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なぜ生きるか? それが知りたい(段落なしコンテスト用)  作者: 赤木 爽人
第1章「長澤 剛」 (ナガサ ゴウ)
2/8

全ての出会いが人生を紡ぐ

   1


 永澤剛は、東京都千代田区のオフィス街にある広告代理店『爽』のクリエィティブディレクターだ。

 CMやインターネット、各種広告媒体の商品イメージ作りや、販売促進アイデアの提案などに携わっている。仕事内容は企画・立案・演出・時には脚本・編集に至るまでなんでもこなしている

 今日は明後日のCM撮影を前に、プロデューサー、プロダクションマネジャー、カメラマン、照明技師、メイク、スタイリストをはじめ、それぞれのアシスタントに至るまで、全てのスタッフが集まってミーティングを行うことになっていた。

 今は午後七時を過ぎたところ、ミーティングは午後八時開始の予定。多くのスタッフがそれぞれ別の仕事を抱えているので、仕事が一段落して集まろうとすると、こうした時間になる事も珍しくなかった。


 剛はミーティングの行なわれる第一会議室で上司でプロデューサーの諸岡誠と談笑していた。二人は会社では師弟関係ともいえる間柄で、諸岡は二十年以上前から今回のクライアントである三清山賀製薬の担当だった。それを剛に引き継ぎいだ最初のCMである。

 以前は安斉社長がプロデューサーとして関わり諸岡はクリエィティブディレクターをこなしていた。しかし、三年ほど前にアシスタントを卒業し、一本立ちした剛が安定した仕事が出来るようになったので、三清山賀製薬の仕事も諸岡がプロデューサーとしての役割を引き受け、剛にクリエイティブディレクターのポジションを任せた。

 プロデューサーとはスケジュール管理や制作費の管理、クライアントの窓口、ディレクターやスタッフの選択など、制作全般を統括する。一方クリエイティブディレクターは、CM作品や各種媒体のイメージ作り、商品売り込みのイメージ戦略の構築、販促物の提案などのアイデアを構築して、演出上の責任を持つ、簡単にいうとそういう責任分担だ。

 剛は三十歳、諸岡は四十九歳、剛の父親代わりと言って差し支えないくらい公私共に付き合いが深かった。だが諸岡誠は結婚していない。仕事に没頭した挙句できなかったと言っているが、女性に気持ちを伝えるのが滅法下手なのも事実だ。

 クライアントの三清山賀サンセイヤマガ製薬は日本有数の製薬会社である。中堅どころの広告代理店『爽』にとって、売上といい仕事の規模といい最上位に位置する企業の一つ。

 三清山賀製薬との付き合いは社長の安斉爽が地元群馬の大学生で、三清山賀製薬の配送のアルバイトをしていた頃にさかのぼる。現在の三清山賀製薬の山賀社長も、実家の手伝いと称してアルバイトをしていた。毎日顔を合わせるうちに意気投合し、一緒にバンドをやってみたり飲み歩いたり、遊びにいったり、時には羽目を外し、時には励まし合いながらお互いを切磋琢磨するのにいい関係を築いた。

 卒業後安斉は東京に出て映像業界で働き、山賀は父親の会社──三清山賀製薬に入社した。


 その後十年程経って安斉がディレクターとして一本立ちしたころに、三清山賀製薬の前社長が倒れ息子が社長になり、昔のよしみで手伝って欲しいと連絡があったのだ。


 その頃三清山賀製薬は、医療機関向けだけだった製薬事業を拡大し、家庭向けの常備薬から、マスクやサポーター、スポーツドリンクといった分野にまで手を出そうと計画していた。

 相談を受けた安斉社長は一念発起し、古くからの良き友を助けるべく広告代理店『爽』を立ち上げ、ブランドイメージから、広告、商品開発まで幅広いサポート体制をとった。その助けもあって三清山賀製薬は国民に広く名前が知れ渡るようになり、日本有数の製薬会社に成り上がった。そのプロジェクトの中心的な役割を果たしてきたのが、諸岡誠である。


 そして今、永澤剛にその遺伝子を引き継ごうとしていた。


 第一会議室には長テーブルが枡形に並べられ、三十程のパイプ椅子が置かれている。諸岡誠と永澤剛が座っているのは、窓際中央のテーブルだ。


 二人の視線の先にはテキパキ動くプロダクションマネジャーの松永由紀の姿があった。


 プロダクションマネジャーは制作を円滑に進める為に様々な事をしている。プロデューサーやディレクターのアシスタントをしたり、各種の連絡役だったり、ミーティングの資料を作ったり、現場を仕切る事もある。こまごまとした雑用の多い仕事だ。

 今は、ミーティングを前に長テーブルの上に人数分の資料を並べていた 。

 松永も諸岡の弟子だ。映像の専門学校を出て『爽』に就職してそろそろ三年。理論ばかりで頭でっかちだった由紀を実戦で鍛え、仕事とはなんたるか? を同時に叩き込んだ。


 諸岡誠は会社ではスーツを着たサムライの異名とっているほど、熱い男だ。


 由紀も元々負けず嫌いだったので歯を食いしばって諸岡についてきた。もちろんその間、剛も直接関わるクリエイティブディレクターとして、プロダクションマネジャーの仕事のこなし方を一から教えた。諸岡からは精神論、剛からは技術を教えるといった分担がなされていた。特に明確に担当を決めた訳ではなかったが、いつの間にかそんな雰囲気になっていた。

 お陰で今となっては、松永由紀は的確で仕事が早いと評判のプロダクションマネジャーとなった。


 第一会議室には七時半を回ったころから、三三五五スタッフが集まり始めた。スタッフは諸岡や剛と軽い挨拶を交わすと由紀に案内されて椅子に座る。


 そして八時丁度にミーティングは始まった。


「それでは明後日のスタジオ撮影に向けて、最終のオールスタッフミーティングを始めたいと思います。まずはクリエイティブディレクターの永澤剛から撮影内容の確認を行いますので不明な点があれば質問をして頂いて結構です」由紀がそう言って剛に引き継いだ。

