愛が全てを超越する
1
永澤剛は暗闇の中で目を覚ました。ゆっくりと瞼を上げるが周囲の状況がぼんやりとしか見えない。頭部から流れ出た拭われない汗粒が目にかかる。今の剛にはそんな事はどうでもよかった。岩と土に囲まれた小さな空間は、湧き出る地下水が気温の上昇とともに気化し、蒸し風呂のような状態になっていた。挟まっている下半身の痛みは、神経が麻痺して全く感じない。腕も頭も動かす気力すら起きてこない。
外気温の上昇とともにトンネル内の気温もどんどん上昇していく。息苦しさと絶望感に襲われて気力も体力もどんどん奪われていく。
暑い、とにかく暑かった。
剛は次第にぼんやりとしていく意識の中で、懸命に頭を働かそうとした──頭の中が空白になった瞬間に生きる気力が全て奪われる、そんな恐怖に襲われていたのだ。必死に佳奈と香織の顔を浮かべようとするが、全く思い出せない。それだけ身近で大切な存在なのだ。
目をつむる。
と、麦わら帽子と白いワンピースの女の子が見えてきた。一体この女の子は誰なんだろう。どうして記憶から外れているんだろう、何か忘れてはいけない体験があった気がするんだが…。
剛は思った──もしかすると女の子からアプローチすると痛みも苦しみもないんじゃなかろうか?
どこで出会ったのだろう?
誰なんだろう?
ん、もしかすると宏と純也が関係してるんじゃないか?
小学校三年生の夏休み、蝉の鳴き声がやたらとうるさかったあの夏。そうだ確か言い出しっぺは純也だ。命ぎりぎりの時にあって、ついに空白の時間を取り戻すきっかけを掴んだ。
2
剛の脳裏には次第に子供の頃の光景が浮かんできた。
純也と宏と三人で自転車で遊んでいる、小学校三年生の夏休みが始まったばかりだ。三人は小学校の裏山へと向かっていたが、先頭を走っていた純也は小学校の手前にある屋敷の門を通りすぎると急に止まった。後ろを走っていた二台も、急ブレーキをかけてツンのめるように止まった。
「どうした純也」一番後ろを走っていた剛が大声をあげた。
「昨日ここの家からさ、すんごいめんこい子がお母さんと出て行くの見たべや」
「純也のめんこいはあてにならん」宏はクールに言った。
「ほんとうだべさ、なまらめんこいんだ。うちの小学校にはいないからどっかから遊びに来てるんじゃないかい」
「ほんとうかね」疑惑の目を向ける宏。
「まじだ」
「ここんちはお婆ちゃんの一人ぐらしだべ」剛が言った。
「しんせきかな、なまらなまらめんこかった」純也が言った。
三人は顔を見合わせた。
「行ってみっかい」声が揃った。
三人は門につながる生垣に自転車を縦列駐車すると、隙間を探した。生垣は敷地を取り囲むように作られた五十センチくらいの石塀の上に作られていて、大人の背丈ぐらいはあった。もちろん三人は全く中の様子が見えないので、体が入れそうな隙間を見つける事にしたのだ。ほんの小さな冒険心だった。山と川と畑しかない田舎町にすむ三人にとって、ちょっとした冒険は刺激的で大好きだった。生垣の隙間は簡単に見つかった。おそらく猫やキツネの通り道になっているのだろう。
「行ってみるべ」純也が言った。
「オッケー」宏がニヤリと笑った。
「早く行くべ」剛が言った。
純也は四つん這いで生垣の中に入っていった。宏と剛がそれに続く。生垣の先は大きな庭木が何本も植えられていた。うっそうとして薄暗く心地よい涼しさだ。庭木に隠れるように三人はしゃがみこむとそっと顔を出して中を見た。古くからある農家の屋敷だけあって庭はそこそこ広い。
芝生のある庭の中心にはプラスチック製の子供用ブランコが置かれていた。奥の縁側ではお婆ちゃんと大人の女性がにこやかに話しをしているのが見えた。
「子どもがいるんだ。ブランコあるものな」剛が言った。
「ほらみろ、俺がいったとおりだべ」誇らしげに純也が言った。
「ふん、でもなまらめんこい子かどうかはまだわからん」宏がクールに言った。
「どこにいるんだべ、もうちょっと向こうに行ってみるべや」
「おー」宏と剛は声が揃った。
そして移動しようと体を動かした時、背後から声がした。
「あんたたち何やってんの? 」女の子の声だ。
「うっひゃー」三人は大声を上げて立ち上がった。
女の子はすかさず回り込むように三人の前に出た。両腕をぴったり体にくっつけ直立不動になる三人。
「全部丸見えよ、縁側から見てて変なのが来たから見に来た」
女の子は麦わら帽子に白いワンピース、素足に赤いコンバースを履いていた。三人より少しだけ背が高かった。驚く三人を見て笑った。
「ほらいた! 嘘じゃないべ」純也が大声を上げた。
「ほんとうだ」宏が呟いた。
「なまらめんこい」剛が言った。
