背後から
そのときまで私は今度こそ本当の幸せを手に入れたと信じていた。
小三の長女、小一の長男と文字通りの一姫二太郎に恵まれ、主人とも仲良くやっている。
私の名前はミサチ。実の幸せで実幸。
不幸なことなど何もなかった。些細なことで喧嘩したり、仲直りしたり、家族みんなで泣いたり笑ったり。
ただ少し不満なこととしては家が団地なことくらいで。
「おかあさん」
後ろから誰かに呼ばれた気がして、振り返った。ちょうどベランダで洗濯物を洗濯バサミで留めていたところだった。
家の中には誰もいないはずなのに。
家の中はシンとして、明るいベランダから見ると室内は薄暗い。
主人は勿論仕事に出ているし、長女の愛も長男の恵も学校に行っている。部屋の中のテレビは確かさっき消したはず。
それにその声は三人のどの声とも違った。少し低い、女の子の声。その時は空耳だったのかと思い、また洗濯物を干し始めた。
「おかあさん」
なに、と言って振り向いた後ろには誰もいなかった。食器を洗う手が止まった。
「どうしたのお母さん?」
恵が台所のテーブルでやっていた宿題から目を上げて訊いた。愛はテレビの前に寝転んで学校から借りてきた本を読んでいる。
「今、お母さんのこと呼んだ?」
恵はぽかんとして首を振った。
「ううん、呼んでないよ」
・・・・・まただ。あの声だ。あの、少し低い女の子の声。今度の声は少しせがむような、頼むような、そんなイントネーションがあった気がする。
きっと疲れているんだ、とその時は理由をつけて深くは考えなかった。
主人は『今日も遅くなる』と言っていた。
横になって電気を消した天井をしばらく見ていると、空耳のことを思い出した。体調も悪くないし、ストレスがたまっている訳でもない。
まあ、心配することもないか。
そろそろ寝よう・・・・と思い、横を向いて目を閉じた。
その時だった。
「おかあさん」
今度は空耳でもなんでもなかった。確かに聞こえた。そして項に、生暖かい吐息を感じた。
飛び起きて後ろを振り返ろうとしたのに、体が動かない。声が出ない。
瞳だけ動かして背後を見ようとしたが、見えるのは斜め後ろの壁だけで、本当の背後までは首を動かさないと見ることができない。
ハァ・・・
息遣いが聞こえる。首筋に吐息がかかる。
そこには誰もいるはずがない。
これは夢だ。
悪い夢だ。
・・・悪寒が背筋を這い上がってくるのが分かる。
「ねえ、おかあさん」
「だ・・・・・れっ・・・・!?」
搾り出すように声を出すと、一気に体の拘束が解けた。
「おかあさん、覚えて・・・ない・・の・・・?」
微かな、そのまま夜の闇に消えてしまうような悲しげな声が、最後に聞こえた。
おかあさん。その声は私のことをそう呼んだ。
まさかそんなはずはない。
あの子は今東北にいると聞いている。
・・・・・・あの子はもう私の子じゃない。
私はあの子を産んで、すぐに別れた。あれから一度も会っていない。あの子は私がどこにいるか知らないはずだ。私はもうあの子とは関係ない。
そう思いたかった。
「おかあさん」
ひどく悲しそうな声が後ろからした。はっとして振り返ると、泣き腫らした目の愛が玄関に立っていた。
「ホワイトが・・・・!!」
そう言うなり、愛はランドセルを背負ったまま、また泣きじゃくりだした。
ホワイト、というのは愛のクラスで飼っていた、白いハムスターだった。そのハムスターが死んでしまったというのだった。
愛はしゃくりあげしゃくりあげながらそのことを話し終えると、部屋に閉じこもって、しばらく泣いた。
そういえば、愛はいきものがかりだった。特別かわいがっていた愛にとっても、クラスの子供たちにとっても、ホワイトは大切な存在だったのだろう。しゃくりあげながら、みんなでお墓を作って埋めてあげた、と言っていた。
豆電球を消さずに寝ることにした。
「おかあさん」
寝返りを打つと、また背後から声が聞こえた。悲しそうな、今にも泣き出しそうな声だ。昼間の愛に酷似したその声。体が一気に重くなった。
パチリ、と小さな音を立てて、電気が消えた。
部屋は闇に包まれた。
一言一言、言葉を搾り出す。
「・・・・あなた・・・なの?」
短い沈黙。
「・・・・・・うん。そうだよ、私、リセ」
声がそっと近づく。耳元にふわりと生暖かい息がかかった。腕に鳥肌が立つ。
体の震えを止めることができない。
・・・・・背後にあの子がいる。
「・・・・帰って」
返事はなかった。
「・・・・・帰ってちょうだい」
背後のあの子は答えない。
「・・・お願いだから、帰って」
「・・・やだ、もうちょっとだけお母さんと一緒にいたい」
「あなたはもう私の子じゃない!!!」
自分でも驚くほどの強い言葉が出た。
・・・背後から、微かにすすり泣く声が聞こえる。
「嫌」
「・・・・私はあなたなんかと関係ない」
「嫌だ」
「私とあなたには何の繋がりもない、あなたとはもう何の関係もない」
・・・体が軽くなっていく。
背後の気配が霧散していく。
そして、消えた。
ガチャッ・・・バタン
玄関のドアを開ける音。
ドアの外から、主人の足音がした。
悪夢がやっと終わった。
