繋がる宿命の糸
1
三清山賀製薬へ向かう大型トラックは四号トンネルの中を走っていた。四号トンネルの全長は直線で三百メートル程。ヘッドライトを点けていると雨のような水滴が光って見える。いつもより確実に天井からの水滴が多い。ドライバーは違和感を感じながらワイパーを動かした。
反対車線では幌を全開にしたマツダロードスターに乗った若い男女のカップルがトンネルに入ろうとしていた。マツダロードスターはスポーツタイプの国産オープンカーで運転しているのは男性だ。
大型トラックに続くようにトンネルに入ってきた諸岡は、遠くにトラックの影が見えていた。
トンネルは確かにいつもと違った、地震によって元々緩かった地盤が動き、天井を支える老朽化したコンクリートブロックにヒビが入っていた。そして大型トラックが出口に差し掛かると同時に、ロードスターがトンネルに進入した。
その瞬間死のトンネルは牙を剥いた。
出口付近のコンクリートブロックの亀裂が拡大し、地盤の重みに耐えきれず崩れ落ちた。大型トラックは間一髪でトンネルから抜け出たが、諸岡は何が起きたかわからなかった。それもその筈、トラックが抜け出た半円形の光の中にコンクリートの瓦礫が雨のように降っている。そして──
ゴゴーン!
地面に落ちたコンクリートの瓦礫がうず高く積まさると、その上に支えを失った岩が土砂を伴っていくつも落ちてきた。そして出口が完全に塞がった。諸岡の視界が真っ暗になる。
しかしさすがにスーツを着たサムライ、身体が反応した。諸岡はブレーキを踏む──が、スピードがのっていたレンタカーは直ぐには止まれない。今度は咄嗟にハンドルを左に切ってサイドブレーキを引いた。と、車体は横滑りして積み重なった瓦礫に運転席側からぶつかった。
ガッシャーン!
車内のエアバックが作動する。それと同時にレンタカーは停まった。
立て続けに鳴り響く大きな物音に気がついた若いカップルは、ロードスターをトンネルの途中で停めて振り返った。レンタカーの後ろにはかえわぞえひかり幼稚園のライオンバスが続いていた。
たけし先生は思わぬ展開に必死にブレーキを踏んだが遅かった、レンタカーの後方をかすめ出口を塞ぐ瓦礫や岩に正面からぶつかった。
その衝撃でフロントのライオンのオブジェと運転席は簡単に潰れた。
この振動に地盤が耐えきれなかった。天井を支えている土や岩が地下水を伴って、次から次へと崩れ落ちて来たのだ。レンタカーとライオンバスは一瞬で下敷きになった。
同時に天井に残っているコンクリートブロックが、連鎖するように落ちてくる。
それを見て恐怖に震えるカップル。二人とも正面に向き直り、男性はギアを入れるやいなやアクセルを思い切り踏んだ。
ゴゴゴ、ゴゴゴ…。
辺りに鳴り響く不気味な重低音。
男性は更にアクセルを踏み込んだ。スピードが上がるロードスター、助手席の彼女の長い髪が無茶苦茶に風を切る。「いやああああ」恐怖に耐えきれず大声を上げる。
コンクリートブロックと土や岩が次々背後に降り注ぎ、土煙がトンネル中に舞い上がる。
トンネルは確実に潰れはじめている。一瞬でも気を抜けば巻き込まれるのは必至だ。
男性のハンドルを握る手はこれ以上ないほど強張り、汗が滴り、息苦しい。土砂崩れは容赦なく襲ってくる。アクセルを踏みっぱなしの男性。降り注ぐ地下水が二人の全身をびしょ濡れにするがそんな事になど構っていられない。とにかく逃げ切るしかない。だが、視界は土煙りで覆い尽くされ、頼れるのは左右にわずかに見えるトンネルの照明だけだった。
若い二人は、命を失う恐怖を身体中で感じていた。
しかし徐々に正面が明るくなってきた。トンネルに差し込む太陽光が出口を照らしているのだ。
「もう少しだ」と男性が思った時、前方天井のコンクリートブロックが降って来た。
「ああああー」男性はアクセルをもうひと踏みした。
ロードスターに向かって落ちてくる黒い影。
助手席の女性が上を見る。巨大化してくるコンクリートブロック──全く声がでない。
唸るエンジン。加速するスピード。
──間一髪だった。
ロードスターは大量のコンクリートブロックの下を潜り抜けた。ガゴン! ガコン! ガコン! 重低音が木霊する死のトンネルを抜け出た。それと同時にズズーン! 野太い音が辺りに響き渡ると沈黙が襲ってきた。
男性は青空が広がる直線の道でブレーキを踏んだ。
次第に速度が落ち、スピードメーターがゼロになっても、二人は正面を見たまま動けなかった。身体中ずぶ濡れで埃が纏わり付いていた。二人とも無言だ。
しばらくして男性が大きく息を吐くと、緊張の糸が切れた彼女が顔を手で覆いしくしく泣き出した。男性はそんな彼女の肩を強く抱き寄せた。
そして男性は恐る恐る振り返る。
トンネルだったところは土が埋め尽くされ不気味に黒かった。その隙間からは水が溢れ出し、山肌も陥没していた。
反対側の出口では大型トラックが路肩で停まっていた。
異変に気がついたドライバーは、運転席から降りて変わり果てたトンネルの姿を見ていた。そして携帯電話を取り出し警察に電話をかけ、何台かトンネル崩落に巻き込まれた可能性がある事を伝えた。
その後三清山賀製薬に電話をかけて事情を説明した。
三清山賀製薬ではドライバーの連絡を受けて、ただちに各部署の責任者に来社の予定がないか緊急社内メールが回された。この近辺には動物園と三清山賀製薬本社くらいしか目立った施設がないので当然の成り行きだった。
それが、広報部長の目にとまった。諸岡からの連絡を受けていたのもこの部長だ。
時刻も既に始業時間の九時を回っている。
広告代理店『爽』の人間が打ち合わせに遅れた事など今まで一度もない、それに何の連絡もよこさないとはおかしい──部長は確信した。巻き込まれたのは諸岡と永澤に違いない。
広報部長は諸岡に電話をかけた──通じない、何度かけても電波が届かなかった。
2
広告代理店『爽』のプロダクションマネジャー松永由紀は、クリエイティブ部の打ち合わせコーナーで一人、コーヒーを飲んでいた。
撮影のキャンセルの連絡は八時頃から一斉に行った。その後地震で確かにビルは揺れたが、都内は震度三だったのでさほど恐怖は感じなかった。
ただ由紀は疲れていた。昨夜ビジネスホテルに泊まり、シャワーを浴びてベッドに入っても気持ちが高ぶって一睡も出来なかった。結城純恋の死はとてつもなくショックだった。加えてマネージャーの後藤が言った言葉が耳にこびり付いて離れない。
「あ、あの…純恋が、純恋の頭が壊れて、血が一杯出て、アスファルトに叩きつけられて、うわああああ、動かない、動かないんです」