女の子は少しだけはにかんだ。洗練された都会的な仕草にボーっとなる剛。なまらドキドキした。これが剛の初恋の瞬間だった。
騒ぎに気がつきお母さんとお婆ちゃんが縁側から近寄って来た。そして直立不動の三人を見ると、笑いながら言った。
「皆さんどうしたの、門はあっちよ」
「道を間違えました」宏が必死に大声を上げた。続くように純也が大声を上げる。
「めんこい子がいるから見に来たわけじゃありません! 」
お母さんとお婆ちゃんは顔を見合わせて吹き出した。
顔が真っ赤になる剛、相変わらず頭はボーっとしている。
「か、帰ります。さようなら」そういうと我先に逃げ出した。真っ直ぐ生垣の隙間に進むと、Tシャツが枝に引っ掛かろうと御構いなしに、道路に飛び出た。
「すみませんでした。さようなら」純也と宏も追いかけるように剛に続いた。
生垣の外に出た三人は各々の自転車に近寄ると顔を見合わせた。
そして大声を上げて笑った。
笑いながら純也が言った。
「な、なまらめんこいべ」
「剛、真っ赤になってんの」宏が剛を茶化した。
「だって、めんこいんだもの」急に恥ずかしくなり口を尖らせる剛。
「しかし、びびったぜんぶ見られてたんだべや」純也が興奮気味に言った。
「隠れても意味ねー」宏がそう言うと、再び三人は大笑いした。と、その時またもや背後から声がした。
「ちょっとあんたたち! 」
聞いた事のあるその声に、笑うのを止めて振り返る。そして、びびった。
さっきの女の子が立っていた。
「はいこれあげる」女の子はアイスキャンデーを三本差し出すと三人に渡した。
予期せぬ出来事に驚く三人、でも、もらうものはもらった。
「ありがとう」
「遊びに行くの? 」女の子は聞いた。
「うん」剛が言った。
「私も行っていい? することなくて退屈なの」
「もちろん」三人はアイスキャンデーの包みを解きながら声をそろえた。
「だけど、どこ行くの? 」
「裏山の渓流、釣りに行くんだ」純也がアイスキャンデーを美味しそうに舐めながらそう言った。
「すぐそこだから危険じゃないよ」宏が言った。
「うん、行く、私釣りするの始めて」女の子は嬉しそうに言った。
溶けるアイスキャンデーを片手に真っ赤な顔で見とれている剛。
「うん一緒に行こう、な! 」純也がそう言って剛を見た。
「う、うんだ」
そして三人は釣りの話しを女の子にしながら、いくつか今までの自慢話を織り交ぜながら小学校の横を通り抜け、裏山に入っていく。各々釣り道具を荷台にくくりつけた自転車を押し、さほど険しくない、白樺で鬱蒼とした山道に四人は入った。山道には渓流の騒めきが響いていた──そんなシーンを思い出しながら、トンネルの中の剛は、段々と息苦しさに襲われていた。思い出はいつも行っていた、そう、それまで毎日のように行っていた釣り場に近づくが、剛は苦しみに耐え切れなくなり、目を開けた。
「ああああー」呻き声を上げる、続く過呼吸、呼吸ができない、背中が熱い。息が、息が、で、で、できない。
苦しんだ末に剛は気を失った。身体中を不快な汗がまとわりついていた。
3
永澤香織はソファで寝続けている松永由紀の為に六品目の料理に取り掛かっていた。安斉社長からの電話以降、不安を拭うように更に料理に熱中していた。と、リビングから声が聞こえてきた。
「かおりさん」
「由紀ちゃん起きた? 凄い料理が完成するから一緒に食べよう! 冷蔵庫の物ほとんど使い切ったわ」
「かおりさん、佳奈ちゃんを抱いていいかしら」
「え、ええ」香織は返事をしながらも食材を切っていた手を止めた──違和感。何かが違う。香織は振り返ってリビングを見た。長ソファには起き上がった由紀の背中が見えている。見た目には何ら変わりがない。しかし、揺りかごに手を伸ばす横顔を見てハッとなった──やはり何か違う。由紀は佳奈を抱き上げると胸の前で横抱きをした。余りにも手馴れていた、子どものいない二十歳そこそこの女性の抱き方じゃない。
香織は包丁をまな板に叩きつけ、リビングに駆け込むと、テーブル越しに置かれた一人がけのソファに座り込んだ。そして、まじまじと由紀を見た。身体付きも顔も由紀だ、間違いない、安斉社長が連れてきた広告代理店『爽』のプロダクションマネジャーの由紀だ。でも、まてよ、何かが違う。
由紀は佳奈を見ていた顔を上げて、香織に微笑んだ。
「本当にめんこいわ、ずっと抱きしめたかったの」そういう由紀に何か別なものがダブっている。オーラのように包み込んでいる。それが香織には判った、見えてきた。
「もしかして、剛のお母さん、お母さんですか? 」
由紀はいや由紀の身体を借りた霊体は答えた。