 剛は頷くと話し始めた。

「今晩は、クリエイティブディレクターの永澤剛です。皆さん社員だったり顔見知りの外部スタッフばかりなので、自己紹介はいらないですが、とうとう僕も三清山賀製薬まで上り詰めたので、以後よろしくお願いしますです」

 盛大な拍手が湧き上がった。「よっ大将」変な掛け声まで飛び交い、盛り上がった。

 まるで家族のようだった。誰もが剛を暖かく祝福した。ここにいるスタッフ全員が、三清山賀製薬担当のクリエイティブディレクターをする事が、どれだけ重要な事か分かっているのである。

 社長の安斉は常日頃から、社員も外部スタッフも家族のように付き合う事を徹底していた。その徹底ぶりが仲間の喜びを自分の事のように喜ぶ社風を作り上げた。

 人は誰でも欠点がある、欠点を指摘するのは簡単だが、時にはぶつかり、時には同調し、お互いの欠点を長所に変えていく努力をしてこそ作品の質が何倍も良くなる。その為には家族のような付き合いが大切だ──それが安斉の経営哲学だった。


 剛はにこやかに笑顔を振りまきながらも本題に入っていった。

「さて今回の三清山賀製薬さんの新商品ですが、もう皆さんも知っているとおり、他社に押され気味のスポーツドリンクの売り上げを一気に巻き返そうというものです。その為とことん爽やかな飲み口にこだわっています。そこで私たちが提案したのが『はじける! パールの爽快感!』という切り口です。これがCMを始め、紙面媒体、販促物、試飲キャンペーン、スポーツイベントの後援等、商品イメージ作りの全ての切り口、そしてキャッチコピーにもなるので、もう一度徹底したいと思います」


 三清山賀製薬は社運を賭けて、新商品の売り込みに巨額の予算を掛けている。その全てを広告代理店『爽』一社で請け負っているのだから失敗は許されなかった。その結果提案された切り口━━統一イメージこそが『はじける! パールの爽快感!』だった。


 横にいた諸岡誠は堂々と打ち合わせを進めていく剛の態度に目を細めていた。父親代わりとして剛の成長が嬉しかった。

 それに、切り口にこだわって商品のイメージ作りを進めるのは諸岡が徹底的に教え込んだ事でもある。


   2


 剛と諸岡が出逢ったのは、剛が大学の就職活動で広告代理店『爽』に面接にきた時だ。面接官が諸岡と安斉社長、人事部の部長だった。


「失礼します」剛がリクルートスーツで面接会場に入ってきた。奇しくも今日と同じ第一会議室をパーテーションで半分に区切って長テーブルが二つ置かれていた。そこに三人が座っていた。

「お座り下さい」

 右端の人事部部長がそう言った。

「はい」フロアの真ん中に置かれた椅子に座る。


 誰だこれ?──諸岡の第一印象だ。


 社長と人事部部長はバリっとしたスーツで、穏やかに剛を見つめていたが、真ん中の諸岡は、ボサボサ頭に無精髭。眼光鋭く座っていても筋骨隆々で背がそこそこ高いのがわかる。ヨレヨレのダークスーツを着こなし? ワイシャツの袖と一緒に腕まくりしている。

 ネクタイこそしているが首のあたりはユルユルだ。大物感はありありと出ているが、面接とは別の意味で緊張感がある。そう武道の稽古に来た新人に接する超ベテランのような威圧感たっぷりなのだ。

 そんな諸岡をよそに、人事部部長は志望動機や、この会社でどんな事をやりたいか? そんな質問をしてきた。

 剛は出来るだけ丁寧に自分を売り込んだ。

 映像に興味があり、映画が好きで、どうしても演出方面に携わりたい、美術大学で映像学科を専攻し、数多く映像作品を発表しコンテストでも賞をとっている事を伝えた。

 社長と部長は比較的穏やかに応対をしていたが、諸岡は違った。剛の頭の上を苦虫を潰した顔で見つめ、剛が答え終わると突然話し始めた。

「永澤剛君」その声は野太く熱かった。

「は、はい」

「この会社は技術、演出、製作、営業、デザイナー、事務、総務、人事部、全部入れても社員百名程の小さな広告代理店ですが、フットワーク軽く、また、人と人の繋がりを最も大切にしている会社です。外部スタッフもみんな良い奴ばかりです。それも社長が関わる全ての人間は家族であると言い切って仕事を進めるからです。だからこそお互いを信頼して思い切って自分をさらけ出し、お互いをそして仕事の質を高めています。クライアントもそれを分かった上で仕事を発注してくれます。永澤剛君! 」

「は、はい」

「ウチはいい会社です。いろんな事が自分の発想で自由にやれます。でもそれは一人一人が自己責任の意味を知っているからです。勿論、失敗しても会社を辞めさせるような事は一切しません。失敗した次こそ、本当に飛躍出来るのをみんな知っているからです。永澤剛君! 」


 段々と諸岡の声が大きくなり、手に面接表のペーパーを丸め持ち、剣のように振り回すと剛に向けた。


「は、はあぃ」甲高い声が出た。


「演出とは関わる全ての人、営業、技術、勿論クライアントに至るまで、関わる全ての、全ての人の思いを受け取る器が必要です。センスなんて二の次です。いい企画、いい切り口、その根本さえ揺らがなければ、多くの人が関われば関わる程、ドンドンいいものに仕上がっていきます。我が社のスタッフはその事を知っているからこそ、我が社に携わり仕事をこなしてくれるんです」更に熱を持って会社の様子を語る諸岡。