余りにもリアルで、仕事がらどうしても映像としてシーンを想像してしまう。夜通し頭に浮かぶ映像と後藤の声に悩まされ涙が止まらなかった。だから早めに出社して仕事に没頭しようと思った。携帯電話はいつでも連絡が取れるし、撮影の部署は朝が早い。あっという間に連絡は終わった。それに誰もがニュースで純恋の死を知って心構えはできていた。
その後スタッフルームの片づけをしようと思ったが、身体が思うように動かなかった。何も手につかない。
由紀は打ち合わせコーナーに行くと、テレビを消して一人静かにホットコーヒーを飲む事にした。テレビでは純恋のニュースを繰り返し流している──見る気も起きなかった。静かなところにいたかった。打ち合わせコーナーの椅子に座り、ホットコーヒーを一口飲むと目をつむった。
いつものコーヒーなのにやけに苦く感じた。
そして九時半頃、安斉社長が由紀を探して打ち合わせコーナーに来た。
「由紀ここにいたか」
驚いて目を開ける由紀。
「しゃ、社長、おはようございます」
「諸岡と剛から連絡はなかったか? 」
「三清山賀製薬に行ってますが…」
「連絡は? 」
「ありません、二人がどうかしましたか? 」
「いいか由紀、気をしっかり持って聞けよ」
「──」
「今さっき三清山賀製薬の担当者から連絡が入った。諸岡と剛が地震で起きたトンネル崩落に巻き込まれた可能性が高い」
「…」由紀はあまりもの事に全く理解が出来なかった。崩落、トンネル崩落、剛、諸岡…。
「崩落ってなんですか? 」きょとんとして聞き返す。
「三清山賀製薬の近くのトンネルが潰れて、その中に諸岡と剛が閉じ込められているらしい。ワシも二人の携帯に電話を掛けたが電波は届かないとアナウンスがあった」
「そうですか──え、え、諸岡と剛が…トンネルに閉じ込められて…」言葉を理解するにつれ頭が真っ白になっていく松永由紀。
「諸岡と剛がトンネル崩落に巻き込まれた…」うわ言のようにつぶやくと意識が飛んで気を失った。
「由紀、大丈夫か、しっかりしろ由紀」
3
──それは奇跡だった。
完全にトンネルが崩落し、レンタカーもライオンバスも潰れた。だが剛は潰れなかった。剛が乗っていた助手席は大きな岩に囲まれ小さな空間ができていた。足は潰れたダッシュボードと座席に挟まれて動かない。しかし、上半身は辛うじて動かせられる空間があったのだ。更に運転席を埋め尽くすコンクリートブロックの瓦礫の隙間からは、一筋の光線が注ぎそれとともに新鮮な空気が入ってきていた。
剛は気絶して──夢を見ていた。
故郷北海道らしき山の中を三両編成の電車が走っている。単線でレールは一組しかひかれていない。
天気は快晴、雲一つない。山の木々は濃く、生命力豊かにうっそうとしている。
電車は幾つものコーナーを抜け、山を一つ抜けると大河の上に掛けられた真っ赤な鉄橋に差し掛かった。剛は一両目の中程の座席で、窓際に肘を持たれて眠っていた。
車内には対面四人掛けのボックス席しかなく、木枠に青い布貼りの固めの座席だ。床も濃い茶色をしたフローリング。窓の上に備えられた吊棚はロープで編んであり、天井についている照明は丸く白いガラスでカバーされているものだ。
車両の連結部は黒い蛇腹で囲まれていて、一両目と二両目の間には引き戸がつけられているが、窓はすりガラスでお互いの車両が見えない。どことなく懐かしさが漂う昭和初期に走っていた車両に良く似ている。
一両目には剛の他には仕切りの向こうにある運転席に運転手が乗っていたが、仕切りに着いている小さなガラス窓からは、後ろ姿しか見えない。他の座席は空席だ。
電車は真っ赤な鉄橋を抜けると剛の故郷、北海道江別市の街並みが遠くに見えてきた。といつの間にか、剛の対面座席には娘の佳奈を腕に抱き締めた剛の妻──永澤香織が現れた。香織は何の疑いもなく剛を見つめていた。
やがて剛が目を覚ました。
そして香織に気がつく。
「おや香織俺は寝ていた? 」
「ええ、さっきからずっと…」
「そうか…」
と、佳奈がぐずりだしたので揺すりながらあやす香織。佳奈は再び眠る。剛は車窓を見る。
「この電車はどこを走っているんだろう」
「私にも分からないわ、剛が来いっていうから来たんじゃない」
「俺が君を呼んだのかい? 」驚いた剛は香織を見た。
「さっき、私を呼びに来たじゃない。一緒にこの電車に乗ってくれって」
「──覚えてない」
「そう、変ね…」
「しかしこの電車は快適だな」
「そうね、快適過ぎるわ」
電車はガタンゴトンと線路の継ぎ目を通る度に音を立てているし、車窓の風景は勢い良く流れている。しかし、車内は全く揺れていない。気温も湿度も北海道の夏場のように涼しく快適だ。
外を見る剛、そこには江別市の田園風景と山並みが見えていた。
「あれ、何だか懐かしい風景だ」
「──」
「小学生の頃、よく裏山の渓流に行って釣りしてたな」
「小学生…渓流、釣り…」
「うん」
「そうだ剛、あなたの初恋って誰? 」
咄嗟に香織を見る剛。
「なんだよ突然」笑う。
「大切な事なの」真剣な眼差しの香織。
「…」
「今、釣りの話をしたわよね」
「うん」
「渓流の事を思い出して苦しくないの? 」
「別に」
「息苦しくならないの? 」
「なんで、大丈夫」
「じゃあ教えて、今しかないわ」迫る香織。
剛は勢いに押されて応えた。
「うーん加藤梨花子先生かな、小三の時の担任の先生、とっても綺麗だった」
「違う違う! 」声を荒げる。
「な、なにが? 」
「同世代の子供に対する初恋よ」
「え? 」
「どうなのよ!」
「どうしてそんなに真剣なの? 」
「…」
「じゃあ香織の初恋聞かせてくれたら言う」
香織は言葉に詰まった。
「ねえ、誰? 」意地悪そうに剛は聞いた。
「私の事なんて今はいいのよ、早く言いなさい! 」大声は電車中に響いた。
呆気に取られる剛。
「は、はい」
ガタンゴトン、ガタンゴトン──電車は進む。
剛は少し照れながら応えた。
「うーん、実は、麦わら帽子を被ってて、綺麗な黒髪が見えてて、小三の俺より少し背が高くて、袖無しの白いワンピースを着て、素足に赤いコンバースを履いていた女の子かな…名前が分からないけどずっと心に残っている思いがあるんだ。どこかで会ってる筈なんだけど、どこで会ったのか全く思い出せない」
「! 」
「どうしたんだい? 」そういった途端、剛を睡魔が襲いうつらうつら眠ってしまった。
4
「うわぁ! 」
現実世界のトンネルの中で剛は目を覚ました。
暗闇だ、ここはどこだ?
