時の流れと命の価値
1
死のトンネルの中で身動きの取れない剛は、かすかに聞こえる子どもの泣き声に反応し声をかけていた。
「おじさんがついている一緒に頑張ろう」
だが剛の励ましも虚しく、そのうち泣き声が力無く小さくなっていくと聞こえなくなった。
「どうした、頑張れ頑張れ、きっと助けに来てくれるから、元気をだそう」
反応は全くない。岩と土、ルームライトが光を灯す助手席は、静まり返った。
パチパチ、ルームライトもかすかな電気音をあげると消えてしまった。湧き水で回線がショートしたようだ。再び真っ暗闇になる。コンクリートブロックの間から差し込む一筋の光だけが、僅かに車内を灯すが、剛には真っ暗闇にしか感じない。この場から逃げ出したい衝動に駆られるが身動き一つ取れない。言いようのない不安と恐怖がまとわりつく。背中の古傷に汗が沁みる。事故の衝撃で傷口が開いているかもしれない。背中の古傷が気になる、頭の中に麦わら帽子に白いワンピース、真っ赤なコンバースの女の子がフラッシュバックする。
君は一体誰だ? ──徐々に苦しくなってくる。
脈が激しく身体中を震わし、息をする吸う、吸う、吸う、息を吐けない──激しい過呼吸、呼吸の仕方がわからない。
「あの時と一緒だ、呼吸ができない──あの時ってなんだ、全く思い出せない」
自問自答する剛。
「俺は死ぬのか、ここで死ぬのか? どうしたらいいんだ? 」
思考には終わりがなくただひたすら脳内に渦巻くと『死』という発想を連れてくる。
「あああ、香織、佳奈…」苦しみの中そう呟くと意識を失った。
2
次の瞬間、剛は電車の中で目を覚ました。
相変わらず車内は快適だった。うつらうつら顔を上げると対面の座席に誰かが座っている。大人の女性だ。白い薄手のマントのような衣装を身につけ、剛を見つめているのが判る。剛は女性の顔を見て驚いた。
「り、梨花子先生、加藤梨花子先生ですか! 」
女性は微笑んだ。
「剛くんお久しぶり」
「梨花子先生、梨花子先生なんですね」
「そうです」
梨花子先生は剛が小学三年生のときのそのまま、二十五歳の若々しい姿だった。
「先生、僕らの担任を辞めたあと、どうなさっていたのですか、ずっと会いたかったです」嬉しそうな剛。
「剛くん、私はねあの後──」
梨花子先生から目を離せない。外の風景は雑木林が続いている。空は雲一つない青空だ。
「亡くなったの」
「まじですか! 」──口が開いたまま戻らない。
「本当よ、癌で死んだの、お別れ会の時は既にあちこちに癌が転移していました。あの後三ヶ月程して私は死にました」
「じゃあ、今ここにいる梨花子先生は…」
「魂です」
と、三両編成のどことなく懐かしい電車は、雑木林を抜けて、徐々にスピードを落とすと、小高い丘の原っぱに作られた駅へと入って行った。コンクリートで造られたグレーのホーム。平屋建ての小さな駅舎は木造で白く塗られている。三角で赤いトタン屋根の中央には時計塔があり、丸く白い文字盤の零時、三時、六時、九時の場所には短い黒線、そして黒く長い長針だけが中央から伸びている。短針も秒針もない。零時のところで止まっていた長針は、電車が定位置に停まると、カチリ、音を立てて分で言えば一分の間隔を動いた。しかし、現世の時間の流れとは明らかに違う。
放心状態の剛は長針が動いた音で我に返った。
「という事は僕も死んだのですか? この電車は夢なんですか、それともここは一体どこなんですか、僕はどこにいるんでしょう」
「いいですか剛くん、気をしっかり持って聞いてください」梨花子先生は剛の瞳を優しく見つめ、そして言葉は力強い。
「…」
「この電車は魂の故郷、現世からみたらあの世へ向かう電車です。今あなたは肉体から離れた魂の存在です。でもまだ肉体と魂をつなぐシルバーコードが切れた訳ではありません」
「ど、どういう事なんですか? 」
「剛くんは今、生と死の境にいます。このまま電車に乗って魂の故郷へと帰るか、現世で留まり人生を切り開くか、選択を問われています」
「…」
「あまり時間はありません、次の駅が終着駅です。その先にあるのはあの世への旅立ちです」
剛は何を言われているのか理解ができなかった。今の状況を全く把握できずにいた。
「私は今、亡くなったばかりの魂をケアする神様のお手伝いをしています。剛くんとあなたにまつわる全ての人の担当になっています。時がくれば、宏くんや純也くんにも会う事になるでしょう」
「そうなんですか? 」
驚きを隠せない剛をよそに、穏やかな表情を浮かべる梨花子先生。
「私はあの町でたくさんたくさん愛を頂きました。剛くんたちをはじめ子どもたち、教員のみなさん、町に住むたくさんの人たち、言葉では言い表せません。だからこそ、死んだ後もみなさんに直接ありがとうと言いたくて、この仕事をさせて頂いているんです。みんなから貰った『みんなの得意なもの』も持っています。お見せしますね」
