婚約破棄された幸運貸しの令嬢を我が国に連れてきた監査役ですが、実は初対面からずっと推していました
「ローレンツ卿。君はルディア・ルシュフォード嬢に肩入れしすぎではないか?」
ヴァルシュタイン公国契約庁の長官は読み終えた私の報告書を三通、机に置いた。
クラウディア王家がルシュフォード家から借りていた幸運の契約を終えた件。
王宮祝福式で町の者たちの幸運が無断で使われていた件。
ヴェルヌ家の婚礼契約を差し止めた件。
四通目はまだ、私の机にある。クラウディア王家から届いた幸運再貸与の嘆願を、書式不備で差し戻した件だ。どの報告書にもルディア・ルシュフォード嬢の名があった。もちろん、私が書いたのだから当然なのだが。
「彼女は契約庁に必要な人材です」
私の声は、自分でも感心するほど落ち着いていた。必要な人材。そう口にしたのだが、必要どころではない。初めて彼女を見た瞬間から、私の理性はまともに機能していない。その自覚はある。いま椅子に座っているのは、理性の皮をかぶった別の何かだ。自分の今の感情を整理してみる。好意? 敬意? 信仰? 崇拝? どれも近いが、どれも違う気がする。色々と考えた結果、今の自分の状態をきっちりと言語化してみる。結果はこうだ。
『職務に見せかけた、かなり個人的な推し活』
それはよろしくない。それは、自分でもよくわかっている。
「必要な人材、か」
長官の言葉で、我に返る。
「はい。幸運貸与の記録を正しく読める者は多くありません。いえ、正しく読めるどころか、彼女の幸運貸しは稀代の技術で……」
「それは分かっている。だが、通商に響く式典を止め、侯爵家との縁談を断り、婚礼まで差し止めた」
「それは職務上、必要な対応でした」
職務上。便利な言葉だ。実際の私の内心はこうである。ルディア嬢が困っているから私も行く。彼女が止めたがっているから止める。彼女一人に難問を抱え込まさない。以上だ。
だがこれを報告書に書けば、私は監査役ではなくただの危ない男である。そう、私はただの危ない男では断じてない。少なくとも、書類上は。
「君は昔から冷静だった」
「恐れ入ります」
「だから余計に気になる。いつからだ?」
「何がですか?」
「いつから、そんな顔をするようになった」
私は表情を変えていない。変えていないはずだ。
長官室の書棚のガラスに、自分の顔が薄く映っていた。口元は動いていない。眉も上がっていない。ただ、目が少し血走っている。鼻の穴も大きく広がっていた。これはよくない。
「職務上の顔ですが」
下手にリアクションしてはまずい。私は何事もなかったかのように装った。
「では職務上、聞かせてもらおう。君はいつから、ルディア嬢にそこまで入れ込むようになった?」
いつから?
答えは決まっている。最初からだ。私が最初に彼女と出会ったのは、舞踏会場ではない。
クラウディア王国へ赴いたとき、私は契約庁の監査役として使節団に加わっていた。任務は「なぜ隣国があれほど栄えているのか」を調べることだった。小麦が不作なのに大きな飢えにならない。雨季のずれが一日で収まる。商談はぎりぎりで破談を回避し、毒杯はなぜか重要人物の手に渡らずに溢れる。
調査したところ、派手な奇跡はない。壊れるはずの車輪がその日だけ保つ、破談になりかけた商談で相手がもう一杯だけ茶を飲む。毒杯の盆だけ給仕が転び、床にぶち撒けられる。そういう小さな回避が、この国には多すぎた。
視察初日、私は王都東門の検問所で足止めを食らった。小麦を積んだ荷馬車が三台、門の前で止められていたのだ。王宮の案内役は「許可印が足りません」と言い、門番は「印がなければ通せません」と言う。御者は帽子を握りしめ、荷台の小麦を何度も振り返っていた。
私は門番の机に置かれていた納入帳を借りて開いた。荷馬車の通行印は押されている。だが、昨日付で改められた印章と古い控えが混ざっている。王宮側の説明は要領を得ない。こちらが口を挟めば外交官の越権になる。面倒な詰まり方だった。
そこに一人の令嬢が歩いてきた。陽に透ける亜麻色の髪を低く結び、袖口に少しだけインクの跡がある、飾り気の少ない薄青のドレスを着ていた。護衛も侍女も連れていなかった。彼女は御者に会釈すると門番に古い控えを一枚返し、机の前で足を止めた。