「香織さんいつも剛を助けてくれてありがとう。剛の母親の永澤和美です」
すると、ソファにもう一人霊体が現れた。
音もなくゆっくり現れて座っている。
「本当にいつもありがとう」五十前後の男性に違いない。男性の輪郭ははっきりと見えるが、座っているソファも向こう側にあるさっきまで香織が立っていたキッチンも、手前に置かれたダイニングテーブルも、テーブルに置かれた湯気の立つ料理も全て透けて見えているのだ。香織は驚いた。そして、かすれる声で言った。
「お父さん、剛のお父さんですか…」
男性の霊体は言った。
「初めまして、剛の父親の永澤正です」
香織は力無くソファにもたれかかった。
由紀の身体を借りた母親の霊体は言った。
「驚かせてごめんなさい。由紀さんには霊媒としての体質があったので、ちょっとの間身体をお借りしています。後で謝っておいて下さい。起きた時には覚えていないかもしれませんが…」
と、父親の霊体が続けた。
「全ては必然。由紀さんがここにいるのも、安斉社長が由紀さんをここに連れてきてくれたのも、由紀さんが霊界との扉を開く体質を持っていたからです。現世ではまだ本人は気がついていないようですが、魂は理解してくれています」
香織は全く言葉が出なかった。
「香織さん私達が見えてますね? 」父親の霊体が言った。
香織は無言でただ頭を縦に振った。
「それと午前中に見た剛の夢も覚えていますか? 」
「は、はい」ようやく答えた。
「よかった、香織さんは剛の魂とシンクロできる体質を持っています。それでお願いがあるんです」
「な、何でしょう? 」
「剛を助けてやってほしいんです。人間は現世の辛さから逃げて楽な方へ流される性質を持っています。誰だってお金をたくさん持って、何不自由ない気ままな生活を送りたいと思います。
できる事なら辛い思いなどしたくない。
不幸は避けて通りたい。
でもそれじゃ学びにならないからこそいろいろな形で試練が訪れます。
今の剛は究極の試練と究極の運命の選択を問われています。それは実は剛の魂と神様からの問いかけです。だから逃げずに乗り越えて貰いたいんです。
加えて一緒にいた諸岡さん、子どもたちや引率の先生たちから現世へのメッセージを伝える役目も担っています」
「全ては必然…ですか? 」香織はぽつりと言った。
「そうです。自ら選択した運命によって種を蒔き、自ら刈り取らないといけない実りです。でも剛は今死ぬべきじゃない、あの世で剛が決めてきた死期は今じゃない。
だからこそ人生を全うさせてやりたいんです。でも現世で肉体を持っていると、どうしても楽な方へと流れてしまう。剛はあの世の快適さを現世にいるまま体験してしまった、誰もが辛く厳しい現世へなど戻りたくないでしょう、でもそれじゃいけないんです。
それを剛に分からせてあげられるのは香織さん」
「──」
「あなただけなんです」そして二つの霊体は香織に頭を下げた。
「お父さんもお母さんも頭なんて下げないで下さい。どうかどうかこんな若輩者に頭をお下げにならないで下さい。私にできるんですかそんな事、私に、私にできる事ならなんでもします、どうかどうか…」香織は顔を両手で覆い泣き出した。小さな子どもように、そう小学生の頃のように泣きじゃくった。
4
剛が再び快適な電車の中で目を覚ますと同時に、電車は終着駅へと着いた。白い木造で赤い屋根の駅舎。その真ん中には白い文字盤の時計塔。長針しかなく電車が着くと一メモリ進んだ。ホームはグレーのコンクリート、何もかもが先ほどの駅と同じ作りになっている。小高い丘に雲一つない真っ青な空も同じだ。ただ違うのは、二百メートルほどいった先が切り立った崖になっていて、崖下には向こう岸の見えない巨大な川がゆっくりと流れていた。崖の先端で線路は途切れている。
先頭の車両に座っているのは剛一人。梨花子先生もそこにはいない。
剛は何も考えられなかった。現世に戻った時のあの過酷な、希望すら持てない状況。だが、これ程までに快適な車内。悩み事など見当たらずリラックスしている自分。車窓に広がる青空を見ながら呆然とすることしかできなかった。そんな剛の脳裏に響いてきたのが諸岡の言葉だ。「最後まで諦めるな」
諸岡さんは命を救ってくれた、親父同然の人物だ。確かに諦めてはいけないのはわかっている。頭では判っているが、体と心の耐えがたい苦痛があるのも事実でそれが現実なのだ。しかし、現世で空白の時間がある事も事実だ。それを忘れたまま、このまま、あの世へと旅立ってもいいのだろうか? 梨花子先生は言っていた、これから先は自分で思い出さないといけない。
何があるんだろう、そこに一体何があるんだろうか?