梨花子先生は大きく手を開くと、そこにはデコレーションされたあの時の箱が現れた。
「魂の世界には何一つ物質は持っていけません。肉体ですら魂の器でしかありませんし、お金など意味がありません。持っていけるのは愛と思いと経験です。だから見えているのは私の思いが作った思念体です。みんなから貰った愛の集合です。とっても嬉しかった私の思いです。剛くん本当にありがとう、みなさんの愛が私を成長させてくれたんです」
「先生お礼を言わないといけないのは僕です。梨花子先生に僕は命を救われています。でも何も思い出せなくて、先生が背負ってくれている事しか思い出せなくて、病院にお見舞いに来てくれていた事しか思い出せなくて、上手くお礼が言えてない…」
そんな剛を見て、梨花子先生は静かに話しはじめた。
3
その日私は一人で職員室で仕事をしていました。蝉の鳴き声が相当激しかった。子どもたちは夏休みでも、普段なら私の他にも職員室に先生がいるんですが、その時は研修会の日程が重なった事と、校外でのクラブ活動日だったので、私以外には誰もいませんでした。そこにずぶ濡れ姿で純也くんが入って来ました。
驚いた私は純也くんに駆け寄ると、純也くんは大声で叫んだんです。
「先生、助けて、先生」
「どうしたの純也くん、一体何があった」
「先生、剛が、剛が…」
「剛くんがどうしたの? 」
「川で動かない」
「ええ? 」
「裏山の渓流、俺たち釣りしてて、剛が釣り場に落っこって流された! 」
「純也、頑張って、先生をそこに連れてって」
「うん」
純也くんは一生懸命私の手を握って裏山へと走った。純也くんは涙を堪えて必死だった。
そして裏山を駆け上がると程なくして、川が湾曲した瀬についた。そこで待っていたのは、宏くんと、うちの児童ではない女の子。白いワンピース、赤いコンバースを履いた女の子。剛くんが苦しくなると思い出す、剛くんより少しだけ背が高かった女の子です。この時は麦わら帽子を被っていませんでした。二人ともずぶ濡れで、瀬の上流にある木々で覆い隠された岩場を見ていた。私と純也くんに気がついた宏くんが大声で言いました。
「先生、あそこに引っかかっているんだ」
宏くんが指をさした先には、川にせり出した太い枝が背中に刺さった剛くんが、渓流の勢いを遮るようにしてぶら下がっていました。着ていたTシャツはボロボロに破けて背中から血が流れ出ていました。でもね、枝のお陰でブレーキがかかってそれ以上流されなかった。背中の五本の傷はその時にできたものです。
今生きているのはその傷のお陰なんです。
私はなりふり構わず川に入ると、急流を遡った。何度も何度も足を取られながらなんとか太い枝に近づいた。剛くんは意識はなかったけど呼吸はしていた。水面ギリギリのところで顔が水に浸かっていなかったんです。私は必死に枝から外すと背負って病院へと走った。自分でも信じられないくらい力がでました。無我夢中だった。
4
「──剛くん」先生は涙を流して聞いている剛に呼びかけた。
「はい」
「苦しくならないでしょう? ここは現世じゃないから肉体の苦しみはありません」
「…」
「だからこれから先はあなたが自分で思い出して、自ら今の状況を乗り越えなければならないんです」
カチリ、駅舎の時計塔の長針は三時の辺りに一メモリ進んだ。
「梨花子先生、本当にありがとうございました」深々と頭を下げた。
「よして剛くん、お礼を言うのは私の方です。剛くんを助けたお陰で私は少しも苦しまず安らかに死ねました」と、梨花子先生は改札の付近を見た。
「あ、彼女剛くんに引き寄せられて来た」
顔を上げた剛は車窓から改札付近を見た。改札の向こうに現れた女性は赤いワンピースに腰まである長い髪。目は焦点が合っていない、どこを見ているのか見当もつかなかった。
剛は驚いた。
「もしかして、結城純恋さん? 」
「そうです」
「彼女もこの電車に乗るのですか? 」
結城純恋は改札を抜けようとするが、見えない壁にあたって進めない。
「この電車には乗れません」梨花子先生ははっきりとした口調で言った。
「どうしてですか? 」
「魂が帰るのは同じ故郷でも、行き先が違うからです。剛くんたちとは正反対の暗くどんよりとした下層の、同じように自ら命を絶ってしまった魂と同じ階層に行くからです」
「…」
「もしかすると少しの間現世をさまようかもしれません。あの男の事が吹っ切れるまでは」
「あの男? 」
「剛くんは知らないでしょう、でもそのうち知ることになります」
「…」
「自ら命を絶つ自由意志を神様は人々に与えていません。自分のエゴで他人の命を奪う殺人も同じです。神様が究極の愛を目指して自らを高めている以上、その子どもであるあらゆる魂は向上を目指して現世の試練を乗り越え成長しないといけません。
