51話
「どうかした?」
「いいえなんにも」
彼氏の問いかけに、リサは半ば上の空で応えた。
常に無表情な兄の顔面が脳裏をかすめると、反射的に気が重くなる。楽しみたいこんな時に、わざわざ湿気たツラ出さないでよ! とばかりに顔をぶんぶん振って思考から消去せしめた。けど、暗鬱なしこりが残る。ストレスを散らすように、リサは不満を吐いた。
「まだ始まらないの? 早く『エキサイティングな試合』とやらを見せてよ。そのためにあの人混みの中を何時間も待ってきたんだから」
パンフレットに横走るゴシックのフォントを読んでいくと、たかだか一試合にも関わらずやたらと豪勢なポップに彩られている。これだけ煽っておいて陳腐な内容であったらば、費やした時間をどうしてくれるのだ。
見渡せば、がやがや。ひゅーひゅー。ありもしない「ここ」に集った人外どもが、騒ぎハシャいで踊っている。中には火炎の柱が昇っていて、何だ? と思ってよく見れば四足動物の尻っぽだ。小さな雲から滴る「雨」に、何で? と思って覗いてみると上にどっしりと構えたオニ(たぶんオーク)が乗っているし。足元には小人の行列がすり抜けて走ってゆく。
理に従わない、一貫性なんて、微塵もない。
自由だ。
何かに縛られる、ルールがある、慣例がある、習わしがある、そんなもの、どこへやら。現実からぶち切られたまったく異なるヘンな世界。リサが抱いた仮想への評価は、良くも悪くもとにかく「奇抜」だった。確かに現実では味わえない、ヒトの焦がれる不思議や奇想天外が、たっぷりと楽しめるだろう。この仮想世界ならばヒトは何にだって成れるだろうし、することができる。これからさらに革新を遂げる技術が後押しをすれば、この世界はいつかきっと、すべての人間が思い描くユートピアの体現だって叶えられるはずだ。
自分にはまだ遠く感じる世界の空気を、リサは一度深く吸い込んだ。
「楽しんでおるかのう、お嬢さん」
びっくりして「うぐ」。にわかに肺が詰まる。
その声は確かにリサの真横から発せられ、けれど、先刻まではまったく気付けなかった。
てっぺんが、つるっつるハゲ。その周りに真っ白な長髪を垂らすお爺ちゃんは、背中がぐんにゃりと曲がっていた。眼に綺麗な碧の光を灯して、よく見るとその奥は深くて「深淵」みたいに黒かった。
キレイなものだから、ぐいっとのぞき込んでしまって、「おほ、おほ、近いのう」と困るお爺さん。
「あ、ご、ごめんなさい。あんまりに、その、綺麗な眼だなと思って」
「仮想、じゃよ。幾らでも飾れるよのう。現実でのわしは何ら魅力ないジジイじゃ。こうして余した暇に赴いては、お嬢さんのような若さに触れて、感慨に耽っておるのよ。ホホホ」
けれどゆったりと笑う、その中に、リサはどこか「若い者」のニオイを嗅ぎ取っていた。この時から、自分でも気づかぬうちにリサは、仮想においてヒトが発する「周波数」のようなものをニオイによって感知していたのかもしれない。
「お爺さんは、本当にお爺さんなの? 中身は十代とか」
「ん? ホホホ、不思議なことを聞くお嬢さんじゃ。まあそれもまた仮想の妙かのう。わしは若いというよりは老いた新参者じゃな」
目を一文字にして笑うお爺さんは、とっても楽しそうだった。まるで仏か神様か、達観した顔立ちであるのにすごく児童っぽい。
「リサ見て! 来たぞ、現れた!」
隣で彼氏が騒ぎ出すのと同時に、会場全体がわああっと沸きだした。皆がいきなり立ち上がるものだから、押されてパンフレットが落ちてしまった。表紙に写る銀髪の青年の顔が他の人につぶされ、なにがどうした、そんなにスゴいのかと立ち上がろうとしたとき、ふと見ればもうお爺さんは消えていた。
なのにその声は、喧騒の中を確かに通った。
――ぬしはきっと、この世界を嫌うかもしれん。大事なもんを失って、よくよく見えなくなるじゃろう。恨まんでほしいのう。世界はあり方を探しておる。ぬしに近しい「あの男」も悩み、あり方を探し続けておるのじゃよ。恨まんでほしいのう。やりようによっては、美しくも、醜くもなるものじゃ、環境というのは。すべて自分次第で決まりおる。ただ恨まんことじゃ。
その瞬間を目の当たりにした全てのアヴァター、そして人間は完全に沈黙した。
甲高く耳鳴る。
デフォルメされたアヴァターに扮している彼氏の手は、説明のし難い「恐怖」を握っていた。リサ自身も、つい先ほどまで楽しんでいたアイスの味が、どうしても思い出せなかった。甘い感情や楽しい感覚が、なにゆえか沸かない。それはまるで、現れた銀髪のプレイヤーが、世界の支配者にでもなって、目に見えない強制的な指令を周囲に発し作用しているかのようだった。
ふき抜けた砂混じりの風に、銀髪が緩くゆれる。
鈍く光らない金眼は微動もない。ただ真っ直ぐ釘付けるように前を捉え、そこに絶大な圧で固めた壁をつくる。とても強いオーラなのに、わからない。主張がない。それはどこか世界に対して「拒絶的」であるかのようで、それはとても見覚えのある面影で……。
この時リサは、本当は気付いてしまっていた。そんなことあるわけない、絶対ない。解ってはいても、有り体で真っ当な考えが先行すれば、到底受け入れられるものではなかった。
けれど、確かにそこにはあの無口で何物にも目を向けようとしない、リサの兄「レイ」がいた。発せられていたニオイは、現実のそれとまったく同じ。けれど明らかに違っていた。同一人物であるはずなのに、入れ物である箱『世界』が違うことによって、人間のポテンシャルが爆発的に伸張している。
まるでこの世界そのものが、兄自身の全てであるかのように、きつく匂った。