何も考えられない、何が起こったのか分からない。
身体を動かしてみた。
上半身は辛うじて動かせられるが、下半身は何かに挟まって動かない。足がズキズキ痛む。それどころか身体中が痛い──自分の状況が理解できない。
深呼吸をしてみる。どうやら生きているようだ。蒸し暑い、汗が後から後から吹き出している。
天井の辺りをまさぐってみる。頭にかなり近いところに天井がある。
左右を見回す。助手席の窓ガラスが割れて、岩が迫ってきているのが薄っすらと見える。
天井をまさぐっていた手にルームランプが当たった。それも顔のすぐ横にあった。いつもと位置が違う。試しにルームランプをつけてみる──点いた。辺りが明るくなった。
状況を見て息を飲む。
フロントガラスはヒビが入っているが、割れていない。しかし土がギッシリ詰まっている。
助手席のガラスは割れて巨大な岩がむき出している。
シートの後ろにも、後部座席を潰すようにして車内に落ちてきた巨大な岩があった。剛の頭上で重ねるようにお互いを支えている二つの巨大な岩。
その二つの岩に護られて剛は潰れなかった。
剛は段々と何が起こったか思い出してきた。
そうだ、諸岡さん!
運転席に首を回すと、そこには車体を押し潰すようになだれ込んだコンクリートブロックの瓦礫が積み重なっていた。その隙間から一筋の光線が差し込んでいた。
「諸岡さん、諸岡さん! 」大声で何度も叫ぶが応答がない。
瓦礫の隙間に辛うじて手が入るところを見つけると手を突っ込んでみた。すると生暖かい何かが手に触れた。
「諸岡さん」
揺すってみるが動かないそのかわり何やらヌルッとした感触がした。手を隙間から引っこぬく。抜いた手をルームランプの明かりで見る。
鮮血が手を覆っていた。
「あああ…」手を振りながらパニックになる。
息を吸う、大きく息を吸う、吸う、吸う、空気を吸う、吐き方が分からない。苦しい、苦しい、呼吸の仕方が分からない、苦しい、息が・で・き・な・い──過呼吸のすえに剛は気絶した。
5
香織は自宅マンションのリビングにあるソファに横になっていた。
娘の佳奈はソファの横に置かれた揺りかごで眠っている。マンションは東京都世田谷区にあり、剛の通勤を考えての選択だった。
香織はゆっくりと目を覚ました──不思議な感覚だった。
佳奈に授乳して揺りかごに寝かせた後、剛に誘われるように感じ目を閉じたのだ。そして気がつくと剛の前に座っていた。そして、剛と全く同じ夢を見た。
香織はテーブルの上にあった携帯電話をかけてみた。
『おかけになった電話番号は電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるためかかりません』アナウンスが流れた。
電話を切る。
そして、テレビのリモコンを手に取るとスイッチを入れた。テレビでは十時に始まったワイドショーがトンネル崩落事故を中継していた。
ヘリコプターが現場上空から撮影した映像が流れた。山肌はえぐり取られたかのように窪み、トンネルの出入り口は土で黒く詰まっている。道路には地下水が湧き出て濡れていた。
レポーターの高見がヘリコプターの中から中継している。
「今トンネル崩落現場上空から中継しています。ご覧頂いてますようにいくつかの小高い山の麓を一号から六号まで六つのトンネルが掘られており、その中の四号トンネルで今朝八時五十分頃崩落が起こりました。警察に連絡した大型トラックのドライバーによりますと、少なくても幼稚園バスと乗用車の二台が巻き込まれている模様です」
ワイドショーのスタジオでは映像を見ていた司会者が番組を進行する。
「高見さん、救助は進んでいるのでしょうか? 」
「上空から見えるのは通報した大型トラックが停まっているのと、警察と消防の車両が数台、反対側の出口付近には崩落を逃れたと思われるオープンカーとパトカー一台と救急車が一台です。まだ、トンネル内の救助作業は始まっていません」
──香織に不安が襲う。
「山肌の崩れ方を見ても分かるようにここら辺の地盤が緩く、地下水が湧き出しているため救助作業は難航しそうです」
「ありがとうございます高見さんまた後ほど繋ぎます」
司会者は映像を見ながら、トンネル工事の専門家、大学教授の岩城に話しを聞いた。
「岩城さんこのトンネル崩落は、直前に起きた地震の影響ですか? 」
「はい、十分に考えられると思います。昭和初期に造られたトンネルという事で、それから改築も補強もされずにいるトンネルです。私も近隣住民の要請で何度か調査に訪れた事がありますが、かなり老朽化が進み崩落の危険があるトンネルとして、国土交通省に連絡をしています。でも近くにバイパスを造る計画が浮上して、改修計画が頓挫しているんですね。そういう側面からみると起こるべくして起こった、いわば、人災ともいえる崩落事故ではないでしょうか、地盤が緩い事と老朽化している事がわかっていながら、行政に関わる人間が放っておいたのです。付近の住民が幾度となく出した改修の嘆願書を近代化を名目に無視し続けたんです。いや、被害者の方々の心中をお察しいたします」
「ここで、現地の対策本部と中継が繋がったようです。対策本部の魚水さん」
場面が事故現場付近の役場に儲けられた事故対策本部の入り口に切り替わる。
報道のスタッフや行政、警察、消防の関係者でごった返していた。
「はい、魚水です。先ほどから警察、消防、行政の関係者が集まり今後の救助活動を検討している最中です。そして、先ほど発表がありましたが、知事が自衛隊に災害派遣の要請をしました」
香織はテレビを消した──不安感が身体中にまとわりついていた。
6
剛は再び夢の中にいた。
三両編成の電車は山の中を抜けて両側が畑に囲まれた線路を走っている。先程と同じ座席で眠っていたがゆっくりまぶたを開けた。一両目の車内には剛と運転手の他には誰もいない。
開け放している車窓を見る。
畑から田舎道の側を通り、街中へと近づく電車。
次第に古めかしい校舎に、大きめのグランドが備わった小学校が見えてきた。すぐに裏には小高い山。線路は小学校の校門の前を横切るように続いている。電車は校門の近くまで来ると速度を落として停まった。
何処かで見た事がある──。
白土の校庭にあるボロボロのサッカーゴール、錆だらけの登り棒に高さ違いの四つの鉄棒。焦げ茶色をした二階建ての木造校舎。校舎の真ん中にある時計塔。間違いない、剛たちが卒業してすぐ廃校になった小学校だ。
