灯台守の令嬢は、もう貴方を照らしません~「辺境の灯台に嫁ぐがいい」と婚約破棄された公爵令嬢ですが、実は私がいないと王国の海運が崩壊するそうです~
【お知らせ】
この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「婚約を破棄する」
王太子エドワード・ルミエールの声が、黄金の大広間に冷たく響き渡った。
シャンデリアの光を浴びて輝く金髪碧眼の王太子は、まるで正義を執行する英雄のような表情で私を見下ろしている。その隣では、蜂蜜色の巻き毛を揺らした少女が、涙を湛えた琥珀色の瞳で私を見つめていた。
聖女アリシア・フォンターナ。
(ああ、やっぱりこうなったのね)
私、セレスティア・マリーネは、断罪の場に立たされながら内心で深くため息をついていた。
「セレスティア・マリーネ! お前は聖女アリシアを陥れようとした罪により、その身分に相応しい罰を受けるがいい!」
エドワード殿下の声が広間に轟く。周囲の貴族たちがざわめき、私に向けられる視線は侮蔑と好奇心に満ちていた。
(陥れようとした、ですって? 私は彼女と話したことすらほとんどないのだけれど)
「殿下、私が一体何をしたと仰るのでしょうか」
私は静かに問いかけた。声は凪いだ海のように穏やかに。それが余計に癪に障ったのか、エドワード殿下の眉がぴくりと動く。
「白々しい! アリシアの聖女としての力を封じようと呪いをかけただろう!」
「呪い、でございますか」
(呪い? 私にそんな能力があるなら、とっくにあなたの口を縫い付けているわよ)
「まあ!」とアリシアが小さく悲鳴を上げる。「セレスティア様、私、貴女がそのようなことをなさるとは思いたくありませんでした……っ」
震える声。潤んだ瞳。か弱く肩を抱く仕草。
完璧だった。あまりにも完璧な被害者の演技。
(この子、本当に才能があるわ。女優になった方がいいのではなくて?)
「アリシア、もう泣かなくていい」
エドワード殿下がアリシアを庇うように抱き寄せる。その目には熱烈な愛情が燃えていた。
(……ああ、完全に目が曇っているわね。眩しいものにしか目が行かないなんて、蛾と同じだわ)
私は婚約者だった。五年間、この国の次期王妃として恥じぬよう、礼儀作法も政治学も経済学も、血の滲むような努力を重ねてきた。それなのに、この男は数ヶ月前に現れた自称聖女の涙一つで、全てをなかったことにしようとしている。
怒りは、もうなかった。
あるのはただ、深い諦念と──ほんの少しの安堵。
「セレスティア・マリーネ」
王太子の側近、オズワルド・クレイトン侯爵嫡男が進み出た。撫でつけた黒髪と冷たい黒い瞳。この男がアリシアを王太子に引き合わせた張本人だと、私は知っている。
「貴女には辺境への追放が言い渡されます」
「追放、でございますか」
「ええ。アストレア辺境伯領、断崖の灯台。そこで灯台守として残りの生涯を過ごすがよろしい」
ざわり、と広間がどよめいた。
断崖の灯台。王国最果ての地。荒れ狂う海に面した、孤独な灯台。
公爵令嬢をそのような場所へ追放するなど、前代未聞の屈辱だった。
「まあ、なんてお可哀想な……」
「あれほど陰気な方でしたもの、仕方ありませんわ」
「灯台守とは、お似合いではなくて?」
貴婦人たちの囁きが、刃のように私を刺す。
──いや、刺さない。もう、とっくに慣れてしまった。
「お前のような陰気な女は、辺境の灯台がお似合いだ」
エドワード殿下が、勝ち誇ったように言い放った。
(陰気、陰気、陰気。本当にその言葉がお好きね、殿下)
私は静かに頭を下げた。
「仰せのままに、殿下」
反論は、しなかった。
弁解も、懇願も、涙も見せなかった。
それが彼らの期待を裏切ることになるとわかっていたから。そして何より──
(やっと、解放される)
この窮屈な王都から。私の価値を理解しない人々から。そして、この愚かな婚約者から。
私は最後に一度だけ、エドワード殿下を見上げた。
海を映したような深い青の瞳で、静かに、じっと。
殿下が僅かにたじろいだのを、私は見逃さなかった。
(ねえ、殿下。貴方は知らないのでしょうね)
私が何者なのか。
この王国の海運が、何によって守られてきたのか。
私がいなくなった後、この国の海に何が起こるのか。
(せいぜい後悔なさいませ。──もっとも、その頃には全てが手遅れでしょうけれど)
「では、失礼いたします」
深く優雅に一礼して、私は背を向けた。
広間を出る間際、誰かの視線を感じた。
王太子でも、アリシアでも、父上でもない。
大広間の片隅。柱の影に、一人の青年が立っていた。
深い藍色の髪。嵐の後の空のような、灰青色の瞳。
その瞳は、侮蔑でも同情でもなく──ただ静かに、私を見つめていた。
(誰……?)
