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54:初めての実戦

「てめえが掴んだものが、本物かどうか。その身で確かめてこい」


ダリウスの言葉を胸に、夜が明けると、僕はすでに出発の準備を整えていた。ダリウスは何も言わない。ただ、僕に手入れの行き届いた狩猟ナイフを一本、無言で差し出した。僕が今まで使っていたものよりも、ずっと鋭く、重い。投げるためではなく確実にとどめを指すための道具だった。


「…ありがとうございます」


僕がそれを受け取ると、彼は「さっさと行け」とだけ言って、小屋の奥へと消えてしまった。僕はコダマを肩に乗せ、静かに小屋を後にする。

初めての実戦。師の期待と、魔獣への恐怖が、僕の心臓を締め付けていた。


「さて、と。行くか、コダマ。まずは、見つけないと始まらないよな」

あえて軽く言って、僕は小屋を背にした。


森に足を踏み入れた瞬間、空気の温度がひとつ下がった気がした。

木々がつくる影が、朝の光を細く切り刻んでいる。湿った土の匂い。神経が昂っているからだろうか、遠くで鳴く鳥の声さえ、今日はやけに薄く、よそよそしい。


僕は深く息を吸い、吐いた。

そして意識を研ぎ澄ます。


『風の声』に耳を合わせる。


鳥の声、虫の音、木々のざわめき…それらの音を一つ一つ押し流し、獣が発する、縄張りを主張する匂いと、飢えの唸り声を探し出す。


匂いが来た。



獣の縄張りの匂い、脂と土と、微かな血の混じった臭気。鼻の奥を刺す、飢えの匂い。


(……いる)

声は出さない。代わりに、足元に意識を落とす。


獣道に足跡がある、ほかの獣よりも深く、重く、粘土を押し潰したように続いている。体重がある。かなり。

僕は背中に冷たい汗が浮くのを感じながら、ゆっくりと追った。


木々の隙間。幹が重なった、その向こうで影が動いた。


灰色。低い姿勢。盛り上がる肩の筋肉。

前に見たキバイノシシの幼体とは、比べ物にならない。身体の密度が違う。

モリオオカミ。


(……いた。デカいな…もっと小さいのが見つかってほしかったけど…)


僕はそのモリオオカミを追うことにした。ダリウスに教えられた通り、まずは見つからないようにしながら、その行動パターンを徹底的に観察する。


岩陰に隠れ、風下に身を置き、息を殺す。水を飲む場所、獲物を探す経路、そして休息する岩陰。モリオオカミの動き一つ一つから、その習性と警戒心の強さを読み取っていく。

僕は、モリオオカミが最も油断する瞬間と、最適な襲撃のタイミングを冷静に分析していた。


陽が傾き始めたころ、モリオオカミが獲物の子鹿を倒した。

血の匂いの中で肉を裂き、骨を噛み砕いた。


ぐしゃり、と音がした。

顎の力が、恐ろしいほど強い。

やがて食べ終え、満腹の重さで動きが鈍る。舌で口元を舐め、喉を鳴らしてーーその目からは狩るものの鋭さが消えていた。


(…今だ…)

投げナイフを抜いた。

目を半分閉じて、意識を細くする。


『獲物の目』。

自分の存在が、森の一部に溶けていくのをイメージする。

音を立てないのは当たり前だ。匂いも、熱も、気配も、ここにいるという情報そのものを薄める。


一歩。

落ち葉を踏まない場所を選ぶ。湿った土を踏む。小枝は避ける。



二歩。

呼吸は喉をせばめ、ゆっくりと、静かに。



三歩。

距離が詰まる。毛並みが見える。筋が見える。

首の付け根に、皮膚の薄いラインがある。


『風の声』が静まる瞬間を待った。


(…当たれ…)

ナイフを放った。


空気を切る音は、ほとんど聞こえなかった。完璧なはずだった。


ナイフが手を離れたその瞬間、モリオオカミの肩が沈んだ。

ただ野生の勘だけで、体の軸が変わった。


(っ! ずるい……!)


