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なぜ生きるか? それが知りたい(段落なしコンテスト用)  作者: 赤木 爽人
プロローグ 「結城 純恋」 (ユウキ スミレ)
1/8

運命の選択は常に偶然を装って訪れる



   1






 彼女は自由を求めて飛び立った。二十二階のベランダから暗闇に向かって──







 その時、彼女がどれ程の心の闇を抱えていたのか、誰も知らない。

 彼女は部屋の照明を全て消した。カーテンも閉めず開け放ったベランダ越しに、競うようにして建てられた高層ビルの窓が連なって見える。何百もある窓は、ほとんどが白く光り、彼女の部屋のリビングまで照らしていた。もう午後八時だというのに、残業を強いられているサラリーマンがどれだけいるのだろう。

 そろそろ酔客が増えてくる時間でもある。  

 しかし、東京都新宿区、歌舞伎町まで歩いて五分ほどの場所にあるマンションなのに、二十二階のその部屋には騒音らしい騒音が聞こえていなかった。部屋の中では時折思い出したように、籠の中のセキセイインコが鳴く以外物音一つしない。

 今夜はビル風もほとんどなく、エアコンをつけず、開け放ったベランダから吹き込む風が柔らかく心地いい。  


 彼女はソファに座っていなかった。  

 十畳ほどのリビングに置かれたソファは仕事で疲れたときなどそこで寝てしまう事も多々あった。横になるとすっぽり彼女を包み込むくらいの大きさで、クッションの感じといい、皮の感触といい、お気に入りの一品だった。  

 でも、今はソファに座っていない。  

 ソファとガラステーブルの間で、テーブルにうなだれるように、フローリングに足を投げ出し座り込んでいた。

 リビングに差し込むビル灯りは、テーブルに置かれた小物の輪郭を浮かび上がらせている。

 飲みかけのビールグラス──半分ほど飲んで辞めたようで、炭酸の抜けかかったビールが残っている。横に置かれた携帯電話。彼女は指先で力無くリダイヤルを押す。何度かの呼び出し音のあとアナウンスが聞こえてくる。

『おかけになりました電話番号は電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないためかかりません…』──まただ。一昨日から何度かけても同じだ。彼女の頬を涙が伝う。チュチュッ──励ますようにセキセイインコが鳴き声あげるが、身体全体を小刻みに震わせ、混乱している彼女の心には全く届かない。


 携帯電話の隣にはフタが開いた缶ビールが一缶。

 その横には灰皿。彼女はタバコを吸わない、これはあの男がこの部屋に来ると使っていたものだ。今はタバコの吸い殻ではなく、使いかけの注射器が置かれていた。


 リビングでうなだれているとはいえ、彼女のシルエットは美しかった。腰まであるストレートで艶やかな黒髪、抜群のプロポーションは赤いワンピースの曲線を際立たせ、横に投げ出している二つの足はすらりと長い。それもそのはず、彼女は十六歳でとあるアイドルグループのオーディションに合格したのち、三年ほどセンターを努めあげて卒業。その後女優として映画やテレビに出演しながら、ソロのシンガーソングライターとして活動を始めると、出す歌全てが大ヒットとなった。

 そして二十五歳の時に、子供たちに大人気の番組「プニュプニュぽっぷん」のお姉さんとして抜擢され、幼稚園児から小学生、お母さんからお父さんまで知らない日本人はいないといっていいほど、国民的な人気者になった。

 彼女の名前は結城純恋。子供番組ではユキミンの愛称で呼ばれている。

 このマンションは純恋の自宅マンションだ。


   2


 二日前。純恋はマネージャーからの電話で失意のどん底に落とされた。

 半月ほど前に、妻子あるあの男──イケメン俳優とホテルから出てきたところを盗み撮りされた。その写真が掲載された発売前の週刊誌が所属事務所に送られてきた──差出人は出版元の編集部だった。この事は事務所にとって青天の霹靂だった。純恋が誰かと付き合っているなど、誰も把握してなかった。マネージャーの後藤は、すぐに休暇中の結城純恋に電話をした。

 純恋は今日と同じ自宅のリビングで電話を受けた。内容を聞くにつれ、純恋の顔からは血の気が引いた。どうして付き合っているのがばれたのか? 全く判らない。誰かリークしたのか? 付き合っているのはあの男と自分以外知らない筈だ。困惑する純恋に後藤は自宅謹慎を言い渡して電話を切った。

