第一章【01】「プロローグ」
長編連載です。
ネット小説初デビューです。
楽しんでいただければ幸いです。
壁にかかった時計が十六時を回った。
窓から夕日が差し込み、机や本棚がオレンジ色に染められる。
放課後の教室――ではない。学内でもない。
ここは学外で、学区からも離れた別の場所で……。
「裕馬。薬学の本、そろそろお願い」
呼ばれて思い出す。そうだ、頼まれごとだ。
作業を途中保存し、開いていたノートパソコンを閉じた。
「悪い。すぐ行くよ、姉貴」
応えて席を立つ。
けれど部屋を出ていく前に、ふと気になって、振り返り表情を窺う。
催促されたが、どれくらいの緊急性なのだろうか。
と、見れば、……案の定。
姉貴は両肘を机に付けてスマホをいじっていた。
くるくると指を回して、恐らく画面上ではドラゴンを相手にビー玉を動かして攻撃しているだろう。
「……ったく」
「どうしたニワトリよ」
「ニワトリじゃねぇ」
「真っ赤な髪してなにを言うか、このエセ不良め」
ようやくこちらを向く。
眼鏡の向こうに重そうなまぶたと気だるげな瞳。
整っていた髪もくしゃりと掻いて、スーツもジャケットのボタンが全部外れて、おまけに大きな欠伸まで。
完全に自宅モードだ。
姉貴は視線だけこちらに向けながらも、スマホに指を走らせ続ける。
ピコピコと重なり高くなっていく音は、確かコンボを繋げた効果音だったはずだが。
相変わらずよくやるよ。
「で、なに? 立ち止まってどうしたのよ」
「いや、確認。姉貴の本って地下の私室にあるんだよな。どうやって行くんだっけ?」
「やれやれ記憶力のない弟だ。前に連れて行ったばかりでしょうに」
「一回だけな」
それもつい最近ってわけじゃない。確か三か月くらい前だ。
姉貴は面倒くさそうに大きく欠伸をして、それから言った。
「部屋出て右曲がって階段降りて、大広間行って、奥のエレベーターで地下二階。降りたら真っ直ぐ進んで突き当りを左ね。オッケ?」
「全然分からん」
「じゃあとりあえず地下二階ってことで」
エレベーター降りたら案内板あるから、二〇一号室。
部屋番号忘れて迷ったところで、それほど広い階でもない。
ドアにも「乙女」と書いてあるから、余裕でしょう、と。
「まあそれなら」
行けなくはない、か。
それに聞いていて少しずつ思い出してきた。
……同時に嫌なことも頭を過ぎる。
思い違いであってほしいが。
「……薬学の本、あの部屋から見つけ出すのか」
「ほら、行った行った」
「わーったよ。とりあえず行ってくる」
「眉間にしわ寄せすぎ。この弟恐いわー」
「せめて顔見て言えや」
またスマホに集中しやがって。
「見なくたって分かるわよ。どうせいつもの仏頂面でしょ」
じゃ、いってらっしゃい。
簡単に見送られ、言われるまま渋々部屋を出た。
面倒くさいと思いながらも、不思議と足は軽快に駆け出す。
まるでなにかに背中を押されているような、そんな感覚だった。
◇ ◇ ◇
廊下を進んで、立ち並ぶ背高い本棚の間を抜け、その先の大広間へ。
大広間は吹き抜け構造になっており、一階から五階までドーナツ型の廊下が縦に連なる。
背の高い手すりを握り天井を見上げれば、大きなシャンデリアが暖色系の光で館内を照らしていた。
息を呑む。我ながら子どものようだが、この広大な空間を気に入っている。
自分を取り巻く大勢の人々が動き、交差し合う凝縮された世界。その一部で居られることが誇らしい。