ナイフの刃は、モリオオカミの体毛を数本断ち切っただけで、乾いた音を立てて背後の木に突き刺さった。


モリオオカミが跳んだ。

速い。距離が縮む。牙の白が近づく。

目が合う。あれは獲物を見る目じゃない。殺す目だ。


僕は反射で跳び退く。背中の皮膚が裂けるかと思うほど、木の根を蹴って距離を取る。

牙が空を噛み、風が頬を叩いた。

遅れて、地面に爪が突き刺さる音がした。硬い。深い。


(速い……! でも……)

頭の片隅で、ダリウスの動きがよぎる。

師匠の攻撃は、線じゃない。面で潰してくる。

それに比べれば、この獣の攻撃は直線的だ。勢いに任せて、真っすぐ来る。


(読める……読める、はずだ)


モリオオカミは間髪入れずに二撃目。

僕は木の幹を背にしないように回り、牙の軌道の外へ滑り込む。次の一歩で地面がぬかるみ、足首が取られかけた。


(やばっ……)


踏ん張る。体勢が遅れる。視界の端に、牙が光る。

紙一重でかわした。



息が、肺の底から漏れた。熱い。怖い。心臓が音が聴こえる

焦って手を出せば死ぬ。

ここで攻めたら、噛まれる。


僕は待つことに全てを賭けた。

ただ避けて、避けて、避ける。僅かなズレを積み重ねて、獣の苛立ちを増やす。


モリオオカミの唸り声が低くなる。

怒りが形になる。踏み込みが強くなる。土がえぐれる。


そして…


ぬかるんだ地面に、前脚が沈んだ。

ほんの一瞬。

体重が前に流れ、肩が落ち、首が開いた。


(見えた!)


僕は構えていたナイフを放つ。



刃が森の空気を裂き、狙い通りに肩へ食い込んだ。

肉を割る感触が、手首にまで伝わってくる。



モリオオカミがバランスを崩し、ぬかるみに倒れ込む。

倒れる音が、重い。

獣の重さが、地面を鳴らす。


モリオオカミが起き上がる前に、僕は走った。

手にはダリウスがくれた、本物の刃。

喉元へ。

迷うな。ここで止まったら終わる。


僕は全体重を乗せて、突き立てた。

そのまま切り裂く。

熱い血が噴き、腕を濡らす。



モリオオカミの身体が跳ね、喉が鳴り、声にならない息が漏れた。

目が僕を見たまま、焦点がほどけていく。

そして、静かに倒れた。


森に、沈黙が戻る。僕は、荒い息を繰り返しながら、震える手でナイフを握りしめていた。


「…やった…やったんだ、コダマ…!」


僕はその場にへたり込み、懐から肩の上に戻ろうとしている相棒に話しかけた。コダマは僕の頬に、そっとその体をすり寄せてくる。そのいつもの感触に、僕は自分が生きていることを実感した。


小屋への帰路は、新たな戦いだった。仕留めたモリオオカミは、僕の体よりもずっと重い。肩に担ぐと、その重みが膝まで響いた。


「…お、重い…」

数歩進んでは休み、また数歩進んでは息を切らす。

(これ、本気で持って帰るのか…? 狩った証拠なら牙だけでもいいよな。絶対。いや、でも獲物は全部持ち帰れって、前に…。うう、重い…)

汗が滝のように流れ、足は鉛のように重かった。勝利の余韻など、どこかへ吹き飛んでしまっていた。


夕暮れ時。僕は泥だらけで、疲労困憊になりながら、なんとか小屋へとたどり着いた。僕がモリオオカミの死体を地面にどさりと下ろすと、音を聞きつけたダリウスが小屋から出てきた。彼は僕の姿と、足元のモリオオカミを無言で見比べる。僕は、師がどんな言葉をくれるのか、緊張して固唾を飲んだ。


ダリウスはオオカミの周りをゆっくりと一周し、その牙や毛皮を検分すると、僕に向き直り、心底面倒くさそうに、深いため息をついた。


「…馬鹿野郎。モリオオカミの肉は、筋張ってて臭くて不味いんだ。魔石以外は皮と牙だけ剥いでくりゃ、それでよかったんだよ」


そのあまりにもあんまりな言葉に、僕は呆然と立ち尽くすしかなかった。


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いつも読んでくださり、ありがとうございます。


おもしろいと思ってくれたり、先が読みたいと思ってくださったら

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