 純恋はその場にへたり込んだ。しばらく呆然としていたがあの男に電話をかけてみた──繋がらない。何度かけても繋がらない。


 後藤はその日の夜、週刊誌を持って純恋の部屋に来た。そして項垂れている純恋に怒りにもにた感情で問い詰めた。決まっているCMの撮影、グラビア、バラエティ番組への出演、何より国民的アイドルに育ててくれた子供番組への影響を考えると、簡単には済まないと激しく追い詰めた。そしてあの男との関係を問い詰めた。


 純恋は渋々答えた。

 あの男には二年前のバラエティ番組の共演の後声を掛けられこと。十歳年上の妻子ある男性だったので警戒心など全く持たず遊びに連れていってもらっていたら、いつの間にか肉体関係にまで発展していたこと。密会には歌舞伎町にあるとあるバーを使っていたこと。


 後藤はピンときた──程のいい遊びに使われたと…。

 後藤は悔しかった。デビュー間もない頃から手塩にかけて育てて来た純恋を、あの男は遊びに使ったのだ。

 さらにあの男には黒い噂も多かった。妻子は海外に住まわせ、自分は日本でやりたい放題やっているばかりでなく、女との遊びに覚醒剤を使っているという噂も聞いたことがある。

「変な薬はやったのか? 」

 純恋は何の事を言っているか判らないと後藤に答えた。

 ──本心だろう、後藤はそれ以上聞かなかった。


 後藤が帰りひとりぼっちになった純恋は、現実と恋心の狭間で精神が疲弊していった。十六歳の時から十一年間、少女たちが体験する普通の生活など経験した事がなかった。友達と遊びに行ったり、恋愛をしたり、全く出来なかった。それは自分で選んだ道だから後悔しないと、自分で自分に言い聞かせてきたが、初めての恋愛経験が残酷にも自分の全てを奪い去ろうしている。でも、純恋はあの男をどうしようもなく愛しているのだ。どうすれはいいのか? 判らない。それを相談する友達もいない。


 結城純恋は美しすぎた。それに溢れんばかりの才能を持ち合わせていた。女性も男性も問わず共演する誰もがそんな純恋に嫉妬した。その結果、親しくなる前に離れていった。誰もが自分の仕事を横取りされそうな危機感を感じ、仕事さえ終わると自分のテリトリーに入れたくなかったのだ。純恋はひとりぼっちだった。常にひとりぼっちだった。あの男を除いては誰も親身に付き合ってくれなかった。


 しかしそれさえも単なる遊びだったのだろうか?


 答えの出ない疑問が渦巻き純恋の心にグサグサと剣が突き立てられ、痛みと不信感が大きくなっては愛しているという感情だけで踏みとどまる。繰り返される感情の起伏は、自分ではどうすることもできないほど心を混乱させていく。


  3


 そして昨日の夜、入り口に番記者がいないのを慎重に確認すると、マネージャーの命令に背き自宅マンションを抜け出した。

 純恋はそれほど派手じゃない赤いエレガントなワンピースに黒い上着を羽織り、大きめのツバのついたキャップを目深に被っていた──前々から決めていた服装だ。

 純恋はこの三日間、撮影も打ち合わせも全く入っていない。こんな事はここ三年くらいなかったので、早めの夏休みと喜んでいた。今は七月の中旬、観光地が混雑する手前のタイミングで休みが取れたのはラッキーだった。本当ならこれからの二日間はあの男と旅行に行き、一泊する予定だった。


 待ち合わせはいつも、新宿歌舞伎町の裏路地にあるとあるバーだった。歌舞伎町の中にあるパーキングに車を停めて、男はいつもそのバーで待っていた。純恋はそこにいくと生ビールを一杯だけ飲み、男は辛めのジンジャーエールを飲み干すと二人で車に向かい夜のドライブへ行くというのが常だった。


 この夜もいつもと同じ待ち合わせの予定だった。

 純恋は走った。

 約束は六時──あと五分もない。


 混乱している心で一筋の希望だけを持ち、歌舞伎町の中へと入っていく。出勤前のホストやホステス、スーツ姿のサラリーマンやら配達の車に衣装の出前の車、買い物帰りにコーヒーを飲む人やらラーメン屋に並ぶ行列など、てんでばらばらの目的を持った人間たちで通りはいつものようにごった返している。