カチリ、時計塔の長針が三時の辺りからから一つ進んだ。
その音で剛は決心した。現世で思い出した記憶の続きを追ってみよう。
5
剛の父親の霊体は香織が顔を覆っている手に触れた、暖かさが伝わり、香織は顔を覆っていた手をゆっくり外した。剛の父親はすぐ側にいた。テーブルもソファも周りの家具すらなくなって、白い空間が取り巻いていた。空間には剛の父親と由紀の身体から離れた母親、母親に抱かれた佳奈、そして、香織だけがいた。
「いつだって私たちは三人を見守っている。現世で会えなくても家族だ。離れることなどない」
「こうして佳奈ちゃんも抱けたし、ありがとう香織さん」にこやかに微笑むと母親は言った。
「剛には辛い思いをさせたが、必ず側にいる。その事を香織さんも剛も忘れないでほしい」
香織は次第に落ち着きを取り戻した。
「私にはいったい何ができるんでしょう? 教えてください」意を決して言った。
「ありがとう香織さん」母親が優しく声をかけると、父親は続けた。
「目を閉じて、剛の事を考えて」
香織は目を閉じた。そして剛の顔を思い浮かべた。
すると両親の霊体から空間の全てを取り込むように神々しい光が広がった。その球体に呑まれるように香織の身体は包まれた。
香織の意識は次第に光輝く暖かい空間の中に浮かんだ。現実にはソファに座る肉体が残っている。魂だけが包まれているのだ。残された身体は心臓の鼓動も脳波も生きているのとなんら変わりがない、でもシルバーコードが長く長く伸びて、光り輝く球体の中につながっている。
香織の魂はだんだんと自分と佳奈、剛の両親との境界が曖昧になってきた。暖かく力強く、そして、愛おしい思いだけが感じる。
その中で香織は確信した。
本当の幸せとは自分という境界を超えて、全ての人々を自分のことのように愛せること──なのだと。
そして、幸せに包まれた香織の魂は、導かれるようにマンションから異空間へと浮遊していった。
6
剛は目を閉じた。そして四人で裏山に入った時を思い浮かべた。白樺の並木道。
激しく鳴く蝉の声。乾いた風がそよぐと天然のクーラーのように心地いい。重なった枝葉の切れ間にきらめく渓流。辺りに川音を響かせている。川幅は凡そ五メートル、大きな岩がゴロゴロと並ぶ中、乗り越えるように流れている。時折小さな落ち込みや淀みを作りながらも下流へ、下流へと豊かな水流は切れる事がない。剛のイメージは段々と子どもの頃の体験をリアルに思い描き初めている。
苦しくない。
どこにも痛みを感じない。
女の子と宏、純也、剛は自転車を押しながらにこやかに山道を登っていく。程なくすると流れが湾曲した穏やかな瀬が見えてきた。その上流は再びゴツゴツした岩場が続く急流だ。たぶん梨花子先生はここから僕を助けに川に入ったのだろう。十メートルほど先の川岸から、巨木が太い枝葉を水面ギリギリに伸ばしている。四人はまだ歩みを止めない。あともう少し登った先にある場所がいつもの釣り場だ──剛の記憶は封印を解かれた。ありありと空白の時間を埋め始めた。
川のざわめきと蝉の鳴き声が響く中、四人は更に五分ほど歩いた。車両通行止めの山道なので、四人は横一列に並んで歩いた。宏の横に女の子、その横に照れ臭そうな剛、その横にニヤけている純也という並びだ。すると川音が変わった。激しく叩きつけるような音だ。四人は小さく開けた原っぱに自転車を停めると、荷台から釣り道具を降ろしはじめた。
女の子も初めての経験に嬉しそうだ。一人で滝壺にせり出した巨大岩まで歩いて行った。
その場所は高低差二メートル程で川幅が二メートル程の小さいな滝になっていて、滝から落ちた流れは小学生が泳ぐのに丁度いい広さの、穏やかな流れの淵をつくっていた。淵の両脇には子どもなら五人はのれる巨大岩が二つ。淵から流れ出す水流は再び幾つもの岩に挟まれて、川幅が一気に狭くなり、下流へと急な流れを作っていた。
純也が言った。
「この岩場が俺たちの釣り場だ」
「へーすごい」