 諸岡自身もどうしてこんなにも剛が気になるのかわからなかった。


 しかし、剛が学生の頃死別した両親らしき声が、諸岡の心に訴えかけているのを感じていた。剛をよろしくお願いします──諸岡は胸の中が熱くなった。

 そのせいで面接官と就職活動に来た学生が逆転したかのように、諸岡の熱い語りは二十分以上も続いた。社長と人事部部長はその両脇で諸岡と剛の顔を交互に見ている。


「永澤剛君! 」更に大きな声になる。

「はい」

「永澤剛君! 」

「は、はい」ガタン! その声の迫力に、椅子から立ち上がり直立不動になる剛。

「永澤剛君」

「はい!」元気な声で応えた。

「僕と一緒に仕事をしてくれますか? 」

「ええっ? 」──拍子抜けして驚いた。

「諸岡は君を気に入ったんだよ」

 安斉社長が笑いながらそう言った。

「我が社で一緒に仕事しませんか? 」

 諸岡の声は力強かった。

「はい! 」

 剛は勢いに飲まれ返事を返した。

「よし決まり! 諸岡がそういうならしょうがない。採用!」

 人事部部長が呆れたように言った。

「ワッハッハ…諸岡が初対面の男にこんなに熱くなるとは面白い。さあ永澤君。我が社はこの場で内定を出します。前向きに考えてくれませんか」穏やかな口調で安斉社長が言った。


「は、はあ」


 こうして広告代理店『爽』に入社する事になった。


   3


 諸岡は入社した剛に自分が学んできた全てを教え込んだ。プロダクションマネジャーとしての仕事に加え、自分が提出する企画書は剛にも書かせて添削した。将来の自分を思い描かせ、ディレクターとしての物の見方を叩き込んだ。その中でも、特に重要視していたのが企画の切り口だった。


 入社三年目の時、剛が持ってきた企画案を読んで諸岡は怒鳴り散らした事がある。


「駄目だ駄目だこんな切り口じゃ全く駄目、クライアントに見せられっかってんだ」

 そう言いながら諸岡は企画案を丸めて剣のように振り回した。

 ムッとする剛、「でも諸岡さん内容には自信があります」

「お前の思いだけでつらつら書いても、スパッとした切り口でクライアントを取り込まないと全然駄目なんだよ、こんなんやり直しだ」

 縦に横に、スーツを着たサムライは、丸めた企画案を剣のように振り回す。

「諸岡さんはいつも切り口、切り口って言いますけど、なんですかソレ」

「馬鹿たれ! そんなん教えられるかってんだ、企画の骨子を、斜めに切るか、縦に切るか、はたまた円を描くように切るか、逆さまから切るか、剛はどれが正解だと思う? 」

「…」

「ああー」

「分かりません」

「こらっお前は大学出てうちに来て、何年になるんだ」

「三年です」

「三年もやってるのにまだ分からんのか」熱くなる。

「分かりません」

「ほんっとに、全部正しいんだよ」

「はぁあ」

「いいか、大切なのはクライアントが意図する事を消化して、自分の中から滲み出てくるものをどう形にするか? それによって切り口は何通りも正解がある。でもな、切り口がスパッと滑らかにかつ明快に切れてないと、ぜんぶ不正解だ。覚えとけ」

「…」

「やり直し」

 諸岡は企画案で剛を突くように突っ返した。

「はい」

「それより剛、今夜時間があるか? 」

「…はい」

「今夜飲みに行くぞ、安心しろ、仕事の話しは一切しないから、分かってるだろうが俺のポリシーは、真面目に仕事、仕事以上に真面目に遊べ! だ」

 ニヤリと笑う。

「ハイハイ分かりましたぁ」


 その言葉通り諸岡は仕事以外にもいろいろな事を剛に教えた。酒の飲み方を始め、カヌーや渓流下り。登山にキャンプ、麻雀に競馬、釣りに、スカイダイビング…今まで経験してきた趣味に連れ回した。最初は面倒臭さがっていた剛も徐々に引き込まれ、諸岡に対して大きな信頼感を持っていった。

 こうした経験を通じて諸岡が教えたかったのは、あらゆる物事をすぐに否定肯定するのではなく、まずはどんな事も受け入れ消化する事だった。消化とは受け入れた事柄を自分の言葉で把握し、それについて自分ならどうするか考え身に付ける事にある。

 どんな仕事であれ出来事であれ人と人、また物と人、自然と自分といった出逢いがないとなにも生まれない。自分が好もうが嫌おうが、出逢いは突然やってくる。出逢った事を否定すれば、それ以上成長しない。また、表面上の肯定だけで、それを自分の物にしなければこれも成長しない。

 それに、一つの仕事上の出逢いがその仕事だけに役立つというものでもない。次の仕事の伏線だった事もあるし、趣味で体験した事が仕事に反映する事もある。出逢いの中で撒いた種がどこで実るか?──人はだれも予測できない。諸岡はその事を人生の荒波の中で実体験として身に染みていた。

 諸岡が広告代理店『爽』でトップクリエイティブディレクターとなれたのは、あらゆる出逢いに真摯に向き合い消化する姿勢を貫いてきたからだ。

 依頼された仕事をより良い物にするため、消化して身に付けたあらゆるものの中から、自然と滲み出た答えを惜しげもなく活用する。その上で表現者としての切り口を巧みに使い分け作品として完成させ、それを見聞きした不特定多数の相手の心を掴む。

 それを分かって欲しかった。だからどんな打ち合わせでも剛を同行させ、私生活でもどんどん新しい人に逢わせた。自分の持っている人脈を活用して、とにかく出逢わせ、そして自分の言葉で話しをさせた。


 剛も元来素直な性格で、あらゆる経験を受け入れ前向きに消化していった。そしてそれをどう自分なりに活用するべきか試行錯誤を重ねた。自分が納得するまで何度も企画書を書き直した。表現者として仕事をする以上は、伝えるべき相手に意図が伝わらない限り自己満足でしか無い。