 純恋を気にかける人間など一人もいないように思えたが、純恋はいつものように慎重に帽子で顔を隠して路地から路地へと足早に進む。

 男はどんな事があろうと純恋を愛してると常々口にしていた。純恋はその言葉を何の疑いも無く信じていたのだ。妻とは別れて一緒になろうと言ってくれた。なにより大きな愛で包んでくれていつも優しかった。芸能界で初めて心を許せる相手に出逢った──そう思わせてくれる全てが揃っていた。

 だから、それが全て嘘だったとは思いたくなかった。

 きっとあのバーで笑顔を浮かべて待っていてくれるに違いない。そして私と一緒に思い出を作ってくれるに違いない。どんな事になろうときっと私を護ってくれる。


 何度か路地を曲がり、区役所通りの裏にある三方を古い雑居ビルに囲まれた行き止まりの正面にあるビル。麻雀屋に小さな居酒屋、ほとんど人の出入りがない事務所が入った四階建ての地下一階にそのバーはある。看板すら出していないので、知る人ぞ知る店。雰囲気はどことなくうらびれていて怖い。余程の事がない限り、一般人は入らないだろう。


 純恋はとにかく混乱していた、でも、自分の恋心には嘘がつけなかった。これだけ愛してる、愛してる、どうしようもなく愛してる。

 きっとあの人も同じ想いに違いない。

 いや同じ想いでいてほしい。


 雑居ビルに着くと迷わず地下へと続くコンクリートの階段を一段一段足早に降りた。

 店の電気は点いていた。『開いてます』の小汚い小さな木製の看板もドアにかかっている。絶対待っててくれる、待っていて。

 ノブを力強く握りしめると一気にドアを開けて店内へと一歩進んだ。

 中を見渡す──ガチャン! 

 立て付けの悪いドアが背後で閉まる。


 ──いる訳がなかった。


 それどころか、客は一人もいなかった。  


 ホールの隅にある四人掛けの小さな木製のテーブルにも、カウンターにある五席の丸椅子にも人っ子一人いない。いたのはカウンターの中に立って鋭い視線を送ってきた、小太りで短いモヒカン頭のボムさんと呼ばれるバーテンダーだけだった。


 純恋を確認すると、すぐに顔は和らいだ。

 金髪のモヒカンに二の腕には意味不明のタトゥーが入っているくせに時折優しいオーラを放つのが、このバーテンダーのいつものやり口だった。

「あらぁいらっしゃい、カウンターにでも座る? どうせ誰もいないしねぇ…」ボムはその風体には似つかわしくないお姉言葉でそういった。

 ドアの前で寂しく立ちすくむ純恋。言葉がない。

 ボムはカウンターを出て純恋の元へと行った。そしてドアを開けて木製看板を裏返した。そこには『本日閉店』の文字が書かれている。怪しげなこのバーの流儀で『本日閉店』となっていたら電気が点いていようが、中に人がいようが入ってはいけない。ドアノブを開けようとしただけで酷い目にあう事を常連客は身に染みて判っていた。


 ボムはドアを閉めて鍵をかけた。

 そして慰めるように優しく言った。


「まあ座りなさいな、この店にはテレビもないし、誰に気を遣うこともないわ」

「う、うん」

 純恋はゆっくり歩を進めカウンターの丸椅子に座った。後を追うようにボムはカウンターに近寄ると、中に入って純恋と対面する。

「さてはあの男と何かあったのね」

 項垂れていた純恋は堪えきれず両手で顔を覆うとすすり泣いた。

「さては週刊紙にスッパ抜かれた? 」

 何度も頷く純恋。

「…今日は私が一杯奢るわ、まあ飲みなさい」生ビールをグラスに注ぐと、純恋の前に出した。

 無言の純恋。

「さあ、冷たいうちにお飲み、元気出して、ユキミン」

「うん」

 意を決した純恋はグラスを持つと一気に飲み干した。

「そうそう、その意気よ」ボムは不気味な笑顔を振りまきながら純恋を見つめた。それは獲物を見つけた肉食獣そのものの目つきだった。

 ボムはカウンターの下に置いてあるポーチを取り出すと、中から小さな茶色い紙袋を取り出した。その中には通称『よく効く風邪薬』のお試しセット──1回分の覚醒剤と注射器、取り扱い説明書が入っている。通常ボムは店内で薬のやり取りはしない。注文を取って金を受け取るだけだ。それも飲食代として…受け渡しは後日指定した場所に代理人が行って行う。これがボムの本業、覚醒剤のバイヤーである。