神様は乗り越えられない試練を子どもたちに与えません。それを途中で投げ出す事、もしくは他人の命を身勝手に断ち切ることは、魂の向上を断ち切る事、つまり神の摂理に背く究極の悪い種を蒔いた事になります。実った実を摘み取るのは自分です。それは、次の人生で自らが更に過酷な試練を乗り越えないといけない事につながります。
乗り越えるまで魂は向上しないばかりでなく、乗り越えるまで現世での試練は何度でも訪れるのです」
「善悪の判断は誰がするのですか? 」
「自分です。魂に戻れば何の為に現世に行って、どういう宿命を負って何を克服しようと思っていたのか全て思い出します。物質世界、そして死から解放された魂は本来の姿で自分を見つめなおし、自らの問題点を洗い出す事になります。
現世で悪い行いをした魂は、更にそれ相応の試練を克服しないと魂が向上しない事に気づきます」
「という事は僕に選択の余地はないと…」
「それは剛くんご自身でお考えになって下さい。剛くんの肉体は今半死半生です。物質的にはいつ生命活動が途切れてもおかしくありません。あとは気持ちだけです。生きる気持ちが途切れた時、魂は肉体から離れてあなたは死にます。それは自殺とは全く違います」
結城純恋は空虚だった。自分がなぜここにいるのか全く理解していなかった。磁石のS極がN極を引き寄せるように、自分に関連した魂がいるところに引き寄せられただけだった。
改札に入れず立ち尽くす結城純恋のすぐ後ろに幼稚園くらいの男の子が一人現れた。男の子は改札に向かって走ってきて横を通り過ぎようとしたが立ち止まって純恋を見上げた。
「やっぱりユキミンだ、僕は大好きだったよ」
純恋の目が一瞬正気に戻り子どもを見た。
「プニュプニュぽっぷん見てたよ、面白かったよ」
そう言うと子どもは改札をくぐり抜けて駅舎を飛び出るとホームに立った。
その様子を梨花子先生と剛は車窓から見ていた。
「来た」梨花子先生が言った。
「誰ですか? 」
「進藤達也くん」と、二両目から歓声が上がった。剛は驚いた。てっきりこの電車には自分以外は乗っていないと思っていたのだ。車窓から首を出し二両目を見ると、そこにはかわぞえひかり幼稚園のライオンバスに乗っていた、まみ先生、みゆき先生、ともみ先生、たけし先生をはじめ達也を除くすみれ組二十九名が笑顔で身を乗り出していた。
「たっちゃんこっちこっち」
「みんな待ってるよ」
「早くおいでよ」
「走れー」
思い思いに達也に声をかけているのだ。
「梨花子先生彼らは…」そう言って梨花子先生に振り向いたが姿は消えていた。そして一番先頭のドアに現れた。
梨花子先生は手動でドアを開ける。と、達也はそれに気がつき、先頭ドアに駆け寄る。梨花子先生は小さくかがみ両手を広げ微笑みかけた。
「よく頑張りました。みんなで帰りましょう」
「うん」達也はタラップの前で止まると両足を揃えてジャンプ。車両に乗り込んだ。梨花子先生はそんな達也を抱き上げて通路に招き入れる。そして再びドアに手をかけ閉めた。達也は通路を二両目に向かって走り出す。全速力だ。でも剛に気がつき立ち止まった。剛も達也を見るが初対面だ。今まで会った事はない。
すると達也は微笑みかけて言った。
「お兄ちゃん、トンネルの中で声をかけてくれてありがとう」
「もしかして君、すすりなきしていたのは──」
「そう、暗いし苦しいし泣いちゃった」
「…」
「もう大丈夫、みんなと一緒に帰るんだ」
「たっちゃんは強いね」
「へへへ、そうだお兄ちゃん手を出して」
きょとんとしている剛。
「早く早く」
手を出して広げる。
「お礼にこれをあげる」達也はズボンのポケットからレインボーアメを一粒取り出すと、手のひらにのせた。
「じゃあね」そして再び走り出した。
剛はレインボーアメを握りしめシャツの胸ポケットにしまうと立ち上がる。そして走っていく達也の後ろ姿を見つめた。
九時過ぎを指していた時計塔の長針は音もなく滑らかに動き、零時でピタリと止まった。最後尾の車掌室の窓から身を乗り出してホームを確認する車掌。紺色の制服のジャケットとズボンは折り目正しくノリがきいている。白いシャツにエンジのネクタイ。目深に被った制帽のツバの奥からは実直で寸分の迷いもない瞳がホームを厳しく見つめた。
そして辺りに響く大きな声を出した。
「出発進行」
その声に応えるように先頭車両の運転手が高らかに声を出す。
「出発進行」
運転手がマスターコントロールレバーを回すとゆっくりと車輪が回転し、ガタンゴトン…線路の継ぎ目を車輪が乗り越える音がするが、全く揺れない、振動も全く無い。驚くほど滑らかに電車は発進した。改札の向こうでは結城純恋が生気の無い目で電車を見つめている、悲しみだけを身体中に漲らせて──。
5
車内では、梨花子先生が一両目と二両目の間にあるドアの横に瞬間移動していた。そこに達也が走ってきて立ち止まった。そして、悲しそうな表情を浮かべた。
「どうしたの? 」
「僕、僕、僕が遅れなかったら」
「ううん、私には分かります。あなたも友達も先生方も、自分の命を全うしました。命の限り生き抜きました」
