第75話 帰省
いつからだろうか。
「……父さん」
「ん? ……ハナ……ハナか!!」
「はい。花太郎、ただいま戻りました!!」
いつからだろうか、両親と会話するとき、ときどき敬語を交えて話すようになったのは。
僕は花太郎と父さんが、お互いの名前を呼びあいながらキツく抱擁する姿をみて、思った。
自発的に敬語を使いだしたのは、確かだ。作法なんて気にも止めない人たちなのに、僕は両親にいつの間にか敬語で話すようになっていた。萎縮しているわけじゃない。敬語とは、本当に尊敬する相手を前にすると、勝手に出てくるものなんだと思う、たぶん。
いつからだったかな。
僕が大学を中退したときかな。
不安定な仕事で、しばらく仕送りに頼るようになったときかな。
仕事が安定し始めたときかな。
仕事を辞めて、鹿児島に移住したときには、もう使ってたと思う。
あなたは、僕の人生の「こう在りたい」と思える人でした。夫婦でした。今でも変わりません。
「俺ぁ、てっきり、お迎えが来たのかと思ったよ」
そして、この人は、どんな状況でも冗談を言い放つ。祖母の火葬の時だって、泣きながら別れを告げる五人の叔父叔母の中で、実母に向かって「んじゃね、ばーい」とか言って手を振る人だ。誰も咎めなった。就職や婚姻で島を出ていった兄弟の中で、ただ一人、父さんは島に残った。誰も咎めなかったのは、兄弟姉妹の中で一番寂しがり屋な事をみんな知っていたからだ。
「いくつになったの? 父さん」
「ん~、最近物忘れひどっくってなぁ」
「七十五でしょ?」
「お、覚えてたなー。また忘れるから、俺の代わりに覚えててくんろ」
「やだよ、自分でおぼえててくださいよ」
「ハナはいくつになった?」
「……三億飛んで二十九歳くらい」
「お、俺よりも年上だなぁ」
「冗談にきまってるじゃん」
「だめだなぁ、嘘はよくねえなぁ」
「嘘でもないんだけどね」
「え? そのウソほんと?」
二人は鼻水垂らしながら、涙でぼろぼろである。言葉だけは冗談を飛ばしあっている。客観的にみてみると、この親子は、やっぱり変だと思った。そして、親子らしいと思った。
花太郎の泣きっぷりからして、僕はしばらく消えることはないな。”涙は老廃物の中で最も高尚なもの”だからな。
よかったな、花太郎。今は冷やかさないでおくよ。元気な父さんを観ることができてよかった。
二人とも、顔がもみくちゃになっているからよくわからなかったけれど、家に向かって歩きだした時に見た父の顔は、やっぱりしわくちゃになっていた。
やはり、僕の姿は、父には見えていないらしい。二人が肩を並べて家路の途中、花太郎と目があったけれど、僕は少し距離を取って進んだ。 築四十年近く経過している僕たちの家は、ちょっとリフォームされていた。
「母さーん。花太郎が帰ってきたよー!!」
父さんは扉を開けると、祖母譲りの、とても七十五歳とは思えないほどのよく通る大きな声で母さんを呼んだ。
「えー、何ー?」
換気扇の音が聞こえる。母さんが台所にいるときは、大抵ヘッドホンで音楽聞きながら料理してるから、ほとんど声届かないんだけど、まさか七十歳にもなってそんなこと続けているのだろうか。
続けていた。エプロン姿で首にヘッドフォンを下げた母が目の前に現れた。シワは増えているけれど、背筋がピンと延びていて、とても元気そうだ。
「花太郎?」
「……ただいま戻りました」
目を見開いている母。また泣きじゃくりそうになっている花太郎。母は玄関で靴を脱ごうと手こずっている花太郎に駆け寄って、抱擁した。
「母さんはてっきり、お迎えが来たのかと思ったよ」
夫婦だなぁ、と思った。
それから、簡素にすませようとしたであろう朝食を、母さんは作りなおした。ギリギリ軽食に分類できるほどの豪華な朝食を花太郎にだけ出した。
食べながら花太郎は今までのことを、なるべく専門的な説明を省いて、世間話程度で済むように、二人に説明した。
二人は、今までのJOXAとのやりとりを話した。
花太郎は僕の存在について話そうか、目配せをしたけれど、断った。
そして花太郎は、明日の夕刻にAEWの世界に帰ることを告げた。
二人は「はやいなぁ」と言いながらも、花太郎を止めることはなかった。
咲良や美音とは、ずっと会っていないらしい。咲良が九つの時に執り行われた、甘田花太郎の葬儀の時に案内を郵送したそうだけど、一切の返事が返ってこなかったという。JOXAから、孫がJOXAに就職したことを告げられたそうだが、養父もいる手前、連絡を控えたようだ。