問いかける間もなく、侍女に促されて広間を後にする。
振り返ることは、しなかった。
◆◆◆
出立の日は、よく晴れていた。
「セレスティア」
父上──ヴィクトル・マリーネ公爵が、馬車の前で私を見送っていた。銀灰色の髪に厳格な面持ち。けれどその目には、深い苦悩が滲んでいる。
「父上」
「……すまない」
絞り出すような声だった。
「私が、もっと早くに手を打っていれば……」
「いいえ、父上」
私は穏やかに首を振った。
「これでよいのです」
「セレスティア……」
「母上の故郷ですもの」
その言葉に、父上の目が見開かれた。
私の母、アストリッド・マリーネ。海護りの巫女として、この国の海を守り続けた人。幼い頃に亡くなった母は、いつも海の話をしてくれた。
『いつか、あの灯台に連れていってあげる。お母様が生まれた、美しい海が見える丘よ』
果たされなかった約束。
けれど今、私は自分の足でそこへ向かおうとしている。
「父上。私は大丈夫です」
胸元に手を当てる。そこには、母の形見である貝殻の髪飾りが、虹色の光を放って静かに眠っていた。
父上は何かを言いかけて、けれど飲み込んだ。代わりに、低く呟いた。
「……水面下で動いている。必ず、必ず真実を明らかにする」
「ええ。信じております」
短い抱擁。
馬車に乗り込む直前、再びあの視線を感じた。
城門の近く。人混みの中に、藍色の髪がちらりと見えた。
あの青年だ。断罪の場にいた、灰青色の瞳の。
(また、あの人……)
なぜ、私を見ている?
問いかける間もなく、馬車は動き出した。
窓から見える王都の街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
その時だった。
どこからともなく、一羽の海鳥が飛んできた。
真っ白な羽。宝石のような黒い瞳。
その海鳥は、まるで私を待っていたかのように、馬車の窓枠にそっと止まった。
「あら」
思わず手を伸ばすと、海鳥は逃げるどころか、私の指先に頬を擦り付けてきた。
『おかえり、おかえり』
風に乗って、そんな声が聞こえた気がした。
──いいえ、気のせいではない。
私には聞こえる。海の声が。精霊たちの囁きが。
母から受け継いだ、海護りの巫女の血が、私の中で静かに脈打っている。
「ええ、ただいま」
小さく呟いて、私は微笑んだ。
海鳥が嬉しそうに羽ばたいて、先導するように馬車の前を飛んでいく。
王都の貴族たちは知らない。
この国の海が穏やかなのは、私の祈りによって守られているからだということを。
私がいなくなれば、海の精霊たちは誰の言葉にも耳を貸さなくなる。
嵐は予測できず、船は導きを失い、海難事故が相次ぐことになるだろう。
(せいぜい、お困りになるといいわ)
私は窓の外を眺めながら、静かに目を閉じた。
潮の香りが、微かに風に混じり始めていた。
◆◆◆
灯台に着いて、三週間が経った。
「セレスティア様、朝ごはんができましたよー!」
元気な声と共に、マリナが灯台の扉を開けて入ってきた。潮風に焼けた小麦色の肌と、海藻のような深緑の髪を三つ編みにした、快活な漁村の娘だ。そばかすの浮いた頬に、屈託のない笑顔が眩しい。
「ありがとう、マリナ」
私は灯台の螺旋階段を降りながら応えた。
「今日は鯖が獲れたんです! 父ちゃんが一番いいのを選んでくれて!」
「まあ、嬉しいわ」
小さな食卓に並べられた焼き魚と野菜のスープ、焼きたてのパン。王都の豪華な食事より、ずっと心が温まる。
(これよ、これ。私が求めていたのは)
窓の外には、青い海が広がっている。断崖に立つ白い灯台。潮風が運ぶ塩の香り。崖に咲く小さな花々。
追放、と彼らは言った。
けれど私にとって、ここは──
「楽園だわ」
思わず呟いた言葉に、マリナがきょとんとした顔をする。
「え? 何か言いました?」
「いいえ、何でもないの」
微笑んでスープを口に運ぶ。優しい味が、胸に沁みた。
「でもセレスティア様、本当に灯台の暮らしがお気に召して良かったです」
マリナがにっこり笑う。
「村の人たち、最初は心配してたんですよ。王都から来たお嬢様が、こんな田舎に馴染めるかって」
「あら、私はそんなに怖そうだったかしら」
「いえいえ! ただ、王都の噂では……」
マリナが言い淀む。
「陰気で根暗で、笑わない令嬢だって聞いてたので」
(ああ、その噂はここまで届いていたのね)
「でも全然違いました!」
マリナが力強く言い切った。