「本当? 」
「はい。だから亡くなったのはたっちゃんのせいではありません。生きる時間は生まれる前から決めていたんです、ユキミンの事はひとつのきっかけでしかありません。ユキミンのことがなくてもここにいるみなさんは寿命でした」
「でも、みんな、怒ってない? 」
梨花子先生は優しく微笑みかけると、二両目に続くドアを開け放した。
両脇のボックス席と通路に押し合いながら顔をだしているクラスメートの笑顔、笑顔、笑顔…二十九人の笑顔だ。そして奥にはたけし先生にまみ先生、みゆき先生、ともみ先生が取り巻くようにして立っている。
「たっちゃーん」全員が声を揃えて呼びかけた。たっちゃんは全員の顔を見回すと目を細めた。そして嬉しくて大声で泣き出した。梨花子先生はくしゃくしゃにした笑顔で立ち尽くす達也の背中をゆっくり押し出す。
達也は二両目に歩を進めた。
その瞬間歓声に変わった。
「わー」
通路を飛び出し達也の元へと駆け寄るまみ先生。しゃがみ込み達也を強く抱きしめた。
「苦しかったね、辛かったね、でも最後までよく頑張ったね、一緒に故郷に帰りましょう。みんなで帰りましょう」
「せんせえ、ごめんなさい」
「ううん謝る事など何もないよ、みんなこの車両でまってたのよ、さあ、一緒に行きましょう」
「うん」
「たっちゃん俺の横に座れよ」ゆうくんが叫んだ。
「うん! 」達也が元気よく応えると、まみ先生は抱きしめていた腕を解いた、それとともに達也はゆうくんの元へと駆け寄る。まみ先生は立ち上がるとみんなの顔をみて言った。
「さあ、自分の席に戻ってお弁当食べましょう」
「はーい」子どもたちは嬉しそうに返事をするとおのおのの座席に戻った。
剛は梨花子先生の背中越しにやり取りを見ていた。
「どうしてこんなに幼い子どもたちが亡くならないといけないんでしょう? 」
「剛くんは生きる事をどう捉えていますか? 」梨花子先生は振り返らずに聞いた。
座席に戻った子どもたちは嬉しそうにお弁当を開け始めた。
「生きる事ですか…考えた事もありません」
梨花子先生は振り返って微笑んだ。
「行きましょう」そういうと二両目の通路を歩き出した。
「…」剛は無言でついていく。車窓にはどこまでも続く大草原が流れていた。相変わらず雲一つない青空だ。
かわぞえひかり幼稚園すみれ組の子どもたちも、子どもたちに紛れるように座っている引率の先生達も一様に笑顔だ。
「たけし先生はもうすぐ還暦を向かえるところでした。まみ先生は二十九歳、剛くんより一歳お若い、来年結婚式を挙げる予定でした。みゆき先生は大学を卒業して今年幼稚園に就職したばかりです。ともみ先生は先生になって二年目、子どもたちは五歳か六歳です。それと剛くんの娘の佳奈ちゃん、どの命が一番価値があるのでしょう? 」
質問内容に胸が苦しくなった。
命の価値など考えた事もなかった。
涙がでそうになった。
そして震える声で答えた。
「僕には判りません」
梨花子先生はゆっくり歩を進める。剛は微妙な距離感を保ちつつ、ついていく。
「そうです。判るはずがありません。命に価値などつけようがありません」
「…」
「この世に生まれるという事は、魂を向上させるステップです。目的を持って学びに来ています。現世ではその事を忘れています。そうでないとせっかくの学びが十分体験できないからです」
「魂…」
「学ぶ為には課題が必要です。肉体的な課題、精神的な課題、地域的な課題、親子の課題、異性間同性間の愛情の課題、金銭的な課題、仕事上の課題それこそ一人一人違うでしょう。でも課題を通じて試練を一つ一つ乗り越える事で、強さ、優しさ、慈しみ、そして愛を学ぶのです。
学ぶ時間は一人一人違います。長く生きたから価値があるというものではなありません。もちろん現世で有名になったから価値がある、お金持ちだから価値がある、社長だから価値がある、政治家だから価値があるというものでもありません。
決められた、いえ、自ら決めた寿命の中で、途中で諦めず多くの経験を積みどう生きるかが大切なのです」
「という事は年齢は関係ないのですか? 」
梨花子先生は二両目と三両目を遮るドアの前で立ち止まった。そして同じく歩みを止めた剛に振り返り、真っ直ぐな眼差しで瞳を見つめた。
「亡くなってもあの世で魂が生き続けるということは、魂は永遠に無くならないという事です、永遠に対して現世の時間など微々たるものです。時間じゃありません。どう生きたかが重要です。
だから──剛くん、現世で生きるとは『生き抜く事』とは思いませんか? 」
剛は動けなかった。
梨花子先生は続ける。
「みてごらんなさいこの車両の中を、さあ」
振り返る剛、車内を見回した。
「現世とは明らかに違いませんか? 」
剛は車内の一人一人を見回した。一人一人の身体から光が輝き辺りを照らしている。そしてある事に気がついた。
「梨花子先生…影が、無い」