 そうした努力が実りはじめたのが入社六年目だった。剛が持ってきたとある企画書に諸岡は心を揺さぶられた──これならいける。

 自分が見抜いた適性が間違がっていなかった事を実感した。

 諸岡は直ぐに剛をクリエイティブディレクターに抜擢した。

「俺が責任を取ります」

 安斉社長にそう言い切り、スーツを着たサムライは戦う決心を決めた。

 周囲に剛の存在が認められるにはさほど時間を要しなかった。

 剛は、諸岡が見抜いた通り柔軟でシャープな感性と周囲を取り込むカリスマ性を持ち合わせていたのである。諸岡は規模やカテゴリーに関係なくあらゆる仕事を与え、剛も必死に喰らいついた。

 そして剛が三十になったのをきっかけに、三清山賀製薬という広告代理店『爽』にとって最重要クライアントの仕事を任せるに至った。


   4


     ※ 


 運命の選択は常に偶然を装って訪れる。


     ※


 最終スタッフミーティングは続く。

「では、撮影内容と当日のスケジュールの最終確認に移ります」

 剛は絵コンテを見ながら説明を始める。

「さて今回のイメージキャストですが、CM撮影を皮切りに販売促進イベント、ポスター、等身大の販促物、街頭看板など、あらゆるシーンで関わってもらう事になっています。僕が数多くの候補から選び出し、この人しかいないと企画書に書き入れた候補を、安斉社長と諸岡さんが何度も所属事務所と掛け合って実現させてくれました。

完全極秘事項として今までメイク兼スタイリストの寺尾さん、カメラマンの大木さん、由紀しか知りませんでしたが、これから解禁します。

イメージキャストはあの、老若男女知らない日本人はいないとさえ言える、国民的アイドル結城純恋さんです」


「おおー」


 ドッと湧き上がる第一会議室。自然と拍手が起こる。それだけインパクトのある起用だった。子供から大人まで男女問わず愛される結城純恋の清純でクレバーなイメージに、スポーツの要素が加わると、新商品のスポーツドリンクのイメージは突出する。そこにいる誰もがこのCMの成功を思い描いた。


   5


 午後十時になった。

 第一会議室の片づけを終えた諸岡、剛、由紀の三人はクリエイティブ部の片隅にある打ち合わせコーナーで雑談をしていた。


「由紀今夜どうする? 」剛が言った。

「そうですね、撮影用の備品を今日中に整理しときたいので、多分泊まりですね。第一会議室の片隅が私の寝室です」

「寝袋新しいの制作費で買っていいぞ、ダニだらけだろ、痒くない? 」テーブルの隅でテレビを見ていた諸岡が言った。テレビは三清山賀製薬が提供するグルメ番組を放映していた。

「下に敷くクッションも買っていいっすか」

「おお、許す」

「本当、いいんですか? ラッキー明日ネットで買おうっと」嬉しそうな由紀。

「あれ俺が使ってたやつだから、もう古いよな」剛が言った。

「一応虫干ししてるんで痒くはないですが、綿がもうヘロヘロです」

「伝統の一品だ」

「そうだ、佳奈は元気か? 」諸岡が思い出したように言った。


 佳奈とは生まれて三ヶ月になる剛の娘だ。


「もうめんこくて食べちゃいたいです」

「香織さんの調子はどうですか? 」香織は去年結婚した剛の妻だ。結婚するまでアシスタントプロデューサーとして『爽』で働いていた。諸岡の部下でもあり由紀も何度も一緒に仕事をした。

「すっかり元気、出産の時あれだけ苦しんだのに今じゃケロリとしてるよ。寝不足だけど」

「女は強い、想像できん」諸岡が言った。

「あー早く帰って佳奈にチューしよう」

「ああ、帰れ帰れとっとと帰れ」

 とその時画面にニュース速報が入った。

「目指せ円満退社! 」由紀が言った。

「ははは」笑顔の剛。


 そこに諸岡が大声で割り込んだ。


「おい、テレビ見ろ」

 何事かとテレビをみる剛、由紀。テロップが画面に映っている。

『ニュース速報 今日午後八時半頃 タレントで歌手の結城純恋さん(二七)が 自宅マンションから飛び降り 死亡しました』


 三人は凍りついた。


「マジかよ」剛が呟いた。

 画面に釘付けになった。

「おい由紀、後藤さんに電話をかけろ、確認しろ」

「は、はい」ポケットから携帯電話を取り出し、ダイヤルする由紀、指は震えている。呼び出し音はするが繋がらない。

「由紀、出るまでかけ続けろ」

「は、はい」

 と、その時、諸岡の携帯がなった。安斉社長からだ。

「はい諸岡です」

「速報見たか? 」

「ええ」

「本当か? 」

「今、マネージャーに確認中です」

「今回のプロジェクトは何億もの金が動いている、くれぐれも三清山賀製薬がつむじを曲げないように丁寧に対応してくれ、場合によってはワシも先方に行く」

「分かりました、まずは俺たちで先方に行ってきます」

「朝一で行けるか? 」

「今から出れば大丈夫です」

「頼むぞ」

「はい」

 電話を切る諸岡。

「剛、すまんな帰れなくなった。レンタカーを借りて来てくれ、これから群馬まで行くぞ」

「はい」

 そう言うと打ち合わせコーナーを出て行く剛。

 と、由紀の電話が繋がった。

「もしもし、後藤さんですか」

「は、はい後藤です」後藤は薄暗い警察署のロビーでソファに座わっていた。

「松永です爽の松永です。今テレビで純恋さんが亡くなったニュースが流れてたんですが、本当ですか? 」

「あ、あの…純恋が、純恋の頭が壊れて、血が一杯出て、アスファルトに叩きつけられて、うわああ、動かない、動かないんです。

どうやったら動くんですか、僕はどうしたら純恋を助けられるでしょう、飛び散った脳味噌はどうやったら元に戻せるんでしょう、あああああ…」錯乱する後藤。

 由紀は携帯を耳から離すと、力無く身体を椅子にもたれ電話を切った。虚ろな目からは涙が溢れた、止めどもなく溢れ、身体中が小刻みに震え始めた。諸岡が由紀にいった。

「間違いないか──」

 由紀は溢れる涙を拭おうともせず目を閉じると、何度も頭を縦に振った。

 松永由紀はプロダクションマネジャーとして後藤とは連絡を密にしていた。そして、打ち合わせでは常に結城純恋のそばにいて、何かと世話を焼いていた。

 それだけでなく、心を通わせる為にテレビ局の控え室に差し入れを持っていったり、話し相手になる事もあった。とにかく由紀は、純恋とスタッフの距離を縮め、撮影では純恋に伸び伸びと演技をしてもらえるように、何かと理由をつけては会いに行き顔なじみになれるよう努力していた。