「失礼いたします。その荷は王宮納入ではなく、東区の備蓄分です。止めるなら、三番窯の火が落ちます」
静かな声だった。だが、その言葉で場の空気が変わった。彼女は納入帳の端を指で押さえ、濡れた紙をめくった。
「こちらが昨日の改印記録です。乾く前に閉じたので写りが悪いだけです。このあと、私から書記官へ控えを届けます」
門番が目を丸くし、案内役が咳払いをする。荷馬車が動き出すと、御者は彼女に向かって荷台の上から何度も頭を下げた。
私は彼女の横顔を見た。胸の奥で、何かが強く跳ねた。
何だ、今のは。
視察初日の疲れだろうか。いや、まだ午前である。疲れるにはまだ早い。
「あの……」
私が令嬢に話しかけようとしたとき、王宮の案内役が次を急かした。彼女はすでに門番へ控えを渡し、荷馬車の後ろ姿を確認しているところだった。こちらを振り返る様子はない。
その日の夕方、私は王宮の文書庫で幸運貸与記録の写しを見つけた。国が傾きかけた瞬間だけ働く、妙に正確な『幸運』。その記録には、同じ家名が残っていた。
ルシュフォード。
その家名には、見覚えがあった。私がまだ少年だったころ、国境の会談で父に同行したことがある。会談前夜、父が落とした万年筆を拾ってくれたクラウディアの女性がいた。父は翌日、その万年筆で協定書に署名した。別の筆を使っていれば、インクがにじんで署名が無効になっていたと、あとで知った。
その女性は「幸運を貸す家の者は、自分の幸福まで契約に混ぜてしまうことがある」と言っていた。子どもの私には、意味までは分からなかった。ただ、ルシュフォードという家名だけは印象に残っていた。
さらに写しを読み進めると、東門で見た改印控えと同じ署名があった。ルディア・ルシュフォード。東門で見た、あの令嬢だった。彼女がこの国の幸運貸しだったのだ。
王家が「幸運」と呼んでいるものを、彼女は浮かれず飾らず、淡々と管理していた。返却条件は細かく、貸与先は限定され、余計な上乗せも搾取もない。東門で詰まった荷馬車を通したときと同じ、静かで迷いのない判断を感じた。
やはり、と私は思った。濡れた改印記録をめくっていた横顔と、写しに残る細かな署名が、頭の中でぴたりと重なった。
問題は、彼女に婚約者がいたことだ。しかもお相手はこの国の王太子殿下、ヴェルナルドときた。
それを知った瞬間、胃のあたりがすっと冷えた。心を通り越し、胃にきたのだ。さっきまで読めていた文字が急に遠くなる。私は椅子の背に手をかけ、呼吸を整える。さすが王太子、この国のTOP OF TOPだ。見る目がある。そう思うのと同時に、目の前が真っ暗になる。
ああ。私はあの令嬢のことを、もうそんな風に想っていたのか。
出会ったのは今日だ。話した時間もほんのわずかだ。いや、正確には彼女の声を聞いただけなのだ。いつの間にか、話をした気になっていた。これはまずい。やばい。私は思い切り頭を振る。ほんの数分見かけただけだ。それなのに、彼女がこの国の王太子と婚約関係にあると知り、それだけで帰国したくなるほど具合が悪くなった。
いや、だが、彼女が王太子と結婚するとなれば、ゆくゆくはこの国の王妃だ。それはこの世に生きる全ての女性にとって、最高の名誉だろう。なんら、まずいことはない。
報告書には、クラウディア王国が栄えている理由として王家の幸運貸与管理者ルディア・ルシュフォードの存在が大きい、と書いた。私は職務を全うする。職務なら、何度その名を見ても許される。
ルディア・ルシュフォード。マジ、天使だな。
いや、待て待て。ローレンツ、お前は今、何を考えている? 相手には婚約者がいるんだぞ。
いい。彼女が幸せなら、それでいい。王太子なら責任も立場もある。彼女を大切にするなら、私は隣国から繁栄を祈る。祈るだけなら、外交問題にならない。
そう言い聞かせながら、私は星読みの儀に招かれた。王家が年に一度、翌年の吉兆を占う祭典だ。舞踏会場の壁際で、私は一人、飲みにくい葡萄酒を持て余していた。
そのときだ。王太子ヴェルナルドが言ったのは。
「ルディア・ルシュフォード。お前との婚約を破棄する」
私は一瞬、その言葉の意味をうまく理解できなかった。
婚約破棄?