車内には一切影が無かった。座席に通路、網棚、照明、車体、窓…そこにあるあらゆるものが穏やかな光を伴って形を浮かび上がらせ、その光は影を作らない。
「そうです。穢れがなく純粋な魂は影など作りません、全てに分け隔てなく光と愛を与えます。この車両も魂が作った思念体の一つです、だから影が無いのです。
ここにいるみなさんが亡くなった事で、現世に残された家族や周りにいた人々は悲しみのどん底に落とされるでしょう。そこから再び前向きに生きる為には非情な苦しみを伴います。それも学び、自らが選択した現世での学びの一つです。ここにいるみなさんの死は、残された人々の『課題』の一つでもあります。
でも感情では割り切れない事も多いと思います。
しかし、大切なのは──
なんとしても生き抜く事です。
命の限り生き抜く事です」
「また、あの世で自らがどういう過ちをおかしたのか分からないでいるトンネルの修復を取りやめた政治家や関係者、建設に携わった軍の関係者へ答えを与える事にもなります。
勿論、現世で生きている関係者はショックを受けるでしょう。そしてどう考えて行動するかで現世での魂の向上度合いが変わってきます。
トンネル崩落で子どもたちが亡くなったというニュースは何千何万という人々の心を揺れ動かし、子どもたちを守る為に大人はどう行動すべきか考える社会現象にまで発展するでしょう。
全ての根底にあるのは自分と分け隔てなく他人を愛する事の大切さに他なりません。
そして自らが蒔いた種から実った実りは、自らが刈り取らないといけないのが摂理です。
他人のせいにして逃る事は一切出来ません」
剛は言葉が出ない。
「つまりここにいるのは、何千何万もの人の学びの為に現世での命の全てを捧げた、崇高で純粋な魂たちなのです」
6
結城純恋のマネージャーの後藤は、街中を彷徨い続けていた。時間は正午を回り、ギラギラした太陽は頭上高く照らし続け、気温は三十度を超えてまだまだ上がり続けている。
ただひたすら純恋の事だけを思い、あてもなく歩き続けていた。
後藤は年齢で言えば純恋と六つ離れている、だからマネージャーといえ兄貴のように付き合っていたつもりだった。純恋が所属していたアイドルグループは三十名ほどだったが、かなりの人気を博していたので一人一人マネージャーが違った。その上に統括マネージャーが存在し、全体での出演以外は担当アイドルごとに別行動をとることも多かった。だが、ファン投票で決まるセンターを取るか取らないかでは依頼される仕事の質も量も雲泥の差だった。後藤は純恋がオーデションに受かって、グループに加入した高校生の頃からずっと純恋のマネージャーをしてきた。著名な先生に付けて純恋の歌や踊りを磨き、背中を押し続けた。
それに加え結城純恋は天賦の才を持っていた。磨けば磨くほどどこまでも輝きを増した。そしてすぐにグループのセンターに選ばれた。その才能を見抜いた後藤は、すでに、次の事を考えていた。ギターを習わせ作詞作曲を始めさせた。
結果は思った通りだった。作る曲全てが感動的だった。
そして三年間センターとして活躍した後、アイドルグループから卒業させた。シンガーソングライターとして、そして女優としての一歩を踏み出させると全てが見事に当たった。これによって後藤のプロダクションでの地位も上がった。
しかし、まだまだ後藤は満足していなかった。もっともっと幅広い層に受け入れられる筈だ。そう考え目をつけたのが子供番組だった。その頃は既に、テレビ局も純恋の活動から目を離せなくなっていたので、申し入れに簡単に乗ってきた。こうしてユキミンが誕生し、老若男女知らない国民はいないとも言える国民的アイドルが誕生した。
そして今度は世界へ向けて挑戦を始める筈だった──が、純恋は死んだ。
後藤はあの男と純恋の関係を全く知らなかった。
今、頭に浮かんでくるのは純恋の屈託の無い笑顔だけだ。後藤が愛していた純恋の笑顔だ。そして気がつくと渋谷にある巨大歩道橋の上に立っていた。下を通る六車線ある山手通りはひっきりなしに車が行き交う。手摺ごしに道路を見つめていると凄まじい勢いで過ぎる時間の流れに取り残された感覚が襲ってきた。
悲しかった。苦しかった。辛かった。死を止められなかった自分を責め続けた。
自分はあくまでマネージャーだ、商品である純恋を愛してはいけない、そんなことは十分判っていた。でも愛していたのだ。今まで自分をごまかしていただけだ。
「あああ…」 周囲を顧みず声を上げた。
そして、絶望という感情を直視した。
咄嗟に歩道橋の手摺を掴むと上半身をのせ、道路へ飛降りようと心に誓った瞬間、背後から力強く引っ張られ羽交締めにされた。
「馬鹿な事をするんじゃない」大声がかけられた。
聞き覚えがある声だ。
振り向くとそこには先ほどの背の高い若い刑事がいた。それに加え年配の刑事も小走りに近寄ってくる。
二人は後藤を尾行していた。
