サイレンが鳴って -1-
その時、サイレンが鳴った。
サイレンは救急車のもので、だんだんと近づき、やがて遠ざかる。
俺はこの路地裏で、先輩である"佐々木"という男をめった刺しにしてやったところだった。
ナイフから滴る血液が、ポタポタとアスファルトを濡らす。
俺は徐々にさっきまでの興奮状態が醒めていくのを感じながら、
ナイフを死体に向けて投げ捨てた。
(もうこのデブが俺に話しかけることはないんだな)
今後の不安もあったが、まずは安堵を覚えた。
俺はこの佐々木という男から、毎日のように殴られたり、晒しものにされたり、金を取られたり――
この男から虐げられる日々には、ほとほと嫌気が差していたのだ。
でも、それも今日で終わりだ。
動かなくなった佐々木を見つめていると、この人間にも悲しむ家族や友達がいたのだろうか――
と、疑問に思ったので、少し考えてみることにした。
まず俺の知る限り、この男を心の底から慕う人間はいなかった。
クラスの連中や、この男がよくつるむ不良仲間も、
ただこの男の暴力や権力を恐れて付き合っているだけに違いない。
顔色を伺い、調子のいい事をこの男の前では言うが、裏では陰口を叩いていたのを知っている。
また、人の心や肉体を踏みにじることを全然良しとする男が、
まともな両親から生まれたとは思えない。
よって、この男はむしろ死んだ方がよかったのだ。
俺はゴミ掃除をしてやったにすぎない。
そんな考えに耽っていると、パチパチと後ろから拍手の音が聞こえた。
後ろを振り向くと、クラスメイトの須ノ川がニヤニヤと笑って立っていた。
(こいつ、いつから居たんだ……?)
取り繕うかのように急いで笑顔を作ろうとするが、
すぐに取り繕う必要がないことに気が付いたので、笑顔を収めた。
さすがに血まみれのレインコートを着た男が、"血だまりで倒れている男には何もしていません"
とは言い難い。
「なにしてるの?」
震えた声で、俺は尋ねると、須ノ川は一歩こちらに歩を進めた。
「高橋君って嫌いだったんだね、佐々木先輩のこと」
須ノ川は唐突にそんなことを言いだした。
「いつから居たんだよっ」
「嫌い……だった?」
「答えろよ!いつから見てたんだよ」
「もしかして好きだった?」
「…………嫌いだったよ」
「へぇ、やっぱり」
須ノ川はクククと楽しそうに笑う。
「そういえば、さっきサイレンが鳴ってたから、もう警察が来るのかな?」
「あれは救急車だ」
「そっか。じゃあ、『まだ』来ないんだ。警察。」
須ノ川は『まだ』と言った。
俺はこぶしを強く握った。
「佐々木先輩ってさ、高橋君に刺される理由があって刺されたんだよね?」
「そうだ、こいつは俺に刺される理由があった」
「じゃあさ、その理由はさぞかし高尚で素晴らしく
――完膚なきまでに完璧でなければならないだろうね。」
「何が言いたいんだ?」
「いや、私は人を刺そうって思って、それを実行したことがないの?