「セレスティア様は全然陰気じゃない。お月様みたいに静かで綺麗なだけです!」
不意に、胸の奥が温かくなった。
「……ありがとう、マリナ」
「あ、照れました? 照れました?」
「照れてないわ」
「照れてます照れてます! 耳が赤いです!」
(この子、本当に遠慮がないわね)
けれど、その無邪気さが心地よかった。
王都では、誰もが私に仮面をつけて接していた。腹の底で何を考えているかわからない、そんな人々ばかりだった。
マリナには、そういう計算がまるでない。思ったことをそのまま口にする、まっすぐな少女だ。
「さ、今日も頑張りましょう! セレスティア様の灯台守のお仕事、お手伝いしますね!」
「ええ、よろしくね」
食事を終え、私は灯台の最上階へ上がった。
ここが、私の祈りの場所。
大きな窓から見渡す海。水平線まで続く青。白い波頭が陽光にきらめいている。
目を閉じて、意識を海へと伸ばす。
『セラ、セラ!』
淡い燐光と共に、小さな影が現れた。
実体を持たない、少女の姿をした海の精霊。透き通った青い髪と、貝殻のように輝く肌。無邪気な笑顔を浮かべた彼女の名は、フィオーレ。
海の精霊の長として、数百年に渡りマリーネ家の巫女と契約を結んできた存在だ。
「おはよう、フィオーレ」
『おはよう! 今日も海は穏やかだよ!』
無邪気に笑う精霊は、私の周りをくるくると飛び回る。
「南西の方角に小さな低気圧があるわね。三日後に少し荒れるかもしれない」
『うん! でも大丈夫、セラがいるから!』
フィオーレが私の肩に止まり、頬を擦り付けてきた。その感触は冷たい水のようで、けれど不思議と心地よい。
『ねえセラ、王都ではね、変な光の女がうるさいの』
「変な光の女?」
『眩しいだけで、心がないの。海のことなんか何もわかってないのに、偉そうにするの』
(ああ、聖女アリシアのことね)
私は小さく笑った。
「彼女の光は、貴女たちには届かないでしょうね」
『当たり前! あんなうるさい光、嫌い!』
フィオーレが頬を膨らませる。その仕草が幼い子供のようで、思わず微笑ましくなる。
『セラの祈りは、お月様みたいで心地いいのに。あの女の光は、目が痛くなるだけ』
海の精霊たちは、派手で眩しいものを好まない。静かで穏やかな光──月光のような、そんな波動を好む。
だから私の祈りは届き、アリシアの「浄化の光」は拒絶される。
(殿下は知らないでしょうね。聖女の力では、海を鎮めることはできないということを)
『セラ、セラ。船が来るよ』
「船?」
窓の外を見ると、確かに一隻の船が灯台のある入り江に向かってきていた。
領主の旗。アストレア辺境伯家の紋章。
(辺境伯様がいらっしゃるの?)
◆◆◆
「灯台の視察に参りました」
一時間後、私の前に立っていたのは、あの青年だった。
深い藍色の髪。嵐の後の空のような、灰青色の瞳。
日焼けした肌と鍛えられた体躯は、海と共に生きる者の証。穏やかな微笑みを浮かべているが、その眼差しには海の深淵を思わせる静かな強さが宿っている。
「レイン・アストレア辺境伯です。以後、お見知りおきを」
(やはり、あの時の……)
断罪の場で私を見つめていた青年。出立の日、城門の近くにいた藍色の髪の人。
「セレスティア・マリーネと申します。灯台守として、お世話になります」
深く一礼すると、辺境伯は困ったように眉を下げた。
「そのような畏まった態度は不要です。ここでは貴女は客人のようなもの。どうか楽に過ごしてください」
「恐れ入ります」
(……不思議な方ね)
私を見る目に、侮蔑がない。同情もない。
ただ、何か懐かしいものを見るような、そんな温かさだけがある。
「灯台の設備に不足はありませんか? 生活に不便はないですか?」
「いいえ、全て十分に整えていただいております」
「そうですか。何かあれば、遠慮なく申し付けてください」
視察という割に、辺境伯の目は灯台の設備ではなく、ずっと私を見ていた。
(何か、言いたいことがあるのかしら)
「あの」
「はい」
「……いえ」
辺境伯は言葉を飲み込んで、代わりに窓の外の海を見た。
「良い海ですね」
「ええ、とても」
「この海は、貴女によく似合う」
「え?」
思わず聞き返すと、辺境伯は穏やかに微笑んだ。
「静かで、深くて、美しい。……陰気などではない」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
(この人は……私の何を知っているの?)
