昔話
朝。
わずかに開いていた遮光カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日を感じながら、サタンは現代っ子の柔軟性の高さに驚愕していた。
昨夜、悪魔召喚の儀式をして、本物の悪魔を呼び出し、そして契約。これからずっとここで暮らすと宣言した時にはあんなに落ち込んでいたのに。
ちらっとシングルベッドを見ると、そこには何とも幸せそうにスヤスヤ眠る女子大生、天使の姿。
「何だかなぁ…」
悪魔というのは睡眠を必要としないので、サタンはとりあえず一晩中部屋でおとなしくしていたのだが、天使は一向に起きる気配もないし、そろそろ飽きてきた。
ベットに少し近づいてみる。天使が起きる気配はない。
顔を覗き込んでみる。やはり天使が起きる気配はない。
少し悩んで、ほっぺたを人差し指でつついてみた。…さすがに起きた。
突然のことに思わずそのまま静止してしまうサタン。意外にも寝起きはいいらしい天使はその状況を理解し、遠慮なくサタンに言い放った。
「何してんの?変態?」
その一言は、思いのほかサタンにダメージを与えた。
「変態ってなんだよ!お前がなかなか起きないから暇だっただけだ!」
「暇っていう理由で、寝てる女子大生の寝顔を眺めただけでは飽き足らず、ほっぺたつつくような奴は十分変態よ!」
何故だろう…天使のほうが正論だった。
「大体、昨日ってか寝たのもう今日なんだからね。これでも寝足りないわよ」
確かに、睡眠時間4時間ちょっとというのは少ない。
それでも、これ以上寝るわけにもいかず、天使はベッドから起き上がる。そして、サタンがそこにいることなど気にもせず、着替えを始めた。
「うわ、アンジュお前ちょっと待て!いきなり着替えるやつがあるか!」
Tシャツを脱ごうとして、背中側とはいえ少し下着が見えたところでサタンは赤面して目をそらす。そして、その後見ることがないようにカーテンの裏に隠れる。
「ていうか、これはお前が気にする方じゃないのか!?」
「え、だってさー、昨日の話だとサタンって中世ヨーロッパ時代から生きてるんでしょ?」
「あぁ、つーかもっと前からだ」
「そんな千何百歳的なおじいちゃんに照れとかない」
「見た目は20代前半だっ!!」
「恐ろしい詐欺だね!」
契約1日目にして、サタンは天使に一般常識を求めることを諦めた。
◆◆◆◆◆
天使は身支度を終え、簡単な朝食を用意して、サタンと向かい合わせにテーブルに着く。
サタンは食事も必要ないということだったが、一応飲み物だけは出すことにした。
「そういえば気になったんだけど」
「何だ?」
「悪魔召喚の儀式ってさ、アレどういう仕組みなの?昨日出てきた感じからすると、勝手に儀式してるところに飛ばされるって訳じゃないんでしょ?」
「んな訳ないだろ」
なるほど。悪魔にとってそれは日常なので何の疑問も感じたことはなかったが、人間からすると不思議なのかもしれない。
どうせ暇だし、サタンは少しその辺りのことを天使に教えてやることにした。
「俺たち悪魔にとっては召喚されて人間の魂を奪うってのはある意味仕事みたいなもんだ。だが、誰の召喚を受けるかってのはある程度選ぶことができる。もちろん、召喚の儀式自体がデタラメ過ぎたらダメだが、ある程度以上のクオリティであれば、悪魔の元に声が聴こえる」
「声が聴こえる?勝手に?」
「そうだな。声が聴こえるのは拒否出来ない」
「ふぅん。スマホが勝手に着信をスピーカーで再生するようなもんかな」
「スマ…?まぁ理解したならいい。で、聴こえてくる声の中でどこに出るか選ぶ。悪魔にも力の強い弱いがあるからな。儀式の正確性やそれを行う人間の素質によって、どのレベルの悪魔に声が聞こえるかは変わってくる」