 しかし、この時ばかりは違った。昼間受け渡しの予定だったお客が急に出張になり、代理人が逢えなかった。そして返品された品物がたまたまポーチに入れてあったのだ。


      ※   


 運命の選択は常に偶然を装って訪れる。


      ※


 ボムはカウンターの上に茶色い紙袋を置くと純恋に言った。

「一回だけよユキミン、心が落ち着く薬だから使ってごらんなさい。楽になるわ」

 純恋は紙袋を見つめた。

 あの男もボムの常連客の一人だった。付き合う女との火遊びに覚醒剤を使っていた。

 ボムは純恋の事も勿論知っている。お金を溜め込んでいる事も、あの男に心底騙されていることも…。しかし、男は純恋には薬を使わなかった、というより使えなかった。それは、結城純恋が余りにも美しかったからである。同じ役者として、その美しさを傷付ける事ができなかった。


「心配しないで、初心者用の弱いやつだからビタミン剤のようなものよ」これもいつものやり口だ。一度使ったら最後、長い付き合いが始まる。

 純恋は受けとらなかった。紙袋をテーブルの上に置いたまま、心の隙間を埋めるために、何杯も強い酒を飲んだ。どうしようもなく飲み続けた。泣いては飲み、ボムに男のいいところばかりを話した。男に騙されたと思いたくなかった。


 ボムは全てを知っているくせに一切否定せず表面的には親身になって話しを聞いた。勿論新しい客は一人も入ってこない 。

 そして零時を過ぎた頃ボムは言った。

「さあそろそろ帰りなさい。そしてゆっくり休むの、何もかも忘れて眠りなさい」

「うん」純恋はそういうとふらふらと立ち上がった。

「ユキミン忘れ物」カウンターの上に置かれた紙袋を持って純恋に渡した。

「ビタミン剤のようなものだから持って行きなさい、楽になるわ」

「…」

「初心者用の弱いやつだから」

「うん」

 そういうと純恋は紙袋を手にした。


 ボムの目が光った。


「今日のお代はいらないわ、私の奢り、元気出してユキミン。そしてまた遊びにきて頂戴」

「いいんですか? 」

「うん、辛い時はお互い様よ」

「あ、ありがとうございます」

「ゆっくり眠るのよ、何も考えず」

「うん」

 純恋は嬉しかった。

 そして紙袋を持って店を出た。


 これがいつものやり口である。上客が一人増えるわ──去って行く純恋の美しい黒髪を見送りながらボムは満足だった。


   4


 家に帰った純恋は、お気に入りのソファで横になったまま酒の勢いで寝入った。着替えすらしていない。

 そして今日、起きた時は午後一時を過ぎていた。酷い二日酔いだった。頭の中がガンガン痛み、喉が乾く。起きた途端にトイレに駈込み嘔吐した。便器にもたれながらとにかく寂しかった。誰かに抱きしめて貰いたかった。全てが情けなかった。トイレから戻るとキッチンで水を飲む。胸焼けで水が思うように吸収できない感じがした。

 たどたどしい足取りでソファに戻ると深々と腰をもたげ、ガラステーブルの上に置いてある携帯電話のリダイヤルを押した。何度かの呼び出し音の後アナウンスが流れる。


『おかけになりました電話番号は、電波の届かない場所にあるか電源が入ってないためかかりません…』一昨日から何度かけても同じだ。


 それもそのはず──あの男の所属事務所にも二日前に同じ週刊誌が届いていた。そしてマネージャーから連絡があると、即行動に移した。まず、薬の売買の連絡と付き合っている女専用にしていた携帯電話を海に投げ捨てた。純恋を通じて色んな事が明るみに出る前に捨てたのだ。その携帯電話は裏社会で金で手に入れた持ち主が特定されない電話だ。恐らくどこかのホームレスに金を渡して作らせたものだろう。こういった細かい事に鼻がきくからこそ、俳優として活躍しながら、足が着かないように好き放題してきた。