問いかける前に、辺境伯は踵を返した。
「また視察に参ります。どうかお体に気をつけて」
「……ありがとうございます」
辺境伯の船が去っていくのを、私は灯台の窓から見送った。
『セラ、あの人、いい匂いがする』
いつの間にか傍らに現れたフィオーレが、不思議そうに首を傾げる。
「いい匂い?」
『うん。海の匂い。セラと同じ』
海と同じ匂い。
それは精霊たちにとって、信頼できる者の証。
(レイン・アストレア辺境伯……一体、何者なの)
◆◆◆
それから、辺境伯は頻繁に灯台を訪れるようになった。
視察と称して、週に二度は必ず。
「今日は良い鯛が獲れたので、お持ちしました」
「灯台の窓枠が少し傷んでいたので、職人を手配しました」
「崖の花が見頃だと聞いたので、ご案内しましょうか」
(……それ、視察じゃなくて、ただのお世話焼きでは?)
内心でツッコミを入れながらも、私は彼の訪問を拒まなかった。
不思議と、嫌ではなかったから。
ある日の午後。
崖の上で海を眺めていると、辺境伯が隣に並んだ。小さな白い花が風に揺れ、潮の香りが二人を包んでいた。
「セレスティア嬢」
「はい」
「私は、十五年前に海難事故に遭いました」
唐突な告白に、私は目を瞬いた。
「嵐の夜でした。船が転覆し、私は荒れ狂う海に投げ出された。まだ十歳の子供だった私は、死を覚悟しました」
辺境伯の灰青色の瞳が、遠い過去を見つめている。その声は穏やかだったが、どこか震えているようにも聞こえた。
「けれど、その時──光が見えたのです」
「光……」
「月のように静かで、優しい光。その光に導かれて、私は岸に辿り着くことができた」
心臓が、大きく跳ねた。
十五年前。嵐の夜。月のような光。
(まさか……)
「私はずっと、その光の正体を探していました。そして三年前、ようやく知ったのです」
辺境伯が、真っ直ぐに私を見た。
「あの光は、海護りの巫女の祈りだった。マリーネ公爵家の令嬢──当時まだ幼かった、貴女の祈りだったと」
息を呑んだ。
十五年前。私は四歳だった。母が亡くなる直前、初めて海の精霊と対話した夜。
『セラ、助けて。男の子が溺れてるの』
フィオーレの声に導かれて、私は無我夢中で祈った。
どうか、助けて。あの子を、光で導いて。
「あの時の……」
「ええ。貴女に命を救われた、あの時の子供です」
辺境伯が、深く頭を下げた。藍色の髪が風に揺れる。
「ずっと、お礼を言いたかった。貴女を見守りたかった。けれど、貴女は王太子殿下の婚約者で、私が近づける立場ではなかった」
「それで、断罪の場に……」
「はい。貴女が追放されると知った時、不謹慎ながら安堵しました。ようやく、貴女に近づける機会ができたと」
顔を上げた辺境伯の瞳には、深い感謝と──それ以上の何かが宿っていた。
「私は、貴女の『陰気さ』が何なのか知っています。あれは静けさです。海と対話するための、尊い資質です」
(この人は……最初から、知っていた)
私の本当の力を。私の価値を。私の静けさの意味を。
「辺境伯……」
「レインと、お呼びください。私はずっと、貴女の味方です。セレスティア嬢」
その言葉が、凍りついていた心の奥に、小さな灯りを点した。
誰にも理解されなかった私を、この人は最初から見ていてくれた。
『陰気』と蔑まれた私の静けさを、美点だと言ってくれた。
「……ありがとうございます、レイン様」
私の声が、少しだけ震えた。
◆◆◆
その夜、フィオーレが慌てた様子で現れた。
『セラ! 大変! 王都の海が荒れてる!』
「王都の海が?」
『船がたくさん沈んでるの! 嵐が来るって、誰も気づかなかったみたい!』
窓の外を見る。ここアストレア領の海は穏やかだ。星が瞬き、月が静かに水面を照らしている。けれど遠く東の空には、不吉な雲が広がっているのが見えた。