そして、少し胸を張ってサタンは付け加えた。
「まぁ俺は悪魔の中でも最高位だからな!光栄に思え!」
「いや、ただの女子大生に喚び出される最高位悪魔って…」
説得力のない台詞だった。
「そこはな、俺もどうも分からねぇんだ。正直、今の時代に悪魔召喚の儀式なんてやる物好きそうそういなくてなー」
天使の半眼の睨みは鉄のハートで見えないことにするサタン。
「俺に声が聞こえることなんてずっと無かったってのに…昨日だ」
その時のことを思い出したのか、サタンはげんなりした表情になる。
「突然、頭痛がするほどの大音量が聞こえてきやがった!しかもちゃんとした呪文が一切なくて、悪魔来いの連呼ってどんな不遜な悪魔信仰者だ!って思って来てみたら…」
「私が居たわけね」
「…そうだよ。なぁ、そういえばお前はどこでその儀式の知識を手に入れたんだ?」
その問いに、ヨーグルトを食べていたスプーンを口に咥えたまま(良い子はお母さんに怒られるからやめましょう)天使は一冊の本を取り出す。
表紙に書かれているタイトルは『悪魔信仰と魔女狩りの歴史』。
「何でそんなおどろおどろしい本読んでるんだよ」
「大学の図書館の普通開架の本よ。暇だから『あ』行から順番に借りてただけ」
「…お前、実は頭いいのか?」
「頭いいのとテストの点がいいのはまったく別次元の話だわ。そして学力と性格と趣味もね」
そう言いながら、パラパラとページを捲り、一枚の挿絵を指さした。
そこに描かれていたのは、昨日天使が模造紙に描いていたのとまったく同じ紋様。
本のサイズはA4なので、床一面の模造紙にこれを拡大して正確に描いたことを考えれば、天使の模写技術はかなりのものだ。その才能、他に活かせばいいのに、とサタンは思った。
「…ん?」
一方、サタンはその挿絵の下に書かれている名前に目が留まった。
「マリー…」
「何?知り合い?」
「あぁ、たぶんな。お前より前に俺を喚び出した、最後の女だ」
それを聞いて天使は合点が言ったように、ぽんっと手を打った。
「なるほど。元カノね!」
「違うっ!!」
もういい、と本をバタン、と閉じるサタン。
天使は、図書館の本なんだから乱暴に扱わないでよ、と言いつつそれを鞄にしまう。
朝食の後片付けを済ませ、出かける準備を始めた。
「ん?どこかに出かけるのか?」
「それこそ、この本を返しに行くのよ」
「なら、俺も行く」
そう言って立ち上がるサタン。
天使は玄関で振り返り、サタンの格好を頭の先から足の先までじっくりと視る。
「な、なんだよ」
まるで視姦されているような感覚に、サタンは思わず身を捩る。傍目には若干気持ち悪い。
「いや、悪魔ってさ、他の人にも見えるんだよね?」
「まぁ、幽霊じゃあないからな」
「出かけるなら、着替えて」
「は?」
言われて、サタンは自分の格好を見返す。
ちなみに服装は昨夜現れたそのままである。つまり、装飾の派手な燕尾服のコスプレイヤー。
そんな男と一緒には歩けないとしての発言だったのだが、先ほどスマホを知らなかったことと言い、どうやらサタンという悪魔は現代日本に疎いらしい。自分の格好に問題があることがわからないようだ。
「あのね、ここはヨーロッパの宮廷じゃないの。2015年、日本の東京。その格好は一般的じゃないの」
おわかり?と手を広げる天使に、サタンは自信満々に答えた。
「俺、これしか服持ってないぞ。それに、バカにするなよ。ここが何年のどこかくらいは知ってるし、いつもこのまま出かけてるから問題ない!」
「問題ありまくるわよっ!」
天使の本日の予定が追加された。
つまり、図書館に行く前に、男性服の買い物、と。