければ、ボクが警告を叫んでいなければ、撃ち落されていた少女。だけれどその動揺さえ取り除かれれば、来たる脅威は一瞬にして取り除かれた。その思考を阻害されていなければ、連中程度を相手に後れを取ることなんてなかった。
きっと「上だ」なんて言わなくたって、「攻撃が来る」とだけ伝えていれば、彼女は見事に対応してみせただろう。
考え方も、精神性も、脆い部分は沢山見えているけれど。
それでもやっぱり、彼女は強い人に違いない。
だからボクの言葉を疑うことはなかった。
たとえボクの忠告が虚言であったとしても、彼女の力の前には、関係がないから。
それ程の強さが前提となって、彼女らは自身を他者へ預けることが出来る。
そう、彼女らは。
「ヴァンさんも、そうだ」
あの人がボクの目を受け入れてくれたのは、彼が優しい人だからとか、人間性が優れていたからじゃない。
ただあの人が、強かったからだ。
ボク程に視えていなくとも、経験で培った先見の目があった。異世界を渡ることで、普通ではない現象や特質にも理解があった。
それらを含めた上で、ボクを取り入れても構わないと思える程に、強かった。
未熟で幼いボクが失敗しようとも、それをフォローして余りある程に強かったんだ。
そして、
「ヒカリ?」
接近するボクへ、焔を操りながら振り返る。
同時に二人の間へ割り入った影を、ボクらは一瞬で貫き、焼き尽くした。
障害を取り除き、それから今一度、互いの距離が詰められる。今度は相対するのではなく、共通の敵を持った味方として。
「突然だけれど、失礼するよ」
「え、どうしたのヒカリ、異常事態? 怪我とか魔力切れみたいなので守ってほしいとか、そういうの?」
「そうだね。剣を振ったり飛び回ったり、疲れてはいる、かな」
なんて、軽口を言いながら。
周囲を警戒出来るように、背中を合わせる形で隣立つ。
「つ、疲れ、って」
「まーあながち冗談ってわけでもないけど、まだまだ戦えるから安心して。ただ単に、少し大事な話があって来ただけさ」
「大事な話」
「ああ、とてもね」
悔しいけれど、認めざるを得ない。
たとえ彼女の力が特級には不向きであっても、ボクが思う切札には成り得なくても、まだまだ未熟で付け入る隙が山ほど見えていても。
サリーユ・アークスフィア。
かの魔法使いの少女は、間違いなく強者だ。
だから、
「ねえ、聞きたいんだけどさ」
「なに?」
「ボクはね、キミと噂になっている例の彼氏と同い年なんだ」
「……え?」
「十七歳なんだよ、ボク」
「……えっと、うん」
「あー。……それで、なんだけどさ」
――それでも、
「それでも君を呼ぶ時は、サリュでいいのかな?」
暫しの沈黙。
再度、ボクは彼女に尋ねた。
「ごめんごめん、馴れ馴れしいよね。ヴァンさんのようにサリュさんって、そう呼んだ方がいいかな?」
「――それって」
どういうつもりなのか。
聞かれたけれど、きっと答える必要はないだろう。これ以上は言わなくたって、全部伝わっている筈だ。
彼女が示してくれた強さへの、ボクの答えを。
彼女――サリュは、少し遅れて。
「サリュでいいわ。いいえ、サリュがいいわ!」
確かな声で、そう返してくれた。
「改めてよろしく、ヒカリ! 背中を任せるわ!」
さあ、これでこちらの舞台は整った。
間もなくして、最後の障害を迎え撃とう。
◆ ◆ ◆
「ボクの方こそ、今は頼りにさせて貰うよ――サリュ」
サリュ。
ヒカリは今一度、わたしをそう呼んでくれた。
たったそれだけ、ほんのそれだけかもしれない。呼び方が変わっただけで、わたしを特級と認めてくれた訳ではない。言葉通り、今この時に背中を預けてくれただけで、これからずっと頼りにしてくれるとも限らない。
けれども、こんな状況の中で不謹慎にも、微かな高揚を覚える。胸の奥から込み上げてきた熱い感情に、自然と手のひらを握り締める。
「――ええ」
混乱も、動揺も、それらによって沈んでいた感情が、薄れていく。完全に晴れることはなくても、曇った視界が開けていく。
落ち着きを、平静を、手繰り寄せる。
ヒカリの強さは他でもない、戦ったわたしがこの身で味わっている。彼らに引け劣ることなんて有り得ない。
だから、恐れるな。
与えられた被害や彼らの性質に、追い込まれて呑まれるな。
「一気に決めましょう」
直ちに状況を打倒せよ。
それこそが、最適解だ。
ヒカリと背中を預け合い、取り囲む敵たちへと視線を向ける。
辺りを浮遊する人型の転移者たち。無傷の白影はもはや、目の届く範囲には二体。残る土色を晒した個体も、十体と居ない。
彼らに勝ち目はなく、けれど彼らには、恐らくそれが判断出来ていない。意思疎通はおろか知能の有無すら疑わしく、後退という選択肢は持ち合わせていないだろう。だからより苛烈に一心不乱に、わたしたちへ攻撃を繰り返す。
だけど、例外がある。
そんな彼らの大凡が共通して持っているであろう特徴から、明らかに逸脱している個体がある。
そして、この終結へ向かう空へと、
『――まったく、やってくれる』
重い声色が響き、わたしの前方へと現れる影。
背後に未だ白布をはためかせ、けれどその身の装束は大きく裂かれ剥がされて、なにより頭部を覆っていた白の仮面が失われていた。ヒカリに受けた斬撃の跡は、たとえ形が戻されようとも刻まれたままだ。
首を絶たれ、地上へと落ちていった。仕留めたつもりでいたけれど、思えば、後に明らかになった核となる魔法式を壊してはいなかった。その根底の造りが同じであるなら、ここで戻ってくることに驚きはない。
ただ、それでも驚かされたのは。
その――仮面が失われた額だ。
『この数この戦力で、多少の抵抗程度。我々がこうも一方的にとは』
例外に、言葉を発する。
その個体の顔面には、大きく開かれた口が存在し、
開口された内部には、並べられた歯や、べっとりと水気を含んだ舌が揺らめいていた。
おぞましかった。
どうして口内だけが、それ程までに、生気を帯びているのか。
「……あなた、なんなの」
他とはあまりに違い過ぎる。
人の形を模すだけでなく、彼は、人の口部を持ち扱う。だから彼だけが、言語を発することが出来ているのか。
それは果たして、彼が特異的に手に入れられたモノ?