「私の祈りが届かない範囲で、嵐が起きたのね」
『あの眩しい女、全然役に立たないの! 海のこと何もわからないくせに、偉そうにしてるだけ!』
フィオーレが怒りで青白く発光する。
「そう……」
私は静かに目を閉じた。
(始まったわね)
王太子エドワード。聖女アリシア。彼らが私を追放した代償が、今、王国に降りかかろうとしている。
海難事故の続発。
海運の崩壊。
経済の停滞。
そして──真実の発覚。
(せいぜいお困りになるといいわ、殿下)
私は窓辺に立ち、遠くの嵐を眺めた。
灯台の光が、静かに海を照らしている。
けれどこの光は、もう王都には届かない。
私を蔑んだ者たちを、照らす義理はないのだから。
◆◆◆
海難事故の報告は、日を追うごとに増えていった。
「今月だけで、十二隻の商船が沈没。死者は百名を超えるそうです」
レインが灯台を訪れ、王都の状況を伝えてくれた。
「原因不明の嵐、突然の高波、予測不能な潮流の変化。船乗りたちは海に出ることを恐れ始めています」
「そう……」
私は淹れたてのお茶をレインに差し出しながら、静かに相槌を打った。
「聖女アリシアは何をしているの?」
「『浄化の祈り』を捧げているそうですが、効果は皆無です。むしろ海が荒れるという報告もある」
『当たり前!』
フィオーレが憤慨して叫んだ。もちろんレインには聞こえないが。
『あの女の光、うるさくて眩しいだけなの! 精霊たちはみんな逃げちゃう!』
(でしょうね)
内心で頷く。
海の精霊たちは、派手で押し付けがましい力を嫌う。アリシアの「浄化の光」は、精霊を鎮めるどころか、刺激して怒らせているのだ。
「王都では、貴女の追放と海難事故の関連を疑う声が出始めています」
「あら」
「マリーネ公爵が、水面下で動いているようです。海護りの巫女の記録を集め、セレスティア嬢の能力と王国海運の関係を証明しようとしている」
父上。
(やはり、動いてくださっていたのね)
「間もなく、王太子殿下は真実を知ることになるでしょう」
レインの灰青色の瞳が、私を真っ直ぐに見つめた。
「その時、殿下は必ず貴女を連れ戻そうとする」
「……ええ、そうでしょうね」
私は窓の外の海を見た。
今日も穏やかな青。私の祈りが届く範囲では、海は静かに凪いでいる。
「セレスティア嬢」
「はい」
「もし殿下が来た時──貴女はどうされますか」
レインの声には、かすかな不安が滲んでいた。
私は彼に微笑みかけた。
「ご安心ください。私はもう、あの方の元には戻りません」
たとえ王国が滅びようとも。
たとえどんな言葉で懇願されようとも。
私を『陰気』と蔑んだ人の隣に、二度と立つつもりはない。
「この海と、この丘と、私を最初から見ていてくれた方がおりますので」
その言葉に、レインの瞳が揺れた。
◆◆◆
その予感は、一週間後に現実となった。
「セレスティア・マリーネ! 王太子殿下がお見えです!」
村の男が慌てて灯台に駆け込んできた。
「馬車が三台、護衛も多数。大変な剣幕でございます」
「……そう」
私は静かに髪を整え、母の形見の貝殻の髪飾りをつけた。虹色の光が、朝日を受けてきらめく。
灯台の外に出ると、案の定、金髪碧眼の男が仁王立ちしていた。
「セレスティア!」
エドワード殿下。かつての婚約者。私を断罪し、追放した張本人。
三ヶ月前より少しやつれたように見えるのは、気のせいではないだろう。
その隣には、相変わらず泣きそうな顔をしたアリシアがいる。そして後ろには、側近のオズワルドと多数の兵士たち。
(大げさな)
「お久しぶりでございます、殿下」
私は深く一礼した。表面上は完璧に。
「戻ってきてくれ」
殿下が言った。
(……は?)
「戻ってきてくれ。王都には、お前が必要だ」
(今、何と仰いました? この方、三ヶ月前に『陰気な女は灯台がお似合い』と仰っていませんでしたっけ?)
