4話
もしもこれが感覚野の錯覚だというならば、気を落ち着かせて認識し直せば良い。
これは痛みじゃない。自分が勘違いで過剰になっているにすぎない単なる仮想の産物だ。
これは痛みじゃない。現実の自分は何ら被害もなくすやすやと眠りにふけっているだけなのだ。
これは、これは痛みじゃない。実際の手は無傷の状態に保たれてすべすべのぴかぴかの……、
ぐ……くうっそ、やっぱり痛いぞ。どうしたって痛い。
走りながら冷静を取り戻そうとするも、想定外の痛覚に焦るばかりだ。
必死に女との距離を取りながら、そろそろいいかなと後ろをチラと見る。
そういう身形にするからには所作におしとやかさ、しなやかさを期待したいところだった。まさか女性キャラが鬼の形相で必死こいて追いかけてくるなど想像もできないし、したくない。
けれどここは、土台そういう世界なのだ。
「――ぇえッ!?」
追撃の手をゆるめる気はもとより、形相、必死さには驚かされた。そこまで本気になる理由が、一体この野蛮なゲームのどこに存在するというのか。彼女は腰巻まで届かんばかりの長髪を、井戸から這い上がる妖怪さながらふり乱しつつ突っ走ってきている。
いや、けれどしょせんは女の子だ。男性とは走力に差が生じるはずで、しかも現実世界でのフツルの脚力は平均を大きく上回っている……。と、思ってみたところ、わりかし瞬殺で萎えた。きっとムダだ。ようやっと把握してきたけれど、現実世界で考えうる常識はすべて機器に食われてしまっている。数値化された虚構と、物質的に拘束された肉体へのリアルな電子アタック。それが、この世界での無二の真実なのだろう。つまりは足掻くにも、こちら側のルールに準拠しなければならないということだ。
案の定、少女の移動速度はフツルが期待するほどの遅さでなく、むしろ余裕をもってフツルより速いという見事な裏切りっぷりを見せつけてきた。これが仮想。
急制をかけて立ち止まり、剣を抜きながら振り向く。
そのまま刀身を縦に構え、これだけは言っておきたい、と声を張り上げた。
「僕は普段、女の子に刃なんか向けない!」
ガ、キィィィィン!
追いついた少女の一撃目を受け止める。伴って、柄を握る手の内が焼けるように痛んだ。
――うぅぐ! くっそ現実に戻ったら絶対に訴えてやるっ。
と、悠長に考えていられる状況ではなく、重心を移しながら再度剣を振りかぶった。風を斬り、ぶつかりあう鉄製の刃どうしが甲高い音を周囲に飛ばしあう。弾かれ、それでもまた次へ向けて動作を取る。手の皮がひん剥けたようなズレ感が襲うも、構わず肩の後ろまで刃を引き、勢いに乗せて大きく振りぬく。それをキレイに捌かれてしまうと、戦闘はいよいよ乱舞となる。鍔迫りは止むことなしに、お互い殺傷を至上の目的とした凶器を右から左へ、上段から下段へと実に豊富な連閃で振り回した。刃と刃で殴りあうだけの耳にうるさい音が、虚構の世界にこだましていく。
顔をしかめたのは少女のほうだ。
おそらくはシステム上の設定で体が動くように、ある程度は成っているのだろう。幾度か繰り返されたチャンバラ劇は可笑しいほど華麗で、剣はおろか家庭の包丁ですらまともに扱えないフツルが様になり過ぎている。
とはいってもフツルはゲームの初心者。
動きに補正が加わるとはいえ相手方も条件は同じなのだから、キャリアが上である方が有利に決っている。それでも引けを取らないことが、つまりフツルの素地能力が、少女の予想を大きく上回ったのだろう。
額に滲む汗が頬を伝い、振り上げた剣と共に弾き飛ぶ。三度鳴り響く鉄の共鳴音。
彼女が隙を見せたのは、そのほんのわずかな瞬間だった。現実の肉体は一切考慮されないのが仮想の掟なのだろうが、神経系のタフさまでは従えられないようだ。互いの疲れがピークに近づき、ここにきて差が生まれた。
息を切らしていた彼女の手元が一瞬だけ狂う。
完璧主義者の眼光は、その精密の中にある欠損を絶対に見逃さない。
半身をねじり、剣を腰巻に引く。構えだと思わせる動作は予想を外してフルの一回転と為す。
浮き上げた右足を、左足を軸に巻き、彼女の腹に目がけて思い切り叩き込んだ。
武器に頼ることのない、現実でもフツルが得意とする体技「回し蹴り」だ。
受けのタイミングを完全に逸した一撃が、ノーガードだった少女キャラのボディに吸い込まれる。直後、ヒットしたポイントから白い光が生まれ「キュイィィィィン!」とシステムチックな高音が鳴り響いた。伴って噴きつける風圧に顔をあおられ、フツルのまったく予期していなかった爆発エフェクトがゲームの世界よろしく見事に瞬く。激震に併せて少女キャラクターの体がくの字に折れ、そのまま大砲玉のように後方遠くまでふき飛んでいってしまった。手から放された剣が宙にまい、カラン、カラカラ、と落ちる。
体を何度も打ちつけ、ごろごろ転がってゆく少女。痛さは想像に難くない。
やってから、やってしまった、と思った。
蹴り完了のお手本ポーズでカッチリと固まり、唖然と口を半開く。
「あ、え、っと、どう――」
してそうなってしまったのか。フツルにはまったく解らなかった。