「死なせてくれ」後藤は若い刑事の腕を振りほどこうともがいた。体を右へ左へ勢いよく揺り動かし、歩道橋の手摺を乗り越えようと必死になった。若い刑事だけでは手に負えず、年配の刑事も取り押えるのに加勢した。
「お願いだ死なせてくれ、純恋のところにいかせてくれ」後藤は切れ間なく行き交う車の群れと、乱立したビルが取り巻く空間に向かって大声で叫んだ。
声は辺り一面に響き渡った。
7
──その時。
改札の外で呆然と立ちすくんでいた純恋の瞳に光が灯った。焦点が合い、生気が戻ると、後ろ髪を引かれる思いで振り返った。後藤の心が純恋に通じたのだ。
「あ」純恋は口を開いた。そして足元から徐々に消えていき、しばらくすると改札の前から姿が完全に消えた。
それとともに小高い丘の四方八方から虚無が襲ってきた。丘が空間に消えるのではなく、空間ごと消滅し無になっていく。
それは一瞬だった。
襲って来た虚無は、小高い丘を消し去ると、木造の駅舎も改札も、グレーのホームも線路も飲み込み、雲一つ無い青空さえも飲み込んだ。それは純恋の魂がある事で存在していた思念体が無くなる瞬間だった。
辺りは光も空間も時間も物質もエネルギーも魂も何もない、全くの無に還ってしまった。
8
後藤の体は二人の刑事によって手摺から引きずり降ろされ、歩道橋の通路に押さえつけられた。そして若い刑事は馬乗りになった。年配の刑事は仰向けになっている後藤の顔近くでしゃがみこむと、落ち着いた声で言った。
「馬鹿モン、こんなことして何になるんだ。目を覚まさんか」
「純恋、純恋のところにいきたい純恋に会いたい。死んでもいいから会いたい」大声を上げた。
刑事たちは無言で見つめている。
「純恋、愛してる」涙を流して目を閉じ、動かなくなった。
若い刑事はゆっくりと離れて横に座り込む。と、そこに純恋の霊体が現れた。後藤から三メートル程離れた空中に、赤いワンピースを着て腰まである艶やかな黒髪を靡かせた純恋が現れた。
後藤は気配を感じて閉じていた目を開けた。純恋だとすぐにわかった。
自分は一体なにを見ているんだ、目の前には純恋がいる、しかも三十センチほど宙に浮いて自分を見ている。純恋に体を向けるように上半身を起こすと宙を凝視する。
刑事たちは一瞬身構えたが、動かないのを確認すると後藤の視線の先を見た。何も見えない。しかし、後藤にははっきりと見えていた、純恋の全身が見えていた。現実のものとして捉えていた。
「純恋、愛してる」
「僕は今はっきりと分かった。僕は君を愛してしまったんだ。僕は誰よりも素直で優しい君を知っている。悪いのは君じゃない、君の悩みに気付いてやれなかった僕だ」
純恋の瞳をしっかりと見つめてそういった。純恋もまた視線を外さなかった。光の灯った瞳で──。
「僕はどんな事があろうと一生純恋を愛し続ける、それが僕にできる唯一のつぐないです、君への唯一のつぐないです」
純恋の霊体は手で顔を覆い、体を震わし、空中でしゃがみこんだ。
「愛してる」大声にビクつく刑事二人。相変わらず男が宙を向いて叫んでいるようにしか見えていない。気が触れたかのように思えて戸惑っていた。
結城純恋は覆っていた手をゆっくり顔から離すと、頬に伝わる涙も気にせず声にならない声を上げた。
「ゴメンナサイ」
「謝らなくていい、悪いのは僕だったんだ」叫んだ。
それに応えるように純恋は再び口を開いた。
「イ・キ・テ」そういうと姿は徐々に薄くなっていく。
「純恋! 」大声で叫ぶ後藤。
消えかかる寸前に純恋は言った。
「ありがとう」
この声は刑事二人にもしっかりと聞こえた。幻聴なんかじゃない、確かに聞こえた。二人は驚いて顔を見合わせた。
後藤は放心状態のまま、誰もいない宙を見つめていた。
9
梨花子先生は二両目と三両目を遮るドアに手をかけた。
「さあ行きましょう」
「…」何が起こるかわからない剛は、梨花子先生に言われるまま、ついていく決心を固めた。梨花子先生は微笑むとドアを開けた。
「剛くん、三両目には一人で行って下さい」
「は、は、はい」
不安になりながらも最後尾の車両に足を踏み入れた。バタン、背後でドアの閉まる音がした。梨花子先生は二両目に戻ったようだ。剛は三両目を見回す。ガランとした車内、誰もいないようにも思える。ゆっくりと歩を進める。通路も座席も網棚も、車内のディテールは一両目二両目となんら変わりがない。何歩か歩いたところで、中程にある左の座席に誰かが座っているのが分かった。頭だけが見えていた。
「誰だろう? 」そう思った時、通路にひょっこり顔を出して話しかけてきた。
「よう! 」
剛は驚いた。そして大声を上げて走り出した。
「諸岡さん」
それは、一緒に三清山賀製薬に向かっていた諸岡誠に違いなかった。剛が諸岡が座っている座席までくると笑いながら話しかけてきた。
「鳩が豆鉄砲を食ったようなツラして、まあ座れよ」
剛は諸岡の対面に座った。
諸岡は剛の顔をまじまじと見つめるとゆっくりと話し始めた。