 茫然自失──諸岡はそんな由紀に声をかけた。


「今日はビジネスホテルをとってゆっくりお風呂にでも入りなさい。俺がそのくらい出してやるから」

 堪え切れず声を上げて泣き出す由紀。

「後の事は俺と剛でなんとかする。とにかくゆっくり休みなさい」

「う…うん」  

 由紀の頭を撫でる諸岡。

「明日でいいから、撮影中止の連絡を各所に入れておいてな、俺たちはこれから群馬の本社工場に行って朝一で社長に会ってくる。なーに付き合いは長いからなんとかなるさ」


   6


 一時間ほどして剛と諸岡はレンタカーで三清山賀製薬群馬本社へと出発した。


 三清山賀製薬の群馬本社は数年前に現在の場所に移転し、本社機能、生産工場、研究所が一つの山の中にある。『爽』のある東京都文京区からだと首都高速道路──関越自動車道──上信越自動車道下仁田インターチェンジ──一般道を走ることになる。


 レンタカーの運転席では剛がハンドルを握っている。諸岡は助手席だ。

「高速道路で二時間、下道で二時間ってとこか? 」諸岡は言った。

「そんなところですね」

「始業は九時だったよな」

「ええ」

「朝一で社長に会えるか──」

「大丈夫です」

「剛、充分時間はあるから無理するなよ、運転途中で代わるからな」

「アシスタント時代に諸岡さんにたっぷり鍛えられているからこれ位どうってことないっす」

「馬鹿! あの頃とは状況が違うだろ、奥さんに産まれたての赤ちゃん、お前に何かあったら一生香織に恨まれるわ」

 レンタカーの時計は既に十二時を回っていたが、フロントガラス越しに見える東京は、ネオンの灯りや、酔っ払いなどでざわざわしている。道路では夜間配達のトラックとタクシーがまるでサーキットの様に先を急ぐ、剛の運転するレンタカーはその間を走り抜けると、首都高速道路の入り口へと滑り込んでいった。

 と、聴くともなくかけてあった車内ラジオからニュースが流れた。

『昨夜八時半頃、タレントで歌手の結城純恋さんが自宅マンションから飛び降り亡くなりました。二十七歳でした。部屋には覚醒剤が残されており、警察では事件と自殺の両面から捜査しています』


「覚醒剤だと」語尾を荒げる諸岡。

「製薬会社のイメージキャストが覚醒剤じゃ、洒落にならん」

「──」

 窓外を見つめる諸岡。高層ビルがいくつも現れては消えていく。

「しかし撮影日直前にクライアントに頭を下げにいくなんて思わなかった。こんなの初めてだ」

「俺だってそうですよ。何やってんでしょうね」

「なあ剛、人生はままならないもんだな」

「全くです」

「しかしあっけないのう、飛び降りたら一瞬で全て終わり。こういう幕引きがされるとは思わなんだ。そういう俺も五十過ぎてからの人生を俺自身イメージできないのは確かだ…ひょっとして死ぬの? 」

「ちょ、ちょ、諸岡さんには長生きして貰わないとこまります」

「何で? 」

「何でって! 親父もお袋も四十九で亡くなっています。諸岡さんも同じ歳で死ぬんですか? 俺は絶対に嫌ですからね」

「そういうもんかな」

「物騒な事言わないで下さい、全く、こんな時に」

「──」


   7


 ──両親の死。


 それは、剛が東京の美術大学映像学科二年生に進級した五月だった。

 いつもの仲間たちとビリヤードを楽しみ、午後十一時頃一人でアパートに帰ってきた。すると、アパートの前にパトカーが停まっていた──赤色灯は点いていない。怪訝そうにやり過ごし、アパートの鍵を開けようとした時、背後から声がした。

「永澤剛さんですね」

 振り返ると二人の制服警官が立っていた。

「そうですが、何か」

「ちょっとお聞きしたい事があるのですが」

「…」

「永澤剛さんは北海道江別市のご出身ですよね」

「ええ」

「念のためお父さんとお母さんのお名前をお聞きしていいですか? 」

「永澤正と永澤和美です」


 顔を見合わせて頷く二人の警官。一人が神妙な顔で剛を見た。


「気をしっかり持って聞いて下さい」

「はあ」

「先ほど江別警察署から連絡がありまして、本日午後九時頃ご両親が交通事故にあい、息を引き取りました」

「何ですか? それ」

「先ほどご両親が亡くなりました」

「ほ、本当ですか? 」

「はい、申し上げにくいのですが本当です」

「! 」

 剛は意識が薄れ倒れかかった。咄嗟に警官が身体を支えた。

 それはコンビニエンスストアでの買い物帰りだった。横断歩道を歩いていて信号無視をした車に跳ねられた。二人とも即死だった。加害者は酒気帯び運転だったらしい。

 一人っ子だった剛は、家族全員を一瞬で失いひとりぼっちになった。


 剛は北海道江別市の外れにある山里の出身で、両親はその頃も同じ家に住んでいた。江別市は札幌市の隣街である。


 実家に帰ると、すぐに警察への対応、遺体の引き取り、お葬式の手配などあらゆる事柄が一気に展開した。剛も怒りや哀しみを堪えてひたすらやるべき事をこなした。余りにも悲惨な出来事にこなす以外何もできなかった、訳も分からず堪えるだけだった。そして身近な親戚だけでひっそりとお葬式をあげたが、さすがに出棺の時は棺にもたれて大声で泣いた。