全校児童数四十九人、剛のクラスメートは八人と少人数の小学校だったため、近隣の学校と統廃合されたのだ。
ただその頃と違う点が一つだけあった。時計塔の白く丸い文字盤には零時、三時、六時、九時のところに短い線が書いてあり、短針も秒針もない。あるのは長針だけだ。
零時で止まっていた長針は電車が停車すると同時に、カチリ──音を立てて動き出した。
校門を見ていると何処からともなく『故郷』の合唱が聞こえてきた。すると剛の意識は身体から抜け、小学校の玄関へと吸い込まれていった。そして合唱の聞こえる音楽室へと誘われた。
音楽室では三年一組が合唱の授業を受けていた。男子五名女子四名、三年生は一クラスしかない。勿論、その中には小学校三年生の自分もいた。天井あたりに浮かんでいる剛の意識は全員の顔を覚えていた。音楽を教えているのが加藤梨花子先生。先生も当時のまま、若々しい二十五歳のままだった。
♪
兎追ひし 彼の山
小鮒釣りし 彼の川
「そうこの町を思い描くように想いを込めて」加藤梨花子先生はピアノで伴奏しながら大声でいった。
♪
夢は今も 巡りて
忘れ難き 故郷
『故郷』のところをダミ声でがなりたてるように歌う、小学三年生の永澤剛、高橋宏、伊東純也。
ピッキーン! 梨花子先生の美しい顔が引きつる。
グシャーン、ピアノで不協和音をあげると怒った。
「またやったな剛、宏、純也」
三人は顔を見合わせて笑うと、音楽室を走り回った。大爆笑のクラスメート。ピアノから離れて追いかける梨花子先生。音楽大学を出て三年程してこの学校に赴任してきたので若くて機敏だ。
先生は剛にターゲットをあてた。宏と純也はいつの間にか何処かに隠れている。
「やべぇ純也と宏どこいった」
ジリジリと剛を教室の隅に追い詰める梨花子先生。
「剛、いつになったら真面目になるんだ」
「うん、明日から」
「こらぁ」
──そこで終業のチャイムがなった。
「へへへ、先生終わりだよ、教室に戻って帰りの会やらなきゃ」
「もう」
梨花子先生はいつも一生懸命明るく子どもたちに接してくれていた。それに美しくスポーティで学校中の誰からも愛されていた。それだけでなく人懐っこい性格で町中の誰からも愛されていた。
音楽室のシーンを俯瞰で見ながら剛の意識は梨花子先生に思いを馳せた。
梨花子先生は三年一組のクラス担任でもあった。
すると剛の意識は音楽室から教室へと移動した。
教室には梨花子先生をはじめクラスメート全員が揃っていて帰りの会が始まった。
帰りの会では、みんなの得意なものを何でもいいから発表するコーナーがつくられていた。梨花子先生が子どもたちの主体性を養う為に提案した。手作りリリアンやら、書道に絵画、折り紙なんかが持ち込まれ、苦労した点やいところを日替わりで全員が発表した。
剛と宏と純也は学校の裏山にある渓流で釣ったヤマメの魚拓を競うようにして発表した。この頃三人は毎日のように渓流釣りをしていた。
──剛は少しづつ忘れかけた少年時代を思い起こしている。
まもなくして剛の意識は学校からでて裏山へと移った。
そこでは小学三年生の夏休みが始まったばかりの頃、山道で起こった出来事が展開されていた。
その時剛は体のあちこちが痛かった、なかでも背中が熱くてヒリヒリしていた。そして身体中がずぶ濡れだった。
そんな剛を梨花子先生がおんぶして走っていた。
「剛、大丈夫だからね、頑張れ、頑張りなさい! 」先生は必死だ。
剛はぐったりしている。先生の言葉に反応して薄っすらと目を開けるが声が出ない。
辺りにはこれでもかと蝉が鳴き、鬱蒼とした白樺の間から見える真っ青な空。
そこにフラッシュ的に現れる袖の無い白いワンピースを着て、麦わら帽子を被り、赤いコンバースを履いた女の子。剛には、なぜ、先生が自分をおんぶしているシーンと女の子が繋がっているのか判らない。
そのうち梨花子先生の背中で小学生の剛は眠りに落ちた。
突然あたりは一変し、病院の集中治療室になった。
病院のベッドに寝かされている剛は、心拍数や血圧を測る計測機器や点滴のパイプに繋がれていた。そして、ゆっくりと目を開けた。それを見て、側にいた両親が大喜びした。きょとんとしている剛に父親は言った「何日も昏睡状態だったんだ」
「梨花子先生に感謝しなさい、先生がいなかったらお前は死んでいた」二人は何度も何度もそういった。
程なくして梨花子先生がお見舞いに来た。その時は後から後から涙が止まらなかった。先生も心から安心して一緒に泣いてくれた。
既に、夏休みは半分過ぎていた。
しかし、この時何が原因で先生におんぶされて病院に入院したのか、そのあたりの記憶が喪失していた。背中に深掘りの三十センチほどの傷が五本ついたのもこの時だ。
その後、自分に何が起きたのか思い出そうと何度も試みたが、その度に息苦しく、呼吸困難になった。原因の中枢に触れようとすると身体が過剰に反応して苦しくなる。おそらく、自分はその時とてつもなく苦しい思いをしたのだろう。
次第に考える事を辞めた。そんな剛を見て両親も宏も純也もクラスメートもその話題には触れなくなった。
大人になった今でも、背中の傷の事を思い出そうとすると同じように息苦しくしくなる。
それに、原因を知っていた両親はもういない。
何があったのか、もう知ることはできない。
7
その頃結城純恋のマネージャー・後藤は新宿の街をうろついていた。
自殺した結城純恋の遺体は死後すぐに検査され、体内から覚醒剤反応が出た事もあり警察が協力を求めた。勿論後藤は覚醒剤に関しては何も知らなかった。何も答えられなかった。ただ、自殺の原因となったかもしれない、週刊誌の記事に関しては警察に事情を伝えた。そして玄関に集まっている報道陣に気がつかれないように、秘密裏に警察署から解放された。
その後、事務所に連絡する気さえ起きず、携帯電話の電源を切って抜け殻のように街をうろついていたのだ。
後藤の頭の中には常に結城純恋の事が浮かんでいた。後藤は自分を責めていた、純恋の事を全く理解していなかった自分を責めていた。もし、少しでも純恋の悩みを聞いていれば自殺など防げたかもしれない、仕事、仕事一辺倒で純恋を国民的なアイドルとして作り上げる事には成功したが果たして純恋にとって本当の意味で味方になってやれていたのだろうか? 単なる金儲けの道具としてしか扱っていなかったんじゃなかろうか?