「剛、俺はお前に出会えてすっごく楽しかった。お前に香織に由紀が実の子どものようだった」
「俺だってそうです。親父もお袋も学生時代に亡くなってひとりぼっちだった。だから俺は、諸岡さんを本当の親父のように思ってました。それに仕事も遊びも、全部諸岡さんから教わって、更には香織にも出会わせてくれて、言葉では言い表せません。心の底から感謝してます」
「そうだよな俺がいないと佳奈は生まれていないんだし、俺って凄いやつだよな」苦笑いの諸岡。
「はい、諸岡さんがいなかったら俺の人生はここまで豊かじゃなかったと思っています」
大真面目に言った。
「照れるな」頭をかき、車窓を見る。電車は諸岡の故郷を遠目に進む。
「諸岡さんこの電車の行き先が分かっていますか? 」
車窓から振り向き剛を見る。
「もちろん」
「降りましょう、次の駅で俺と降りて下さい、諸岡さんにはもっともっと長生きして欲しいんです、お願いです、一緒に降りて下さい」そして諸岡の手を取ると両手で握り締めた。
「それはできない」確かな口ぶりで言った。
「どうしてですか? 一緒に帰りましょう、手だってまだこんなに暖かい」
「いいか剛、俺の身体は岩に潰されてペシャンコだ。心臓の鼓動も止まったし脳波も止まった。肉体の生命活動が停止し再生できない状態なんだ。つまり現世には魂を乗せる器がもう無い、シルバーコードも肉体とのつながりが途切れている」
「わー」叫ぶ剛。
「俺があのまま、俺が運転していたら諸岡さんは死なないで済んだんだ。諸岡さん、諸岡さんごめんなさい」涙が溢れた。
「泣くな剛、謝る事など一つもない。お前を護れたのは俺の誇りだ。故郷に帰った時、俺は誰に向かっても大声で言うだろう。剛を護ったのは俺だ、諸岡だ現世での俺の最大の喜びは剛を護れた事だってな」
剛は諸岡の顔を見た。
何も言えない。ただとめどもなく涙が溢れ頬を伝う。
「いいか剛」
「…」
「俺たちは血はつながっていなくても家族だ。みんな知らず知らずのうちに運命の糸で結ばれている。それを選んだのは俺だ、剛だ、香織だ、由紀だ、佳奈だ、安斉社長だ。その他にも無数の小さな小さな出会いが積み重なって人生は紡がれている。それが、それこそが生きるという事だ。だからこそ簡単にはほつれない。生きていようが死のうが心のつながりは決して変わらない」
剛は諸岡の力強さに惹かれていた。
諸岡は続ける。
「お前が故郷に戻ればまた会える。家族は一つだ、思いが強ければ強いほど離れないし、俺もいつも近くで見守っている」
すると諸岡の体中から光が湧き出て大きく広がると剛の体を包み込むように取り巻いた。諸岡は握っていた剛の手をそっと離すと、光の中に剛を一人押し出した。光の球体に包まれた剛は、胎児のように身体を折り曲げ、小さくうずくまると目を閉じた。暖かかった。心地良かった。心配ごとなど消えて無くなった。
「剛、最後まで諦めるな」
諸岡の声が心に直接響いてきた。
10
安斉社長が第四トンネル崩落対策本部のある町役場についたのは一時頃だった。近くの道路に車を停めて役場まで走ってきた。上空では何台もの報道ヘリコプターが轟音を撒き散らしている。役場入り口には狙い撃ちするかのようなカメラが何台も三脚に立ち、ファインダーを覗くカメラマンが中を狙っている。その他にも新聞記者や報道スタッフ、警察官や付近の住民やらで、普段は平穏な田舎町は騒然としていた。安斉社長は門番よろしく入り口に立っている警察官に社員証を見せた。
「広告代理店『爽』の社長安斉と申します。我が社の社員がトンネル内にいる可能性が高いとお聞きして来ました」
「そうですか」警察官は社員証を確認する。
「中に関係者の控え室がありますのでお入りください」警察官は丁寧に応対すると入り口を開けた。入り口に入る安斉社長の背中越しに幾度となくフラッシュがたかれ、シャッター音がやかましい。
中に入ると役場の担当者らしき女性が近づいて来た。安斉は挨拶をすると事情を説明した。女性はメモを取りながら一通り話しを聞くとついてくるように言った。
安斉は外の喧騒とは対照的に静かで薄暗い通路を通り、被害者控え室と張り紙がされた一室へと通された。
「もうすぐ記者発表とは別に、状況の説明が担当者からされますので、それまでお待ち下さい」そういうと女性は離れて行った。
安斉は控え室のドアに手をかけて開けた。
そこから先は異次元へ続く気がした。得体の知れない恐怖がまとわりつく。冷房が効いた室内なのに汗が額からしたたる。手を強く握りしめる。足がすくむ。喉が乾く。
しかし、自分を奮い立たせ中へ入った。
控え室の中には重苦しい空気が張り詰めていた。かわぞえひかり幼稚園の父母らしき大人が数名、パイプ椅子に座って無言で窓外の中庭を見つめている。中にはハンカチで目頭を押さえている女性もいる。父母の他には園長らしき初老の男性が部屋のすみで立ちすくんでいる。
11
