契約
ひとしきり嘆いて気が済んだのか、悪魔は気を取り直して、自分を喚び出した女に向き合うことにした。
「…とりあえず、悪魔を喚び出したからには、契約をしてもらう。まず、お前の名前を教えてもらおうか」
「何かすごく偉そうだね!人に名前を聞くときは自分から名乗りなさいってお父さんに言われなかったの?」
「…てめぇっ…まぁいい。俺はサタンだ」
ちなみに、サタンが落ち込んでいる間が結構長かったので、女はさっさと儀式のもろもろを片づけ、黒ローブも脱いでスウェットでジュースなんて飲みながらくつろいでいる。
「サタン?ベタな名前だね。私は、『あんじゅ』だよ。ちなみに、『天使』と書いて『あんじゅ』」
得意げな自己紹介だった。
そして、恐ろしいキラキラネームだった。
「名前と行動が合ってねぇよ!」
「えー、名前つけたの私じゃないもん」
「あー、もういい!じゃあアンジュ、俺はさっさとお前の望みを叶えて一応魂もらって、今までと同じ慎ましくも平和な日常に戻りたい。だからさっさと願いを言え!あ、ちなみに一生願いを叶え続けろとかいうのは無しだからな!」
悪魔が送る慎ましくも平和な日常って何だろう?とか思ったりもしたが、さすがにそこに詳しくツッコめる空気ではないことを感じて、天使は少し真面目に考えてみた。
たっぷり5分ほど考えて出した結論は、
「ごめん、望みとかないわ」
「……え?」
これには、サタンも思わず絶句だった。
「いや、俺悪魔だから、結構何でもアリだぜ?金でもいいし、ハーレムでも用意できるし、世界中どこでも連れていけるし、何なら気に入らない奴を苦しめて殺してやってもいい。そういう、普通は無理だけどしたいこととかあんだろ?」
「…何でも?本当に何でも?」
「本当だ。悪魔は契約については嘘つかねぇよ」
「じゃあ……笑って死ねること」
「……あ?」
その望みとそれを伝えた声音は、今までの天使に相応しくない気がして、サタンは少し戸惑った。
その様子を見て、天使はやっぱり、と苦笑する。
「私ね、今お金には困ってないし、恋愛にも興味ないの。他人に興味ないから、殺したいほど嫌いな人もいない。正直、今死んだって別にいいと思ってる」
天使はそう話しながら、少しだけサタンの方を窺う。が、その表情からはどんな感想も読み取ることは出来ない。そもそも、人間の自分に悪魔の気持ちが理解できるのか分からないが。
「でも、生まれてきて良かったって、生きてて良かったって思えるなら思ってみたい。望みって言えるのはそれくらいかな」
「…、何だよ、それ」
欲がないのか、何なのか、この女が分からない。
それがサタンの正直な感想だった。今までサタンを喚び出した人間は、自分の魂と引き換えにでも一瞬の快楽を求める願いを伝えてきた。そして覚悟の上で悪魔と契約したにも関わらず、いざ魂を奪う時には醜く命乞いばかりしてきた。
それが人間だとわかってはいたが、もしも、自分が魂を奪うその瞬間に、その相手が笑ってくれる、そんな経験が出来るならしてみたいと、正直、魔が差してしまったんだと思う。
『はいは~い、契約成立ですね~』
突然、高めの少年のような声が聴こえた。
サタンは頭を抱え、天使は辺りをキョロキョロと見回した。
『ここですよ~、ちょっとこれ開いてもらえませんかね?』
よく見ると、もう不要だと思ってくしゃっとまるめた紋様の描かれた模造紙がかすかに動いてる。
天使が開くと、紙の間から小さな蝙蝠っぽいゆるキャラが飛び出してきた。
『はぁ~、窮屈だった。さてさて、貴女様の望みを叶えることをサタン様が決めましたので、正式な契約に入りますね~』
「ちょっと待て!まだ俺は決めてねぇ!」
『え~、叶えてあげようって思ったじゃないですか。そもそも、最近サタン様、全然人間の魂持ってこなくてホント給料泥棒状態なんですよね。今回働いてくれないならリストラものですよ~』
「中世ヨーロッパで死ぬほど働いたんだから、もう隠居生活させてくれたっていいだろ!?」
『そういう仕事もしてないのに、会社の役員とかになって高給もらってワガママに老後過ごしてる老人みたいな発言してると、こういう若い女の子に嫌われますよ?』
天使は、何でこの蝙蝠は現代日本の社会事情に詳しいのだろうと少し疑問に思った。その不思議そうな視線に気づいたのか、蝙蝠は今度は揉み手をしながら天使に向き直った。
『あぁ、すみませんね。私はサタン様のマネージャーというか秘書というかそんな感じです。気軽にニックとお呼びください。で、ですね、契約にはこの書類に署名が必要になります。詳しいことはここに書いてありますので、よく読んでいただいてご署名をお願いします』
何だろう、この何とか詐欺っぽい感じ。
興味本位で一応読んでみると、要するに、
1、悪魔は必ず契約者の願いを叶える
2、願いが叶ったら契約者は必ず魂を悪魔に引き渡す
3、契約の解除は不可能である
4、悪魔と契約している事実は悪魔は他人に漏らさない(個人情報保護)
「…4はいるの?」
『いやぁ、最近は色々うるさいですからねぇ。あ、それで、署名いただけます?』
「え、これ辞められるの?」
『それは無理ですね~、ははは』
じゃあ聞くなよ、と思いつつ、天使は自分の名前を署名する。
「あ、お前、ちょっと待てって…」
サタンはそれを止めに入ったが遅かった。
天使は署名を終え、その名前が一瞬赤く染まり、契約書は温度のない炎に包まれて消えた。
「…、あーあ」
『はーい、契約成立ですね~。じゃあ、サタン様、あとはよろしくです~』
蝙蝠くん、ニックはくしゃくしゃの模造紙からどこかへ還ってしまった。
残されたのは、サタンと天使。
「よろしくされちゃったね」
そういう天使は、悪魔と契約してしまったというのに、どこか楽しそうだった。
今後のことを考えて気が重いサタンは、ほんの少しだけ仕返しすることにした。
「なぁ、契約者と悪魔は、ずっと一緒にいる必要があるんだよ」
「…え?」
「つーわけで、今から俺ここで暮らすから、今後お前にプライベートはないと思え。よ・ろ・し・く・な!」
天使は生まれて初めてこの言葉を口にした。
「oh,my God」と。