「海難事故が止まらないのだ。聖女の祈りも効かない。調べたところ、お前の──海護りの巫女の力が必要だと判明した」
殿下の声には、焦りが滲んでいた。かつての尊大さは影を潜め、そこにあるのは切迫感だけだ。
「王国の海運はお前の祈りによって守られていた。お前がいなくなったから、海が荒れているのだ」
(知ってた)
「だから戻ってこい。お前の力が必要なのだ」
(必要、必要、必要。その言葉しか出てこないのね、この人は)
「殿下」
私は静かに口を開いた。
「私が何者か、ようやくお分かりになったのですね」
「ああ。お前の価値を見誤っていた。認めよう」
(認めよう、ですって。謝罪の言葉が一つもないわね)
「お前の名誉は回復する。婚約も元に戻す。だから──」
「お断りいたします」
私の言葉に、殿下の顔が凍りついた。
「……何?」
「お断りいたします、と申し上げました」
「お前、状況がわかっているのか!? 王国が危機に瀕しているのだぞ!」
「存じております」
「ならば──!」
「ですが、それは私のせいではございませんでしょう?」
冷静に、静かに、私は言葉を紡いだ。凪いだ海のように。
「私は何もしておりません。ただ、殿下に命じられた通り、辺境の灯台で灯台守として暮らしているだけです」
「だが、お前がいなくなったから──」
「私を追放したのは、殿下です」
殿下の顔が青ざめる。
「私を『陰気』と断じ、聖女の『呪い』をかけたと濡れ衣を着せ、この灯台へ追いやったのは、誰でしたかしら?」
「それは……あの時は、アリシアが……」
「殿下」
私は微笑んだ。心からの、穏やかな微笑みを。
「私は陰気な灯台守でございますので、華やかな王都には不向きでございます」
三ヶ月前、殿下が私に投げつけた言葉を、そのまま返す。
「この海と、この丘が、私の居場所でございます。どうぞ、お引き取りくださいませ」
殿下の顔が、怒りで紅潮した。
「ふざけるな! お前の力は王国のものだ! 命令に従え!」
「私はもう、殿下の婚約者ではございません。命令に従う義理はございません」
「この……!」
殿下が手を振り上げた瞬間──
「そこまでだ、殿下」
低い声が割って入った。
レインだった。
いつの間にか私と殿下の間に立ち、冷たい目で王太子を睨んでいる。藍色の髪が風に揺れ、その姿は嵐の前の海のように静かで、けれど凄まじい力を秘めていた。
「アストレア……!」
「セレスティア嬢は、私の領地の民です。彼女に危害を加えることは、私への敵対行為と見なします」
「たかが辺境伯が、王太子に逆らうのか!?」
「王太子であろうと、道理に反する命令には従いません」
レインの声は、嵐の後の海のように静かで、けれど揺るぎない強さを持っていた。
「殿下。貴方は彼女の価値を見誤り、愚かにも追放した。その結果が、今の海難事故です」
「黙れ!」
「真実を申し上げているだけです。彼女の『陰気さ』は欠点ではなく、海の精霊と対話するための尊い資質だった。それを理解せず、見た目の華やかさだけで人を判断した貴方の浅慮が、全ての元凶です」
殿下の顔が、怒りで歪んだ。
その隣で、アリシアが震えている。演技ではない、本物の恐怖の震えだった。化粧の下の顔が蒼白になっている。
「オズワルド! この男を捕らえろ!」
「は、しかし殿下……」
側近のオズワルドが狼狽える。辺境伯を捕縛するなど、国際問題になりかねない。
「何をしている! 早くしろ!」
「……殿下」
背後から、別の声がした。
「それ以上は、おやめください」
振り返ると、銀灰色の髪の厳格な男性が立っていた。
「父上……!」
父、ヴィクトル・マリーネ公爵。
その手には、一通の書簡が握られていた。王家の紋章が押された、正式な勅令。
「陛下からの勅令です。王太子殿下には、王都への帰還をお命じになられました」
「な……!?」
「海難事故の原因究明と、聖女アリシアの能力検証のため、正式な審問が開かれます」
父上の目が、冷たくエドワード殿下を見据えた。
「全ての真実が、明らかになるでしょう」
エドワード殿下の顔から、血の気が引いていく。
アリシアが、その場に崩れ落ちた。
◆◆◆
騒ぎが去った後、灯台の丘に夕暮れが訪れた。
「大丈夫ですか」
レインが、静かに私の隣に立った。
「ええ。少し疲れましたけれど」
「無理もない。……よく、耐えましたね」
「いいえ」
私は首を振った。
「耐えたのではありません。もう、あの方に何を言われても、何も感じなかっただけです」
五年間、私は王太子妃になるために全てを捧げた。けれどそれは、愛ではなかった。義務だった。
彼に愛されていないことは、最初からわかっていた。だから、捨てられた時も、悲しみより安堵の方が大きかった。