朝食を終えると花太郎は風呂に入った。
風呂から上がると、花太郎は布団に潜り込んで、寝た。
不思議でしょうがない。実家に帰ると眠くなってしまうのは、人間の修正なのかもしれない。
父も母もそれが当たり前かのように、十六年前と変わらぬ休日の日課(二人とも定年してるけどね)をこなしていた。
母は一日の家事を午前中に終えると、昼食の準備を始める。
父は午前中庭仕事をする。
花太郎が起こされて、おにぎりを三人で食べる。
父はおにぎりを食べ終えると、庭でオートバイをいじりだして、仲間たちと遊びに出かけた。元気だなー。
母はネットサーフィンをはじめる。昔から変わってない。
そして花太郎は、また寝た。
布団でまどろんでいる花太郎に母さんが声を「夕食は何がいいか」問いかける。
花太郎は「スキヤキ」を所望して、母さんがそれを了承すると、「一緒に行くよ」と言った花太郎の提案を却下して、出かけた。元気だなー。
花太郎が部屋で一人になる。シャーレを取り出して、涎を垂らす花太郎。
「エア太郎」
[寝てろよ]
「手紙考えたか?」
[……まだ]
「うん」
[ちょっと、遠くに出かけてくるからさ。ゆっくり実家を満喫してなよ]
「うん」
[ごめんな。気を遣わせたみたいだな]
「いや、全然」
僕は上昇して、天井をすり抜けた。
アキラの様子を見に行こうか、一瞬迷ったけれど、藪ヘビもよくないからやめておく。あいつは家でも関西弁なのかな。
自分がなんとなーく散歩コースにしていたエリアを、地に足を着けた気持ちになって、足を交互に動かして、なんとなく歩いて前進しているつもりになってみた。
十一月の大島は何もない。寒空だと、天気が良ければ富士山がくっきり見えることがある。今日は割とくっきり見えた。少しだけ雪が積もっていた。
僕はおもいっきり息を吸ったつもりになってみた。唯一と言っていいほど、繊細に残っている僕の触覚だった。
二人とも元気そうでよかった。そう思ったら、今度は咲良に会いたくなってしまった。
”観たい”んじゃない”会いたい”。不思議と妻だった美音のことを思い出す機会はほとんどなくなっていた。……悠里のおかげなのかな。でも、ずっと、咲良のことが頭を離れないままだ。僕は不器用だから、こんな状態で父母に宛てて、手紙を書けるような気がしない。ウソもつきたくないし。
だめだな、暗いな。でもどうしよう。考えすぎなんだよな、今の僕は。悠里がこの場にいたら僕の頭を揺さぶって、中身をすっからかんにしてくれるだろう。
僕は外部から情報を収集することはできても、物理的な刺激を受けることがほとんどできない。やけ食いもふて寝も、息が切れるまで走ることもできないのだから。
手紙の内容を考えるためにも、一度頭をリセットしたいな。
リフレッシュするために試行錯誤を重ねたけれど、海に、向かって「やっほー、バカヤロー」って割と真面目に叫んだ後、特に収穫を得られぬまま帰宅した。
ちょうど母さんが買い物から帰ってきていた。
「ただいま~」
「おかえり」
「お肉いっぱい買ってきたよ」
「……食べられるかな、いい年だし」
「何をまた」
花太郎の返答に買い物袋を両手に持った母さんが失笑する。
花太郎は起きあがると、買い物袋を受け取って、台所へと運んだ。
「母さん」
「ん?」
「……あのさ、”カノープス”ってさ、今観れるの?」
「ん~。観れるんじゃない? 深夜だったら、一時とか二時とか」
「ちょっと行ってみたいな。夜さ、車使わせて。どこに行けばみれるかな?」
「じゃあ、一緒行こうかね」
「え? 一時とか二時なんでしょ」
「花太郎に見つけられるかなぁ」
「うーん。自信ない」
「ちょっと調べてみるね」
母さんはパソコンを立ち上げて、天体観測のウェブサイトを開くと、大島で観測できる星座を調べだした。
……カノープス。 聞いたことあるんだよな、母さんから。なんだっけか…………そうだ、”長寿星”だ。
「あったよ」
「何時?」
「今晩の南中は、二時くらいだね。花太郎起きれるかな」
「さんざん寝たから大丈夫だよ」
「そうだね。じゃぁ母さんはお昼寝するよ」
カノープス。その観測条件の厳しさから、見つけると縁起がよいとされ、中国では古から”長寿星”と言われている、と、母さんが言ってたことを思い出した。
花太郎はそれを観るために、寝ていたのだろうか。違うな。ただ眠たかっただけだ、きっと。




