54話
夢だ、そうだ、これはきっとすべて幻影。
兄が、こんな場所にいるはずなどないのだから。
部屋にこもって誰人とも相容れず、これまでもこれからも、今もきっとそうだ。あの簡素で味気ない部屋の中で、一人黙って過ごしているに違いない。
世界中の視線を集めるこんなバカげた大舞台で、これほどバカげた所行を為すわけがない。だがリサの思いとは相反して、対面するその男は言い放った。
「怖いなら逃げてもかまわない。でも僕が誰であるかを悟れるなら、もう少しだけ待って欲しい。別れを言いたいんだ」
主張のない視線で、「兄」は妹を見つめた。
すべてが白と紫煙に包まれる景色は、確かに自分が仮想世界にいることを物語っている。しかし、先ほどまでクリティカルマスターズの決勝で沸いていた巨大な試合会場は跡形もない。木っ端みじんにぶっ壊され、見渡せばガレキの山だ。
多くいたはずの観衆たちも皆、どこへ消えたか姿なく、取り残された不安にリサは自分の肩を抱いた。
どう考えても異常事態だ。何もわからず、ただそこには兄と思しき男がいるそれだけ。
声を出そうと思った。
だがそれより先に、兄の声が脳内に届いた。
「素晴らしい世界だと思わないかい。願えば僕は、あの空の向こうへだって簡単に飛んでゆける。魔法が使える。武器も自在に操れる。何者にも負けない」
しばらくしてそれが、兄の自慢なのだと解った。
リサは、見たことも聞かされたこともない、兄の誇らしげな顔と、どこか張りのある声音を同時に知った。
「でも、だって、……ぜんぶ仮想じゃない」
空虚ではないか。どれほどの成果、実績、実力を示しても、現実世界にはなんら影響をもたらせないのだから。ここでどんなに活躍したって、それは一切が虚構。社会的、物的にも価値をもたない。
だが兄は意に介さなかった。
「そう言われる時代は終わるんだよ、リサ。物理に縛られたリアルでは決して発現することのできない人間の力を、この世界は導き出してくれる。少なくとも、僕には居場所をくれた。見てごらんよ。氾濫する情報をそれでも制御する万能なシステムが、今やすべて僕の手の中だ」
兄は微笑んだ。手を掲げるとベキバキゴキ! 腕内部から表皮を異様なモノが押し上げ、形状を歪にする。さらに筆書きのような黒地の文様が浮かびあがり、顔まで覆った。
ゴゴゴ、と大気が震える音を耳にすれば、空を巨大な銀幕が覆いはじめる。
なんて、力だ。
蠢く大気の迫力に、思わずリサは息を呑んだ。
いくら仮想とはいえ、繊細かつ重厚に表現されたこの世界にこれほど簡単に介入ができるものだろうか。果たしてこれが、自分や他の人間にもできるのだろうか? いや、想像するのもむりだ。兄の至る領域はおろか、小石のオブジェクト一つだってすら砕ける気がしない。
銀幕は、やがて巨大なスクリーンの様相を呈すると、その内側に色と形を渦巻きはじめる。少しずつ編成される像が始めはぼんやりと、やがてくっきりと映りこんだ。背の高いビルが群をなして立ち並び、隙間なく大勢の人が行き交う。どう見ても、これは、
「現実の、街?」
兄は軽く首肯した。
「リアルタイムのね。電気系統が次々と起こすバグに、あっちの人々は為す術がない。情報が爆発する時代、仮想の住人がネット上を席巻すればどうなるか。現実世界の住人はこうも遅れを取るのだから、この先、未来はよく見えてる」
スクリーン上、現実世界の人々は皆、一様にそれぞれが持つ携帯用の端末を見て立ち尽くしている。
「一体、何が起こってるの?」
「VR由来のハッキング、世界を巻き込んだコンピュータウィルスの猛威さ。仮想からの襲来に、リアルは騒然としている。仮想が現実とは乖離した世界? ははは、そうであれば世府も各国も、もとから見向きもしなかったはずだよ。そもそも世府の隠すロストメンタルに、書かれていたのは「進化」の方法だった。次代を継ぐ生物の誕生の為のね。現・地球の主人公『人類』を超えて、人為的に次のステージに立つ主役を生み出す技術書。VRはその入り口なんだ」
変形した腕をおろすと、兄の顔には多量の汗がにじみ出した。
「今、ネットは仮想世界の住人たちに支配されつつある。その中心に、世府が秘密裏に行ったロストメンタルの被験者たちがいる。彼らは常人の何倍もの思考速度をもって、脳と電子機器の相互伝達に長け、システム上で異常な力を魅せる。いずれは時代の引き継ぎ手になるだろう。仮想が現実を喰らう時代だ」
「仮想が、現実をって……まさか、お兄ちゃんは」
兄の真顔から、汗がぷつぷつと垂れ落ちていく。
「いいや違う。僕はロストメンタルの恩恵を知らない。実験は受けてない。リサと同じ普通の人間、のつもりだ。ただ病的な存在だった。救いようのないね」
「一体、どんな病気を」
収まらない激しい鼓動に胸を押さえながら、リサは気になっていた兄の病気について聞いた。
けれど知ることは叶わなかった。
「教えられない。そろそろ時間だ、僕はいくよ」
「待って!」
大声を出すと、リサは兄に駆け寄った。
だが兄の向けた背中は決して振り返らなかった。薄れていく銀髪の少年は、まるで初めからいなかったかのように、最初から兄など存在していなかったかのように、すべてが消えた。
目を開ければ、そこは現実。喧噪に包まれたアミューズメントパークの中だった。
口腔に残るアイスの甘味が、ほのかに脳をかすめた。