翌日。空が青く澄んで、晴れ渡っていた。土曜日だったので学校は休み、恵は早起きして外に飛び出していった。かくれんぼでもしているのか、下の駐輪場や植え込みの辺りから楽しそうな笑い声が聞こえる。
愛は、ホワイトのお墓にお花をあげに行きたいと言って、友達と一緒に自転車で学校に行った。
洗濯物を干そうとベランダに出た。今日はさぞかしよく乾くだろう。
「・・・・・・・おかあさん」
洗濯物を入れたカゴが腕から落ちた。
あの子だ。
腕が力なく体の横に下がり、どうしようもなく体が震え始める。体の自由が利かない。
「どうして」
「どうして帰ってくれないの」
あの子がすぐ後ろにいる。
「あのね、一つだけ、お願いがあるの」
悲鳴のような声しか出ない。
「何でもするから、早く、早く帰って」
数秒の沈黙。
「ねえ、一度だけで良いから私の名前、呼んで」
私はただあの子にこの幸せを壊されたくなくて、あの子の名前を呼んだ。
「・・・・・・・理瀬」
「ごめんね」
あの子が、申し訳なさそうに言うのが聞こえた。首にひんやりした指が触れた。
「ごめんね、無理言っちゃって。私ね、一度で良いから名前を呼んでほしかったんだ。」
背中にあの子がことりと頭をもたせかける。
「・・・・ありがとう」
「でも」
声から抑揚が消えた。
「おかあさんは私のおかあさんでいるのが嫌なんでしょう?」
ひんやりした指が首の前の方に回ってくる。
「私ね、決めたの」
徐々に、締め付けが強まってくる。
「おかあさんが私を必要としていないなら私もおかあさんを必要としない」
「・・・・私 に お か あ さ ん は 要 ら な い 」
首の圧迫が耐えられないほどになってきた。声を上げることができない。
「私の望みはもう果たされたし、あなたに望むことはもうない」
目が霞む。周りがだんだん暗くなる。
あの子が、背後から正面に回った。
冷酷な表情のない目だけが見える。視界が闇に閉ざされていく。
「ほら、私こんなに大きくなったよ、見えるでしょう?・・・・・・今日は天気が良いね、ほら、あんな高いところを鳶が飛んでる」
瞳には全く表情がないのに、あの子は口元にチェシャ猫のような笑みを浮かべている。
「・・・・・じゃあね、 私やっぱり お 母 さ ん の 事 好 き に な れ な い 」
これが最後の言葉だった。
植え込みに隠れたまま上を見上げると、最上階にあるウチのベランダが見えた。お母さんがいる。
・・・・・お母さん?
お母さんは首を押さえていた。
・・・いや、あれは自分で首を絞めているみたいに見える。
お母さんはベランダの手すりに寄りかかって、自分で自分の首を絞めている。
いきなりお母さんの両腕が首から外れた。
腕はだらんとベランダの手すりの外にたれている。首も、空の一番高いところを向いている。
それからゆっくり、お母さんの体はベランダの手すりの外に乗り出し始めた。本当にゆっくりゆっくり。
お母さんの上半身が大体乗り出したとき、バランスが崩れた。
「お母・・・・さ・・ん・・!?」
それはそれは長く思えた。
お母さんが落ちてくる。
それから、僕の目の前にお母さんが落ちた。
・・・・お母さんの顔は僕のほうを向いている。体は反対側の団地の方を向いているのに。お母さんは驚いて何か言おうとしているみたいな顔だった。お母さんの体の下から、小さな赤い水溜りが広がってくる。
・・・・・どんどん広がる。お母さんのエプロンも、お母さんの顔も、赤い水溜りに飲み込まれていく。
「お母さん?」
理瀬が目を開くと、白い天井が目に入った。自分の寝ているベッドも真っ白だ。
「あーよく寝た」
なんかすごく懐かしい夢を見てたな、と思ったが、夢と言うのはそんなもので、思い出したいと思ったときにはもう思い出せなかった。
ここは病院だろう。
みんな静かで、お医者さんもいないらしい。
確か私は学校から帰る途中に車とぶつかったはずだ。足を見ると、案の定右足は包帯ぐるぐる巻きで吊るされている。横を向くとサイドテーブルの上の日めくりカレンダーが目に入った。
「はー・・・・。三日も寝てたんだ」
・・・・お父さんどうしたかな。驚いたかな、私今まで大きな怪我なんてしたことなかったし、きっと血相変えて飛んで帰ってきたはず。
理瀬はお父さんの驚いた顔を思い浮かべて、くすっと笑いをこぼした。
ああそうだ、どうしよう、じゃあ昨日は定期テストだったはず。
まあ、今からじゃどうしようもないか、と天井を向くと 自分が何か持っていることに気がついた。
布団から右手を出してみる。
握られていたのは一輪の花だった。名前は分からないが、深紅の花弁が幾重にも幾重にも重なり合っている素敵な花で、とてもいい香りがした。
「綺麗な赤・・・。」
しばらく眺めていると、小さな欲求が頭をもたげた。
・・・・まあ毒はないだろううし。
理瀬は花を口に近づけた。
花を噛み裂くと、その花の香りとは別に、何か匂いがした。
鉄のような。
潮の香りのような。
結局なんだったかは分からなかったが、花はとてもおいしかった。
理瀬はまた目をつぶり、夢の続きを見ることにした。
私のオリジナル小説としては初めてのものです。
楽しんでいただけたでしょうか。