7話
自宅、空き部屋に無理やりねじ込まれたVRWの導入装置に横たわり、ルッカーを被って仮想へと赴いてからどれくらいの時間が経ったのか気になっていた。こちらへ来る以前に、ユイミとはすぐに落ち合う約束をしている。もしかすれば何かしら異常に気付いて、今頃は救済措置に入っているかもしれない。活発なユイミならケーブルを引っこ抜くことぐらいの荒業はするだろう。
「せめて、強制ログアウトの方法ぐらい訊いておくんだった」
後悔しつつも「仕方ないか」と頬を掻く。
不意に、それまで泣きっぱなしでうつむいていた少女の顔が起き上がった。水滴をポロポロと垂らす両目がぱっちりと開かれる。こちら側を恐る恐るのぞき込む様はまるで怯えた白ウサギみたいだ。その繊細な哀愁表現に、ヴァーチャルの完成度を改めて認識する。
何をし出すか判らず固唾を呑んで見守っていると、予想だにせず飛び掛ってきた。フツルの腰に手をかけ、まるで像に拝みつくような姿勢をとりだす。
「お願いです、どうか私の為に負けてくれませんか!?」
「――は?」
ぐいと迫る銀髪ガールの小さな顔から鼻腔にふわあっと甘い香り。顔、唇、接吻を予期させる異性の急接近に、フツルは身をよじってどうにか距離を保った。
煌びやかな流線の光沢を走らせる白銀の長髪、映すものを品高く輝かせる金の瞳、他皮膚の滑らかな質感や表情の微細な変化など、現実と見紛うばかりの再現度だ。現実を重んじるはずのフツルでも、あまりに生々しい肉体の甘美に思わず耳の辺りが火照ってくる。
「お、おい離れろよ」
たじたじで言ってみるも、さらに迫ってくる。現実めいた大きな両目からあふれ出た涙がぽろぽろとこぼれ落ち、うわずった声で何度も「お願いします、お願いします」と繰りかえされれば、さすがのフツルも良心が穏やかでなかった。けれども、やはりそれは仮想上で組み立てられた単なる虚像「アヴァター」にすぎないのだ。いくら美麗に引き立てられた容姿とはいえ、そう易々とダマされてはいけない。
ましてやフツルは負けることを良しとしない頑固な現実主義者。日ごろからいかなる場面においても妥協の二字を許さず、いかに強豪といわれる相手が立ち塞がろうとも敢然として引き下がらない。執念、しつこさはたまに鼈と揶揄される。けっして勝利を収めるまでは諦めようとしない。それが「一林 風弦」という男の本懐であり、また、そのものでもあるのだ。
「自ら負けるなんて、ぜったいイヤだ」
当然のように言ってやる。そんなものは勝負とは言わない、八百長だ。
「現実に害はないんです。用意されたHPのゲージは心臓を刺せば一瞬で消失します。それだけでいいんです。ほんの一度だけ……お願いです」
フツルの装う服を一層と強くにぎり寄せ、ひきつる声を懸命に抑えて少女が言葉を紡ぐ。
「……負けられないんです。理由は……言えないんですけど……わたし、絶対に、負けられないんです」
あまりの必死さに、しかして容赦する気もなくフツルは怪訝な表情を浮かべた。
「ちょっと、待てよ」
両肩をぐいと押して少女を引き剥がす。一度正常なる距離をとってから言い放った。
「勝手に話を変えないでくれ。僕が聞きたいのはそんなことじゃなくて、現状一体どうなっていて、そして――」
少女のほっぺをにぎり、上向きに少しだけ引っ張る。
「うにう!」
「この鮮明な痛みは何なのか? ってことだ」
よく伸びる柔らかい頬を引き伸ばされるまま、少女は濡れそぼった目を真っ直ぐに投げ返してくる。
「ひょれは……言えまひぇん」
「――はあ?」
この期に及んで、まだそんなことを。
「僕は今日、初めてVRWに赴いてきたんだ。周りにバカにされてね、半分ヤケクソで来てやったんだ。それがなんだ、イキナリ海の中で溺れさせられるわ、知らない女に凶器振り回されて殺されかけるわ、意味が解らなすぎて気が動転しそうだよ」
手を放し、体を逸らして向きを変える。そのまま横目で冷たい視線を送った。
少女は「ぐすっ」と鼻を鳴らすと、どこか重そうに口を開いた。
「……基本的なことなら教えられます。VRWMMORPG《クリティカル・アーマメント》。それがアナタの参入したこのゲームの名前です。他のMMORPGと同じように、プレイヤーには遊び方に幅広い選択肢があり、好きなことが出来ます。戦って経験値を溜めゲーム世界で最強を目指すのもよし、迷宮を踏破して得たレアアイテムを売り大金持ちになるのもよし、スキルを磨いて職人を気取るもよし。全てはプレイヤーの自由、委ねられています」
「それは知ってるよ。ユイ……友人に教えてもらったから。説明をどーも、けれど」
フツルが更なる疑問のフタを開けようとすると、そこで少女は手を上げて『待ってください』のポーズを挟んだ。
「それ以上は教えることが出来ません。ただ、今は私の言うとおりに負けて欲しいのです。HPゲージをゼロにすればすぐに、あなたが本来向かうべきだった正常なエントランスに入ることが出来ます。私を信じてください、危害を加えるつもりはありません。本当です」
真剣な目でじっとこちらを見つめてから、次いで深々と頭を下げてくる。
ばさりと落ちた銀髪の束のすき間から、彼女のうなじがのぞいた。