とはいえ、見惚れているわけにもいかない。階段を降りて、閉館際の慌ただしい人混みを潜っていく。
と、丁度エレベーターに辿り着いた時、ふと、見知った顔とすれ違った。
アッドだ。
「オウ、片桐弟ォ! そんな恐ェ顔して、急いデどこ行くんダヨ。もう閉館ダゼ」
気さくに右手を上げて、チロリと長い舌を見せる。黄色く大きな瞳を細めて、随分ご機嫌な様子だ。
立ち止まり、よく見てみれば、いつもよりスーツが黒い。
胸元にも青い鱗とは対照的な、真っ赤なネクタイが目立っている。
「ようアッド、スーツ新調したか?」
「オウヨ。流石は弟ォ、違いガ判る男ダゼ。今晩一杯どうヨ!」
「いつも言ってるだろ。お前の世界じゃ飲酒できる歳だが、うちじゃ十六は法律的に駄目だ」
「カーッ。相変わらズ人間様は弱いナ。オレたちの種族ジャ、子どもノ頃からノ嗜みヨ。こッチでいうジュースみてェなもンサ」
言って、挑発的にチロチロと舌を揺らす。
悔しいが、こればっかりはどうしようもない。お酒は大人になってからだ。
なんて当たり前のことを言うと、決まって笑われるが。
「ツレないゼ。そんな真ッ赤ナ髪した不良ガ、法律だのルールだノ、細けェゾ」
「うっせートカゲ野郎」
「トカゲじャネー、リザードだッツノ!」
その辺りこだわりが強いらしい。
それはアッド個人としてなのか、リザードマンという種族としてなのか。
改めて詳しく聞きたいところだが、別の機会にしよう。また晩飯に誘ってくれる筈だ。
「悪い。頼まれごとされてんだ、行くわ」
「オイオイ弟ォ。コイツは白黒付けなきャいけネェ議題ダゼ」
「姉貴の用事なんだ」
「オウマジかヨ! ソウいうのハ先に言エ!」
「安心しろ。アッドに止められたって言っとく」
言い残し、丁度来たエレベーターに飛び込む。
後ろでギャアギャア続けているみたいだが、知らんぷりだ。
そうしていると、乗り合わせた職員が笑った。
全長百八十センチ越えの、巨体な赤いスライムの従業員だ。
つるつるしたグミのような見た目からは分からないが、確か結構高齢のお方だった筈。
当たりのようで、スライムさんは「ふぉふぉふぉ」と口にした。
「ふー。若いモンは元気で良いのう」
「お騒がせしてすんません。あ、地下二階でお願いします」
「あれま。残念じゃが、上に向かっておるよ」
なんてこった。
◇ ◇ ◇
とかなんとか紆余曲折。
ようやく地下二階に辿り着く。
……もっとも多少待たせたところで、姉貴は気にせずスマホで遊んでいるだろうが。
とはいえ急ぐに越したことはないと、足を進める。不安だった経路も思い出してきた。
廊下を突き当りをまで行って左へ。並ぶ幾つもの扉の中に、「乙女」とプラカードの下がった二〇一号室を発見する。
ここが姉貴の私室だ。
別名書庫。
何故そう呼ばれているかは、開ければ明らかだ。
しかし、
「……なんだ?」
到着した今、湧き上がってきたのは安堵感でも達成感でもない。
まさか虚しくなったりもしていない。
疑念だ。
「どう、して」
どうして俺はここに居るんだろうなどと、そんな風に考えてしまう。
どうしてだって? そんなの当たり前の事実確認だ。
――決まっている、姉貴に仕事を頼まれたからだ。
どうしてアッドに絡まれて尚、それを蔑ろにしてまでここを目指したのだろう。
――決まっている、出来るだけ手早く済ませた方がいいだろうからだ。
どうしてエレベーターを間違えて、すぐに戻ってこられたのだろう。
――それはまあ、スライムさんがすぐに教えてくれたからだ。
じゃあ、この疑問は?