「でっけえヤマメやニジマスが釣れるべや」
「冷たくて涼しいね」
「あんまり近づくと滑るから、気を付けて」宏が言った。
「うん」
「俺たちは釣りに飽きたら飛び込みすっけどね」剛が叫ぶ。
「結構深いの? 」
「俺の身長くらいかな、それ程でもないよ」
「ふーん」
と、剛は女の子を見た。夏の日差しをバックにシルエットになった麦わら帽子とワンピースが美しかった。思わず見とれてしまった。横を見ると宏と純也も見とれていた。
純也が大声で言った。
「俺は純也」
宏が続いた。
「俺は宏」
そして剛が言った。
「俺は…」それをさえぎるように純也が叫ぶ。
「君は? 」
ムッとする剛。
女の子はキラキラ振り返った。
「私、私の名前は…」とその時一陣の風が吹いた。
木々がざわめく。風にあおられ麦わら帽子は女の子の頭から離れて宙に浮かんだ。女の子はあごひもをかけてなかったのだ。帽子を取ろうと手を伸ばす女の子。逃げるように帽子は岩から滝壺へと移動する。女の子は咄嗟にジャンプした。すると、そのままゆっくり岩場の陰に消えていった。
「やべ、落ちた」純也が叫ぶや否や、剛は持っていた釣り道具を放り投げ、岩の上へと駆け寄った。
川の中を覗き込む剛。水中でもがいている女の子、白いワンピースが水中でまとわりつくように揺れていた。浮かんでくる気配がない。
「泳げないんだ! 」剛は咄嗟に岩場からジャンプすると淵へと飛び込んだ。ここで泳ぐのは慣れている。どうって事はなかった。勢い良く泳いで女の子に近づくと川底に足を踏ん張り、もがく女の子の腰を抱きしめた。そして思いっきり押し上げた。
「ぷあっ」女の子は水面に顔をだすと大きく息をした。
巨大岩から水中を見ていた宏と純也が手を差し伸べる。女の子は両手をバンザイして右手を純也に左手を宏に委ねた。二人は片手でその手を握ると引き上げた、が、滑ってすっぽ抜けた。体制を崩す女の子、水中でバランスを崩した剛も、抱きしめた手を離した。ズブブブ…女の子は再び水中へ落ちていく。
剛は一度水面に顔をだすと大きく息を吸い再び潜った。そして水底近くで屈むと、女の子の足を抱きしめて水面高く持ち上げた。
再び水面から顔を出す女の子、宏と純也は今度は両手で片手づつしっかりと握りしめ、引っ張りあげる。
それと同時に剛は足を押し上げる、と一気に岩場まで女の子の身体は抜け出た。
「よかった」巨大岩の上で安堵する三人とは違い、水中で剛は、押し上げた反動で体制を崩すと滝の落ち込みに近づいた。と、滝の勢いは剛を叩きつけた。次から次へと押し寄せる勢いに飲まれて、滝壺の水底へと押し付けられていった。体が動かない自由にならない。次第に苦しくなって空気を吐き出すと、吸えない。呼吸ができない。身体に水が入りそうだ。苦しい、苦しい、息ができない。
苦しい、苦しい、苦しい、苦しい…。
水の勢いが自由を奪って体が思うように動けない──もうだめだ。
剛は苦しさの中で気を失った。
その後どのくらいたったのだろう、どん! 背中に強い衝撃を受けた、岩に体ごとぶつかった──すると真っ暗だった視界に光が差し込む。どうも自分は急流にもまれて流されているらしい。
遠くでかすかに宏の叫びが聞こえている、川音に遮られ、くぐもっているが宏に違いない。
「あー浮かんだ! 流されて行く」
そして、再び剛の視界は真っ暗になった。
7
「あああああ…」
ホームに停車中の電車の中、剛は目を覚ました。全てを思い出した。ずっと気になっていた空白の時間が埋まった。身体中に汗をかいていたが苦しみも痛みもなかった。
そんな剛の姿を対面のシートに座って香織が見ていた。大きく開いた瞳から次から次へと涙が溢れていた。
「香織、どうしてここに…」
「剛に命を救われた女の子は私です。そして私の初恋の相手も、剛、あなたです」
「! 」剛は言葉がなかった。