「え、まじで?」私の心の声が、小さく漏れた。
隣にいた書記官がこちらを見た。私は咳払いで誤魔化した。
いや、待て待て。なにそれ。妹に鞍替え? は? 王太子の隣に立つルディアの異母妹セレイナ嬢は、たしかに分かりやすく華やかだった。柔らかく笑うし、目を伏せる角度も計算されている。スタイルも申し分ない。言うなれば、造花のように狂いがない女性だ。そこは認める。だが王太子よ。あんた、目の付け所が場所が違うんでないかい?
会場に、期待の沈黙が落ちた。誰かが泣くのを待つ、誰かが崩れ落ちるのを待つ沈黙だ。はっきりという。私はそういう空気が嫌いだ。
だがルディア嬢は、聴衆の期待に反し落ち着いた様子で胸元の銀の鍵に手を添えた。あの銀の鍵は、王宮で読んだ幸運貸与記録の末尾に記されていた。あれは幸運の契約を解き、貸したものを取り立てるための鍵だ。
泣かず、怒鳴らず、彼女は背筋をぴんと伸ばしたまま、王太子を見た。
東門で見た、凛とした令嬢がそこにいた。
あのときと同じように、大げさなことを何も言わない。ただ、場の詰まり方を見て、次に何を通すべきかを分かっている顔をしていた。
マジ女神じゃん。いや、違う。落ち着けよ、ローレンツ。その横顔を見た私は、美しいと思った。強いとも思った。声が震えそうなのに、震えていない。その強く儚い様子が、私の心をぐっと締め付けた。もうだめ。監査不能。私の心が契約不履行である。何をいっている、ローレンツ。
彼女に近づきたい。いや、近づくな馬鹿。尊いものは、触れるものではない。ただ、幸せでいてくれればいい。できれば、転びそうなときに床の段差を削るくらいの距離にいたい。それくらいでいい。は? なんだそれ。大丈夫か、ローレンツ。
自分で自分にツッコミを入れる。落ち着け。私は悪くない。悪いのは王太子だ。
王太子、お前の目は節穴だ。いや、節穴に失礼だ。見るべきものが見えておらず、聞くべき言葉を聞いていない。造花と生花の区別もついていない。節穴どころではない。もはや****だ。****確定である。……だめだ。どうかしている。今のは無し。無し無し。全部無し。
私は葡萄酒の杯を持ったまま、静かに深呼吸する。落ち着け、落ち着け。外面を保て。
ルディア嬢は王国との契約を切る前に、相手へ引き返す余地を与えた。最後の確認だ。だが会場は笑った。王太子も笑った。私は笑えなかった。
彼女は手続きを守っている。笑われながらも、なお。
王太子が「好きにしろ」と言った瞬間、胸の奥に浅ましい安堵が灯った。
彼女が自由になる。
そう思ってしまった自分を、次の瞬間には思い切りグーで殴りたくなった。彼女は今、傷つけられている。何年も積み上げてきた時間を、目の前の男が笑いながら投げ捨てた。その事実に怒るより先に、私は自分の恋に、ほんの一筋の望みを抱いてしまった。
この感情はなんだ?