答えの出ない疑問で自問自答し自分を責めるしかなかった。
いつしか、ビルとビルの間に作られた緑地帯の遊歩道に出た。
そこでは若い男女に幼稚園くらいの小さな子どもと付き添いのお母さんやおばあちゃんまで、多くの人々が立ち止まって涙を流している。人だかりの隙間から見える立ち入り禁止の黄色いテープ。左右を立哨している警察官。数多くの報道陣。
遊歩道の生垣は即席の献花台となり山のように花束が添えられている。
後藤はそれを見て正気に戻った。間違いないここは純恋のマンションの下だ。純恋が命を落としたその場所だ。
人だかりは何重にもなって遊歩道を埋め尽くし、左右の緑地帯にまではみ出していた。
それを見た後藤は怖くなった。純恋を殺したのはお前だ! ここにいる全員にそう吐き捨てられるように言われている気がして怖くなった。
昨晩の道路に叩きつけられた純恋の姿が脳裏に蘇ってくる。
動けない、悲しみが身体中にまとわりつき動けない。震える、身体中が震える。純恋が可哀想、純恋が愛おしい。
純恋、もう一度君の笑顔が見たい。
この時後藤はマネージャーとして純恋の担当だっただけでなく、別の感情が自分の中にあった事に気がついた──純恋を愛していたんだ。
報道陣のカメラマンは小さな脚立に登り三脚を目一杯高く上げてその模様をビデオカメラで撮影していた。その中の一人がファインダーから目を離して何気なく後藤の方を見た。目と目があった瞬間、「見つけた! お前を見つけた」地獄の使者がそう言っているように感じた。
後藤は振り返って走り出した。
どこをどう走っているか自分でも分からないほど錯乱して無我夢中で走った。
「ああああああ」声にならない声をあげながら歌舞伎町に入ると、路地から路地へと滅多やたらに走り抜けたのだ。途中何人もと体がぶつかった。中には罵声を浴びせる者もいた。でも構わず走った。
自分を襲ってくる現実から逃れるように夢中で走った。
8
──剛の意識は再び教室に戻った。
三年一組の教室には梨花子先生だけがいなかった。それを見た剛はピンときた、これは梨花子先生とのお別れ会だ。
その年の一月、始業式の時は梨花子先生はもう一年このクラス受け持つ事になりましたと挨拶していたが、三月になると突然、家庭の事情で先生を辞める事になりましたと子どもたちに告げたのだ。
三年一組は大騒ぎになった。みんな泣きながら残って欲しいと訴えたし、保護者も一緒になって校長や副校長、同僚の先生に事情を聞いたが、個人情報なのでお答えできませんという回答しか返ってこなかったのである。
勿論、先生たちは全員事情を知っていた、でも子どもたちを悲しませたくないと梨花子先生から強く口止めされていた。
梨花子先生も子どもたちに「本心は辞めたくありません、心からみんなの事が大好きです」と涙ながらに訴えた。
何が梨花子先生の周辺で起きているのか子どもたちも父兄も知らなかった。梨花子先生はこの町で一人暮らしだったので、先生の身内の事など誰も知らなかった。
そして三月になっていよいよお別れの時が近づいてくると、みんなで感謝の気持ちを伝えようという事になり校長先生にも相談した、校長先生は大喜びで子どもたちの申し出に協力する事を約束した。そして他の先生にも協力を求めた。
決行日は終業式前日の帰りの会。場所は三年一組。
学校中でこのことを知らないのは梨花子先生だけだった。
その日の日直は宏と怜ちゃんだった。男女二人で職員室へと向かう。
職員室は梨花子先生と副校長先生しかいなかった。
宏と怜ちゃんは職員室のドアを開けていつものように先生に声をかけた。
「帰りの支度ができました」
梨花子先生は二人を見つめると微笑んだ。
「はい、帰りの会をしましょう」
と、それを聞いた副校長がいった。
「一緒にいっていいですか? 」
「え、ええ」
こうして副校長と宏に怜ちゃん、梨花子先生は廊下を歩いて三年一組に向かった。
「先生、この一年どうでしたか? 」副校長先生はいった。
「はい、とっても素敵な子どもたちに囲まれて幸せでした、ね宏くんに怜ちゃんありがとう」
照れ臭そうな宏、笑顔の怜ちゃん。
「うん、先生大好きです」怜ちゃんが大声でいった。
「我々教師も同じです、先生の朗らかさにはいつも助けられました。みんな大好きでした」
「今までありがとうございました」
「いえ、お礼を言うのはわたし達です。この田舎町の小学校でよく頑張ってくれました。ありがとうございました」
しんみりする梨花子先生。
やがて三人は三年一組のドアの前に立った。すると、怜ちゃんと宏がドアの前に駆け寄る、先生を見て微笑むと「せーの」掛け声と共にドアを開けた。
梨花子先生は教室の中を見て驚いた。
校長先生が手に余るほどの花束を持って立っていたのだ。
「さあ中へ」副校長がそういうと一歩中へ入る梨花子先生。
「ありがとうございました加藤先生、いや梨花子先生、これはみんなからの気持ちです」
校長先生が花束を手渡すと拍手が起こった。三年一組には全校生徒四十九人とその後ろには全ての教員が立って梨花子先生を見つめていた。
黒板には『梨花子先生ありがとうございました』の文字。その前には一脚の椅子が置かれている。椅子の横には小学校三年生の剛が照れ臭そうに立っていた。
「梨花子先生この椅子に座って」
「う、うん」校長先生にエスコートされるように椅子に近づく梨花子先生。
拍手が鳴り止まない。
梨花子先生が花束を膝に置いて椅子に座ると、剛は指揮者のように手を挙げた。静かになる教室。みんなの列に加わる宏、怜ちゃん、副校長先生。校長先生は全員の顔を見回して嬉しそうだ。
そんな中で剛は言った。