「あの後純也くんと宏くんは私をおばあちゃんの家に送り届けると、病院にいくと言っていなくなった。その時名前も分からない命の恩人をどうやって探したらいいのか私には分からなかった。純也君の家も宏くんの家も私には分からない。梨花子先生すら誰だか分からないから、お母さんにもおばあちゃんにもうまく説明ができないし、しばらくして私とお母さんは九州の自宅に帰った。その後おばあちゃんも亡くなったから、あの家にも行かなくなった」
「そうだったんだ」
「あの後、小学三年生の私はおばあちゃんの家で泣きじゃくった、あなたを殺してしまったと思って、私の不注意からあなたは死んでしまったと思って──
あなたはあの時──死んだ、死んだ、死んだのよ!
それから三年前に剛の背中の傷を見るまでずっとあなたは死んだと思っていた。毎日毎日思い出さない日などなかった。私は人殺しだと自分を責めない日など一日もなかった。
苦しかった、どんな事をしても苦しみから逃れられなかった。
あなたにこの苦しみが分かる?
だから、十八年も経って生きてる剛に会えて私がどんなに嬉しかったか、でも、そこからまた苦しみが始まった。感謝の気持ちを伝える事ができないのに気がついたから──」
そこまで一気に言うと香織は俯いた。
「…香織」
と、その時時計塔の長針が、カチリ、一メモリ動くと零時を差した。
「出発進行」車掌の声がホームに響きわたると同時に、香織の姿は座席から消え、次の瞬間にはホームで立っていた。
「出発進行」運転席から声が響くと、マスターコントロールレバーが回され、ゆっくりと滑らかに電車は動き出す。それと同時に線路が途切れている空中に、崖の切れ間ギリギリに、ゴルフボールくらいの円形の光が忽然と現れた。完全な二次元で横からみると厚みもなく、空中に光が漏れているようにしか見えない。
今まさにあの世への、故郷につながる扉が開いた。
香織は電車を追ってホームを走りながら叫んだ。
「私はいやよ、死んだあなたにありがとうなんて言わないから、なにやってるのよ剛、私と佳奈の為に生きなさい、家族の為に生きるのよ! そして私に言わせて、ありがとうと、言わせなさい! 」
「は、はい」
剛は勢いよく立ち上がると二両目に向かって走り出した。
円形の光は一気に巨大化すると電車を飲み込むのに十分な大きさになった。
電車は徐々に速度を上げていく。
全速力で二両目へと向かう剛。二両目のドアを開けた瞬間、「わー」大歓声が沸き上がった。すみれ組の園児三十名と引率の先生四名の声が響き渡った。
「お兄ちゃん頑張れ」たっちゃんがそう言うと「頑張れ」の大合唱が始まった。
『頑張れ、がんばれ、がんばーれ! 』
剛は全身が震えて涙が溢れた。
「みんなありがとう」
二両目の通路を走る、走る、走る。
更に速度が上がる電車。先頭車両の運転席が円形の光に接触すると、奥に広がる光の空間に吸い込まれた。運転主に躊躇など微塵もない。当たり前のように速度を更に上げて電車は光の奥へと進む。川岸の上空、切り立った崖の上空で電車は異空間へと飛び込み、運転席近くは既に形がない。
香織はたまらずホームから線路に降り立つと声を張り上げる。
「もっともっと早く走りなさい」
そして剛が三両目に続くドアを開けた時には、子どもたちが光の中へと入っていく途中だった。
三両目の中程では諸岡が立ち上がっていた。
「遅いぞ剛、なにやってんだ。早よせんか」車両内に響き渡る怒号。さすがにスーツを着たサムライは最期まで勇しかった。
「はい」更に速度を上げる、必死だ。
光はすでに三両目を飲み込み始めた。
諸岡は手をあげた、剛が諸岡の横を走り抜けると同時に勢いよくハイタッチをかました。
「剛、元気でな。また会おう」
「はい」
剛は全速力で走り抜ける。
と、連結部にあるドアの横に梨花子先生が立っていた。電車の最後尾、車掌室の前に──そして最後のドアを開けた。広がる青空、小さくなりかけている駅舎にホーム、生き物のように伸びていく線路、その先には香織が、香織が立っている。
「俺は、俺は…」
光は諸岡を飲み込んだ。
梨花子先生は剛を見つめている。
