42話
――ハン・ゼノウ
クリティカル・アーマメント史上はじめて、つまり最速で全能力をカンストさせたプレイヤーの性別は「オネエ」だった。自らの衣装にデカい「くちびる」のマークを彩り、いつもタコ口で投げキッスしてくる、ハン・ゼノウという大柄のキャラクターだ。六年前、ハンは全仮想世界大会クリティカルマスターズで「白銀のレイ」というプレイヤーに完敗して以来、表舞台には一切顔を出さなくなった。その後の消息を知るものはなく、もうゲームを辞めたとさえ噂されていたが、実は別名アカウントをいくつも乗り換えることで、ひっそりとゲーム世界の中に潜んでいた。
リョージのデータによると、ハンは複数の全カンストキャラを持ち、裏の世界では「全能王」と呼ばれているのだそうだ。高速再生や多重再生といった特殊技能を持ちうる人間、いわゆる仮想世界の「ニュータイプ」を除けば、正規のプレイヤー中で最強の実力を誇るという。それも、ここ数年は高速再生の技術を身につけるために、現実世界で「脳」をいじくる手術を受けたとか、思考に強烈な負荷をかける実験をしているとか、危険なウワサが飛び交っていた。
高速再生は、脳から発する指令をアレンジして、仮想世界における「発現」をビックにするノン・パラメータスキルだ。「殴る」というコマンドが起こす単発分のダメージ量を数倍にするほか、走力や跳躍力、時には破壊不可として既定されているデータにすら干渉する強力な技だ。
だが凄まじいスキルである反面、その力の拠り所は数値化されたパラメータではなく現実世界で横たわる人間の感覚そのものであったため、ゲーム世界では「不公平」「反則」「ズル」と蔑まれてきた。事実、高速再生をはじめて世に知らしめたプレイヤー「白銀のレイ」は多くのプレイヤーたちから迫害され、追いつめられたあげく自殺している。
現在は高速再生こそが仮想世界における実力であると認められており、初代の高速再生プレイヤーであったレイの存在は不遇のパイオニアとしてゲーム世界内に石像が造られているほどだ。
VRも過渡期の今、誰もがその力を欲し、けれどまるで先天的な能力であるがゆえに「ニュータイプ」という呼称が通っている。
ハンが表舞台から去ったのも、レイの魅せた高速再生の圧倒的なパワーが原因だったと言われている。絶対的な力、そんな理不尽で越え難いカベが、優越感を最高の愉悦としていたプレイヤーから努力するモチベーションを奪った。
ゆえに、ハンは自らの体を改造するという暴挙に及んでしまったのだろう。
リョージがハッキングして得た情報源に、ハンの本名、そして経歴が列挙される。イレギュラーな組織名と担当医の不審、怪しすぎる薬の名に、解剖された脳の画像まで飛び出して、フツルはたまらず顔を歪めた。
「ゲームのためにそこまでするのか。そんなことしたら、もう誰も勝てるわけないじゃないか」
「ゲーム……。確かに、一般的に見ればVRなんてただの先進技術をもちいたゲームでしかないかもしれない。けれど、現実世界で必死に何かを目指そうとする人たちと、彼らの意気込みはきっと変わらないよ。暮らしや営みだって、仮想には現実と同じように秩序があって、そこにはれっきとした社会が形成されている。戦果を上げれば認められ、賞賛を受ける。今や多くのプレイヤーたちが居する仮想世界で、名をあげることの価値は非常に大きくなってるんだ」
「――なんだか、現実の方がどんどん蔑ろにされてっちゃいそうだなあ」
そのうち現実世界でも刃物を振りまわす奴が現れるのではないかと想像すると、フツルは鬱蒼とした。
仮想で過ごす時間は、確実に現実での時間を消費する。それが生活のほんの一部分であればいいが、大半ともなれば肉体への影響は避けられないだろう。恒常化してしまえば人間の進化はもはや虚弱の一途だ。現実に万有する重力を背負って生きれなくなる。
現実と仮想、その境界にあるあまりにも深い溝について、リョージも考えるところがあったのか、無言のままハンの経歴データを消去した。その代わり、別のウィンドウがポップする。
「仮想が人の現実をダメにするデータは確かに多く存在するよ。けれどね、その逆もあるんだ。人間がこれまで実現することができなかった思考のブレイクスルーを、仮想世界に浸った人間が成したことは有名さ。新しい「進化」が、そこにはあったんだ。考えることによってのみ編み出される力を、それをより具体的に顕現することができる世界。虚像だけど、ちゃんとそこにある世界。それがVRなんだ」
青白いウィンドウに映し出された少女は、かつて高速再生を編み出した伝説のプレイヤー「白銀のレイ」の妹だった。