「この町を故郷だと思っていつでも帰ってきてください」
そして指揮を始めると全校生徒と全教員による「故郷」の大合唱が始まった。
♪
兎追ひし 彼の山
小鮒釣りし 彼の川
夢は今も 巡りて
忘れ難き 故郷
剛も宏も純也も決してふざけない。教室にいる全員が梨花子先生の教えどおり、心を込めて歌っている。
梨花子先生は堪えていた。涙が出そうになるのを必死に堪えていた。瞳を大きく開いて、子どもたち全員の顔を記憶に刻んでいた。
♪
如何にいます 父母
恙無しや 友がき
雨に風に つけても──梨花子先生の瞳から一粒の涙が頬を伝う。
♪
思ひ出づる 故郷
──梨花子先生の瞳から…瞳から次々と頬を伝う…
♪
志を 果たして
いつの日にか 歸らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷
──歌い終わって静寂がおそう。
梨花子先生は潤んだ瞳で教室にいる全員を見つめていた。そして椅子に花束を置いて立ち上がると拍手をした。たくさんたくさん拍手をした。
と、列から純也が歩き出てくると梨花子先生の前に立った。手には色紙や包装紙でデコレーションされ、リボンのかかった大きめの箱を持っていた。
拍手をやめて純也を見つめる。純也は箱を差し出した。
「梨花子先生に感謝を込めたプレゼントです。どこに行っても僕たちの事を忘れないで下さい」
梨花子先生は大事そうに箱を受け取った。
「子どもたちが考えてこの会を作りました。プレゼントもみんな子どもたちの手作りです。梨花子先生さあ箱を開けてみて下さい」校長先生は優しくそう言った。
ゆっくりリボンを解く梨花子先生。そして震えた手つきで箱の蓋を開ける。中に入っていたのは手作りのリリアン、お手玉、紙ヒコーキ、折り紙で作った飾り物、粘土で作った置物、イラスト、絵画、剛、宏、純也の大きな魚拓もある。全部で四十九個の手作りの品が入っていた。
剛が言う「この小学校の子どもたち全員の得意なものです。梨花子先生今までありがとうございました」
梨花子先生は箱を強く抱きしめ、瞳から溢れ出る涙も拭おうとせず、一生懸命子どもたちの顔を見回した。そして言葉にならない声で言った。
「みんな本当にありがとう」
と、割れんばかりの拍手が起こった。
誰もが梨花子先生を見つめ涙を流した。あちこちから「ありがとうございました」の声が聞こえてきた。梨花子先生は顔をくしゃくしゃにして動けなかった。
──生きる喜びを心から実感していた。
と、剛の意識は教室を離れ、廊下を抜けて、玄関に向かい、校門から出てくると、電車の中に戻っていった。座席の剛は目を開けたまま放心状態だったが、意識が戻ると正気になった。
時計塔の長針が分で言えば五十九分のところから一つ進んで、カチリ、零時で止まった。
「出発進行」運転席から声が響くと、電車はゆっくりとレールの上を走り出す。
校門と裏山が少しずつ離れていく。それとともに眠ってしまった。
9
トンネルの中の剛は目を覚ました。
か弱いルームライトが照らすレンタカーの助手席で──なんだろうこの電車の夢は? 余りにも生々しく現実感のある夢だ。通常の夢とは何かが違う。
と、何処からともなくか細い声が聞こえてきた。
「エッ…エッ…」
耳を疑った。誰かの泣き声だ。誰かが生きている。この絶望的とも思える閉鎖された空間で生きている。それも子どもだ。
「エッ…エッ…」
途切れ途切れだが小さく聞こえている。近くだ、近くに誰かがいる。
「どうした、大丈夫かい、誰かいるのかい」ありったけの声をあげた。
「頑張れ、一緒に頑張ろう、きっと助けにきてくれる。諦めないで! 」
剛は身動き出来ない、それに埋め尽くされた岩とコンクリート、自分ではどうしようもならない状況である。励ます事しかできなかった。
10
マンンションのリビングでソファに座り香織は思いを巡らせていた。香織も去年剛と結婚するまで広告代理店『爽』でアシスタントプロデューサーとして諸岡誠の下で働いていた。何度か三清山賀製薬に行った事もある。死のトンネルの事も知っていたし通った事もあった。手前にあるコンビニエンスストアで時間調整するのもいつもの事だった。
だから普通乗用車が事故に巻き込まれたと知って、すぐに不安が襲ってきた──もしかすると剛の運転するレンタカーじゃなかろうか。
九時に打ち合わせがある事は剛の電話で分かっていたし、地震の直後に電話をかけてきている。もしそれがトンネルの手前からだとすると、事故の起きたタイミングが余りにも合いすぎる。
香織は不安を拭うかのように頬を両手で叩いた。しっかりしろ香織。自分で自分を叱咤した。
その時、インターフォンの呼び出し音が室内に響いた──誰だろう。
インターフォンのモニターを見るとそこには小柄な初老の男が立っていた。
「香織か、話がある。入れてくれるか? 」
「勿論です社長」
モニターには広告代理店『爽』の安斉社長が映っていた。香織がその顔を忘れる訳などなかった。結婚式で仲人を務めてくれたし、香織の実家は九州なので二人にとっては、東京での親代りとも言える間柄だった。
程なくして玄関前に安斉は上がって来た。玄関を開ける香織。安斉社長は香織を見るなり言った。
「久しぶりだな香織、いいか気をしっかり持って聞けよ。今日起きたトンネル崩落事故は知ってるか? 」
「はい、ワイドショーで見ました」胸騒ぎがする、激しく。
「じゃあ分かるな、諸岡と剛が巻き込まれた可能性がある」
「! 」
間髪入れず安斉社長は続けた。
「今はまだ可能性があるだけだ、俺が今から現地へ行って直接確かめてくる。テレビなんて無責任に報道するから、信じるな、見なくていい。俺が電話で伝える事が真実だ。いいな」
