深夜のアルバイト
男は安い軽自動車のドアを、とても丁寧に閉め、深夜のガストに入る。中にはちらほら客がいたけど、それらはみんな物語の主人公には不十分だ。
男はろくにメニュー表を見ず、決まり事みたいにドリンクバーを頼む。不審な目で接客する若い店員が去ってから、彦星はドリンクバーのコーナーへ行って、ウーロン茶をグラスに入れ、自分の席に戻った。蒸し暑い夜だった。
何分かのちに新しい客が入ってきた。女性二人組で、一方はスーツ姿、もう一方は深夜の客の少ないガストに来るのには問題ない、といったかんじの、オシャレでもなく地味でもないワンピースを着ていた。
スーツの女は店に入ってもサングラスを取らず、大きめの黒いビジネスバッグを振りながら一直線にあるテーブルへ向かう。そのあとを無言で私服の女の子が追う。だから、慌てて出てきたさっきの店員は、二人を対応しそびれてしまった。今日は何だか不思議な客が多いな、と思った。
スーツの女は私服の女の子に奥に座るよう促し、自分は手前に浅く腰かけた。言うまでもないことだけど、私服の女の子の向かいには彦星が座っている。つまり女の子の名前は織姫だ。
この時点で、三人のうち誰もお互いの目を見ようとしない。テーブルはまるで電車の相乗りみたいによそよそしい空気だった。例によって店員が注文を取りにやってきたが、スーツの女が「あとで」と一言、じゃまな登場人物を奥へ戻した。
スーツの女はビジネスバッグをおもむろに開ける。中には無神経な書類の代わりに、カラフルな細長い紙の束が詰め込んであった。鞄の中身がもし仮にスーツの女の心を表すなら、それはどんなに素敵なことだろう。カラフルな細長い紙の束をテーブルの上にどっさり置くと、女はそのまま席を立ち、喫煙席の方へ移って行った。あくまでも事務的に。
さて、残されたのはふたり。彦星はそこで初めて織姫の顔をじっと見つめたが、それは織姫も同じだった。彼らはろくな会話もせずに、目の前の短冊を一枚一枚丁寧に拾っては、そこに書かれた古今東西のお願い事を熱心に読んでいった。ほとんどのお願い事は黙読で済んだが、時々声に出して読まれたのは、二人がとても気に入った願いだった。お金持ちになりたい、海外に行きたい、マンションが欲しい、…。
世の中はお願い事で埋め尽くされていて、織姫と彦星はそのことを確かめ合った。もちろん彼らにも願い事はあった。それは、何か時間に関することだった。
全ての短冊を読み終えると、彦星は呼び出しボタンを押して、織姫に何か頼むよう言った。織姫は本当に何も要らないと言うので、彦星は仕方なくドリンクバーをもう一つ追加した。織姫はウーロン茶の入ったグラスを両手で持ってテーブルに戻った。
お互いのグラスが空っぽになる分だけ、時が過ぎた。
スーツの女は頃合いを見計らって織姫と彦星のテーブルにやってきた。「そろそろお時間です」と、女はどこまでも事務的に用件を述べ、きれいに整った短冊の山をビジネスケースに戻した。それから伝票を持って早々とレジの方へ向かった。
「また、一年後に」と彦星が言った。
「ええ」と織姫が答えた。「また、一年後に」
空になったテーブルの片づけをしに店員が来た。椅子のくぼみに何か光るものがあった。指で引っ張り出すと、それはぴかぴかの百円玉だった。
「ラッキーなことが起こるといい」
店員は生まれて初めて、七夕のお願い事は叶うことを知った。