「俺は、俺は…俺は」
三両目の最後尾まで来ると、梨花子先生が微笑みながら頷いた。
速度を緩めない剛、躊躇なく線路が伸びる車外へと、香織が待つ向こう側へと、飛び出した。
「俺は生きる」空中で大声で叫んだ。
──間一髪だった。
剛が外に飛び出た瞬間、電車の最後尾が光に飲み込まれはじめた。にこやかにドアを閉める梨花子先生。車掌室では、眼光鋭い車掌がきっちり四十五度の敬礼を決めた。そして電車は二次元の光の中へと消えていった。
剛は線路に転がり落ちた。どこも痛くない。
すぐに立ち上がると走った、香織に向かって線路を走った。もう泣いてなどいない。一心不乱に走った。
香織だけを見つめて全力で走った。
そして待っていた香織に近づくと力強く抱きしめ、キスをした。
剛に身を委ねた香織の頬を涙が伝う。
──そして辺りは一瞬、静寂に包まれた。
が、次の瞬間、円形の光は今度は収束を始めた。
それとともに虚無が辺りの空間を全て飲み込み始めた。駅舎も青空も線路も小高い丘も全ては無に還っていく。光の収束とともに全てが無くなっていく。
そんな中、剛と香織は抱き合ったまま、段々と姿が透けていった。
そして円形の光が点になり、辺りが完全に無に帰ると、二人の姿も消えた──おのおのの現実へと戻されていったのである。
剛と香織は確信した。
全てが無になろうが、二人がどこにいようが、愛だけは存在し続ける事を…。
8
しばらくして剛は崩落したトンネルの中で目を覚ました。
岩に囲まれ狭く蒸し暑いレンタカーの助手席に座りながら、外から差し込む一筋の光線を見つめていた。ダッシュボードに挟まれた足の感覚はないが、背中の古傷がチクチク痛む。以前のような息苦しさを伴った激しい痛みではない。汗が染みる程度だ。
冷静になると肩も首も痛い。おそらく事故の衝撃で痛めたのだろう。
俺は生きているんだ──剛は実感した。
そしてシャツの胸ポケットに手を入れた、やはりあった。達也から貰ったレインボーアメだ。剛はそっと取り出すと手のひらにのせて光線の前に持っていった。ポップな包み紙がきらきら煌めき──光のなかにゆっくり消えていった。
目を瞑る。手を、アメが消えた手のひらを力強く握り締める。
しばらく沈黙していたがゆっくり目をあけて歌を歌い始めた。
梨花子先生が教えてくれた「故郷」を口ずさんだ。
♪
兎追ひし 彼の山
小鮒釣りし 彼の川
夢は今も 巡りて
忘れ難き 故郷
如何にいます 父母
恙無しや 友がき
雨に風に つけても
思ひ出づる 故郷
志を 果たして
いつの日にか 歸らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷
歌っている途中で剛の身体を取り囲むように光の輪が現れた。光の輪は歌に合わせ波形を刻むように揺れ動き、辺りを明るく照らした。そして歌い終わっても光の輪は消えず、どこからともなくたっちゃんの声が聞こえてきた。辺りに響いてきた。
「里奈に伝えていつもいっしょだよ」
それに続くようにラインバスに乗っていた園児たちの声が響いてきた。
「お父さんお母さんいつもそばにいるからね」
「たくさん愛をもらったよ」
「お空からみているね」
「お母さんのお弁当サイコー」
「お父さんとおふろ入るの楽しかった」
「お兄ちゃんをたくさん愛してあげてね」
「きっとまた会えるからね」
「生まれ変わってもお母さんの子どもになるね」
「お父さんおしごと無理しないで」
「ピアノを弾くの楽しかった」
「お母さん元気な赤ちゃん産んでね」
「たくさんの思い出ありがとう」
「チーちゃんいつも泣かせてごめんね」
「ぼくのぶんもかすみを愛してね」
「みんなのこと絶対わすれないよ」
「かわぞえひかりようちえんで楽しかった」
「おゆうぎ会おもしろかった」
「わたしはお歌がだいすきだった」
「ぼくはダンスが好きだったよ」
「お母さんのごはんサイコー」
「お父さんの肩車サイコー」
「生まれてよかった」