 剛は初七日がすんでも東京へは戻らず、実家の片づけをしなければならなかった。

 庭付きの一軒家は一人でいるとガランとして広い。放り出されたままの新聞、衣紋掛けに吊るされている薄手のコート、テーブルに置かれたお盆の上の二つの湯呑み、父親のタバコとライターに灰皿、母親の老眼鏡…リビングのソファに座っていると今にも両親の声が聞こえてきそうだった。

 事故の前夜、剛は実家に電話を入れ父親と話しをしている。

「仕送り入ってたありがとう」

「元気でやってるか? 学校はどうだ」

「今、西洋美術史の授業受けてるんだけど超面白い。それに冬休みに撮影した短編映画がショートフィルムのコンテストで最優秀賞をもらったぜ」

「ああ、いかったな」

「そっちはどう? 」

「今年は雪が多かった、ようやく全部解けたべ」

「夏休みには一度帰るから待っててな」

「分かった。母さんに代わるか? 」

「これからバイトだからまた電話かけるよ、そう言っておいて」

「分かった、したらな」

「うん、したっけな」

 今思えば、あの時母親の最期の言葉を聞いておくべきだった。後悔の念が取り巻く。

 のほほんと気ままに大学生活を送っていた剛に、次から次へと現実の荒波が押し寄せて来る。何をどうするべきか、自分はどうすればいいのか? 混乱する頭、悲しみと怒りで錯乱する心、次第に視界が涙で歪んでくる。

 その時、玄関の呼び出しベルが鳴らされた。

 ピンポン! 無機質な音がリビングに響く。涙を拭うと玄関へ向かった。

「はい」

 ドアノブを回し玄関を開けると見慣れない同世代の男が二人立っていた。

「俺だよ俺」

 ひょろりと背の高い男性が勢いよく言った。

「…」わからない。

「宏に、俺は純也だべや」今度は筋骨隆々の背が低い方が応えた。

「宏に純也? 」

 二つの顔を凝視する剛。脳裏に小学生の頃の情景が蘇って来た。

「高橋宏に伊東純也か? 」

「そうだべや! 」二人は同時に応えた。

「すんげぇ久しぶり」

 三人は久しぶりの再会に肩を叩き合った。

「新聞で事故の記事読んでさ、少し落ち着いてから行こうって純也と話しして、今日きてみたんだ」宏が言った。

「酒でも飲むべ」純也が言った。

 手には酒やおつまみがたくさん入った袋を持っていた。


 高橋宏と伊東純也は小学校の同級生だった。一クラスしかなく、六年間一緒のクラスで悪ガキトリオとしていつもつるんで遊んでいた。中学も同じ中学校に通いクラスが違っても仲の良い友達だった。

 剛の実家のあるこの町は、観光地でもなくベッドタウンでもなく、山に川、田んぼに畑がいっぱいの田舎町だったから、三人は渓流釣りが一番の遊びだった。釣りに飽きると川に入って泳ぐ。冬は雪深くなるので、雪合戦に沢スキー、家の中でゲーム。そんな小学生だった。

 宏と純也が仏壇に手を合わせた。そして三人でリビングのソファに座った。

「ずっと連絡なしでいるから心配してたべ。まずは健康そうでよかった」宏は持って来た物をテーブルに並べながら言った。

「そうだべや、剛が札幌の高校に越境入学して東京の美大いっちまって、全然帰って来ないから、宏と会いたいなって話してたんだ。俺は高校出て札幌で就職して、宏は札幌の大学行ってっから、しょっちゅう会ってるべや」純也が言った。

「悪かった」

「いい、いい、美大って難しいんだろ、なまら頑張ったな」

「今日は、何でも聞いてやるべって話してきたんだ。俺たちでよかったら色んな事ブチまけろ、そしてまた東京に戻らないといけないっしょや」宏が言った。

「ありがとう」剛の声は震えていた。

 自然と涙が溢れてきた。

「おいおい、気にすんな。それくらいしかできないっしょや、俺たちにはよ」


 その夜、宏と純也は剛の実家に泊まった。

 そして夜通し語り、酒を飲んだ。


 小学校の頃の悪戯や、同級生の話題など尽きる事がなかった。その中でも、小学生三年生の時のクラス担任だった加藤梨花子先生の話題は熱が入った。なぜなら、三人とも梨花子先生が大好きだった。

 しかし、三学期が終わるとともに学校を辞めてしまった。クラスメートは誰一人として行き先を知らされていなかった。


 剛は宏と純也に言った。


「俺さ、梨花子先生との思い出で一番印象に残っているのが、おんぶされて病院に連れて行かれたの、でもなんでそうなったのかさっぱり思い出せないんだ、思い出そうとすると息苦しくなるし──純也と宏は何か知ってる? 」

 宏と純也は目配せした。知っていた、何があったのかは全て知っていた。

「覚えてねえな純也」

「ああ、全然思い出せん」

「そっか、背中の傷と関係あると思うんだけど、全く思い出せない」


 剛の背中には三十センチ程のミミズが這ったような形の傷が五つついている。小学生の剛は傷に関する事を思い出そうとすると、身体が過剰に反応して、息苦しいというより息ができなくなる程になった。それは大学生になっても変わらない。二人はそんな様子を見ると痛々しかった。