それとも、魔法式や異世界転移も含めて、ことごとくが別の存在によって引き起こされた、人為的なモノなのだとしたら。
疑念は、確信に変わる。
『この国の戦力がこれ程など、――知らされてはいなかった』
彼はそう言葉にした。
『我々の力で圧倒し得る。立場を明確にし、一方的に支配が適う、と。――この抵抗は、想定外か? 否、全て想定されていたのか? ……どちらにしろ、我々の命運は既に――』
恐らく、わたしたちへ向けられたものではなかった。
けれどそこには確かに、彼以外の何者かが存在していることを示唆している。
その発言に、ヒカリもまたこちらを窺い、考えを吐露した。――合点がいった、と。
「道理で最初から、ボクらと問題なく意思疎通が取れる訳だよ」
言語を発することが出来るから。
歯や舌、発声器官を持っているから。
では、なく。その上で、
「どうして異世界から訪れた転移者が、ボクらの言語を理解して、ボクらが理解出来る言語を口に出来たのか。――そういうことだろう?」
そう、最初から。
この世界へ訪れた彼らに相対したその時から、わたしとその個体は会話を成立させていた。言葉による意思疎通が出来ていた。
この国の人に触れなければ、世界との縁を結ばなければ、言語も知識も理解出来る筈がないのに。
なのに、それが可能だったのは。
「キミが言語や知識を即座に理解出来る特異的な能力を持っている。または、そういう魔法によって補われている。――なんて、難しく考える前に、もっと単純な可能性があるよね」
ヒカリの口にした言葉から、辿り着く一つの方法。
わたしはそれを、彼へと問うた。
「……あなたはここへ至る前に、元の世界で既に、この世界との縁を結んでいたの?」
重ねて、声を上げる。
「この世界の知識を与えられた上で、この世界へと転移して来たの?」
だとしたら、それは、
それは、つまり――。
「あなたたちの強襲は、この破壊は、この世界の人が仕組んだっていうの?」
対する、舌を晒す個体は応えない。
彼はただ、その大口を開き、歯を鳴らして、
『――我、最終式を、解放する』
そう、宣言した。
直後、バキリと一際轟く砕音。
それを皮切りに、断続的に呼応する小さな破裂音。なにかを砕き、割り、力尽くで開くような異音。それが、土色の身体の内側で鳴らされている。
そして、目に見えて顕わになる変化。
突如として彼の腕が、胸部が、頭部に至るまでその全身が、大きな亀裂を幾重にも開いた。
深く鋭く割れた土石の外皮は、やがて、その奥から淡い光をこぼす。縦横無尽に裂かれた傷痕が、発光する線の交わりへと変容する。
発散される、圧倒的な力の奔流。大気が震わされ、光の周辺が歪んでいく。
「最終、式」
わたしは知っていた。
それがなんなのか、それがどういうモノなのか、知っていた。
「傷痕の、魔法式」
それはかつて相対した、わたしと同じ魔法使いの、彼女が使っていたモノ。
その身を削って浮かび上がらせる、より苛烈な破壊を引き起こす、最悪の手段。
『撤退は、ない。我々はこの身の全てを賭して、この国を――墜とす』
「――そう」
疑念は尽きない。
けれどもはや加減も、ためらいも許されない。彼女との衝突も辛勝で、目の前の相手が劣るとも限らない。どころか更に強化された式であるなら、今度こそ打ち負けるかもしれない。
それ程の脅威と相対している。
全力を以って、片を付けなければならない。
「ヒカリ」
「……そうだね、そっちはサリュに任せるよ。桁違いの火力戦に混ざるのは、出来れば遠慮したい。周りの雑魚を頂戴」
「ん、ありがと」
ああ、それなら遠慮も要らない。
「――焔を」
わたしは自らへ命じ、今一度、この手に焔の揺らぎを灯した。