二十数年生きてきて、初めての感情だった。嬉しいのか。怒っているのか。苦しいのか。
否、一つには絞れない。全部だ。様々な感情がないまぜになり、胸を締め付ける。
こんな感情は初めてだ。朝、門の前でほんの少し出会っただけの令嬢に心を奪われ、婚約者の名を見て勝手に失恋のような気持ちを味わい、その彼女が婚約を破棄された途端、希望と怒りと罪悪感で息が詰まる。
苦しい。無茶苦茶苦しい。これ何なん? もう、何よこれ。苦しいんですけど。
だが私は何一つ顔には出さず、ただ亜麻色の髪の令嬢を見つめていた。
銀の鍵が回る。楽団の弦が切れた。真珠の首飾りが床を跳ね、窓の外で雨が降り出した。会場の者たちはそこでようやく異変に気づいたようだ。
彼女が大扉へ向かった。私は一歩、踏み出しかけた。だが隣国の外交官が、王家の内紛の場で婚約破棄された令嬢に寄り添うわけにはいかない。一発で外交問題だ。何だあいつは、となる。当のルディア嬢でさえ「どちら様ですか?」となるだろう。
気持ちだけなら「今すぐ保護させてください」と言いたかった。
だが、それを言えば捕まる。外交問題に発展する。
その夜、私は王宮の天井から落ちる雨漏りを見つめる。これも幸運貸し契約不履行の対価だろう。
決めた。明日の朝、ルディア嬢に会いに行こう。滴る雨漏りを見つめながら、私は決心した。
会いに行く理由はいくらでも作れた。王家の幸運貸与契約が終われば、隣国との通商にも影響が出る。ルシュフォード家の記録も確認しなければならない。契約庁の監査役として、保護と協力を申し出ることもできる。
ただ、契約書と条件だけで彼女を我が国に連れて行くのは違うと思った。それでは、この国の王家が彼女にしてきたことと変わらない。彼女の前で、彼女の目を見て、こちらが差し出せるものを正直に伝える。それが私にできる、誠意だと思った。
そう思っている時点で、もう職務の領域を超えているのだが。
翌朝、宿に届いた伝書鳩の筒には、上官からの短い命令書が入っていた。
命令書には、王家の内紛に関わるな、とだけあった。
私は返書に承知しましたと書き、その足で契約書を鞄へ詰めた。
承知はした。
だが、従うとは言っていない。
ルシュフォード伯爵邸の庭で、彼女は荷をまとめていた。泣いた形跡はないが、疲れは顔に出ていた。目元には眠れなかったであろう影があった。
その姿を見た瞬間、心臓がまたおかしな鼓動をした。
「ルディア・ルシュフォード嬢。突然の訪問をどうかお許しください」
彼女は私をまっすぐ見た。吸い込まれそうな瞳だった。さらに鼓動が早くなる。直視はやめていただきたい。まじで心臓に悪いんです。
「王宮ではなく、こちらにいらしたのですね」
「王宮へ戻れば、あなたを呼び戻すための道具にされそうでしたので」
「本国の上官からは、王家の内紛に関わるなと釘を刺されています。ですので、これは少々、私の出世によろしくない訪問です」
口から出た言葉は、我ながら整っていた。内心は違う。あなたをあの王宮に置いておくくらいなら、私の出世など暖炉にくべればいい。焼き芋くらいは作れるはずだ。出世は食べられないが、焼き芋は食べられる。そして美味い。焼き芋の勝ちだ。なぜ焼き芋なんだ? 自分で自分が怖くなる。
「それなのに?」
「昨夜、あなたが一人で会場を出ていくのを見ました」
私は彼女の胸元の鍵に、一瞬だけ視線を落とした。
「あの場で止められなかったことを、今朝からずっと後悔しています」
ルディア嬢の視線はまっすぐなままだ。目元には疲れが残っているのに、声のトーンは全く乱れていない。何であなたはそんなに気丈なのですか? 一人の人間として、ただただ純粋な尊敬の念を覚えた。
「クラウディア王家は今朝、我が国との予備協定書に印章を押し間違えました。こちらにとっては好都合でしたが、私は不注意の原因に興味があります」
「原因もなにも、それは王家の不注意でしょう?」
「はい。だから、これまで不注意が表に出なかった理由にも興味があります」
風が吹いた。雲の切れ間から、細い光が庭に落ちる。私は彼女に向き直った。
「あなたのお母上から、一度だけ聞いたことがあります。幸運を貸す家の者は、自分の幸福まで契約に混ぜてしまうことがある、と」
彼女の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「我が国には、あなたの力を奇跡として消費するつもりはありません。契約として、敬意をもって迎えたい」
