71:決別
監視の目を盗んで、本堂の奥へと忍び込んだ。「入ってはいけない」と言われていた、地下へ続く扉。そこだけ、僧院の『無音』の結界とは異質な空気が漏れ出ていた。何度か経験してきた、あの暴力的な『沈黙の石』の圧力だ。
(…ここだ)
扉は重く、わずかに開いていた。僕は息を殺し、その隙間から中を覗き見た。
そこは、僧侶たちが「救済室」と呼ぶ場所だった。
部屋の中央。そこにあったのは、祭壇じゃない。不気味に黒光りする、巨大な「沈黙の石」。
魔獣の森で集めたものよりも大きいその石なのに、あの時のような圧力を感じない。複数の僧侶がそれを取り囲み、まるで祈るように、『声』のない詠唱を捧げている。その石の前には、拷問台のようなベッドが一つ。
そして、石の前にはベッドが一つ。そこには、僕が知らない顔の修行僧が拘束されていた。彼はベッドの上で虚ろな目で何かを呟いていた。
(やめろ…やめてくれ…)
彼の『声』が、僕の頭に直接響いてくる。恐怖と、諦めと、わずかな抵抗。…初日に出会った、あの中庭の男と同じだ。あの男も、こうやって『救済』される直前は、こんな『声』を上げていたに違いない。
指導僧が、厳かに手を振り下ろした。それを合図に、僧侶たちの詠唱が強まり、中央の沈黙の石が、うっすらと光り始めた。やがて沈黙の石の光が弱くなるとともに、僧侶たちの詠唱がくぐもるように消えていった。
瞬間。ベッドの男が、甲高い悲鳴を上げた。いや、口は動いていない。彼の魂が、叫んだんだ。
《ああああああ!》
《助けて! やめろ! 消える…》
彼の身体に実際に刃物が当てられたわけではない。しかし彼の様子は、頸動脈を切られた獲物と同じようだった。全身から生気が抜けていく。もっとも顕著なのはその瞳だ。これまで苦しみや怒りを見るものに伝えていた輝きや震えが静かに消えていった。
彼の魂が死んでいった。
数秒後。彼の『声』は、完全に沈黙した。ベッドの上で、彼はもう、あの『空っぽ』な人形の一つになっていた。
(……うっ)
強烈な吐き気と目眩が、僕を襲った。石が放つ、生の『無の圧力』。魂が、根こそぎ消滅する瞬間に立ち会ってしまった恐怖。僕は、よろめき、壁に背中を打ち付けてしまった。
ドン、という鈍い音。
『救済室』の全ての目が、一斉に僕を捉えた。指導僧が、静かに振り返る。その『空っぽ』の目が、僕を射抜いた。
「…『迷いある者』が、紛れ込んでいましたね」
次の瞬間、僕は二人の僧侶に腕を掴まれ、部屋の中に引きずり込まれていた。
「離せ! やめろ!」
抵抗しても、まるで岩を相手にしているみたいだ。『声』のない僧侶たちの力は、人間離れしていた。
「ちょうど良い。あなたも、今、救済して差し上げましょう」
指導僧の、抑揚のない声が響く。僕は、あのベッドへと引きずられていく。
(ダメだ!)
(これをやられたら、僕は、僕じゃなくなる!)
脳裏を、これまでの全てが駆け巡った。コダマとの出会い。リラやミーナの温かい『声』。師匠の苦笑。シロツメの音の無い笑い声。
(あれが全部、『雑音』だって?)
(僕の、コダマとの記憶も、全部『消す』だって?)
(冗談じゃない…!)
(そんなもののために、僕は、僕は…!)
恐怖と怒りが、喉を締め上げる。叫びが『声』となり、僕の魂から絞り出された。
「《無になんてならない!》」
僕の全身全霊の『拒絶』だった。
その叫びに、懐のコダマが、カッと焼け付くように熱を持った。まるで、僕の『声』に応えるみたいに。
瞬間。何かが、僕とコダマから、放射された。
それは、光でも、音でもなかった。僕の喉も、コダマの体も、震えてはいない。でも、僕には聞こえた。
それは、うるさいとか、静かとか、そういうものじゃなかった。ただ、ひたすらに「自分はここにいる」と叫ぶような。「消えてたまるか」と泣き叫ぶような。僕が今、心の底から叫んでいる『声』そのものみたいだった。いや、それよりもっと…熱くて、強くて、どうしようもなく「生きる」と訴えかけてくる、強烈な「響き」だった。
その「響き」が、この「救済室」を満たした。空気を震わせ、あの黒い沈黙の石さえも圧倒するみたいに。
そして、信じられないことが起こった。
「ぐっ…ぁああ…!」
「あ…!」
僕を掴んでいた僧侶たちが、突然、もがき苦しみだした。まるで、強烈な光を目にしたみたいにひるみ、頭を抱えて後ずさる。『声』を失っていたはずの彼らが、確かに「苦痛の声」を上げていた。
この「響き」が、彼らにとって耐えられない何かなんだ。なぜかは分からない。でも、彼らは、僕らから溢れ出したこの『声』に、苦しんでいる…!
僕を掴んでいた腕の力が、ほんの一瞬、緩む。
(…今だ!)
僕は、その隙を見逃さなかった。全ての力を込めて拘束を振りほどくと、懐で熱く輝いているコダマを抱きしめる。
「ありがとう、コダマ!」
振り返らない。僕は、彼らがもがき苦しんでいる『救済室』の扉を蹴破り、全力で駆け出していた。
廊下を走り抜けると、背後からすれ違った僧侶たちが追ってくる気配がする。でも、もう迷いはなかった。
森で魔獣に追われた時と同じだ。逃げるのにも戦うのにも躊躇はない。
(あんなものを、「救い」と呼ばせてたまるか!)
僕は全ての妨害をあっけなく躱して、僧院の外へ出た。
そして走り続けた。
僕が求めていた「静寂」は、あんな「死」じゃない。
僕は、初めて「静寂」への歪んだ憧れと完全に決別し、『声』と向き合っていくことを固く決意した。
【 第一部 完 】
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第一部はこれで終わりです。
自分の特殊能力である『声が聴こえる耳』に苦しみ、救いを求め逃げ続けていたカイが、ようやく逃げることをやめて、向き合う決意をするまでの話でした。
最後には、コダマとの連携による新しい力も発現しました。これからはその力も使って、世界の苦しみと戦っていきます。
とりあえずの目的地はリラやミーナがいるアルメとなるでしょうが、今度は街道を避けないルートを選ぶことになるでしょう。
第二部開始まで、しばらく間が空きます。
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