38話
ぎぃ……。
リョージが手を押し当てると、扉に鍵などはなくすぐに開いた。息を呑む一瞬、中から拍手の音がより身近に聞こえだす。単一で発せられるその音は、あきらかに一人の人物によって起こされていると推測できたが、実際、一人だった。
暗がりの足もとにさあっと赤色がひろがる。奥行きに長い部屋全体に、レッドカーペッドが隈なく敷かれているのだ。部屋の中心部には木製の棚、椅子、そして丸テーブル。上には白いカップが一つ置かれ、湯気がほっこりと立ちのぼり、その向こう側、壁に掛けられた額縁にはどこか懐かしい田舎の風景画が飾られていた。
部屋の最奥部には仁王立つ男。細い目でこちらの姿を確認すると、目を見開いた。その一種ホラーな表情はかなり不気味で、しかし肌で感じられる怖気のほうがよっぽど鮮明に感じられた。
「若い。まだ十代もそこらじゃないか。よく辿りついたものだな、ようこそ我らがアジトへ。拍手だ」
言いながら、反してかなり鬱陶しそうにぱんぱん手を叩く。鼻の詰まっているようで異様にトーンの高い声音をもったソイツは、ファンタジーも興ざめの黒スーツをきちっと着こなしていた。首を絞める赤いネクタイに、良く見ると深い真紅の玉模様が散らばっている。肉のこそげ落ちたガリガリ顔に窪んだ目が二つ。くっきり丸くして見つめ返されると、ハッキリ言って気持ちが悪い。こいつが闇サーバを設えた首謀犯なのだろうか。じっとりと、手の内側に染み出した汗をフツルは握りつぶした。
表情を変えることなく、リョージは一歩前へ踏みだすと真顔で返した。
「……アジト。それはつまり、貴方がサーバの管理者ということですか?」
「ああ、確かにサーバの面倒は私が見ているよ。我々のうちでは『フォークサイト』と呼んでいるがね。くる途中に見てきているはずだ、なかなかのエンターテインメントだったろう?」
それが普通の顔なのか、目を一文字に細め、男は拍手をやめた。
「世府もやることが腐っている。おとりを使うのであればもっと無価値で使えぬ者を用いればよいのだ。なぜゆえに君らのようなキラメク若者をポイ捨てようという――。大概可哀想でならない。世は絶対的な統一体制に縛られてしまって、カオスを見失いかけているのだ。なんたる悲壮か」
まるで憎き相手を虚空に見るように、こけた顔が歪んだ。
言いたいことはさっぱりだが、おとり、という言葉が気にかかった。
リョージは至って淡白に口を開く。
「あなたには世府サーバへの不当な介入と改ざん行為、および許可なく他人の意識データを捕縛した容疑があります。もし『反世府』と関わりがあるなら大罪につき、極刑は免れません」
「知っているとも」
こつ、こつ、こつ。後ろに手を組みながら黒スーツの男が見せた移動速度は、三歩にして異常なるものだった。言い換えれば瞬間移動。一歩目で体が消えるのを確認すると、フツルはすぐに身を構えたが、けれど男の姿は予想に反して右の壁側へと移っていた。その間、移動の軌跡はおろか唱詠をする仕草すら窺えなかった。
「君らこそ知っているのか。世府がどれほどの悪行を、どれだけ積み重ねてきたのかを」
声は二歩目と同時に、男の姿はいつの間にかフツルたちの背後にあった。驚きに振りかえるがその時にはもう三歩目が始まっている。改めて部屋の中央へ移動した男はテーブル上のカップを手に、ゆるやかに口元へ運んだ。一体どんなトリックを使っているというのか。あまりに速過ぎる動きにフツルもリョージも凍り詰めて動けなかった。クリティカルアーマメントではいかなる魔法であっても唱詠が必須となる。リョージが教えてくれたことだ。もしこれが魔法の類、つまりゲーム上のロジックによらないものだとすればシステムそのものが改ざんされている可能性がある。もとより天才ハッカーにも歯の立たない世界、仕掛けられているプログラムの重層は知れたものではない。
そのシステムを手がける張本人が、今まさに目の前にいるのだ。
「我々のしていることなどまだ可愛いものだ。記憶を奪っても命まではとらん。だがヤツ等は違う。徹底的に狂っている。人間を実験に、幾万もの尊い命を葬っているのだぞ? 衰退した人類進化の勃興などと、横暴きわまりない夢想を謳い、挙句完成したのがあのバケモノではないか」
すうー……。
しゃべりながら体を透明化させてゆく男はやがて完全に姿を消しさり、そして再び実体化するときにはやっぱりこれもって人間などではなくなっていた。