「セレスティア嬢」
レインが、私の正面に立った。
夕陽を背に、灰青色の瞳が真っ直ぐに私を見つめている。
「私は、貴女に言わなければならないことがあります」
「……何でしょうか」
「十五年前、貴女に命を救われてから、私はずっと貴女を想ってきました」
心臓が、大きく跳ねた。
「貴女の静けさが好きでした。深い海のような瞳が好きでした。誰にも理解されなくても、自分の信念を曲げない強さが好きでした」
「レイン……」
「私は貴女を、『必要だから』欲しいのではありません」
彼の声は、穏やかで、けれど確かな熱を帯びていた。
「貴女という人間を、海護りの巫女としてではなく、一人の女性として、愛しています」
夕陽が、彼の藍色の髪を照らしている。
「答えはすぐにとは言いません。ただ、知っていてほしかった。私の気持ちを」
誰かに「必要とされる」のではなく、「愛される」ということ。
私の能力ではなく、私自身を見てくれる人がいるということ。
それが、どれほど尊いことか。
「……ありがとう、レイン」
声が、かすかに震えた。
「すぐには、答えられません。でも」
私は彼の目を見つめ返した。
「貴方のことを、もっと知りたいと思います」
レインの顔に、花が咲くような笑みが広がった。
「それで、十分です」
夕暮れの丘で、二人で海を見つめた。
灯台の光が、静かに点り始めている。
この光は、もう誰かのために無理に輝く必要はない。
ただ、私の傍にいてくれる人を、照らせばいいのだから。
◆◆◆
王都の審問は、三日間に及んだ。
父上から届いた手紙によれば、その内容は衝撃的なものだったという。
まず、マリーネ家に伝わる海護りの巫女の記録が公開された。歴代の巫女たちが王国の海を守り、その祈りによって嵐を鎮め、船を導いてきた歴史。そして現在、その力を継承しているのが私だということ。
次に、聖女アリシアの能力検証が行われた。
結果は、惨憺たるものだった。
彼女の『浄化の光』は、確かに美しく眩しい。けれどそれは、海の精霊を鎮めるどころか、刺激して怒らせる効果しかなかった。精霊研究の権威が「これは対話ではなく威嚇だ」と断言し、アリシアは顔を真っ青にしたという。
さらに、決定的な証拠が出てきた。
アリシアとオズワルドが結託し、私を陥れるために偽の証言を用意していたこと。「呪いをかけた」という告発が、全くの捏造だったこと。聖女覚醒も、古い魔道具を使った演出だったことが暴露された。
『聖女アリシア・フォンターナは、詐欺および王族への虚偽申告の罪で、修道院への終身収監。オズワルド・クレイトンは、同様の罪により爵位剥奪の上、辺境での労役』
父上の手紙には、淡々とそう記されていた。
『王太子エドワード・ルミエールは、判断力の欠如と職務怠慢により、王位継承権を剥奪。第二王子が次期国王として立太子される』
全てが、終わった。
◆◆◆
「……そう、ですか」
手紙を読み終えて、私は静かに息をついた。
隣でレインが、黙って私を見守っている。
「どう思われますか」と彼が問う。
「正直に言えば、何も感じません」
窓の外を見る。今日も海は穏やかだった。
「復讐心のようなものは、最初からなかったので。ただ、私を傷つけた人たちが、自らの愚かさの代償を払った。それだけのことです」
「……強いですね」
「強いのではなく、もう関心がないだけです」
私は手紙を畳んだ。
「過去を振り返るより、今この場所で、これからの人生を考えたい」
「セレスティア嬢」
レインが、改まった様子で私に向き直った。
「一つ、報告があります」
「何でしょう」
「国王陛下から、正式な書簡が届きました」
彼が差し出した封筒には、王家の紋章が刻まれていた。
開封して読み進める。
『セレスティア・マリーネ嬢の名誉回復を宣言する。追放処分は撤回され、公爵令嬢としての身分も完全に復権される。また、海護りの巫女としての功績を讃え、希望するならば王宮付きの聖職者の地位を用意する──』
「王都に戻る道が、開かれました」
レインの声には、かすかな不安が混じっていた。
私は手紙から目を上げ、彼を見た。
「レイン」
「はい」
「私に、何か言いたいことはありますか?」
彼は一瞬黙り、それから正直に言った。
「……戻らないでほしい。身勝手な願いだとわかっています。けれど」
「私もです」
「え?」
私は微笑んだ。
「王都になど、戻りたくありません」
手紙をそっと閉じる。
「ここがいいのです。この灯台が。この海が。この丘が」
窓の外を見る。青い海、白い波、潮風に揺れる崖の花々。
「そして、貴方がいるこの場所が」
レインの灰青色の瞳が、大きく見開かれた。
「セレスティア……」