――なぜだか分かる?」
「いや、知らねぇよ、そんなこと。それより……」
「私も嫌いな人がいるよ。沢山いる……殺してやるって思ったこともあったよ」
須ノ川が張り付けたような笑顔のままで――だが、目は全く笑っていなかった。
俺は背筋が冷たくなる感覚に襲われた。
「でもしなかった……出来やしなかった。
だって、人を殺すって凄いことだし、全然簡単なことじゃない。
それに見合う高尚な理由を私は持っていなかったからね
――だから凄いよね、流石だよね、高橋君は……」
須ノ川は心の底から関心したように言った。
「今はそんなことに答えてる場合じゃないんだ……わかるだろ?」
「じゃあ高橋君は、これからどうする気なの?」
須ノ川とのかみ合わない会話に苛立ちを覚えてしまう。
また、さっきの救急車のサイレンの音が頭の奥に鳴り響いている。
それが、俺の心を不安にさせてしまう。
「というか、ほんとに!なんでお前ここにいるんだよ!おかしいだろっ」
俺は不安から逃れるように怒気を須ノ川にぶつけた。
「質問に答えてよ」
「お前だって俺の質問に答えないじゃないか」
おれは須ノ川の顔を睨んだ。
須ノ川の顔立ちはとても整っている。凹凸が存在せず、人形のように滑らかな肌質だ。
そして狐じみた吊り目が特徴的だ。
須ノ川は俺のことを探る様に見ていたが、やがて口を開いた。
「私がここにきたのは高橋君の後ろを付けていたからだよ」
「あん?……お前ストーカーかよ」
「そうなんです。ストーカーなんです。」
俺は予期しなかった答えに目を見開いた。
「何言ってんだよ。お前」
「だから、私、高橋君のストーカーなんだってば」
そういいながら須ノ川はいそいそとストラップ沢山ついた学生カバンから、
ピンク色の手帳を取り出した。
そして、手帳をペラペラと捲り、目的のページを見つけたようだ。
「昨日、高橋くんは16時32分に"ホームセンター ビーバー"でレインコートを購入してるよね」
俺は、頭の中に白い靄が立ちこめるような感覚に襲われた。
頭の血管がギュッと縮まって、何も考えられなくなってしまう
「そのあとに"マクドナルド"でテリヤキハンバーガーセットを食べて18時12分に帰宅」
「一昨日は下校後に佐々木先輩に暴力行為を受けている――あれが17時頃だった」
「あのとき高橋くんは服を全部脱がされて、たばこの火を下腹部に押し付けられていたね」
頭に血が上り、顔が赤くなるのが分かった。
「先週の金曜日には、一人で隣町の映画館で"スニッカーズ"って映画を後ろから4列目の席で見てたよね。高橋君、ああいう映画には興味ないと思っていたけど」
「映画が終わった後、人にぶつかってポップコーンを落として床にぶちまけたのに
高橋君無視して逃げてったよね?」
「実はあの時ぶつかったのが私だったりして……気づいてた?」
須ノ川は"あとはねー"とか"それからねー"とか言いながら、次々に俺の行動を言い当てた。
「......」
俺は佐々木の傍に落としたナイフをもう一度拾いあげた。
この女は危険だ。
「あれれ、危ないなぁ。もしかして私も刺しちゃう感じかな。
一人殺したら、二人もおんなじか、みたいな感覚で刺しちゃうのかな?」
俺は苛立ちを抑えきれない
「......お前黙らなかったらマジで刺すぞ。」
「おー怖い怖い。やっぱりナイフを持った人って怖いなぁ。
私は初めて死の危機に瀕しているわけだね。」
須ノ川はひどく楽しそうにこちらを見ている。
「じゃあそろそろ本題を話さないとね」
須ノ川はこちらに一歩近づいてきた。俺は思わず後ろへと下がる。
「なんなんだよ、お前は」
「まあまあそこでじっとしててよ――もっと近づくのがベストなの」
須ノ川は一歩一歩と確実にこちらに近づいてくる。
「お前、このナイフが怖くないのかよ」
俺は未知のものが迫ってくる恐怖を覚え、思わず後ずさる。
「怖いよ」
須ノ川はゆっくりと近づいてくる
"あっ"と叫ぶ間に俺は後ろに転んだ。倒れこんだ先は佐々木の死体の上だった。
「うわぁ―――」
俺はみっともない声を上げて、へたり込んだままに、
自らがそうしてしまった"もの"から距離を取った。
(なんなんだよ......一体)
「ねえ、高橋君。」
声は上から聞こえた。見上げると顔を紅潮させた須ノ川がいた。
俺は、はぁはぁと息を整えながら、彼女の次の言葉を待っていた。
「――私と付き合ってくれないかな?」
そう須ノ川は俺にそう告げた。
サイレンが鳴って -1- -終-