「ローレンツ卿。私は、幸運を売る女ではありません」
「存じています」
「努力のない場所に、風は貸せません」
「その条件で結構です」
迷いのない返事だった。言いながら、私は胸の内では地面に両手をついていた。はい。知っていますとも。
「では、まず契約書を拝見します」
「もちろん。三部用意してきました」
「手際がよろしいのですね」
「ここで一部だけ差し出したら、あなたに門前払いされると思いましたので」
彼女が少しだけ笑った。ほんの少しだけ。私は契約書の端を整えながら、しばらく何も考えられずにいた。
契約書は昨夜のうちに作成していた。実は一睡もしていない。だが眠気は微塵もなかった。
契約期間、貸与範囲、対価、解除条件、貸与者の尊厳を侵害した場合の即時停止条項。彼女は三枚目で手を止めた。
「貸与者本人の不利益をもって、契約相手の利益を補填してはならない。……この条項は、どなたが?」
「私です。不備がありましたか?」
「いいえ。驚いただけです」
私の声は落ち着いていた。内心では、『他の誰かが二度とあなたを道具扱いできないようにするための条項です。要するに、あなたへ伸びる手を契約で止めるための錠前です』と答えていた。
彼女はもう一度、条項に視線を落とした。私は契約書の端を整えながら、しばらく何も考えられずにいた。
一か月後、彼女は契約庁の部屋で黒革の手帳を開いていた。
ルシュフォード家の手帳は、ただの帳簿ではない。幸運の貸し借りに動きがあるたび、紙面に文字がひとりでに浮かぶ。不正な取引に関しては目立って浮かぶ。不思議な力だ。
マルコ・ハント。王都のパン屋の息子。晴天時に発熱。
貸与先、クラウディア王宮祝福式。返却条件、空欄。
王宮は式典を晴天で飾るため、少年の「晴れの日の健やかさ」を借り上げたまま、返す日すら決めていなかった。彼女は何も言わなかった。ただ、手帳を持つ指に力が入っていた。薄い紙が、ほんの少しだけ波打っていた。
その怒り方を、私はどうしようもなく尊いと思った。
ハントパン工房で、彼女が「祝福式の壇上で」と告げたとき、工房主のステイトさんが息を呑んだ。私は彼女の横で小さく笑った。
「私の出番も、そこですね」
「出世に響きますか?」
「まあ、隣国の大事な式典ですから」
「では、やめておきますか?」
「まさか」
まさか、である。「見なかったことにすれば、私はクラウディア王宮に貸しを作れる。けれど、その貸しであなたの顔を見られなくなるほうが困ります」
祝福式の壇上で、彼女は町の人々の名を読み上げた。パンを焼いた人。花を直した人。鐘を整えた人。王宮はその小さな働きを「たかが」と呼び、断りなく借り上げていた。
彼女はそれを、一つずつ持ち主の名前で呼んだ。その場で、幸運を一つずつ持ち主へと返したのだ。
私はただ、彼女の隣に立っていただけだ。式典停止の権限を示し契約記録の確認を告げた。けれど、あの場の中心にいたのは彼女だ。
マルコが店先で「晴れてる」と言ったとき、彼女は少しだけ顔を緩めた。
マルコは胸を張り、父親のステイトさんは目尻を乱暴に拭った。
彼女は「よかった」とも「当然です」とも言わず、小さく頷いただけだった。
マジ菩薩ですわ。もう駄目。もう無理。監査不能。私の心の帳簿は赤字です。補填不能です。長官、申し訳ありません。何が? 自分でもよくわからない。
それからしばらくして、ヴェルヌ侯爵家の婚礼監査が入った。
花嫁は侯爵令嬢エレオノール・ヴェルヌ。相手はエルゼン公爵家の嫡男マティアス。格上との縁を欲しがるヴェルヌ家にとっては、願ってもない晴れの舞台だった。
ただ、あいにくとそのヴェルヌ家から、私にも縁談の話が持ちかけられていた。何度か断っていたのだが、向こうはまだ諦めていなかった。まあ、私の血筋を考えれば当然だろう。
花嫁の控室から出てきたルディア嬢は、少し顔色が悪かった。
「顔色がよくないですね」
「手帳に、あのヴェールへ貸し出された知らない名前が出ました」
私は婚礼契約書を確認した。表向きは整っている。持参金はある、婚礼後の保護もある。祝福で得た利益をどちらの家のものにするかも書かれている。ただ、表向ききちんとしている契約ほど、裏で人を泣かせることがある。
黒革の手帳が示したのは単純明快だった。ヴェルヌ家に縁談を壊された令嬢たちの幸運が本来の持ち主の元に戻らず、純白のヴェールへ許可なく移されていたのだ。婚礼が成立すれば、その幸運はエルゼン公爵家の吉兆として帳簿に入る。あとからそれを返すには、両家の婚礼契約そのものを洗い直すしかない。それはとてつもない手間だ。
