11話
一つ、二つ、三つ。
視界にほとばしる光の筋を、なんとはなしに数え始めてから四つ目のときだ。異様に親しみ深い「重み」が、全身を何層にも包みこんだ。想像もし得ない巨大な世界が、体を鎖で縛りつけぐいぐいと引き摺っていく。するといつしか特定の場所にぶつかって、そこに肉体ががっちりと固定される。「どこにもいかないで」。そう訴えかけるように、確かなる世界は、自分の拠り所がどこであるのかを改めて教えてくれたような気がした。
体が、たるい。
まどろむ思考の奥底から、ジッパーを開けるようにうすく水平線が引かれる。と、今度はなにか異様に近しい感触に、ほっぺをべしッ! 続けてべしッ! これでもかとべしッ! っとはたかれる。しかして多忙な日の早朝に、睡眠時間の延長を請うような鬱屈した気分で、応答は到底返せそうになかった。
反して急激に目が覚める。
アリの巣にてっぺんから液体を流し込むのに似通った、体中の毛細血管をわたる充足感。しばらく時間をとって、その全体像が形作られてくる。全身を満たしてゆくこの血の気の繊細さが、おそらくは神経系の回復なのだろう。体幹部から肢体の末端にかけて順々に、懐かしきリアルの五感が戻ってくる。ああ、そうか。そういうことか。
(還ってきたんだ、無事に……)
しかし、妙だった。納得し難いのはこのベシッとくる衝突感である。頼んでもいないのに、勝手に強度を増幅させ一発また一発と打ちこまれる。局部を通して体内に染みこむ濃密な情感は、触覚に特化して与えられる強烈な……痛み?
「フツル! おねがい、起きてフツル!」
やっと映像として処理ができるほどまでにマブタが開きはじめた。そろそろ起きようかと思う直後、振りきられた平手によって強制的に視界が遮断される。そのわずかな間隙に際し、しかし現状はよーくわかった。すぐにでも「やめてくれ」の一言を彼女に、――ユイミに突きつけてやりたいのだが、びりびりとくる痺れから口の周りがまだしゃんと動いてくれない。
発声かなわず、代わりに辛うじて動かせる手を必死に伸ばした。
それで意識の復調を悟ってくれたのか、安堵の溜息が聞こえた。
「……もお、心配かけさせないでよ」
脱力する彼女はけれど、次の瞬間、ビクッと体をこわばらせた。制御を失いながらも懸命に突き動かされたフツルの手が、不可侵の「何か」に触れて包んだのだ。それは非常に柔らかく、もにゅうりとした弾力で優しく手を撥ねかえしてくれる。こねたオモチみたいで、なんだかとっても気持ちいい。思わず口に運んで食べてみたくなる。
「ちょ、ふ、フツル――」
戸惑いまじるユイミの声が脳内に鮮明に届くと、どっと安心感が降りる。仮想へ入ってから一度は命の喪失すら過ぎったのだ。こうして身近な存在のぬくもりを、ただ肌に感じ取れるというだけで、亡失されていた日常のかけがえのない幸せにはたと気付くことが……、
「いつまで触ってんのよ、ばかあ!」
ボコシッ! とお決まりの痛烈パンチに見舞われ、フツルの意識は再び、深い海溝の底へと堕ちていった。
★☆☆★☆☆
時刻はすでに三時を過ぎている。ルッカーを被り仮想へ赴いたのは午前十時ちょっと前。実に五時間近くものあいだ仮想の世界、もしくは仮眠の状態で過ごしていたことになる。脳内間隔の齟齬から時差ボケに襲われ、思った以上に気分はすぐれなかった。なによりユイミのパンチが効いたのだろう。おでこのコブが、未だにズキズキと痛む。
自宅、かつては祖父の書斎だった十畳ほどの空き部屋は、今はガラクタの倉庫として使われている。あるのはディジタル版移行に伴って端に追いやられた古い書籍。中身の判然としない段ボール箱の山。それに古臭い箪笥棚。ホコリをかぶったフォトフレームの中では、フツルと他三人の幼馴染が仲睦ましく笑い合っている。
その部屋の入り口すぐ手前を占めるのが、仮想への入り口でもある導入装置である。適当な置き場所が確保できればすぐにでも移す予定だが、今のところメドは立っていない。使用頻度の多い父や妹は一向に構わないようだが、母はダメだった。そのうち決行されるだろう大掃除によって、きっと祖父の遺物にもフツルの思い出にも、踏ん切りをつけなくちゃいけない時がくるのだ。
「ほんっと心配したんだから!」
まだ険悪なオーラをもって、ユイミがぐぐっと迫る。
「ぜんぜん現れないから落ちてきてみればびっくりだよ。アラーム鳴りっ放しで、警告出っ放しで、フツル苦しそうな顔してるし インコール(外から中のプレイヤーへの通信)送っても反応ないし、フツルふぁみりー、みーんな出かけていないし!」
頭からぷうぷうと蒸気を出すユイミ。だが少し経って「……ほんとに良かった」とつぶやき、安心した面持ちを見せてくれた。
「なんか……悪いな。心配かけて」
「ユイミだけじゃないんだよ」
そう言うと少し躊躇いがちに、ユイミは引っこ抜いたケーブルをみせてくる。
「リョージにも助けてもらったんだから」
「……え? り、りょーじって、えっと、あの?」
ホコリまみれの写真立てを、おそるおそる指差す。するとキラっと目を光らせたユイミが、ぴょんと立ち上がった。