「ずっと考えていました。私は何を求めているのか。誰と生きていきたいのか」
立ち上がり、窓辺に立つ。
「私はもう、誰かに『必要とされる』ために生きたくない。王国のために祈ることも、義務として続けるつもりはない」
「では……」
「でも、貴方のためなら」
振り返って、彼を見つめた。
「貴方と、この海を守るためなら、喜んで祈りを捧げます」
レインが、ゆっくりと立ち上がった。
「私の気持ちは、変わっていません」
「知っています」
「貴女を愛しています。海護りの巫女としてではなく、セレスティアという一人の女性として」
「ええ」
私は彼の前に立ち、見上げた。
「私も、貴方を愛しています。レイン」
彼の目に、涙が光った。
「本当に、いいのですか。私などで」
「貴方『など』ではありません」
私は彼の頬に手を伸ばした。
「貴方は、私を最初から見ていてくれた人。私の静けさを、欠点ではなく美点だと言ってくれた人。私を『必要だから』ではなく『愛しているから』求めてくれた人」
それがどれほど尊いことか。
どれほど、私の心を救ってくれたか。
「私の答えは、ずっと前から決まっていたのかもしれません」
レインが、私の手を取った。
「では、改めて──セレスティア・マリーネ嬢」
真剣な目で、私を見つめる。
「私の妻になってください。私と共に、この海を守ってください」
答えは、言葉ではなく。
私は爪先立ちになり、彼の唇にそっと口づけた。
◆◆◆
婚約の儀式は、灯台の丘で行われた。
参列者は、マリナと村の人々、そして王都から駆けつけた父上だけ。
王宮での豪華な式典ではなく、潮風と海鳥の声に包まれた、静かで温かな祝福の場だった。
「幸せになりなさい、セレスティア」
父上が、珍しく穏やかな笑みを浮かべて言った。
「母上も、きっと喜んでいるだろう」
「ありがとうございます、父上」
胸元の貝殻の髪飾りが、陽光を受けて虹色に輝いた。
母の形見。海護りの巫女の証。
今、私はこの地で、母と同じ道を歩み始める。
けれど母とは違う。私は孤独ではない。
傍らには、私を理解し、愛してくれる人がいる。
「セレスティア様ー! おめでとうございますー!」
マリナが、満面の笑みで手を振っている。
「ありがとう、マリナ」
「レイン様も、おめでとうございます! セレスティア様を泣かせたら許しませんからね!」
「ああ、肝に銘じておく」
レインが苦笑しながら応える。
村の人々も、口々に祝福の言葉を述べてくれた。
王都の貴族たちの空虚な社交辞令とは違う、心からの祝いの言葉。
それが、何よりも嬉しかった。
「セレスティア」
レインが、私の手を取った。
「一緒に、海を見よう」
灯台の最上階。
二人で窓辺に立ち、水平線を眺めた。
夕陽が海を金色に染め、遠くで海鳥が歌っている。
『セラ、幸せ?』
見えないところで、フィオーレが問いかけてきた。
(ええ、とても)
心の中で答える。
『よかった! レインも、いい匂いするから、許す!』
(ありがとう、フィオーレ)
『でもセラはフィオーレのだからね! 取っちゃダメだからね!』
(……それは、どういう意味かしら)
思わず苦笑する。
レインが、私の肩を抱き寄せた。
「灯台の光を、今夜は一緒に灯そう」
「ええ」
日が沈み、空が藍色に染まっていく。
最初の星が瞬き始めた頃、私たちは灯台の灯りを点けた。
白い光が、夜の海を静かに照らし出す。
「この光は」
私は呟いた。
「もう、私を蔑んだ人たちのためには輝かない」
レインの腕の中で、海を見つめる。
「この光は、私を見つけてくれた貴方のために」
「……ありがとう」
彼が、私の髪にそっと唇を落とした。
「私は幸せ者だ」
「私もよ」
灯台の光が、夜の海に道を描いている。
遠くで、船の汽笛が聞こえた。この光に導かれて、港に向かう船だろう。
私はもう、誰かの期待に応えるために生きなくていい。
義務のために祈らなくていい。
ただ、愛する人と、愛する海のために、この場所にいればいい。
『陰気』と蔑まれた私の静けさは、海の精霊と対話するための尊い資質だった。
そしてそれは、この人──私を最初から見ていてくれたこの人にとっては、最初から美点だったのだ。
「ねえ、レイン」
「なんだい」
「私、幸せよ」
「……ああ」
彼の声が、少し震えた。
「私もだ。この上なく」
潮風が、二人の髪を優しく揺らす。
灯台の丘に、穏やかな夜が訪れる。
断崖に追放された婚約破棄令嬢は、今、静かに笑っている。
かつての婚約者への恨みでも、復讐の達成感でもなく。
ただ純粋に、今この瞬間の幸福を噛みしめながら。
この灯台の光は、もう貴方を照らさない。
けれど、私を愛してくれる人のためなら、いつまでも輝き続けるだろう。
──おしまい──