この頃かわぞえひかり幼稚園でも問い合わせの電話や、押しかけた保護者達で騒然としていた。先生たちは対応に追われ、テレビのニュースをつけっぱなしにして園長からの連絡と、最新の情報を待ち続けていた。
今日はプール遊びの日だったが取りやめとなった。そのかわり園庭で遊ぶことになり、園児たちはいつもと同じように屈託の無い笑顔を見せて、じゃれるように遊んでいた。
そんな中、進藤達也の妹・里奈は園庭の隅にあるパンダの形をしたベンチに座っていた。両足を抱え頭を足の間に挟み込み、じっと動かなかった。里奈は人一倍敏感なアンテナを持ち合わせていた。
不安と悲しみが、多くの心を支配しはじめた。
12
安斉はゆっくりとパイプ椅子に座った。
間もなくして役場の担当者が二人控え室に入ってくると深々と頭を下げて説明を始めた。
「只今入った情報によりますと、知事からの災害派遣の要請を受けた自衛隊の先発隊が、現地調査を終えて必要な重機を選定し、その連絡に基づいた本隊が事故現場へと向かっています。なにぶん現場周辺の地盤が緩く、大量の地下水が湧き出しており、補強しながらの掘削となりますので慎重を要するとの事です。また消防のレスキュー隊及び緊急搬送用のヘリコプター一台が現地入りし自衛隊との協力体制を整えています」
続いて隣の担当者が話す。
「なお、対向車線を走っていた乗用車のドライバーとトンネルを抜けて警察に連絡を入れたトラックのドライバーの証言及び警察が捜査した諸々の状況によりますと、埋まっているのは二台、かわぞえひかり幼稚園の幼稚園バスと三清山賀製薬へ向かっていた普通乗用車に間違いないと思われます」
と、一人の男性が立ち上がった。
「子供たちは、子供たちの安否は…」
「乗用車のドライバーの証言によりますと、出口近くで崩落に巻き込まれた模様です。警察が幼稚園の先生たちが持っている携帯電話に連絡を入れておりますが、電波がつながらない状況が続いており、安否の程は確認できておりません。
しかし、申し上げた通り出口付近で崩落に巻き込まれているという状況から、掘削が始まれば早いうちに救出が可能となります。どうか希望は捨てずに報告をお待ちいただきたいと思います。
なお県立病院との連携、現場周辺にある大学病院への対応依頼、現場への医療班の編成、派遣等、消防、警察等関係機関との連携を行い万全の医療体制を整えております。現在申し上げれるのは以上です」
それを聞くと、立ち上がった男性は力なく座った。何名かの母親は耐えきれずに涙を流した。園長先生は頭を抱えてその場にうずくまった。
空気は重く誰もが動けない。
「救助隊も我々行政の人間も最善を尽くします。今言える事はそれだけです。申し訳ございません」二人は再び深々と頭を下げると、悲痛な面持ちで部屋から出て行った。
安斉も動けなかった。パイプ椅子の上にある体が石のようだった。次から次へと湧き出る不安に全ての神経が乗っ取られたかのように硬直した。だが、ようやく右手を振り上げると太ももを思い切り叩いた。二度、三度、叩いた。力強く叩いた。俺がこんな事でどうする、諸岡と剛は中で闘っている。辛いのは俺じゃない諸岡だ、剛だ、香織だ、由紀だ。全てを見届け残された者たちをケアする事こそが、社長の俺がする事だ──安斉社長は気力を振り絞って立ち上がった。そして控え室を出ると廊下を抜け、中庭に出ると人気の無い場所に立つ巨木に寄りかかった。そして香織に電話をかけた。
香織はワンコールで電話に出た。待っていたのだ。
由紀の為に料理しながらも神経はテーブルに置かれた携帯電話に向けていた。
「はい永澤香織です」
「安斉です、今対策本部にいます。やはり諸岡と剛はトンネルの中にいる」
「! 」一瞬の間。
「だけどな香織よく聴け、自衛隊が救助活動を始めた。諸岡も剛も必ず中で救出されるのを待っている。事故にあったのが幸いにも出口付近らしい、まだまだ希望は残っている。連絡がつかないだけだ。どうか気持ちをしっかり持って、俺の連絡を由紀と一緒に待っていてほしい──必ず助かる。俺はそう思っている。大丈夫だ」
「はい」平然と香織は応えた。迷いはなかった。安斉の思いを受け入れたのだ。香織は続けた。
「安斉社長ありがとうございます。そしてよろしくお願いします」
「おう、必ず良い知らせが届くから待っていてほしい」
「はい」
「また連絡する」そう言うと安斉は電話を切った。そして巨木によしかかるように座り込んだ。天を見上げる。真っ青な空に浮かぶ白い雲が、諸岡と剛の笑顔に見える。安斉は常日頃社員に言っていた自らの言葉を何度も何度も頭の中で叫んでいた。『会社は家族だ誰かが傷つく仕事のやり方は断じてゆるさん』それが安斉社長のポリシーであり、徹底してきたから会社がここまで成長できたのだ。
だからこそ涙が出た。
自分が守る事が出来なかった悔しさと傷ついた社員を自らの手で救う事のできない状況に涙がでた。
強大で圧倒的な自然の前では自分はなんと無力なのかを痛感した。