49話
兄の命を奪った、けれどその兄が最も愛していた世界『ヴァーチャル・リアリティ』。
どこぞの知らない誰かが造った、仮想上の世界。
ド・ハマった兄のことをただの「引きこもり」と傍から見ていたリサに、VRへの興味を持たせたのは当時初めて付きあい始めた彼氏だった。それに、付け加えれば目をキラキラさせながら熱弁してくるクラスメイト「くるみ」も一役あったかもしれない。
「やばいの、すごいんだよ、本当にキレイなの」
初夏の朝、机越しからぐいぐいと顔を寄せてくるクラスメイトに、リサは非常に冷めた感想を抱いていた。へえ、そうなの。で、一体何がおもしろいの? と。
ドン引いた目をしていたら、くるみは反論した。
「もー、リサはあの世界を甘く見てるんだよ。きっと汚い現実を見過ぎて目が汚れちゃってるんだ。眼球に光入ってる? ねえ、アタマは大丈夫なの?」と、なんだか変顔で問われる。
「アナタに言われたくないわよ」
ちゃらける友の言い分は、けれど思い返せば的を獲ていた。
――光。
それが仮想世界における最大の魅惑であることを、リサは初めて降り立ったVRの大瀑布で思い知った。なんて輝かしい光景なのだろうと、しばし言葉を失ったことを今でもはっきりと覚えている。それは幼少時代に記憶したサカナの光に、どこか似ているような気がした。
閉じれば、まぶたの裏には今だって鮮明に夏がよみがえる。
水面でハネた魚がぴちゃり、宙空で銀色に煌めいていた。しぶきの間隙をゆっくりと落ちる銀魚が美しくて、眺めていたら足下がおろそかになった。ドテッと転んだのはそのすぐ後だ。
「うえーん! お兄ちゃーん!」
川辺でこけて、すりむけた膝が痛くて泣いた。にわかに反応した兄は駆け寄ってきてくれたけれど、その挙動はどこか不審で、すぐに手を差し伸べたいと思っているように見えても結局はダメで、おどおどしながらあっちの方向へと去ってしまう。
そう、兄は妹すら助けようとしてくれない、そんな人だった。
肉親であっても気を許さない、極度に遠慮しがちな、誰とも相容れぬ、一切あらゆるものに対して拒絶的な人間だった。
見事にも兄妹の関係に裏切られて、一人泣く妹は口をつぐんだ。ふり返ることのない兄の背中を、ただ恨めしく見つめてた。
その目がやがて、哀れみや蔑みに変わったのは青春期もかなり早めの頃だったろうか。家族でさえ変と感じていた兄なのだから、周囲からの評価は言わずもがなだ。親とすらろくに話せない兄に友達などできるわけもなく、学校へもいかず、一人外出してはどこかの図書館に入り浸り、知らない合間に戻ってくる。だのに頭は良く、教えを乞う必要性を与えない勤勉な態度と、周囲との間に強大な壁をつくる不思議っ子。そんな孤独な路を突き進んでゆく兄に、妹はなんだか社会的な羞恥を感じていた。周囲からこそこそ何か言われるたびに、同じ血を通わすことそれ自体イヤに思ってしまっていたのかもしれない。
「もっとハッキリ物を言ったら? 悪いけどお兄ちゃん、そんなんじゃ一生働けないし、彼女もできっこないよ。……みんなが影で、お兄ちゃんのことなんて呼んでいるか知ってる?」
――ロボだよ。動くけど、しゃべらないから。
一度キレて怒鳴ってやったこともあったが、お決まりの無表情が返されるだけで、一層ムカついた妹はそれから話かけることすら止めてしまった。つまり、以後会話は絶無になった。
そんな暗鬱な案件を抱える家族をよそに、世間の時間はみるみる進み始めていた。いつ車が空を飛んでも不思議ではない、ハイテクの機運が高まるテクノロの勃興期。地球外から飛来した未来人の歴史書「ロストメンタル」の恩恵によって、夢見たドラえもんの世界はすぐそこまでに迫ってきていた。
思えばあの夏、一世を風靡した希少ヴァーチャル・ゲームが、あらゆる物事に拒絶的な兄の手へと渡ったのは奇跡のなした業か、もしくは運命と言えただろう。ともすればあの頃から兄は、内包していたニュータイプの素質をすでに世府から見抜かれていたのかも知れない。
仮想世界の住人となった兄が、いよいよ引きこもりとなっても、妹を含めた家族親族の見解はほとほと冷めきっていた。感慨などない。彼らには特に変わることのない日常があったし、それに、まさか廃人男が時代を牽引する先人類になるだなどとは思うわけがなかった。
人知れず時は、次世の先駆者が現れるのを希求していたのかもしれない。「ニュータイプ」なる文言すらまだ一般的でなかったVRの導入期に、兄は仮想世界(あっちの世界)で無類の「最強」を手にした。それも圧倒的な、誰人にも叶わすことのない力を提げて、遠くまで渡る爆撃のような足音を響かせて。