 そして男はもう日本にはいなかった。家族のいる海外へと帰っていた。国民的アイドルと不倫していたのだから、大騒動になる事は分かりきっていた。ほとぼりが冷めるまで日本には戻らないつもりでいた。海外の自宅はマネージャーにすら住所を教えていない。全てが計算ずくの本当のワルだ。


 結城純恋は男にひたすら逢いたかった。愛していた。どうしていいか判らなかった。一向に電話が繋がらない事で混乱の度合いは更に強まった。

 何もやる気が出ないまま、ソファに座っていた。気がつくと夕日が外を照らし、夜の帳が降りてきた。リビングの照明を点け、冷蔵庫から冷えた缶ビールを持ってきてソファに座り、ビールをグラスに注いで飲む。気持ちは落ち込んだまま、爽快感は全くない。

 テーブルの上にある茶色い紙袋を見つめ無意識に中身をだす。ソファから下りてフローリングに座り込み取り扱い説明書なるものを読んだ。使い方や注意点が細かく書いてあった。


 純恋は二日酔いで気持ちが悪かった。


 純恋は今の状況から逃げたかった。


 純恋はこれから先の事を考えたくなかった。


 純恋は楽になりたかった。


 純恋は…愛と現実の板挟みで精神が──疲弊していた。


 そして、注射器で薬を体内に入れてしまった。決して弱くない、ビタミン剤でもない、悪魔の薬を使ってしまった。


 結城純恋は現世での辛さに負けて自らを貶める運命を選択した。現世が全て魂の学びの場であり、個人個人に自由意思が与えられているとすると、運命の選択に正解不正解がある訳がない、選択によって学び方が変わってくるだけだ。

 ただ、自分を含めた生きとし生きるもの全てにとって、魂を向上させ愛を育むために自らの行為がどういう意味を持つかという視点にたてば、善い行い、悪い行いは自ずと見えてくる。

 いい種を蒔けばいい実が実る、悪い種を蒔けば悪い実が実る。神の摂理はその実を刈り取るのは種を蒔いた本人だけであるという。結果は生きていようが死んで魂だけになろうが必ずついてまわる、一度の人生で苅りとれなければ、何度でもやり直す事になる。


 マザー・テレサは言った「神は乗り越えられない試練は与えない」──しかしその試練を作っているのも己なのだ。


 その事が全く判っていなかった。

 安易に逃げた代償は大きい。

 この事が多くの人間に影響を与えるなど考えもしなかった。


 その頃マネージャーの後藤は、事務所から出て純恋のマンションへと向かっていた。後藤は一昨日から会議詰めだった。番組やCMが打ち切られた場合の賠償問題について、事務所内でどう対処するかを話し合っていた。

 おそらく何億という賠償責任が生じるだろうと結論は見えたが、どうするかはこれからの課題として残った。後藤も当然管理責任を問われる事になるだろう。結城純恋を全国区のタレントにする為、人生をかけてきた後藤は心底ショックを受けていた。

 しかし、純恋のマンションへ向かったのは、後藤の心情や事務所の対応を純恋に伝える為ではなかった、なにやら不穏な胸騒ぎがした。


 最初は気分が高揚して清々しかった。悩みが消し去り爽快感が繰り返し訪れて気持ちが良く、照明を見たら全てが煌めき美しかった。部屋中が天国みたいだった。余りにも眩しく煌めくので照明を消した。それが今夜八時頃の事である。

 カーテンも引かず開け放したベランダからは、周囲に競うように建てられた高層ビルから白い光が差し込み、部屋中を生き生きとさせていた。ガラステーブルに項垂れ、フローリングに足を投げ出して座っていても気分は爽快だったのである。


 籠の中から聞こえてくるセキセイインコの鳴き声ですら天使の歌声に聞こえてくる。セキセイインコは数年前に、家を留守にしても飼っていられるペットとして選んだ。一人で部屋にいるのが淋しかった。自分を癒してくれるものが欲しかった。

 テーブルの上に置いてある携帯電話のリダイヤルを押す。何度かの呼び出し音のあとアナウンスが聞こえてくる。『おかけになりました電話番号は電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないためかかりません…』──まただ。この瞬間純恋の様子が変わった。哀しみに包まれ頬を涙が伝う。チュチュッ…励ますようにセキセイインコが鳴き声あげるが、身体全体を小刻みに震わせ、混乱している純恋の心には全く届かない。