そもそも、ルディア嬢は結婚式が苦手だとは一言も言わなかった。けれど、白い花を見たとき、ほんの少しだけ呼吸が浅くなった。無理も無い。つい先日、王太子との婚約を破棄されたばかりだ。他人の結婚式といえど、見たくもないだろう。
「では、先に言っておきます。式を止めたあとヴェルヌ家の者があなたを足止めしても、契約庁の馬車で外へ出します。門の警備にも私から話を通しておきますので」
まだ、言いたいことは山ほどあった。あなたがこの場で傷つくなら、私があなたの盾になります。白い花を見るのが苦しいなら、庭ごと片づけます。そう、彼女に告げたかった。だが、一言も言わなかった。言ったら怖い。さすがに怖い。自分でも引く。
「その祝福を読み上げないでください」
婚礼の祭壇で、彼女は前へ出た。
なんて澄んだ、いい声なのだろう。いや、今、気にすべきはそこではない。
新郎マティアスが顔色を変えた。ヴェルヌ家に伝わる祝福が、本人に黙って使われた他人の幸運だと疑われたからだ。
ルディア嬢は黒革の手帳を開いた。
「そのヴェールに縫い込まれた幸運は、あなたのものではありません。本来の持ち主へ返していただきます」
ルディア嬢が銀の鍵を外した。「このヴェールへ貸したことにされた幸運を取り消します。奪った幸運は、持ち主の元へ。すでに使った分は、ヴェルヌ家とエルゼン家の財産で返していただきます」
白いヴェールがほどけ、真珠が落ち、金糸が抜け、豪奢だった白布が、ただの薄い布になった。
「我が家との縁を切るおつもりか」
ヴェルヌ侯爵が低い声で、私に向かって言った。
「切ったのは、そちらです」
私は冷静な顔を作ったままそう返した。内心では、「やべー。帰ったら母上に怒鳴られるかも」とドギマギしていた。
式場の庭で、私はようやく少しだけ踏み込んだ。
「今日の件で、私はヴェルヌ侯爵家との縁談を一つ、完全に失いました」
「後悔していますか?」
「いえ。あの縁談は、ずっと断ってきましたし」
「聞いていませんけど」
「言いましたよ、今」
「では、何を完全に失ったのですか?」
「角を立てずに断るための理由です。もう、ヴェルヌ侯爵家に遠慮する必要はなくなりました」
「では、これからは?」
彼女が私に尋ねた。え? 何? 何を知りたいの? 私は咳払いを一つした。鐘よ。まだ鳴るな。ここで鳴るな。いや、鳴ってもよい。少し助かる。助からない。どっちなんだ、もう。
「私自身が望む縁談の話をしてもよろしいですか?」
聞き返される前に鐘がまた鳴った。短く、低い音だった。誰かを祝福する音ではなく、片づけを始めるための合図だ。私の不格好な告白未満は、そこで見事に遮られた。
「助かりました。今のまま話していたら、かなり不格好な告白になるところでした」
私は困ったように笑った。実際、困った。何だこの中途半端な物言いは。これで好きですと告白しているようなものだ。こんなことならいっそ、「月が綺麗ですね」などと言っておけばよかった。まだ昼間だが。
「では、鐘に感謝しないといけませんね」
「感謝はできませんね。それどころか、若干の恨みすらある」
ルディア嬢は返事に困った顔をした。その顔をかわいい、と思ってしまった。罪ですよ、その笑顔。
本当はその場でもっと自分の気持ちを伝えたかった。あなたが望む場所を選べるように、私の立場を使います。たとえその先に私がいなくても、私はあなたが困らないように誠心誠意尽くします。
使おうと思えば、使える権限はある。母方の祖父はヴァルシュタイン公国の先代公爵で、現公爵は伯父にあたる。私にも一応、公爵位の継承権は残っている。従兄弟が十数人、一度にいなくなれば私が次期公爵だ。そんな薄い血筋でも、彼女の心を扉を開ける手札にはなりえるだろう。だが、その手札を彼女の前に置いた瞬間、私の言葉は求愛ではなくただの命令になり下がる。
それは告白ではなく誓約に近い。それではダメだ。彼女は婚約破棄から、自分の意思で立ち直っている最中だ。私の願いを一方的に押しつけることは、隣国の王太子と同じ轍だ。だから、私は待つ。近づきすぎることで、彼女にプレッシャーは与えたくない。彼女が自分で選ぶ余白を、きちんと取りたいと思っていた。
そして現在。長官は、じっと私を見つめている。
「なるほど」
長官がつぶやくように言った。
「何がですか?」
「君の顔は、ほとんど変わらない」
「はい」