 だから小学生の時から二人は何も言わなかったし、剛もその事を考えないようにしていた。


「親父とお袋さ、俺が大人になって苦しまなくなったら、その時何があったのか教えてくれるって言ってたのに、もう聞けなくなったじゃないか」

 下を向いて肩を震わせた。

「我慢すんなよ剛」宏が言った。

「宏も俺も剛も二十歳になった。もう子供じゃないっしょ。我慢しないで思いっきり泣けや、泣くだけ泣け」

「そうだべ、ブチまけろ、今日は聞きに来たんだ」

 剛は顔を上げた。そこにはあの頃から、一まわりも二まわりも成長した宏と純也が真っ直ぐな目で剛を見つめていた。

 そして堪え切れなくなり、震える声で取り留めない両親の話を始めた。二人も両親の事はよく知っていたから、時々相槌を打ちながら話を聞いた。  


 そしていつの間にか、宏と純也も涙目になっていた。

 剛は、風化していない友情の絆に感謝していた。この夜が無ければ立ち直りはもっともっと先になっていただろう。

 二ヶ月程実家に留まった後、東京に戻り大学に復学した。


 そして、両親が掛けていた生命保険の保険金が入ってきた。加えて少なく無い額の慰謝料も入ってきた。そのお陰で、普通の大学生よりは生活に追われる事もなく、アルバイトもしないで勉強に集中できた。両親への恩返しとばかりに勉学に勤しんだ。将来の目標に向けて仲間と映画も作った。その結果美大学映像学科を首席で卒業した。

 だから、もっと大手の一流広告代理店からの誘いがなかった訳でもない。

 だが剛は『爽』を選んだ。というより就職活動一社目の、面接で出会った諸岡誠というスーツを着たサムライに惹かれたのである。


   8


 レンタカーは、首都高速道路を後に関越自動車道へと入っていった。時速九十キロをキープしつつ順調に距離を伸ばしている。高速道路には大型の長距離トラックが前後左右を囲むように走る。巨大な車体を猛スピードで走らせ先を急いでいる。

 剛は一番左の車線を走り、トラックと絡まないように気をつけていた。

 それでも、道中何処かで事故が起きないとも限らない。日本の高速道路は一箇所事故があると直ぐに渋滞が始まる。三清山賀製薬の始業時間に間に合わす為には、早めに工場の近くまで行っていたかった──高速道路では休憩を取らないつもりでいた。


 車内では三清山賀製薬にどういう態度で打ち合わせに望むかを話しあっていた。ある意味二人は阿吽の呼吸なので、諸岡が主導権を握り打ち合わせを進行して、剛が節々でフォローを入れる。そんないつものパターンは確立しているが、今回の場合は何時もと状況が違うので、慎重に慎重を重ねて進めないといけない。

 ただ不幸中の幸いな事にキャスティングを極秘で進めてきたためプレス発表をしていなかった。勿論、三清山賀製薬の山賀社長と広報部の社員は誰が出演するかは知っている、だからこうして三清山賀製薬まで行くのだが──お陰でこれから展開するキャンペーンにケチが付くのは防げた。一度ケチがついた広告は、他のタレントが出演したがらないので、そういう意味ではこのプロジェクトの仕切り直しをしやすかった。

 しかし商品の発売日は決まっている。

 発売日に向かって商品の生産も小売店への売り込み戦略もスケジュールが決まっている。

 『爽』が関わるイベントやキャンペーン会場のスケジュールも勿論決まっている。ゆっくりなどしていられない。

 二人の最大の悩みは、結城純恋に匹敵するキャスティングを誰にするかだった。工場に着くまでには何名か名前をあげておく必要があった。今までの繋がりをフル活用して、候補をあげては吟味し、また別の候補をあげては吟味する。この繰り返しだったが、なかなか結城純恋のような清純でクレバーでスポーティなイメージを持ち、かつ、歌って踊れて、子どもから大人まで幅広い層に知名度がある国民的な人気者は出てこない。


 多方面に影響力を持つ結城純恋は、他の追従を許さない、誰もが認めるビッグネームだったのだ。


 しかし、関越自動車道を抜け、上信越自動車道下仁田インターチェンジが近づくにつれ、二人には一つの結論が見えてきた。それはダブルキャストの提案だった。

 おのおのタレントイメージが違う二人のキャストを起用し、お互いのイメージを補足させることで幅広い層の顧客を取り込もうとするものだ。

 そうした視点で考えていくと、面白くなりそうな組み合わせは幾つか思い当たった。所属事務所は今までの実績から、頼み込めば了承がとれる関係でもあった。


   9


 レンタカーは下仁田インターチェンジの出口で高速道路を降り、山道を入って行った。もう直ぐ夜が明ける。日の出までにある程度山道を進み、四号トンネルの手前にあるコンビニエンスストアの駐車場で休憩するつもりでいた。

 コンビニエンスストアの駐車場から三清山賀製薬の正門までは二キロくらいだからそこまで行けば安心できる。打ち合わせに何度か車で来た事があったので、この辺りの土地勘は持っていた。

 山道といっても、幾つかの山の麓を通り抜け、国道に繋がるようにして造られている道路なので、コーナーは多いが急な坂道という訳ではない。

 平成に入ってすぐに国道まではほぼ一直線のバイパスが出来たので、今では抜け道して使われる旧道だ。


 このルートには六つの古ぼけたトンネルがあり、下仁田インターチェンジ側から一号、二号…六号と呼ばれている。五号トンネルを出てすぐのところに三清山賀製薬の本社へ通じる分岐路があり、六号トンネルを出ると動物園へと続く分岐路がある。

 この辺りで目立つ施設はその二つくらいだ。

 これらのトンネルは、昭和初期に旧日本陸軍が物資の輸送を円滑にする為に短期間で造った。囚人に粗末な工具を与え手で掘らせたとも言われているが真相は定かではない。

 ただ地盤が緩く何度も地下水が湧き出て崩れ、たくさんの死者が出たのは確かだ。

 どのトンネルもトラック二台が余裕ですれ違えるほどの大きさだから、相当過酷な工事であった事が伺い知れる。

 特に四号トンネルは掘削中最も多くの死者を出し、今でも彷徨う霊魂の目撃談が無くならない。

 どこからともなく地下水が湧き出ていて、ピチャピチャ音を立てている。薄暗く不気味な雰囲気から通称「死のトンネル」と呼ばれているくらいだ。

 これらのトンネルは平成に入って直ぐに建て替えの計画が持ち上がったが、予算の都合で白紙に戻っている。トンネルの安全よりも、通信インフラの整備や新たなバイパスの設置、都市部の再開発など近代化を優先した計画撤廃だった。