「お父さんお母さん先に帰ってごめんね」
「短かかったけどしあわせ」
「家族になれてうれしかった」
「からだを大事にしてね」
「おばあちゃんいつもお迎えありがとう」
「みんなに会えたことわすれないよ」
「いつも一緒にいるからね」
続いてたけし先生の声が聞こえる。
「子どもたちがハツラツとして、いいようちえんでした」
続いてともみ先生とみゆき先生。
「子どもたちからたくさん愛を頂きました」
「お別れするのはやはり少し寂しいです」
そしてまみ先生。
「子どもたちは責任をもって故郷に届けます」
諸岡の声も聞こえてきた。
「由紀を頼むぞ。また会おう」
剛は全員の言葉を一言も漏らさず心に記憶した。
そして全員の声が揃った。
「みんなに伝えて、ありがとう」
ひとしきり大きく最期の言葉が鳴り響くと光の輪は消えていった。
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それは夕暮れ時だった。
レンタカーに乗っていた男性が一人救助されたと対策本部に連絡があった。男性はヘリコプターで県立病院まで救急搬送されるとの事だった。
安斉社長は直ちにパトカーに乗せられ病院へと向かった。辺り一面にサイレンが鳴り響き、赤色灯の明かりが反射する。付近を通る車は路肩に寄り、障害物のない道路をひた走る。
安斉はパトカーの中で一人、考えを巡らせていた。
諸岡か剛か? どっちだ。一人という事はおそらくもう一人は死んでいる。
香織にどう連絡を入れるべきか?
パトカーは五分程で県立病院の緊急口に到着した。ドアを開け、降りる間際に腹は決まった。
──俺が見た事実だけを伝えよう。
急いでパトカーを降りると病院の担当者に連れられてヘリポートへ走った。
病院の屋上にあるヘリポートには、看護師十名に医師が五名ほど待っていた。連れてきた担当者がリーダーの医師に安斉を紹介する。
「先生、患者さんの会社の社長さんです」
「安斉と申します」
「杉野です」白髪で大柄の年配医師は言った。
「連絡によりますと、足がダッシュボードに挟まれて骨折しているようです。その他あちこちに外傷はあるようですが、意識はしっかりしているようです」
「そうですか」
「手術室と集中治療室を用意しましたので、搬送され次第緊急手術を行います」
「よろしくお願いします」
安斉社長は頭を下げた。杉野医師も軽く会釈をした。
と、バラバラバラ…ヘリコプターの音が近づいてきた。そしてヘリポートの上空でホバリングするとゆっくりと降下してくる。
剛か? 諸岡か? どっちだ。
安斉は緊張のあまり手を強く握り締めた。医師と看護師にも緊張感が漲る。
ヘリコプターが着地するや否や、ドアが開けられ、ストレッチャーが降ろされる。まだメインローターが回っている下を、消防隊員が医師の元へと押して来た。全く無駄の無い動きだった。安斉もすかさずストレッチャーに近づく。そこには首まで白いシーツをかけられた男が載せられていた。
目を閉じている。安斉は大声で叫んだ。
「剛! 生きてるな」
剛は安斉の声に反応し、ゆっくりと目を開けた。
「はい」
「おおお…」大声をあげてひざまずき、天を仰ぐ安斉。その横をストレッチャーは運ばれて行く。医師も同行しながら病院の中へと入っていった。
だがそこで気を抜けない。ゆっくりと屋上フェンスまで歩くと、山際に落ちかけた真っ赤な夕日と、オレンジから濃紺へと切れ間のないグラデーションの空を見つめ香織に電話をかけた。
香織はやはりワンコールで電話にでた。
「香織か」
「はい」
「今病院だ。剛は生きている」
「──」香織は声が出ない。
「いいか、剛は生きている」
「あ、安斉社長、ありがとうございました」香織の声は震えていた。
「剛は頑張った。安心しろ、俺の声に反応した。これから手術だ。進展があったらまた電話する」
「よろしくお願いします」
安斉はすぐに電話を切った。見たままだけを伝えた。
瞳に映る真っ赤な夕日が、次第に滲んできた。