無言で頷く香織、胸騒ぎが激しい。
「それと松永由紀は知ってるな」
「剛のアシスタントをしてくれている松永由紀さんですか? 」
「そうだ」
「勿論、私の仕事も手伝ってくれていましたから」
「こういう時は独りでいるとロクでもない事しか考えん。丁度いいからここで休ませてやってくれ、このまま独り住いのアパートに帰すのも酷だ」
香織は安斉社長の後ろを見ると俯いている由紀を見つけた。
「由紀ちゃんこっちおいで、一緒にいよう」
由紀は小さく頷くと顔を上げて香織を見つめた。青ざめた表情は暗く、目にいっぱいの涙を溜めていた。
由紀は香織に力無く寄り添うと、香織はそんな由紀を抱きしめた。
「じゃあ俺はいく。くれぐれも俺の電話以外信じるな」
安斉社長は香織の目を真っ直ぐ見つめた。優しさが隠れた真っ直ぐな眼差しこそが、『爽』に関わる全ての人を捉える人間的魅力の表れだった。
香織は強く頷いた。
安斉社長は踵を返して去った。
そして社用車を自分で運転して、事故現場へと向かった。この社員を慮るバイタリティーこそが現在の『爽』の礎となっていると言っても過言ではない。諸岡がスーツを着たサムライならば、安斉社長はスーツを着た軍師とでも形容される雰囲気を持っていた。
香織は由紀をリビングに招き入れソファに座らせた。由紀はソファの横にある揺りかごを覗いた。すると佳奈が目を覚まして由紀に微笑みかけた。
「あらおっきした」横から香織は言った。
由紀の目を見て微笑んでいる佳奈、由紀もまた純粋で屈託のない微笑みから目を離せなかった──張り詰めていた心が和らいでいく。
「香織さんと剛さんのどっちに似てるのかな? 」
「うーん剛に言わせると、剛のお父さんとお母さんを足して二で割ったみたいだって言うけど、ピンとこないわね出会った頃には亡くなっていたし」
「かわいいですね」
「めんこいって言うんだって、北海道弁で、めんこいめんこいをいつも連呼してるわ」
「はは、剛さんらしいや」由紀は微笑んだ。
「さて紅茶でもいれよっか、二人で女子会、由紀ちゃん佳奈をあやしていてね」
台所へと向かう香織、声をかける由紀。
「色々大変なのにス・ミ・マ・セ…」由紀の声が弱く消えていく。
香織が振り返るとソファに倒れ込むように眠りに落ちた。無理もなかった、矢継ぎ早に起きる出来事に気を張り詰めていたのだから──。
11
香織と剛の出会いもまた、諸岡誠が関係していた。
諸岡がとあるCMの撮影にクライアントの世話役として立ち会った。広告代理店『爽』が下請けのプロダクションに製作を丸投げした仕事だったので『爽』の立会いは諸岡だけだった。その時プロダクションマネジャーとして現場を仕切っていたのが、当時二十五歳だった江口(旧姓)香織だった。その頃香織はどこの事務所にも所属せずフリーランスとして仕事をしていた。この現場にも今回限りの契約で参加していたのである。
これまでの打ち合わせでは何度か顔を合わせていたが、現場での仕切りを見るのは初めてだった。でも、その無駄の無い動き、臨機応変の立ち居振る舞い、雰囲気の作り方といい全てに関心した。
こいつは使える──諸岡はピンときた。
諸岡は常日頃から剛と切磋琢磨できる人間が必要だと思っていたので打ってつけだった。それに年齢も同じ。剛はクリエイティブディレクター、香織はプロデューサーを目指していたので、年齢的立場的にも丁度いい。
CMが完成して一段落した頃、諸岡は香織を『爽』の近くにある喫茶店に呼び出し、剛の面接の時と同じように、会社のいいところを熱く語った。香織は初め驚いて話しを聞いていたが、次第に諸岡の人柄と『爽』という会社の社風に興味がわいた。
そして、「江口香織さんうちで一緒に仕事をしませんか、アシスタントプロデューサーとして社員になりませんか? 」の言葉に「やってみてもいいかな…」と思ってしまった。
しばらくして『爽』に入社した香織と剛は同世代ということもあって意気投合し、作品に対するお互いの思いをぶつけ合い、諸岡の思惑通り切磋琢磨する関係になった。剛は『爽』の仕事のやり方しか知らない、だからこそ外部の色々なやり方を身につけ、フリーランスとして生き抜いてきた香織の意見や仕事の進めかたは刺激的だった。
香織は香織で剛の発想力や企画力には人並み外れたものがある事に徐々に気がついていく。
しかし、お互いを認め合い、率直な意見を交わし常に一歩上を目指す姿勢は、二人とも同じだった。より良い物、より多くの人々の驚きと共感が得られる物は何なのか? 二人は追求した。
そして剛が二十七歳の頃書き上げた企画書が、諸岡の心を打つ事になった。諸岡に認められクリエイティブディレクターとして一本立ちが決まった時、香織も大喜びした。そして二人で飲みに行き祝杯をあげた後、香織は剛のアパートに泊まった。
いつの間にか二人の間には愛が育くまれていた。
香織はその時意外な物を目にした。
それはベッドで愛し合った後、水を飲みに起き上がった剛の背中を見た時だ。
背中に深掘りの五本の古傷を見つけたのだ。
「ちょっと剛、背中の傷どうしたの? 」
「これかい。子どもの頃についたらしいんだ・け・ど…」
むせかえるように息をすると吐けなくなり、呼吸困難になる剛、思うように呼吸が出来ず苦しい。そんな姿を見て不安になる香織。
剛はベッド脇に座るとゆっくり呼吸を整える。
「大丈夫? 」
「傷のこと思い出そうすると、苦しくなる。子どもの頃相当辛い思いをしたらしくてね、体が過剰に反応するんだ、もう大丈夫意識をそらしたから…」
神妙な顔つきをしていた香織は、意外な事を聞いた。
