46話
擦りむけた手首の痛みを無視して、田中くんは脳のリミッターを外した。通常であれば肉体を守るため無意識のうちに制されている神経系に幾十倍の伝達量をブチ放って、自らが骨すら砕きかねない万力で拘束を解こうとする。腕に食い込む縄がぎしぎしと音を立てるが、土台筋肉のスペックがザコすぎて、ビクともしない。
ときどき思うことがある。
仮想世界へ行って帰ってくると、現実の肉体の反応があまりにも鈍いような気がするのだ。とても窮屈で、縛り付けられているような、強い閉塞感を覚えてしまう。左右それぞれについた二本の腕と、延長上に生えた五本の指。使いこなせばひょいとグラスをつかめる、ジュースでも牛乳でもがぶがぶと飲むことができる。にぎって拳をつくればモノを殴れるし、ペンを取れば紙上にいくらでも何でも描きたいものを書くことが可能だ。足の方へと集中すれば指先を動かし靴の底をぐっと圧せるし、大腿筋に命じれば駆け出して、勢いにのれば全力疾走、そして地を蹴り出してジャンプだってやれる。
自在に操ることができる生まれ持った自分の肉体。長い時を経て人類が形成してきたかけがえようのない生体のフォルム――、体内を流れる赤い液体がリズムよく流動してゆくのを、田中くんは嫌にリアルに感じ取っていた。神か仏か誰が造ったか、この命ある血肉体は誤作動一つ起こすこともなく、これまでしっかりと機能してきてくれている。なのに、この授けられし己が体に、不満を感じずにはいられなかった。
全然、足りない。
まるで薄っぺらい。
腕はもっと無数に、たくさんあってもいいのではないかと思ってしまう。なぜ2本しかない? 指だって四十本ぐらいあってもいい。いや、もっとだ。ぜんぜん足りない。圧倒的にまったく足りていない。脳には幾十、幾百という腕や指、足を動かす指令を発する準備ができている。あっちの世界には一度に何千という桁の運動指令を「顕現」してくれるシステム(寛大さ)があるのに。仮想世界でセレイエが「跳べええええ!」と願えば、大地にがっぽりと凹を刻むほど強力なパワーで蹴りだせる。跳躍は瞬間を越える速度で天空へと導き、パンチは空間を絶する。遠く彼方へでもダメージを生みだせる。そして最愛の武器「アックスソードランス」を手にすれば鬼に大量破壊兵器を持たせるがごとき、行く先々の敵をごっそりと一掃させることが叶うのだ。
仮想では無敵の王者。けれど、現実では後ろ手に拘束されたまま地べたに座る小太りの田中くんは、とことん弱者だ。ぎしぎしと、血が滲み出すが悔しくも縄はちぎれない。
「やめたまえ。仮想ではアレだろうが、現実のキミはあまりに無力だ」
どこか高層ビルの一室だろうか、一面ガラス張りの外界には青々しい空しか望めなかった。だだ広いフロアにイス一つ。腰掛ける男はメガネをつんと上げ、足を組んで、小指でこめかみをぽりぽりと掻いた。
「乱暴しようというワケではない。ただ話がしたくてね」
事務処理的なスマイルを浮かべたその男は、見覚えある格好をしていた。紺色をベースカラーとする軍服に、微妙にサイズの小さい純白のマント。テレビでよく見かける有名な組織、世界中央政府の正装だ。
「話したいってだけで人を簡単に拉致できんのかてめーらは。鈴木はどうした」
「彼女も同じことを聞いてきたが、君らは互いにアレかね、想ってるのかね」
メガネをくい、とする仕草にイラッとくる。
「ここが仮想じゃなくて良かったな、今ので一回死んだぞお前」
「ふはは。なるほどウワサ通りすごい自信家なのだな。そしてあながちウソでもなさそうなのが、キミの実力が醸すところか。しかしまあ、残念なことにここは紛れもなく現実だ。君がその拘束を解いて私に刃向い、戦って勝てる確率を教えてあげようか。ゼロだ。ちなみに私は奇跡を信じない」
ニヒルに笑って一間を置き、メガネ野郎は続けた。
「ともかく彼女は無事だ。今は仮想のビップルームでもてなしている。安心したまえ、さっきも言ったが乱暴する気は毛頭ない。我々の目的はキミの協力なのだからな、田中くん。いや、仮想世界最強の騎士――、『セレイエ』と呼んでおこうか」
わざわざVRを用いたのは現実の肉体への危害を避けるため、と思いたい。クラスメイト鈴木さんの心配をしつつ、田中くんは思考を走らせた。
援助が欲しい、というのは十中八九VRに関する件だろう。なにしろ現実世界における田中くんの存在意義は、もう探すのが悲しくなるほどちっぽけだ。特段目立つ点もなく、若干引きこもり気味で友達も少ない。人付き合いに対する気概なぞは、小五の時分ですでに捨て去っている。自分には、本当の姿『VR』がある、とリアルに背を向けて生きてきたのだ。
仮想でセレイエが有名なのは、強いからだ。その拠り所となるのは高速再生や多重再生といった次世代の人類を象徴するVRの技術である。