「だが今だけ一瞬、死地から戻った兵士の顔をしていた」
「職務が続いておりますので」
「職務という言葉を便利に使うな」
私は黙った。
長官は報告書を閉じた。
「今後も、契約庁の監査役として節度を守るように」
「承知しております」
「一つ、聞いておく」
「はい」
「彼女が、職務としてお前に付き合っているだけだとしたら、どう思う?」
ぐん、と心臓が脈打った。頭にカッと血が上ったのがわかった。
考えなかったわけではない。彼女は誠実な人だ。契約相手の監査役に礼を尽くすことも、隣を歩くことも、彼女にとっては職務のうちかもしれない。いや、職務なのだろう。あの小さな笑みも、含めて。
「……それでも、私の望みは彼女に余白を残すことです。私を選ばなくても、困ったときに頼れる存在でありたいです。もちろん、職務として」
長官は小さなため息を吐いた。
「まあ、いいだろう。そんなことより」
「はい」
「私用の誘い状を、業務連絡の棚に混ぜることは止めておけ」
私は口に手を当て、空咳をした。昨夜、ルディア嬢に渡すつもりで書いたものだ。
「勤務終了後、少し一緒に休憩しませんか?」
ただそれだけの誘いである。なのに私はいつもの癖で宛先、目的、備考まで整えてしまった。
宛先、ルディア・ルシュフォード嬢。目的、勤務後の休憩及び懇親。備考、申請は不要。話題は本人の希望を優先。断られた場合、次に誘うまで七日以上空けること。
完璧な書式だった。完璧すぎて、業務書類に紛れてしまったのだ。
「失礼いたしました」
「君は本当に面倒な男だな」
「恐れ入ります」
もう一人の自分には、毎日のように言われている。もちろん、口には出さなかった。
長官はため息をついた。
「行け。彼女を待たせているのだろう」
扉を開けると、廊下の向こうにルディア嬢の姿が見えた。黒革の手帳を胸に抱え、窓から入る光の中でこちらを見つめていた。
「ローレンツ卿」
私は名を呼ばれて背後を見た。私のほかには誰もいない。あるのは扉と壁と、長官室の名札だけだ。ルディア嬢は確かに、私を認識して私の名を呼んだ。彼女に認識されている。それだけでもう、充分だった。
「お待たせしました」
「長官とのお話は、もう終わりましたか?」
「ええ」
「どんなことを話されたんですか?」
「職務上、必要な確認ですよ」
嘘ではない。
「では、次の記録を見ていただけますか? ちょっと気にある記述が浮かんできて……」
彼女が手帳を開きかけた。
「その前に」
私の言葉に彼女の指が止まった。彼女が私をじっと見つめる。私の心臓も止まりかける。「今日の仕事が終わったあと、少し休憩に付き合っていただけませんか」
言った。言ったぞ。よくやった! 契約庁監査役ローレンツ・ヴァルシュタイン! これにて、本日最大の業務は終了である。
「それは……何か申請が必要ですか?」
彼女が瞬きを繰り返した。潤んだ瞳が、輝いて見えた。
「いいえ。ただ、あなたに休んでほしいだけです」
ルディア嬢は、開きかけた黒革の手帳を閉じ、微笑んだ。
「では、勤務後に。お部屋にお伺いすればよろしいですか?」
そう尋ねる彼女の顔は、職務の顔ではなかった。長官、聞きました? この表情、見てください。控えめに言って聖女です。
「はい、お待ちしております」
私は動揺を悟られないよう、落ち着いて答えた。たぶん、落ち着いていたはずだ。
ルディア嬢は手帳を抱え直し、私の隣に並び、歩き出した。彼女の歩幅は、少しだけ私より小さい。
私はその歩幅に合わせ、ゆっくりと歩いた。
彼女に伝えられたのは、たぶん私の感情の三分の一にも満たないだろう。残りは全部、私の胸の内で叫んでいるだけだ。けれど今は、それでいい。彼女がこちらを見て、微笑んでくれた。
私は改めて、ルディア嬢との婚約を破棄した王太子ヴェルナルドに向かって敬礼した。心の中で。
ありがとう。節穴殿下。あなたが節穴でいてくれたおかげで、今のこの状況がある。私は彼女の幸せだけを、ただただ願う。その時、私が隣にいなくてもいい。彼女が幸せなら、それだけで私は満足だ。今のところは。
もちろん、口には出さない。私は冷静な男である。あり続ける。少なくとも、彼女の前では。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけましたら、評価で応援していただけると嬉しいです。
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