 周辺住民は行政に何度か嘆願書を提出したが、行政は生活道路としか捉えていなかったので受け入れられる事はなかった。まだその頃は三清山賀製薬の本社工場も動物園もこの地になかった。


 トンネルを一つ一つ抜けるにつれ段々と東の空が明るくなってきた。今は七月中旬、これだけ天気がいいと日中はかなり暑くなりそうだ。

 そして、レンタカーは四号トンネルの手前にあるコンビニエンスストアの駐車場に入った。二人はコンビニエンスストアでトイレを済まし飲み物を買った。

 剛が運転席に戻ったので、諸岡は助手席に座った。

 冷房を利かした車の中で喉を潤す。四時半過ぎに太陽が姿を現した頃、二人は座席をリクライニングにして仮眠をとる事にした。

 お腹も空いていたが、昨夜からの騒動で頭も身体もとにかく疲れていた、まずは眠りたかった。

 二人とも一瞬で眠りに落ちた。


   10


 剛は諸岡の電話の声で目を覚ました。

 車内の時計は八時、三時間程寝ていた。

 駐車場にはレンタカーの他に大型トラックが一台停まっているのが見えた。荷台のマークから三清山賀製薬の定期便である事が解る。同じように始業時間まで時間調整をしているらしい。


「…そうですか、社長は本日定時出社のご予定ですね、九時前には到着しますのでよろしくお願いします、失礼します」

 電話を切る諸岡。

「三清山賀製薬ですか? 」

「ああ、広報部長の携帯だ。明日の撮影中止のお知らせと、今日のアポイントを取っておいた、くれぐれも丁寧にな」口元で笑う諸岡、スーツを着たサムライは臨戦態勢に入りつつあった。

「海千山千の諸岡さんがいるから大丈夫っす」

「ふん、それより腹減っただろ、なんか買って来るから待ってろ」

 というと助手席を出てコンビニエンスストアに向かった。

 二人は車内で諸岡が買ってきた弁当を食べながら、打ち合わせの進め方を最終確認した。

 そして八時半。

「剛、運転代わる」

「ここから数キロだし、俺が運転しますよ、大丈夫っす」

「駄目だ、ここからは俺が運転する」諸岡は自分でも驚くようなキッパリとした口調で言った。

「…」

「いいから代われ、夜通し運転してんだから事故でも起こされたらかなわん」強張った表情を崩しながらそう言った。

「分かりましたっと」

 そして外に出てドアを閉めた瞬間、激しい揺れが襲ってきた。 

 地震だ──震度五、六、いやそれ以上かもしれない。

 揺れが酷くまともに立っていられない。

 二人は地べたに座り込んだ。

 コンビニエンスストアの中から何かが割れる甲高い音が響いてくる。「きゃあああ」女性従業員の悲鳴が聞こえる。

「お客様、商品で怪我をしないようお気をつけ下さい」男性従業員が声を荒げる。次々聞こえてくる破壊音。ガラガラガラガラ…商品が棚から崩れ落ちる。ガシャン! ガシャン! ガシャン! ガラスや瓶が割れている。

 駐車場のトラックの荷台の中で荷物がガチャガチャ音を立てる。運転席のドライバーもハンドルにしがみつき、荷台を気にしている。

 周りの木々がまるで台風の中にあるように激しく揺さぶられ、街灯や送電線、電柱などの人工物も不規則に揺れ動いた。地上にある全ての物が抵抗出来ないでいた。

 そんな中、青空に浮かぶ真っ白な入道雲だけがゆったりと動いていた。


 ズズズズーン! 青空に地滑りの図太い音が響き渡る。


 無我夢中でアスファルトにしがみつく剛と諸岡。とにかく揺れは激しい。


 五分程して揺れは次第に落ちついた。

 二人はアスファルトの上で声が出ない。

 驚きを隠せない。

 先に動いたのは大型トラックのドライバーだった。

 荷台を開けて荷物を点検すると運転席に戻った。

 それを見て我に返る諸岡、剛に叫ぶ。

「俺たちも行くぞ剛」

「は、はい」

 運転席に乗り込む諸岡。遅れて助手席に乗りこむ剛。

 諸岡がアクセルを踏む前に、大型トラックが出て行った。ギアをドライブに入れ続くように駐車場を後にするレンタカー。

「凄い揺れただったな」諸岡が言った。

「驚きました」

「そうだ、香織に電話しろ安全を確かめろ」

「あ、はい」

 剛は携帯電話で妻の香織に電話をかけた。生後三ヶ月の娘──佳奈もいるから心配だ。

 電話に出た香織は特に焦ってもいなかった。都内は震度三だったそうだ。それに、去年結婚を機に両親の保険金の残りで買った新築マンションだったので、最新の免震構造が揺れを吸収してくれたらしい。佳奈も目を覚まさなかった。

「くれぐれも気をつけて」そんな言葉で電話は終わった。

「全然大丈夫っす。最新の免震構造は凄いです」

「ご両親に護られてるからな」意味深な諸岡。

「本当にそうです」思いを馳せて剛は外を見た。


 直線道路の先に四号トンネル、通称死のトンネルが見えてきた。古めかしくてうらびれている。


 途中路肩に幼稚園の通園バスが一台停まっていた。

 リアにライオンの尻尾のオブジェが取り付けられ黄色と茶のペイントがされたマイクロバスだ。

 追い越しをかける諸岡。側面には「かわぞえ ひかりようちえん」の文字が書かれている。フロントには優しい目をしたライオンの顔、ピンと立てられた耳、そして勇ましいたてがみのオブジェがついていた。

 諸岡の運転するレンタカーが追い抜くと、幼稚園のライオンバスは後をついてくるように走り出した。

 大型トラックから少し離れてレンタカー、その直ぐ後をライオンバスが続く。


 そして三台は無気味な死のトンネルへと次々飲み込まれていった。

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