 幻聴が聞こえ始めた──男の声で聞きたくもない声が聞こえてくる。


「お前なんて遊びだった」

「便利な女さ」

「国民的アイドル、それがこの様か、笑わせるな」

「誰もお前を愛していない」

「ひとりぼっちは寂しいか? 」

「お前も籠の鳥さ、仕事にがんじがらめにされて自由に動けないだろう」


 純恋は鳥籠を見た。外からの白い光はセキセイインコの姿をはっきりと映し出していた。

 翼の緑が美しい。純恋はたどたどしい足取りで近づくと、扉を開けて指にのせ籠からだしてやった。籠の中の鳥と自分が重なり、いてもたってもいられなかったのだ。泣いていた、純恋は泣いていた。自分の状況を悲観して哀しみで心を満たしていた。

 セキセイインコは指の上でしばし躊躇していたが、光が差し込むベランダまで一気に飛ぶと手摺りに留まる。

 そして、隣りの高層ビルの窓の真白な灯りを目指し外に飛び立った。

 純恋はその姿を見て自分も飛びたいと強く思った。

 そこに再びあの男の声で幻聴が聞こえてくる。


「お前が飛べるか? 今の状況から飛び出せるか? 」


 あざ笑うその声に反発するかのように純恋は大声を出した。

「私だって飛べる、この状況から飛び出すわ、自分で飛んで自由を手にするの」

 とその時、ベランダから心地よい風が吹き込んできた。純恋はその風に誘われるようにベランダへ行くと手摺りに掴まった。


「本当に飛べるのか? 自由になるなら飛ぶしかないぞ、ふふふははは」再び幻聴が聞こえてくると純恋は微笑んだ。


 そして手摺りに両足を乗り上げると、高層ビルの窓から発せされる白い光線に向かい両腕を羽ばたかせ足を蹴った。


「私は自由になる」


 ふわりと体が宙に浮かぶと、次の瞬間、二十二階の高さから頭を下に真っ逆さまに落ちて行った。

 連なって勢いよく上へ上へと過ぎていくビルの灯り。照らされて浮かび上がるシルエット。美しかった。まるで天使のように見えた。

 髪は美しく靡き、赤いエレガントなワンピースは天使の纏う羽のようでもあり空を自由に飛ぶための翼のようでもあった。全ては結城純恋という美しい個体が、生命力の全てを使って演じている最期の姿に違いなかった。

 そして数秒後地面が近づいてきた。

 既に純恋の意識は無かった


 仕事帰りの女性が、その地面を歩いていた。何時ものように会社から帰っていた。その目の前に人間が頭から落ちてきた。そして、勢いよくアスファルトに叩きつけられた。

 グシャ!

 歩いていた女性は何が起きたのか判らなかった。ほんの五〇センチほど先に落ちてきた物体を見つめた。街灯に照らされたそれは、頭蓋骨が割れ、脳味噌が飛び散っていた。手足は普段なら決して曲がらない方向に向いて、腰はくの字を描いていた。


 女性はヘナヘナと地面に座り込んだ。


 その足に襲いかかるように、頭蓋骨から噴き出したドス黒い血が溢れ出てきた。女性は余りにもの出来事に声が出せなかった。血溜まりに囲まれ目を引きつらせ硬直していた。

 異様な光景に気がついた通りがかりのサラリーマンが数人集まってくると、あるものはへたり込んでいる女性を介抱し、ある者は警察へ電話を入れた。


 そこに後藤が通りかかった。人だかりができて騒ついているのを見て、胸騒ぎが一層激しくなり何事かと近づいた。そして地面に落ちている物体を凝視した。


 一目で分かった。

 紛れもなかった。

 変わり果てた姿の結城純恋がそこにあった。


 こうして結城純恋は二十七歳という短い人生を終わらせた。

 純恋は現世で最大の過ちを犯してしまった。結果的には自ら死を選択した。

 神は乗り越えられない試練を与えない、つまり自由意思の中に自ら死を選ぶという行為は含まれていないという事だ。なぜなら乗り越えるのが学びならば、自ら死を選ぶという事は乗り越えられる筈の学びを放棄するという最悪の種を蒔いた事になる。それは向上を目指している自らの魂を根底から否定する事になるからだ。

 その事に純恋は気がつかなかった。

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