「剛の出身どこ? 」
「えっ? 北海道江別市、札幌の隣町だけど、それがどうかした? 」不思議そうに答えると香織を見た。
香織は驚きの表情を浮かべてまじまじと剛の顔を見つると、顔を両手で覆って身体を震わせた。両手で顔を覆い泣きはじめた。
「ごめん俺何か悪い事言ったかな? 」
香織は首を横に振るだけだ。そして掛け布団を頭まですっぽりとかぶってしまった。
剛はどうしていいかわからなかった。
付き合い始めて二年経った時、剛はプロポーズした、そして去年の一月に結婚。結婚を決めて諸岡に伝えた時、これまでの人生でここまで驚いたのは初めてだ! と諸岡は大声をあげた。その頃既にプロダクションマネジャーとして働いていた松永由紀をはじめ、近くにいるスタッフの間では、二人が付き合っているのが噂になっていたのに、諸岡だけは全く気が付かなかった。確かに剛と香織は付き合っている事を周囲には隠していたが、そうそう隠し通せるものじゃない。諸岡が恋愛に疎すぎるのだ。でも諸岡は自分の事のように大喜びした。
結婚式を挙げた後も二人は、クリエイティブ部の諸岡の下で働いていたが妊娠を機に香織は退職。
今年の四月に佳奈が生まれた。
香織はソファで眠りに落ちた由紀に、夏かけ布団をかけてやると佳奈が泣き出した。お腹がすいた泣き方だった。揺りかごから抱き上げて由紀の足元に座ると授乳を始めた。
母親は授乳の時間に穏やかな幸せを感じるというが、この時ばかりは幸せに浸る心境にはならなかった。常に剛の事が頭から離れない、いいようの無い不安と恐怖心がひたひたと襲ってくる。
と、おぎゃ! 小さく泣く佳奈。
佳奈の顔を見つめる香織。澄んだ瞳がじっと見つめている。心の奥底まで届くような透明さだった。
そして佳奈が小さな微笑みを浮かべた。
その微笑みは香織を包み込むようだ──香織の不安と恐怖が和らいでいく。
お腹がいっぱいになった佳奈は満足して再び眠った。そんな佳奈を見ながら香織は思った。よし、由紀ちゃんにご馳走を作ってあげよう! 冷蔵庫にあるありったけの物を使って料理をしまくろう!
12
新宿歌舞伎町の中をあてもなく走り続けた後藤は、左右をビルに囲まれた行き止まりにある四階建ての雑居ビルに突き当たった。
思いがけず足が止まり、息を切らして立ちすくむ。
そんな後藤を目に見えない何かが誘なう──降りて来て…。
「──」
不思議に思いつつ地下へと続く階段をゆっくりと降りた。
ガラス窓のついた入り口ドアのノブにはチェーンが何重にもかけられ、南京錠がかけられている。吊り下げられた木製の看板には紙が貼り付けられ、手書きで当分の間閉店しますと書かれていた。
後藤はガラス窓に顔をあてて訝しげに中を見た。
テーブルが一つに小さなカウンター。九つある全ての椅子はテーブルとカウンターに逆さにのせられ、営業していないサインを示しているようだった。
人は誰もいない。
しかし、そのカウンターの真ん中にうすぼんやりと影が見える。女性の影だ──影を凝視した。
見事なプロポーションに腰まである美しい黒髪、その影はゆっくりと後藤を見た。
思わず息を飲んだ。全身に冷気を感じる。紛れもない結城純恋だ。
「す、すみれ」そう言いかけた瞬間、影はゆっくりと消えていった。
ドアを開けようとドアノブをガチャガチャ動かしたが開くはずもない。その時背後から声がした。
「後藤さん、ここに来るのは何度めですか? 」
咄嗟に振り返る。
そこにはクタクタのスーツを着た眼光鋭い二人の男性が立っていた。
一人は背が低くかなりの年配で、声をかけたのは後ろに立っていた背が高く三十代の男性だ。年配の男性は懐ろから警察手帳を出した──後藤を尾行していた刑事だった。
「後藤さんがここに来るのは何度めですか? 」同じ事を聞いた。
「いえ、私は一度も来た事がありません」
「嘘をつくと後々大変なことになりますよ」背の高い若い刑事は言った。
「いえ、ここに来るのは初めてです」
後藤は同じ事を繰り返した。
と、年配の刑事が言った。
「いえね、前々からマークしていた店なんですわ、ちょっと問題がある店でね、中々店長が尻尾を出さないんで、今回も既に逃げ出したんでしょうね」
「はあ」
「結城純恋さんの自殺にこの店の閉店、後藤さんは生前結城純恋さんから何か聞いてませんか? 」
「はあ、なにも…」
「ではこの番号にお心当たりはありませんか? 」
年配の刑事は警察手帳に書いてある携帯電話の番号を見せた。
「さあ」
後藤は本当に心当たりがなかった。
「結城純恋さんの最後の通話記録がこの番号なんですが、持ち主が誰だかわからないんです。届け出ている住所は廃墟のビルだし、持ち主は行方不明。おそらく裏社会で売買されているものなんでしょうな、おかしいと思いませんか、こんな番号に人生の最後に連絡するなんて、どう思いますか? 」
「…」
「お話しをお伺いした俳優さんは、所属事務所ですらどこにいるかわからない。おそらくもう日本にはいないでしょう、家族のいる海外へと行ってしまったんでしょうな、おかしな話なんですが、所属事務所にすら海外の住所を知らせていないんです」
「いろいろと悪い噂もありますしね」若い刑事が言った。
「二人について知っている事があったら教えてほしいんです。捜査にご協力をお願いします」年配の刑事は丁寧に言った。
「本当に何も知りません」俯いて小声で言った。
「そうですか、いや、失礼しました。又何かお聞きする事があるかも知れませんので、当分の間はなるべく遠出しないようにお願いします。それではこれで」
刑事たちは軽く会釈するとその場を去った。
後藤はしばらく動けなかった。