まるで誰かに背中を押されたように、手を引かれたように感じる。
全ての理由を強引に作られ導かれたような、納得出来ないモヤモヤがある。
「っ」
それらの疑念を払拭する間もなく、身体は動き出しドアノブへと手を伸ばす。
指先が触れて手のひらが包み込み、ガチャリと迷いなく右へ回す。
一連の動作を承認し、軽々と開かれる扉の向こうへ。
息を呑む。
けれど、
「――――」
そこにあるのは、前に来た時と変わらない姉貴の私室だった。
本の山にまみれた書庫。
乱雑な平積みは優に天井まで届く程で、崩れて重なり合うぐちゃぐちゃの本で足の踏み場もない。
部屋の角すら見えないどころか、前に進むには本を崩し掻き分けるしかない。
あまりに密集された書籍の乱雑空間。
「この中から目的の本を探せと?」
薬学だったか。
特にタイトルの指定はなかった筈だが、それでもだ。……一苦労なんてレベルじゃ済まないぞ。
それが姉貴の私室。
部屋として終わっている、ロマンもスペクタクルもなにもないごちゃごちゃなゴミ箱。
と、不意に。
どういうわけか、そんなところに、
突如、女の子が現れた。
「は?」
思わず視界を広げ、出来うる限りの情報を収集し真偽を疑う。
果たして、これは現実か?
積み上げられた本たちの上、天井との間にある僅かな空間。
そこに少女が現れたのだ。
「なん、で」
空間の裂け目だとか眩しい稲光だとか、そんなものは一切なかった。
ただポンと、むしろそれが当たり前みたいに、気付けば彼女がそこに浮かんでいた。
しかもこれがまた特徴的な格好だ。
黒いとんがり帽子に、黒いワンピースとマント。
いわゆる魔女のような、ハロウィンとかで見かけるコテコテの衣装。
小さな体躯で、長い髪が左右に揺らめいて。
整った顔立ちはやや幼く、中学生か下手をすれば小学生。十代前半に見える。
そして、閉じていたまぶたが開かれた。
深く赤い、――宝石のように綺麗な瞳。
「――――……」
ゆらりと、彼女の視線は天井を見上げ。
それから次に、周囲のなにかを映し入れようとして。
――彼女は、そのまま本の山へと落ちて。
……沈んでいってしまった。
「マジか」
言葉を失い、見送る。
――って、いやいや駄目だろ!
「マジかよ!」
大慌てで目の前の本を掻き分けていく。
大きな本から小さな本、図鑑、解説書、伝記、医学書、絵本。
入り乱れる情報が、圧倒的な重さと物量を持って行く手を阻む。
おまけに少女が向こうで暴れているのか、押し寄せてくる波に何度も転び、飲まれて戻される。
まるで流れるプールだ。
「ふざけんなクソ!」
それでもと身体を推し進める。必死で掻き分ける。
どうしてこんなにも懸命に?
わからない。考える暇もない。
「おい! しっかりしろ!」
ようやく掻き分けた本の向こうに、少女の姿が見えた。
しかしそれも束の間、すぐに被さる波に隠れてしまう。
それでも見つけた。そこに居る。
だから手を伸ばす。ただ彼女に届けと、それだけで。
遂に指先が彼女に触れた時、俺はその細い腕を強く握りしめた。
「大丈夫か!」
そのままつかんだ少女の腕を引っ張る。
なにやら声を上げているが、痛みを訴えているのかもしれない。
構わず引く。今はとにかく、彼女を本の中から助け出さないと。
引いて引いて、なんとかドアのところまで戻って。汗水流して、手足は擦り傷だらけで。
それでようやく、本の山から這い出ることに成功する。
そこで、気付いた。
――やってしまった、と。
彼女を引っ張り出すためにつかんでいたそれは、腕ではなく、足だったのだ。
振り返ると、崩れた本の上に寝そべる少女。
顔を真っ赤にしてこちらを睨んでくる彼女は、必死にワンピースの裾をつかみ、足の付け根を隠そうとしている。
だが、こう、強引にいったもんだから。
……色々と破れていたり、めくれあがっていたりで。
その、……つまり。
「あー。えっと、その、……大丈夫か?」
「■■■! ■■■■■■っ!」
聞き取れない言語だった。
ただ、理不尽を叫んでいることは理解できた。
それが彼女との出会い。
生まれて始めて立ち会った、異世界転移だった。